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北野ふゆ子
  • 北野ふゆ子
  • 昔は、ゲームやマンガの二次創作をしておりました。現在は主にオリジナルネット小説を執筆しています。得意は「シリアス」「アクション」「サスペンス」です。



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押印師 ACT9-11
11

 ヴェロニカ民。
 アリタスにおいて、工芸、工業分野において高い技術力を持ち、自決し独自の文化脈を築き上げてきた民。だが内戦の末に史実上、滅んだとされている。
 周囲の列強、ことにライザ帝国からの威圧行動が顕著になりはじめていた当時、アリタス国軍は軍事力増強政策を打ち出した。それに端を発した内戦は最終的に、アリタス国軍対ヴェロニカ民という図式となり、実に数十年にわたり慢性的に泥沼化。だが結局ヴェロニカは敗れ去り、史実はそれを「クーデター失敗」として、その逆賊民の名を公から消し去った。
 粛清を免れた末裔達は、離散と旧姓名を捨てる事を条件に、再び市民権を与えられたという。国民の浪費を善しとしないアリタスの国政が、「逆賊」の完全浄化を行わなかったのは美談として、世論にのぼっていたという逸話もある。
 内紛終結からの数十年、ヴェロニカ末裔の監視と戸籍管理を続けた国軍は、三世目に入った時点でヴェロニカに対する全ての監視体制を解除。そこからようやく事実上、彼らは完全なる「アリタス国民」となったのである。
 それから更に、約百五十年経過した現在、ヴェロニカの末裔達の現況を知る者は、いない。
「ヴェロニカって…民族の名前、なのですよね…?」
「その話をしたかったの?」
 ジャスミンの声は、静かだった。
「その言葉は、どこから?私の心を読んだから?」
 その問いにミリアムは首を横に振った。
「ジャスミンさんの心の中には、扉がありました」
「扉―…?」
 静かな相槌が帰ってくる。だが、ジャスミンの眼光には鋭さが増していた。負けじと、ミリアムは視線だけは外さまいとジャスミンを真っ直ぐ見つめた。
「ある紋章が、心の扉…蓋となって、その奥にあるものを全て隠していた…。それは、太陽のような形をしていました。あれは「ヴェロニカ」の紋章なのでしょう?何故だか、とても心が揺さぶられて、不安になります……」
「………」
 今度は相槌が戻らなかった。ジャスミンは、黙ってミリアムの言葉を聞いている。
「最初は、私の読心能力の限界なのだろうと思って…もうそれ以上考えるのをやめました。でも、それから間もなく、今度は別の人の心の中で同じ紋章を見ました」
 シュトル・セントラル。砂に飲み込まれかけた、乾きの街で。
「精霊狩りの、男性です」
「え……」
 静謐に沈みかけていたジャスミンの黒い瞳に、再び鋭い警戒が生まれる。あと一息。あと一息だと、ミリアムは自分に言い聞かせるように、深い息と共に言葉を吐き出した。
「心を失っていながらも、あの男性の奥底に、同じ紋章が焼き付けられて残っていました。あの、太陽が」
「…………」
「何故ですか…なぜ、そんな人と同じものが、ジャスミンさんの心の中にもあるのですか…?」
 グレンのことは、あえて伏せた。
「その答えを、あなたの力で読み取る事はできないの?」
 ミリアムは、首を横に振った。
「先ほど試みましたが、できませんでした」
 一度目よりも更に深く、ジャスミンの中に潜り込もうと試みた。
 だが、やはりそこにあったのは、モノクロームの太陽が横たわる灰色の砂漠。
「その紋章の奥にあるものが、まるで封をされたように見えないんです。ジャスミンさんの心は…他に何も無い、灰色の空間でした」
「そう」
 小さく呟いて瞳を伏せるジャスミンが、安堵しているようにも、どこか寂しそうにも見える。
「教えてください、その「ヴェロニカ」について」
「何のために知る必要があるの」
「人を探していて、やっと掴んだ手掛かりなのです」
 胸元に当てた小さな手を強く握り締めて、人形のような少女は身を乗り出してくる。ジャスミンは唇から苦笑を零した。
「民族の歴史について知りたいのなら、少し詳しい歴史書でも見れば分かるわ」
「え、え?」
 顔面に水でもかけられた子犬のように、ミリアムは目を丸くする。頬が徐々に赤らんできた。
「そ、そう、なんですか…やだ私…本当に物知らずで……」
 胸に当てていた手で頬を包み、肩を小さく窄めて俯く。ジャスミンの言葉は正しい。ただ、アリタス国民の義務教育課程の教科書にその名を見ることは出来ず、高等教育を受ける学生以上向けの歴史書などに、短く登場するだけだ。ミリアムが知らなくても仕方のない事だが、特にジャスミンは補足しなかった。
「で、では…」
 両頬に当てていた手を外して、ミリアムは再び顔を上げる。
「何故、あの暴走した男性とジャスミンさんが同じ紋章を……」
 ミリアムの言葉は暗に、ジャスミンと暴走者の関連性を問うていた。
「私が知りたいぐらいよ!」
「…!」
 突然の鋭い声音に、ミリアムは肩を一度震わせる。すぐに後悔の色がジャスミンの瞳に浮かんだ。
「ごめん……でもミリアム、あなたこそ何故その紋章の事を」
「私は、ただ―」
 逆に詰問が返って来る。むしろ彼女の方が切迫しているように見えた。
「帝国の末裔であるあなたが何故ヴェ―っつ」
 突如、ジャスミンの声が途切れた。迫るように前方に踏み出していた足が、引かれる。
「ジャスミンさん?」
 訝しがるミリアムの前で、衣服に隠れたジャスミンの左胸周辺で一瞬、光が弾けた。
「うっ…く…!」
ジャスミンは左胸を抑え上半身を屈める。左腕に抱えていた荷物が落ちて、中身がばらけた。ミリアムが駆け寄り、一歩手前で、遠慮がちに止まる。ジャスミンの顔色を覗き込むと、光と共に苦痛の表情は既に消失しており、呆然とした空虚が瞳に浮かんでいた。
「大丈夫ですか…?」
 足元に散らばる荷物に気がついて、ジャスミンは深呼吸代わりに溜息を落とした。
「私にはもう、これ以上話せない」
「ジャスミンさん…」
 ジャスミンが二度、三度と深い息を吐いて呼吸を整える様子を、ミリアムは静かに待っていた。
「あなたの前では、その言葉を口にすることもできないの…」
「どういう事ですか…?」
 意味を図りかねてミリアムは首を傾げる。ジャスミンは答えずその場にしゃがみ込み、散らばった荷物を拾い始めた。向かい合う形でミリアムも膝を曲げた。
(………あの光は、何だったのかしら……)
 落ちた物を拾う素振りで、目線の高さにあるジャスミンの胸元を見やる。火花のように弾けた光は完全に消えており、今は面持ちから苦渋が消えていた。
「それは…何故ですか……」
 語尾を言い終えない内に、ミリアムは低い声と共に己の手をジャスミンに伸ばした。
「!」
 ジャスミンは反射的に体ごと手を引こうとするが、一瞬遅く、ミリアムの白い指先が喰らいつく。
「心の扉を開いてください…!」
 懐に潜り込んできた小さな少女の体。ジャスミンの視からは、下から灰色の双眸が間近に迫る。
「止…」
 逃げようとするジャスミンの手を、地に縫い付けるミリアムの小さな手。その上に、更にもう片方の手が重ねられた。そしてミリアムは、真っ直ぐジャスミンを見つめる。口付けが届きそうな距離まで瞳を近づけ、瞬きを忘れさせるほどに、ミリアムは目の前の黒い瞳に視線を注ぎこんだ。
(………もっと深く…!)
 体から抜け出した魂がジャスミンの体に重なっていくような錯覚と共に、ミリアムの目の前に闇が広がった。
 飛び込んだ波間は、無音の世界。果てしない水底を目指して潜り込むうち、薄らと足元に太陽が見えた。
 それは、紋章。
(見えた…!)
 もっと、もっと、奥を探る。次第に紋章の姿が鮮明になる。虚構に彩られた灰色の太陽。それ以外に存在しない砂漠の世界。
(こんなはずない…ジャスミンさんの心には…もっといっぱいの色が…)
 エルリオや自分に向けてくれる、柔らかい微笑み、仕草。自分達を癒してくれたその優しさい心が、無色無音であるはずがない。
(あの紋章が、隠してしまっているんだわ)
 灰色の巨大な蓋に手を伸ばす。だが手応えを感じる前に、紋章は陽炎のように指先からすり抜けて、遠くへ逃げる。否、ミリアムの意識が押し戻されているのだ。
 逃がさない。
 切迫した観念のみに駆られて、ミリアムは更に意識を紋章の向こう側に送り込んで手を伸ばした。指先が微かに紋章に触れる。生温い沼に沈み込むような感触がした。
(入っ……た…?)
 浸水する感覚が、指先から手の甲、そして手首にまで達する。
 すると、
『…………!』
 すぐ耳元で、甲高い叫びが聞こえた。言葉は聞き取れなかったが、何故だかそれが若い女の声だと直感する。
 目を開けると同時に、目の前で人影が横倒れになった。
「な…?」
 足下に落ちていくその影は、子供を抱いた女だった。見たことのない装束を身に纏っている。
「あの…」
 助け起こそうと手を伸ばしかけると、ミリアムの指先を鈍い閃きが掠った。肉に異物がもぐりこむ異様な音と共に、女の背中に何かが突き立てられる。
「きゃああ!」
 叫んで尻餅をついたミリアムの真上に影が被さる。見上げると、女に突きたてられた槍の柄を握る人影がいる。呆然とするミリアムの視界の中、男は何かを口走った後、女の体から槍を引き抜いて踵を返した。ミリアムの姿に気がついていないようだ。あまりに生々しい感覚に、これが幻影である事を失念してしまいそうになる。
『……!』
『********!』
 言葉は聞き取れないが、高低が混在した人間のものと分かる声が飛び交う。
「……っ!」
 足下に転がる母子の骸から視を逸らして周囲を見やると、火の粉混じりの熱風が鼻先を通り抜けていく。空は紅に染まり、人影のシルエットがいくつも赤黒い陽炎の中に揺らめいていた。
「な、な、何…?」
 すぐ脇を、複数の人影が走り抜けていく。口々に何かを叫んでいたが、それも聞き取る事が出来なかった。そのうち、頭上から爆音とも咆哮とも言いがたい轟音が木霊しはじめる。
「きゃっ!」
 全身に突然、冷たい感触が襲い掛かった。心臓が悲鳴を上げそうになり、思わず両目を固く閉じる。耳元に聞こえてくる轟音。
(な…に?)
 瞳を開けると、そこは激しくうねる波間だった。
「え…水…!?」
 黒い、生き物のようにのたうつ水。辛い塩水の味覚が意識に染み込んで来た。
 海だ。
 記憶のどこかで憶えていた、海。だがそれは、ミリアムの記憶にある穏やかな波打ち際ではなく、不規則に四方八方で波が暴れまわる光景、嵐だった。
「ゎあっ…!」
 目の前に覆いかぶさってくる大波。再び身を縮めて目を瞑る。そしてまた、耳元では別の音が走り去っていった。目を開けると、
『きゃああ!』
 自分のものではない叫び声と同時に、目の前で赤い炎柱が上がった。目を開ける直前、瞼の向こうに感じられた複数の人影が、その瞬間、全て吹き飛んだ。
「いやあ!」
 今度は確かに、自分の叫び声。空は夕焼けのように赤く染まり、地は草の根一本残らぬほどに焼き尽くされた焦土。どこからとも定まらぬ方向から聞こえてくる、人の叫び声、爆発音、そして銃声。
「な…何…これは…」
 幻のはずの熱波が、肌に焦げ付くように熱い。逃げなければ。だが、足が動かない。
『来るぞ!』
「―え」
 すぐ側で別の叫び声。今度ははっきりと言葉を聞き取れた。振り返る間もなく、至近距離で炎が上がった。悲鳴を上げながら目を閉じる。すると、また音と感覚が消え去る。
(重たい…とても重たいわ……)
 僅かに手の先だけを潜り込ませている状態なのに、あまりに生々しく大量の記憶が流し込まれてくる。ミリアムがこれまでに読んで来た人間の心の中で、比較にならない「嵩」を持っていた。
(抜け出さなきゃ…!)
 再び訪れた無音も、新たに生まれた音の洪水によってかき消される。今度は硬い床を踏みしめる複数の足音、人の怒声が行き交い、そして変わらず遠方から響いてくる銃声。
(駄目…目を覚まして…覚まして!)
 光景が変わるたびに生々しさが増していく。逆にミリアムの方が、紋章の奥に引きずり込まれそうになっていた。己の呼吸と脈を意識することで、体が生きている現実世界に意識を戻す事ができるはず。ミリアムは頭を抱え込んで固く目を閉じた。
『私が、指揮官だ』
「―!」
 たくさんの声や音の中から、ミリアムの心臓に突き刺さる声がした。
(この声…)
 瞑っていた瞳を開き、無我夢中で振り返った。
 先ほどの焦土とはうって変わり、そこは室内だった。無機質で殺伐とした石造りの建造物のようだ。その中に複数の人影。いずれも同じ色と形を身に纏っている。見覚えはないが、はっきりと「軍服」だと分かった。
(どれ…どの人が今の声の…)
 見渡すうちに、目に映る光景が溶け出す。
「待って…今のはまさか…!」
 ミリアムが手を伸ばす先で、全てが崩れ落ちる砂壁のように消え去る。代わりに現れたのは、再び焦土の光景。室内にいた人影たちと同じ服装が、忙しなく動いている。空は赤黒く、紫が混在していた。
「ぃ……」
 足元の焦土に転がる、多くの人間。見慣れぬ民族装束を纏っている。いずれも動かなかった。男が大半なようだが、老人や女、子供の姿も見えた。
『降伏しろ!』
『抵抗する者は射殺するぞ!』
 少し離れた場所から人影達が、こちらに向かって叫んでいる。
「こ、こうふく?…?」
 地面に座り込んだままの状態で、ミリアムは混乱する頭で必死に周囲を見渡す。黒煙にまかれて定かではないが、すぐ背後や横に、生者の気配が感じられた。
「これは一体…」
 戦争。ミリアムにとってその未知なる単語が、即座に思い浮かばなかった。崩れた建造物の残骸を生やした焦土の中央で、前にも後ろにも動けずにミリアムは身を縮めるしかなかった。
(もう嫌…!)
 焦る気持ちに重なり、
『捕虜の生命は保証する!』
 また、あの声が聞こえた。
「あ……!」
 顔を上げると同時に頭上と耳元を、銃声と爆発音が通り過ぎていった。目の前に黒煙のカーテンが引かれる。ミリアムは、感覚だけを頼りに、声がしたと思われる方向へ意識を進ませた。
「絶対…あの声は…」
 背後から強烈な閃光が走った。その場に身を竦めると同時に、目の前で炸裂して黒煙の緞帳が吹き飛ぶ。小さな悲鳴を上げながらもミリアムが立ち上がると、視界が開けた。
 遠くに見えていた軍服の人影が、いつの間にか少しだけ近づいていた。破壊された建造物の中でも比較的形が残っているものの前に、軍用だろうか、車が数台止められている。その周囲を取り囲む人影、後ろを振り向けば、同じほどの距離に別の人影達。対峙する二つの人種。ミリアムはその丁度中央にいた。
「え?え?」
 前後に視線をやって状況を確認しようとするが、
『戯言を!』
 という背後からの怒声と共に、複数の閃光が頭上を掠める。閃光の一波は軍服集団の中心に向けて迸る。聞き取れない声と共に人影が動き、軍服集団の正面からも閃光が放たれた。相殺された二つの光。破裂音が残した余韻が、空気を振るわせる。相変わらず、幻とは思えぬ現実味を帯びていた。
『………どうしても……のか』
 また、あの声が途切れ途切れに聞こえてくる。耳鳴りに邪魔されて、完全には聞き取れなかった。
「!」
 軍服の人影達の間から、別の人影が姿を現す。同じ軍服ながら、砂煙に霞んだ光の中でも、風にひるがえる長衣の様子は目立った。
『我々は』
 長衣の人物は、ミリアムに向けて―正確には彼女より更に背後へ―整然たる声を発する。
『民族浄化を望んではいない』
 浪々と発せられる言葉が何を意味しているのか、最早ミリアムにとってそれは何も意義の無い事だった。ただ意識は、その聞き覚えのある声の持ち主の姿だけを、追っていた。数いる軍服の人影の中心に立つ、声の主。顔を確認する事ができない。それどころか、砂と煙で翳む空気の中で、はためく長衣のシルエットでしか姿を認識する事ができずにいる。
『降伏などと…!』
 背後から再び、鋭い声。ミリアムの左右、真横を走りすぎていく気配。正面に向けて若い男や、中には子供に見える幼い影までもが飛び出していった。
「だめです!」
 背後と、
「やめてください!」
 そして前方にも向かってミリアムは叫ぶ。が、その声が届くはずもない。
 長衣の影が、後ろに一歩引くと同時に片腕を前方に振った。
「やめて!」
『撃て!』
 ミリアムの叫びを掻き消して、命令と同時に目の前が白く輝いた。

「うそ!!」

 自分の叫び声でミリアムは我に返った。
「はっ……ぁ…」
 体の中心に全ての血液が逆流していくよう。吸い込んだまま止まってしまった息を、無理やり吐き出した。不規則に心臓が脈打ち、うるさいほどに鼓動を打ち鳴らして脳髄に呼びかけてくる。鼓動はそのまま頭痛となって、強烈な不快感を全身に巡らせていた。
(戻って…来られた…)
 真っ白な視界が色を取り戻すと、そこにあるのは、自分の両手。そして、その下に置かれた、ジャスミンの手。
「ジャ…スミンさ…!」
 視線を上げると同時に、目の前の影が揺れた。再び紙袋と荷物が足下に散らばる。片膝をついていたジャスミンの体が、横に揺らいで倒れていく。咄嗟に手を伸ばして肩と腕を掴んだが、
「きゃっ」
 支えられずにミリアムは共に地面に倒れこんだ。
「だれ…か……」
 磁石で吸い付けられたように、胸から下が地面に張り付いたまま動かない。少し湿った土が露出した岩肌が、冷たい。両腕で上半身を起こして、匍匐する形で、ミリアムは懸命に意識を支えていた。だが喉から助けを呼ぶ声を絞り出そうとしても、空転する呼吸が喉の中でひゅうひゅうと乾いた音をたてるだけ。
 安堵感と疲労感に全身が押しつぶされて、ミリアムの意識はジャスミンの傍らに堕ちていった。上半身を支えていた両腕が、支えを失ってがくりと折れる。
 だが、体が完全に地に落ちる直後、ミリアムの細い腕に再び力が宿った。
「―痛…っ」
 壁にしがみ付く小さな動物のように、乱れた髪の下から伸びた手が土を掴む。感触を確かめながら、右手、左手がたてられて上半身が起き上がり、右膝、左膝をついて四つん這いになる。一呼吸の後、枝垂れた柳のように揺れながらも、ミリアムは両足で立ち上がった。
「ふう」
 両手で顔にかかる長い髪を梳いて、無造作に顔の後ろに流す。現われた瞳は、強い光を帯びた、別人格の色。
「ヴェロニカ……ねえ…」
 手足の土汚れを払い落としながら、周囲を見渡した。前後に人通りは勿論のこと、家屋の影も見えない。疲労しながらも満足げな笑みを唇に浮かべて、ミリアムの姿をしたリューシェはジャスミンの傍らに腰を屈めた。右手を、意識の無い横顔に添える。
「あなたのお陰で、大事な手掛かりが得られたわ」
 当然ながら反応の無い相手に微笑んで、リューシェは再び立ち上がる。
「あの二人、そろそろ終わったかしら」
 もと来た道の方面を振り返った少女の独語が、風穴から通り抜けた風に乗って消えていった。




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