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北野ふゆ子
  • 北野ふゆ子
  • 昔は、ゲームやマンガの二次創作をしておりました。現在は主にオリジナルネット小説を執筆しています。得意は「シリアス」「アクション」「サスペンス」です。



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押印師ACT8-7
07

―集中復旧工事のため、深夜便の運転は休止とさせて頂きます―

「そんなぁああ」
 シュトル・セントラル駅のメイン掲示板に張られた紙には、赤い文字で非情な言葉が書かれていた。時刻はもう夜更け。アレックを駅まで送り届けた軍用ジープは既に去っていった後だった。
「聞いてないですよぉ…」
 無人となった駅の構内でアレックは呆然と天井を見上げていた。

 仕事を終えてシールズが席を立つと同時に内線が鳴った。
「俺は帰ったと伝えてくれ」
 呼び鈴を無視してクローゼットからコートを取り出す上司を尻目にアイラスは受話器を取る。
「アレック・シュタインウェイ一等下士官ですが、どうしま―」
 通話口に手を置いた状態でアイラスが振り向かない内に、「元気かね、シュタインウェイ下士官」と受話器がシールズに引っ手繰られる。その移動速度にランドが目を丸くした。
(アレックから?)
 壁際に二列に建てられた本棚の影から、アリサが顔を覗かせる。ファイルを両手に抱えたまま動きを止めてしばしシールズ大佐の会話に聞き耳を立てた。
「噂によると、今の奥さんも、仕事並みの粘着なしつこさで口説き落としたらしいぜ」
 シールズは良妻賢母を絵に描いたような妻を持つ事でも有名だ。既に実業家と婚約していた彼女をあらゆる手段を用いて口説き落とし、婚約を破棄させた略奪婚だという事にまで噂は膨らんでいるが、事実は誰にも分からない。
「『行動力』と表現してやれよ」
 書類の束をファイルに閉じながらアイラスは無感慨に呟く。真相を知らないので無闇なコメントを避ける事とした。
「夜行が運休か。一泊してくればいいじゃないか」
 列車強盗とヴィルに破壊された線路の集中復旧工事が行われるとの話だ。
「駅からタクシーでも拾ってシュトル局に…」
 『ゲスト室でも貸してもらえ、俺が連絡しておくから』と用意していた台詞を、シールズは咄嗟に飲み込んだ。
「いや、」
 もっと良案を思いついたのである。
「シュトル・セントラルだ」
 書類に向かっていたアイラスとランドが顔を上げた。
 シュトル・セントラルはその名の通り、シュトル地域で最も大きな市街地であり、国軍のシュトル局オフィスもこの街にあるが、宿泊や軍事施設を有する基地は市街地から北上した場所にある。
「ちょっと待てよ」と受話器を顎に挟んだ姿勢でシールズが机脇の小さな本棚に視線を移しかけると、
「はい、地図です」
 と机上に見開きにされた地図帳が置かれた。アリサである。地図はシュトル・セントラル駅を中央にその周辺五十キロ四方が含まれたエリアのページが開かれていた。会話の断片からアリサは的確な資料を判断し、最速で提示したのである。
「すまんな」
 短く礼を言ってシールズは受話器を片手に持ち直して椅子に腰を戻す。地図にざっと目を通し、シュトル・セントラルの街が駅から程遠くない場所にある事を確認する。
「どうせなら市街地の宿に泊まっとけ。半日ぐらい街を見物してから帰って来ても遅くないだろ。精霊狩りの列車強盗について街に何かしらの噂だの影響がないか見てきてくれ。夕方頃なら便があるんだろ?上には伝えとくから気にするな。旅費と宿泊費は経費で落としてやるから。な。じゃあな!泣くな!タクシーがなきゃ歩け!」
 と勢いよく電話が切られた。
 満足そうに片方の口角を上げた上司の表情にアイラスとランドは姿の見えないアレックに若干の同情を寄せるのであった。
(歩いて行ったらそれだけで一日終わっちゃうわよ)
 本棚の影に戻っていたアリサは、電話を切られて不安そうになっていると思われる幼なじみを思いやった。
「さて、今度こそ今日は帰るかな」
 電話を叩き切った後、シールズは揚々と立ち上がり伸びをした。
「お前達も今日は切り上げてもいいぞ。どうせ明日の夕方以降にならないと動きはなさそうだしな」
 地図を閉じて無造作に本棚に戻すと、アリサがそそくさと正しい位置に入れなおす。それを横目で眺めながらシールズは再びドアノブに手をかけた。「ウース」とランドの間延びした声と、「お疲れ様です」と抑揚のないアイラスの声が見送る。
「お疲れ様で…」
 遅れぬようにとアリサも本棚の間から顔を出すと、語尾を遮って電話のベルがけたたましく鳴った。
「……」
「……」
 室内の人間達はしばし動きをとめて、机の上で自己主張する電話機を眺めていた。
「はい、諜報部シールズ大佐執務室」
 先に動いたのはアイラスで、大股に机に歩み寄り受話器を掴み取った。簡単なやりとりの後、再びアイラスは受話器に手を置いてシールズに問う。
「キール大佐ですが、お帰りになったと伝えますか?」
「出よう」
 再び踵をかえしシールズは鞄を机の上に放り、アイラスから受話器を受け取った。
「シールズだ。ああ、ん?グレリオ・セントラル?そんな田舎町がどうか?」
 昨今ではあまり耳にしない珍しい地名にアイラスとランドは顔を見合わせた。グレリオといえばかつて五百年以上昔にアリタスの首都機能を担っていた、聖地。今は小さな田舎町に過ぎないはずの地域だった。岩だらけで農耕が期待できない地層域であり尚且つ、その岩も全く資源とならない不毛の土地。あまり知られてはいないがそこに住む人々は「岩隠の民」という別名も持っており、その名の通り岩陰にひっそりと身を隠すように慎ましく、そして静かな暮らしを好む地域性があるという。
「ほほ~。最近では田舎といえど物騒なんだな」
 手を机上についた姿勢で電話を受けていたシールズが、相槌をうちながら徐々に椅子に移動していき結局は再び腰を降ろしている。気を許した面持ちが徐々に緊張感を表出し始めている事に気がつきアイラスとランドは手元のファイルをテーブルに置いてシールズを見やった。
(……どうしたのかしら)
 部屋の空気が変質し始めた。アリサもそれに気付き肩を小さく竦めて本棚の影に身を隠してシールズの声に耳をそばだてる。
「隠蔽の可能性は?―だろう?」
 応えながらシールズは片手で背後のカーテンを開けた。初秋に差し掛かったこの季節、外はすっかり暗くなっていた。シールズの執務室からは小さな吹き抜けの中庭が見える。昼は正午に頂点へ登る太陽の光を吸収し、人工池に反射して眩いばかりなのだが、今はインクを零したような闇が中庭の底を塗りつぶしている。
「だがこの暗がりじゃ現場検証は難しいんじゃないか?へぇ。ふーん」
 妙だな、と呟いたのを最後にシールズは受話器を耳に当てたまま口を閉ざした。言葉を失くしているのではなく、空いた左手の指を机の上で落ち着きなく動かしながら受話器の向こうに細かい相槌を繰り返す。
「そりゃ印か押印かもしれないな。違法者同士の小競り合いじゃないか?」
 そこまで会話を耳にして、アイラスとランドは粗方の流れを汲み取る事ができた。
 軍の精霊印研究所にも顔が利くシールズに、キール大佐は度々相談を持ちかける事がある。違法の民間押印を悪用した犯罪は増加の一歩を辿っている事から、情報局の人間の大半は調査のために研究所と関わることが多いからだ。
 そもそも、元はキールの部下であったアイラスとランドがシールズを手伝う羽目になったのも、ここからだった。
 おそらく現状は、キール大佐が受け持つ案件に印が関わっている可能性がある事からシールズに相談を持ちかけた、というものだろう。
「いい機会だ。明日いつでもいい、執務室に来いよ。何人か研究員を紹介しよう」
 最後に「じゃあな」と短く締めくくってシールズは受話器を戻した。アレックの時とは違い、落ち着いている。
「キール大佐は、なんと?」
 受話器を置いてもすぐに席を立とうとしないシールズに、ランドが問う。
「ド田舎で殺人事件だそうだ」
 通常であれば各区支局にて処理されるのだが、ACC勤務のキールに回されたのには理由がある。
「現場に不審な点が多いのだと」
(ふむ?)
 本棚の影からアリサは再び耳をそばだてた。最近は何だか、物騒な話をよく聞いてしまう機会に恵まれている。
「どのように?」
「まだ十分な現場検証が行われていないのだが、被害者は男が一人、全身に重軽含めて火傷痕があるが致命傷は胸を金属棒で一突きされた傷によるものだそうだ」
「バーベキューですか」
 その場合は串に刺してから焼くという事をランドは失念していたが、誰もそれについて指摘しなかった。アイラスがいつもの様に冷たい視線を送ってきたのでランドもいつもの様に気にした様子を見せずにシールズの言葉の続きを待った。
「良い機会だ。明日キールが来たら共に研究局にいこう」
 のそりと椅子から立ち上がり、シールズ大佐は改めて外へのドアノブを手にした。
 今度はベルは鳴らなかった。


 軍部を包み込む闇よりも、夜の竜翼谷は暗い。
 極端に灯の少ない中層から下層にかけて、谷は夜の訪れと共に闇の水底に沈む。夜営陣を敷く上層の一部だけが蛍火のように灯りを点しており、そこだけ水面から顔を出しているように闇に浮かび上がっていた。
 蛍火の一つ、上層の隅に小さな携行ランプが赤々と燃えていた。その灯りの元で蹲っている影が伸びている。影の元はエルリオ。向かいにはミリアムが膝にキューを抱えて岩壁にもたれて座っている。
 エルリオはしゃがみ込んだ姿勢のまま木の枝で地面に模様と文字を描き続けていた。ミリアムは無言でそれを見つめている。
 ざりざりと、乾いた砂と土が削れて行く音が夜啼きする鳥の声のように不規則に長く、短く、音を立てている。
「違う、一本多いよ」
 ミリアムの膝の上でキューが呟く。
「あ」とエルリオはキューの声に従い、書き損じた模様を手の平で消すとその上から再び同じ模様を描く。
 ランプの炎がはぜる音がすぐ隣から弾ける。冷えた夜気に包まれる中で、頬にあたるランプの明かりがやけに温かく感じる。ミリアムが見つめる視界の中でエルリオはただ指先に握った木の枝にだけ意識を向けていた。
(………炎)
 頬の熱を感じてエルリオは傍らのランプを見やった。
 闇の中で小さな炎を見つめる。こんな光景が以前にもあった。
(そうだ、三年前…)
 崩れ落ちたアパートメントから逃げ出し、その後どう彷徨ったのかエルリオには記憶が無い。ただ覚えていたのは、誰もいない暗がりの中で時間が過ぎるのを待ち続けていた事だけは覚えている。
 夜明けが来る前にアパートメントの前に戻ってくると、建物は姿を消し、代わりにその周囲を取り囲む野次馬と兵達の姿があった。崩れたアパートの周辺には黄色と黒の縞模様のテープが張り巡らされており、消火しきれていない火が瓦礫の下で燻って赤々と街灯の無い街道に灯りを点していた。
 野次馬に紛れた小柄なエルリオに気に留める者は誰もおらず、煤に汚れたパジャマのまま立ち尽くしていた。
「どうしたんだ」
 背中に声が掛けられた。それが自分に向けられたものだと気付くのに少し時間が要った。
「あなたは…」
 肩を叩かれてようやく振り向くと、野次馬が群がる風景に溶け込むデザインのジャケットを羽織った男の姿があった。
 父親のエージェントをしていた男、何度か会った事がある。確か名前を
「サイクルだ」
 そう、確かそんな名前。
「この辺りで爆発事故があったと速報が入ってな。まさかと思って来てみればこの有様か」
「事故?」
 無の膜が張られて霞がかった頭に、この単語が強く引っかかった。
「ゼー…ワイヴァンが何かやらかしたのか?妙な実験してたとか」
「お父さん…は」
「奴の姿が見当たらないようだが」
「お父さん…」
 エルリオの鈍い反応に事情を感じ取ったようでサイクルは辺りに巡らせていた視線を止めてエルリオに落とした。そしてパジャマ一枚の小さな肩に手を置いて言った。

「薄着のままだと、」
「風邪をひくぞ。谷の夜は底冷えする。」

「え……」
 サイクルの言葉と重なって背後から声がかかり、エルリオは顔を上げる。
 目の前に見えるのは、焼け落ちたアパートではなく、キューを抱いたミリアム。
「?」
 エルリオと視が合い、首をかしげながら柔らかく微笑んできた。
 声の主は振り向かなくても分かる。そこにいるのはサイクルズではない。エルリオは肩越しに背後を見やった。
 谷の当主、ヴィル。
 ヴィルからは、揺れるランプの明かりの中に浮かび上がる地面の模様が見えた。
「うん、ありがとう」
 微笑んでから再びエルリオは手にしていた木の枝で乾土の上に文字や模様を描き始めた。ヴィルが辺りを見渡せば、ランプの明かりが届く範囲一面の地面はまるで遺跡画のように模様や文字で埋め尽くされていた。ところどころ子供大の足跡が交差している。
「これ、全部精霊の印。おさらいしてたの」
 ヴィルがそれを問う前にエルリオが答えを口にした。
「私、お父さんが死んでからしばらくは、ずっと生活の事ばかり考えてて」
 財産らしい財産は全て瓦礫と化したアパートメントと共に失われた。エージェントのサイクルを頼り、父親に成り代わって押印業が波に乗るまで彼に生活を世話してもらった。だからエルリオは、エージェントをほぼ彼一本に絞っている。
「その為の手段としてしか押印を見てなかったんだ」
 軽率な自分の行動を思い出してエルリオは唇を尖らせた。
「だって、精霊なんて見たことないもの」
 エルリオの、木の枝を動かす手が止まった。
 携行ランプの火が風に吹かれて消えかける。エルリオはランプを手にとって燻る火種に息を吹きかけた。ボッと極小さな爆発がしてランプの中の灯りに明るさが戻る。
「この火自身は精霊じゃないよね?火種と発火材があれば人間だって火が出せる。火は自然現象の一つでしかない。酸素と燃料によって生み出される」
 ランプから離した手に、指先で印を描く仕草を乗せる。いつも自分が押印している時の動き。
「こうして印を描いてちょっと精神統一すれば、火をおこせたり、空を飛べたりする。普通にマッチを擦って火を起こす感覚とどう違うのか、わかってなかった」
 現在の時点で一般的な押印技術は、刺青のように身体に文字通り印を「刻む」のが一般的だ。塗料による簡易的な物もあるが、汗と空気により色落ちしては使い物にならなくなるために、さほど使われる機会はない。軍の戦闘員が押印技術を学び自らに押印を施すケースもあるが、正確無比に印を描けなければ発動しないばかりか支障を来たす為に、何年もの訓練が必要となる。その上体質的資質の問題もある事から、数は少ない。簡易押印の難点を補う形でシールタトゥー形式の開発も研究されているが、そうやら印を描く過程も重要な要素であるらしく、成功した事例は無い。
 精霊の印研究局に勤務経験のあるヴィルには、エルリオの技術が如何に現時点の押印技術の中で、簡便さの面で突出しているかが分かる。
 技術的にというよりも、それは特異な資質、体質的な突出という印象だ。
「天啓印・使命印と押印の違いだって、体への宿し方と物理的に負担が有るか無いかぐらいしか区別がついてなかった」
 だけど―、とエルリオは木の枝を持ったまま立ち上がった。
「今は少し違うよ」
 深い夜空を、遠吠えを上げながら静かに飛び交う竜を見上げる。
「天啓印や使命印を受ける―精霊に選ばれるってどういう事なのか、それは少し分かった気がする」
 月光に反射する鱗がまるで流れ星のようだ。
「でも精霊って何なのか、精霊を束ねる精霊神ってどんな存在なのか、それはまだちょっと分からないや。多分これは誰だって、自分の目で見るまでは分からないんだと思う」
 精霊およびそれを束ねる精霊神への信仰は、アリタスのみならず大陸全土に広まっており、形式は様々あれど共通の信仰対象として有史以前よりこの世界の礎として認識されている。だが年若いエルリオには、「信仰する」という事の意味が分からない。自らの知識や経験を超えた、目にしたことのない存在に自分を委ねる事の意義が。
「言ってることが矛盾してるよね、ごめんね。押印師なんて結局、印や精霊について何もわかってない人間ばっかりなんだ」
 手にしている木の枝で何度も円をなぞる。
「俺も、」
 静かに話しを聴いていたヴィルが、静かに言葉を差し込んだ。
「当主として印を受け継いだからといって、悟っている訳ではない」
 エルリオやヴィルと向き合う形で壁に背をつけているミリアムから、ジャスミンの姿が目に入った。篝火に集う当主と少女達の輪を、少し離れた場所から見つめている。
「竜とは何か、竜王とは何か。本来は人とも獣とも住まう縄張りを違える神妖獣たる竜だが、何故この谷の竜は人と棲む道を選んだのか、竜王が人から当主を選ぶ理由は何か、三谷の竜は何故互いの血肉を求め合い覇権を争うのか、俺は何をするべきなのか」
 何も分かっていない、とランプに照らされるヴィルの無表情が呟くが、エルリオには彼の声に自嘲が含まれていると感じられた。
「分かるのは、谷の人間として谷を守らなければならない事だけだ」
「きっとそこに理由があるのだと思います」
 膝上にキューを抱いて静かにエルリオを見守っていたミリアムの声。「理由?」と尋ね返したのはヴィルだった。
「人に印が現われることとは、すなわち精霊や精霊神の意思がそこに宿っているということ。精霊はこの世を司る糸。人の運命は精霊の意思と共にあり、印が変化すると、人の運命も伴って変化する」
 意思には必ず「理由」や「原因」という裏付けがある。
「そして糸は必ず全て繋がっているのです」
「誰の言葉なんだ」
 語るミリアムの視線が遠くを見つめている事を感じて、ヴィルは問う。エルリオにも、ミリアムの追憶が見て取れた。少し恥じらいを含んだ微笑を浮かべて、ミリアムはキューを抱く腕にもう少しだけ力を込めた。
「グレン。私の、―保護者だった人です。また彼はこうも言いました。けれど人は自ら思う心と、考える頭を与えられている。それはつまり、人が、自分が望む事が何かを考える権利が与えられているという事だと」
「そうだ…」と何かを思いついたようでミリアムは岩壁から背を離してヴィルの面持ちを覗き込んだ。
「ヴィルさんは、ワイヴァン先生をご存知なのですよね。でしたら、グレンって人はご存知じゃないですか?」
「グレン?下の名は?」
「分からないんです…」
 萎むようなミリアムの返答にヴィルは両腕を組んで思案するように首をかしげた。それから、いつから気がついていたのか、背後にいるジャスミンを振り向いて「どうだ?」と声をかける。言葉を向けられてようやくジャスミンは篝火の前へと歩み寄った。
「グレンはワイヴァン先生とは友人関係だと聞いていたのですが、ご存知じゃないですか?」
「うーん…」
 身を乗り出すミリアムの懇願するような視線を受けて、ジャスミンは申し訳なさそうに小さく首を横に振った。
「グレンという名前は、アリタスではよくある名前だから…」
 隣でヴィルも同意の頷きを見せる。
「よくある名前…そうなのですか?すみません、私本当に物を知らなくて」
 人形の様な顔に悲しみを浮かべてミリアムは再び岩壁に背を預けた。薄闇の中のミリアムは篝火に照らされて輪郭がぼやけ、ますます作り物のような美しさを際立たせる。
「歴史上の著名人物、特に功名を残した軍人によく見られる名前なので、あやかって男の子に名付ける親が多いみたいよ」
「つい最近も、そんな名前の将軍がいたな」
 ジャスミンの言葉をヴィルが補足する。
「『零将軍』―だっけ?」
 ACCのロータリー市場で見た像と店主達の話を思い出して、エルリオも会話に混ざる。一人、ミリアムだけが「ゼロ??」と物珍しそうな目をしているので、ジャスミンが更に説明を加えた。
「本名はグレン・イーザー。彼が無敗の将である事からつけられた渾名が「零将軍」。軍役経験者で彼の名を知らない人間はいないわ」
 ミリアムの素性を知っているジャスミンは、「零将軍」の主な軍功が対帝国戦である事を言及しなかった。ヴィルも腕を組んだまま沈黙を保っている。エルリオが内心でミリアムの心境を思い恐る恐る横目で様子をうかがう。
「そんなに勇ましい名前だったのですかぁ」
 重ねた両手の指先で口元を隠して、ミリアムは嬉しそうに微笑んでいた。
「でも私のグレンは、静かなお部屋でよく本を読んでくれる人なんですよ。何だか名前とまったく正反対ですね」
 頬が朱に染まって見えるのは、ランプの灯りのせいだけではないようだ。
(ちょっと、今あの子「私の」って言った??)
 市場の女店主達から学んだ悪い癖がむくむくとエルリオの脳裏に盛り上がってくるのだった。



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