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北野ふゆ子
  • 北野ふゆ子
  • 昔は、ゲームやマンガの二次創作をしておりました。現在は主にオリジナルネット小説を執筆しています。得意は「シリアス」「アクション」「サスペンス」です。



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押印師 ACT12-1
廻る逢瀬III

01

 ACC国軍本部研究棟内事務局。
 アーサー・ノーブルは電話を切ると、一つ大きな息を吐いた。
「どうしたんですか?」
 近くにいた事務員の女が尋ねてくる。
「学生さんからの相談事ですか?ビミョーな年頃の子達と接する機会が多いって、大変ですよね」
 事務員は一人合点してアーサーに同情の笑みを向けると、「私は教師なんて絶対に無理だわ~」と呟きながらまた仕事に戻っていった。
「本当に大変ですよ」
 と返事をしつつ、アーサーは研究局の総務室から出た。しばらく人通りの多い廊下を緩慢とした速度と歩幅で進み、そこから人のいない道筋を選び、裏庭に出たところで走り出した。庭を突っ切り、研究棟から中央棟への最短距離を目的地まで進んだ。
「どちらへお繋ぎしましょうか?」
 本部中央棟。司令局の入り口受付に座る無機質な口調の士官が、少し息を切らせるアーサーを出迎える。胸元に付けた身分証明書を見せつつ、「司令部のグスタフ准将にお願いします」と取次ぎを願う。アーサーから会いに行く場合はこのように面倒な手続きが必要となるため、二人の友人が会う時はもっぱら顔パスがきくライアンがアーサーの元に出向く事の方が多かった。
「許可が下りました。どうぞ」
 内線で確認をとった受付係に促されるまでもなく、アーサーは「どうも」と言い残してライアンの執務室に向かった。観音開きの重厚なドアをノックすると、内側から開いて、二つの顔が出迎えた。司令部内でも有名な双子の護衛官、リディル中尉姉弟である。
「「どうぞ、お入り下さい」」
 よく見知ったアーサーの顔を見止め、双子は室内を示して会釈する。シンクロした対称の動きが、まるで遊園地等で見かける人形のようだ。これは、ライアンによる喩えで、これを聞いた双子はえらく憤慨したらしい。無理もなく、遊園地にある「おでむかえ人形」は、知恵足らずのように首をぶらぶら揺らしながらお辞儀を繰り返す、滑稽なものなのだから。ちなみに、ライアンに全く悪気は無い。「可愛らしい」という意味で使っていたようだ。
「どうした、久しぶりに昼メシでも食いにいくか」
 アリタス国軍司令部、ライアン・グスタフ准将は、ベッドほどはあろうかという巨大なデスクに腰掛けて書類を読んでいたところだった。
「これを見てくれ」
 ライアンが手にしている書類の上に、アーサーは電話口で書き取ったメモを置いた。
「…………」
 最初の数文字を見たところでライアンは目を見開き、上目でアーサーを見た。いつもは不精に伸ばした前髪に隠れているアーサーの青白い面持ちが、今日は僅かに紅潮している。本人は精一杯、内面を隠しているが、ライアンには分かった。
「三十分以内に、だ」
 メモには書かれていない条件をぽつりと口にしたアーサー。ライアンは口をあけて顔を上げた。
「おいおい、無茶苦茶だな。俺が不在だったらどうするつもりだったんだ」
「考えられる限りの手段を使って探して、呼びつけるさ」
「……まあな。お前ならそうしてくれるだろうよ」
 言い終わるが早いか、ライアンは書類をデスクに放り出し、メモだけを上着のポケットに突っ込んだ。壁にかかるコートを引っつかみ、戸惑う双子に「昼飯いってくる。お前らも行ってこい」と手を振った。将軍は、二人の返事を待たずにアーサーを連れて部屋を出て行く。
 人気が多い廊下を、ライアンはいつも通りの速度で大股に歩き抜ける。その一歩後ろを、アーサーがついて行く。廊下をすれ違う将官以下の士官達は、ライアンに道を譲り、敬礼で見送る。それが本部内での目上の者に対する軍規だ。
「近道しよう」
 渡り廊下手前を急に折れ曲がり、ライアンは裏庭へとアーサーを誘導した。近道も何も、このまま渡り廊下を抜ければ目的地なのだ。意図を汲み取り、何も言わずにアーサーは従う。建物が日陰となって花も育たないために、裏庭は中や表と異なり常に閑散としている。赤錆色の扉を後ろ手に閉めたライアンは、改めて上着のポケットからメモを取り出した。
「これ、いつどこから来たんだ」
「十分前。研究室の事務局の電話にだ」
 アーサーにメモを突きつけるライアンの口調は、興奮していた。
「あいつか、あいつ本人からか?」
「お前に会いたいと、言っていたよ」
「そうか…」
 脱力して、ライアンは赤錆の扉に背を預けた。「そうか、そうか」を何度か口の中で繰り返し、
「生きてたんだな……生きてたんだな?」
 と目の前の友人に問いかける語尾は、少し震えていた。
「あまり変わっていないみたいだった」
 アーサーの答えに安堵し、ライアンは手元のメモを改めて見つめた。
「キルギストックか……なんでこんなとこに。もしやレイブリック顧問の所にか?」
「さあ。ただ、キルギストックには二日といないと言っていた」
「次の目的地は?」
「言わなかった」
 また「そうか」と数度呟いてから、ライアンは扉から背を離し、踵を返した。
「三十分以内だったよな」
 背中だけでアーサーに問う。「あと十五分強だな」という答えに、「充分だ」と返してライアンは勢いよく鉄錆びた扉を再び開けた。
 渡り廊下の先に、「管理局」と書かれたガイドプレートが見えてきた。入り口に受付が設けられている。管理局の一画では士官用の備品、武器、弾薬、装備品を保管しており、本部の執政区画や司令区画についでセキュリティーが堅強な場所の一つだ。だが受付係はライアンの姿を目視し会釈のみで、呼び止める事はしない。いわゆる「将軍職の特権」である顔パスだ。
 ライアンは真っ直ぐ「サプライヤーライセンス」とかかれたプレートの受付に向かう。先に何人か順番待ちをして並んでいたが、ライアンの「悪い、急ぎなんだ。いいかな」の言葉で一斉に列が空けられる。以前、「将官なんて肩書きは窮屈なだけだが、こういうところは便利でいいかもしれない」とライアンが言っていたのをアーサーは思い出した。
「悪いな、ごめんな」
 敬礼する面々に一言ずつ謝りながら、ライアンはデスクにメモを差し出した。アーサーが持ってきたメモそのままである。係員はメモを一瞥すると、心得たとばかりに小さく二度頷いた。
「承りました。ライセンス発行の手続きを行います」
「超絶に緊急なんだ。先方に電話でもして進めてくれないか」
「かしこまりました」
 微塵の疑問も持たず、係員はメモを見ながら、傍らの受話器を取り上げた。


 同時刻。同じくACC国軍本部、こちらは研究棟研究局。
 その一室で、珍しく溜息をついているソラリス医師がいた。
「どうしたんです、「医務官殿」」
 国軍研究局付押印師ラルフ・イレイズは、ACC国軍研究局ラボの一画でたそがれている女医務官に声をかけた。国軍研究局付の医務官、ソラリス・クリューガー(年齢不詳)である。
「ちょっと今日は医務局に居難くて。ここの方が静かで落ち着いて仕事が出来るの」
 今日は細く赤い縁の眼鏡を着用しているソラリスは、先日見た時よりも若く見えるから不思議だ。先日は高く上げていた髪の毛が、今日は低い位置で結ばれている。こうすると、学生の様にも見える。彼女の手元には、書類が規則正しく積み上げられていた。
「また、どうして?」
 ラルフは何の気なしにソラリスの向かいに腰掛ける。両名は、押印を施す者と、被押印者のメンテナンスを担う医師として業務における関係性が密接で、こうして共に時間を共有する事は自然な事だった。
「ソラリスが流出しているって話、知っているでしょ?」
「別にそれはソラリス医師の責任ではないじゃないですか」
 今更感もある。被押印者の苦痛を和らげる鎮痛薬「ソラリス」が民間に流出しているらしいとの事実が発覚したのは、もう何年も前の事だ。その情報を軍部にもたらしたのは、元民間押印師のラルフである。
「原料となる薬草の横流しをしているという容疑者が特定できたみたいで、どうやら今日明日にでもACCから派遣された部隊が現場に突入するらしいのよ」
 ようやく掴んだ尻尾とあって、医務局内でもその話題が流れていた。民間で薬物濫用した結果の暴走者頻出に、ソラリスも頭を痛めていた。それだけに、居た堪れなくなったのだ。
「私…「ソラリス」はそんなつもりで作ったんじゃなかったのに……」
 書類の上に肘をついて、力なく溜息を洩らすソラリス。ラルフはかける言葉を選びながら、頷き返す。
「分かってますよ、みんな」
「色々な事を棄ててまで作り上げてきたものだったのよ」
 普段は気の強い女性が見せる弱気な表情ほど、どきまぎさせられる物はない。
「大戦の時に、私は軍医の下で助手として従軍していたから…押印で苦しむ士官を大勢見てきた。でも彼らは印を使わざるを得なかったのよ、あの戦争では。自分や、仲間や、国を守るために」
 少しでも彼らの苦しみを和らげるために開発したのが「ソラリス」だった。鎮痛効果のみという点で、根本の解決にならない事は分かっていた。だからこそ、医務局で使用の徹底管理を呼びかけてきたのだ。
「濫用されたら…あれはただの悪魔の薬だわ」
「自分にとっては、天使の薬ですよ」
 ソラリスの語尾に被さった深い溜息に、ラルフの軽妙な言葉が重なった。
 肘をついた片手で目許を覆い隠していたソラリスは、顔を上げる。
「俺が駆け出しの違法押印師だった頃…」
 ラルフによる突然の昔話にソラリスはわずかに首を傾げる。
「何故、軍が「押印」を民間で禁止しているのか理解できていなかったんですよね。力の無い人間が、ほんの少し精霊から力を借りるだけで、不可能だった事が可能になる…そんな奇跡のような技術を軍が勝手に独占してるんだって思ってました」
「若いわね」
 ソラリスが僅かに微笑んだのを受けて、ラルフも笑った。
「だけど、ある時「ソラリス」が裏で出回るようになってから、押印する方もされる方もどこかタガが外れてしまった。惨い死に方をする人が増えたり…子供から親を奪ったり、時には幼い子供さえ、まともな死に方をしない…そんな事が頻発するようになって」
 凄惨な光景を思い出しているのだろう、ラルフは数度首を横に振った。
「色々みてきて、俺は民間から足を洗おうと思った。結局人間は、あるがままの運命を受け入れて、自然のままに生きて老いて行く事が大切なのだと思うようになったんですよ」
「それで、軍に出頭したってわけ?」
 ラルフが元民間の押印師で、軍でも裁判を受けた過去のある前科者である事は研究局内でも有名だった。数年の受刑期間を経た後、現在は軍属の押印師としてACCに留まっている。民間の情報に精通しているとして重宝されていた。
「俺にそう思わせてくれた「ソラリス」は奇跡の薬なんです」
「上手い事言うじゃない」
 肘をテーブルから離したソラリスは姿勢を正した。背骨を真っ直ぐと伸ばした姿、それがいつものソラリス医務官だ。
「ありがとう、少し元気になったわ」
 そう言って、ソラリスは対面に座る「戦友」に微笑んだ。
「少しだけですか?」
 呼応して笑い、ラルフは手にしていたペンを手の中で一回転させた。
「女の悩みは色々あるのよ。男と違って」
 いつもの皮肉を転がしつつ、「来てくれてちょうど良かったわ」とソラリスが机に置いてあった書類の一つを手に取る。
「この間のグレリオセントラルの件、それの血液データの照合を進めているのだけどね」
「ああ、田舎町殺人事件ですか。自分の方も検体の写真が来たんで、調査しているところなんですけど」
 精霊印に関わる事件の捜査係。これも両者が受け持つ共通業務の一つだ。キール大佐が担当するグレリオ・セントラルでの退役軍人殺人事件。ソラリスは現場から採取された血液と、軍部内で保持している血液データの照合を。ラルフは遺体に残された「印」と思わしき模様の調査を任されていた。
 ソラリスは周囲を二度ほど見渡し、近くに人気が無い事を確認した。そして対面に座るラルフに顔を近づけ、小声で語りかける。
「一人、血液データがサンプルの片方と合致したのよ」
 今回、ソラリスが調査している証拠物件の血液サンプルは二つ。
「すごい。読みが当たったわけですか」
 あわせてラルフも小声で感心する。
「グレリオ出身軍人の血液情報の中から…ね」
「誰なんです?」
 その問いに、ソラリスは手にした書類を指差した。
「ライズ・グレリオ・サイファ。十数年前に退役しているわ。退役時、准将」
「将官殿ですか。随分なお偉い様ですね」
 ソラリスが指差す書類には、退役軍人と思わしき人物の名前が一覧になっていた。その中に、赤いマーカーで二重丸がされている名がある。
「この人、とっくに死んでいるのよ」
「…え?」
 ラルフは顔を上げた。危うくソラリスに頭突きしそうな距離だった。
「ライズ・グレリオ・サイファは大戦中に戦死している。戦死当時、中佐」
 ソラリスの声が更に小さくなる。
「ああ、殉職で二階級特進、て訳ですか」
 一つ疑問が解決して頷いて、直後にラルフは最も重要な疑問に立ち戻る。
「でも何で…故人の血液が先日起きた殺人事件で検出されるんですか」
「わからないわよ」
 ソラリスは即答した。
「間違いないんですか?」
「間違いないわ」
 また即答。ここで一度言葉を止めて、ソラリスは机の上に重ねられた書類から、また新たな一枚を取り出す。
「水や泥やら混在物が多いから難しかったけど、かなりの確率で本人と言えるデータが出たわ」
「血縁者とかでは?」
「兄弟、親子は確かに類似する。でもそんな次元じゃないの」
 血液の鑑識に詳しくないため、それ以上の示唆を行う事がラルフには不可能だった。「うーん」と一つ呟いてから、ごく一般的な問いを口にする。
「本当にその人は死んでいるんですか?」
 軍の書類上だけの「死亡」、つまり情報詐称が行われている人物の可能性はないのか。常識的に、それしか考え付かない。医師として、それを最も理解しているのがソラリスのはずだ。
「彼は絶対に死んでいるの」
 自分でもそれがよく分かっているようで、ソラリスは断言する言葉と裏腹に、状況を納得しきれていない当惑を双眸に浮かべていた。
「何故言い切れるんですか」
「だって私がこの目で見たのだもの」
「見た…?」
「大戦当時、私はまだ新米の医務官で、軍医である上司の助手をしていたわ。その時、私は「ライズ・グレリオ・サイファ」の遺体収容に立ち会って、死亡報告書を書いた」
「……」
 思わずラルフは沈黙した。
「確かに、書いたの」
 己を再確認するように、ソラリスは右手に持っていたペン先で机を小突いた。




ACT12-2⇒
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押印師 ACT12-2
02

 ライズ・グレリオ・サイファの死亡報告書を書いた、あの時。対ライザ帝国大戦も終局を迎えようとしている頃だった。
 当時、新米医務官ソラリス・クリューガーは従軍医の助手を務めていた。仕事は、負傷者の治療だけではない。戦死者の遺体収容、鑑識、そして死亡確認と死亡報告書の作成という業務も伴う。
 戦時中ともなれば、軍医は敵味方、民間人含めて数多くの「死者」と向き合う事になる。時間の経過と共にそれらも「流れ作業」と化し、死者一人一人の存在が「物質」に思えてくる錯覚に陥ってくるのである。それに気がつき、責任感の強い医務官の中には、己を見失う者も出てくるほどだ。
 そんな中、ライズ・グレリオ・サイファという名の佐官は、ソラリスの記憶に最も色濃く残った「戦死者」であったと言えた。
「彼はただの佐官じゃなかった。とある将官の護衛官で、当時ではちょっとした有名人だったから、よく覚えている」
 ソラリスの口調に、追憶の靄が掛かりかけていることにラルフは気がつく。
「将軍を護って名誉の殉職…ってとこですか?」
 彼女の面持ちを窺いながら、そう相槌を返した。
「正にそうね」
「ふーん……その将軍は?」
 彼女の記憶にそれほど色濃く残る出来事だ。ラルフは興味をかきたてられる。
「グレン・イーザー」
「イーザー…?大戦の英雄じゃないですか!」
 ハートオブアリタスに銅像が建つ人物だ。そんな名前が出てくるとは思わず、不意打ちを受けたようにラルフは椅子に凭れ掛かった。
「そりゃその護衛官とあらば有名人になるわけだ。そんな人物が戦死したとあれば大騒ぎだったでしょうね」
 そのラルフの言葉に、ソラリスは首を横に振った。目を伏せて、長い長い息を吐き出す。邂逅するソラリスの視が、何も映していない擦り硝子のように濁った。
「………」
 ソラリスが何を目にしてきたか。ラルフに計り知ることはできない。返す言葉に迷って、ラルフは無言になる。戦争経験の無いラルフが不用意に言葉を挟んでは、戦いを生き抜いてきた彼らの記憶に土足で踏み込む事になりかねないと、分かっていた。さすがに軽口の一つも頭に思い浮かんでこない。ラルフはじっと唇を結んで、俯くソラリスを見つめた。
「静かだった」
 しばらくして、ソラリスの形の良い唇が小さく動いた。
「とても、静かだった」
「静か……?」
 不思議そうに呟くラルフ。
「そう。戦場特有の「静けさ」っていうのがあるの」
 答えながら、ソラリスは唇に微笑を乗せた。
 新米だった自分が、これまでに感じた事のない「静」が、戦場には存在した。
 あれは十数年前。ACCから程遠い、山間部の水辺に敷いた陣での事。

 空は鉛色に覆われ、使い古した表現だが「今にも泣き出しそうな空」というフレーズが、今思えば最も似合っていた。
 雲の向こう、高いところから遠い雷鳴が地響きのような低い音を轟かせていた。折り重なる渓谷の合間をぬって、淡い白霧が立ち込めていた。丁度、低気圧の層が通過中だという。南から高気圧がせり出しており、明日には二つの気圧が衝突する事になる南方の山間部が、酷い冷気と豪雨に見舞われるだろうという、気象予報官からの報告があったばかりだった。
 戦陣には、幾つものテントが張られており、それぞれが機能的に配置されている。陣の頭脳となる司令部は、少し小高い位置に敷かれていた。それを見上げる位置に、救護テント、物資保管テント、士官達の宿泊テント等が設けられていて、小さな村落にも匹敵する規模だ。
「………寒っ」
 新米医務官ソラリスは、両手いっぱいに白いシーツを抱えて救護テントの一つから外へ出た。薄墨の空を見上げ、白い息を吐き出した。細く赤い縁の眼鏡がずれそうになり、人差し指で軽く持ち上げる。
 夕方を迎えようとする冬の山間。低気圧のせいで、いつもよりも暗かった。靄の中に灯る明かりがソフトフォーカスとなって、ホタル火の様に優しい色を浮かべている。
「静かだ……」
 ソラリスは胸に抱いた白いシーツを、更に強く抱きしめた。嵐が通り過ぎた直後の明後日、大隊は国境付近で防衛線を張る敵軍へ一斉攻撃を仕掛けるのだと言う。それなのに、何故これほどに静謐なのだろう。数十時間後には、幾千人の死傷者を看取ることになるのに。そう考えると、心臓がチクリと痛むのだ。
 この痛みに慣れてはいけない。
 上官に言い聞かせられてきた言葉を思い出して、ソラリスは瞳を閉じた。
「指揮官殿、負傷!」
「!?」
 突如あがった若い士官の声に、その場にいた誰もが一斉に振り向いた。物も言わずにその場から駆け出した上司の軍医。白衣の裾が軍旗のように翻った。
「えっ!?…あっ…」
 その後を追うため、慌ててソラリスはシーツの束をコンテナの上に置いて走り出す。左腕につけた、軍医やソラリスが身に付けた白地に赤十字の腕章を見て、皆が道を空ける。
「っ!」
 開かれた視界の中、運ばれてくる担架。そこには、一人の佐官が横たわっていた。左腕が力なく垂れ下がっており、袖からこぼれ出す血液に指先までが赤く濡れていた。
「ぁ……」
 呆然とするソラリスの脇を担架が通り過ぎていく。背後に張られた救護テントの中へと消えていった。「来た」と前方に立つ上官軍医の声に、弾かれるように再び前方を向くと、大柄な士官が一人の男を背負って駆け込んできた。士官の広い背中に体と顔を預けて動かない男、彼が身に付けているコートの長い裾が、これもまた堕とされた軍旗のように揺れていた。緑地に赤と黒の縁、裏地が紅色で裾が長い。このデザインは将官用の軍服だ。
 それが、この時のソラリスが従軍していた遠征大隊の指揮官、グレン・イーザーだった。位を示す肩章は少将のもの。だが、まだ若い。
「い、一体、なにがあったのですか」
 ソラリスの語尾は、焦燥のために僅かに震えていた。
「そんな事は治療するにあたり必要の無い情報だ」
 微塵の動揺も見られない声でソラリスを叱咤したのは、上官である軍医。医務官と一目で分かる白帽を着用し、裾の長い白衣の胸元と腕には国軍章と赤十字を掛け合わせた医務官特有のもの。この姿に憧れて医務官を目指していた、幼い頃。理想に思い描いていたままの上官の姿が今は、押しつぶされそうな程に大きく見える。
「詳しい戦局など関係ない。我々はただ、目の前の負傷者だけを見ていればいい」
 それだけに集中しろ。
 最後に短くそう言い放ち、軍医は指揮官を背負った士官を救護テントへと誘導した。同じ服装をしているのに、自分はなんと未熟な事か。雑念を振り払うために「はい!」と大きく返事をして、ソラリスも救護テントへ踵を返す。
 救護テントは複数あり、この一帯に敷いた戦陣の中で仮設司令部に次いで大きな建物となる。佐官を乗せた担架と負傷した指揮官は別々のテントに運ばれていき、上官の軍医は後者のテントへ入っていった。ソラリスもそれに倣う。
「安静にして下さい!」
 ソラリスがテントに飛び込むと同時に、医務官の激が飛んだ。診療台となる簡易ベッドに寝かされていた指揮官が、上半身を起こして医務官の片袖を掴み、縋っていた。
「中佐は…ライズはどこだ!」
 イーザー指揮官の口から出た名は、ライズ・グレリオ・サイファ中佐。彼の護衛官だ。
「別のテントにて治療中です。安心して下さい」
 宥めようとする医務官の腕を掴む指揮官の手も、赤黒く汚れている。シーツを取り替えたばかりの白い診療台は、既に血と泥と水に塗れてしまっていた。
「彼を、助けてくれ……」
 弱々しく訴える声と共に、医務官の袖を掴むイーザー指揮官の手が滑り落ちた。診療台に倒れこみ、横たわりながらも懸命に意識を引き留めるように体全体で呼吸をしていた。彼とて無事ではなかったのだ。
(でも、あの護衛官は恐らくもう……)
 胸に苦しさを覚えてソラリスは、イーザー指揮官から顔を背けた。
 ソラリスが指揮官の顔を至近距離から見たのは、これが初めてだった。熟練した壮年層、若くとも四十代という面々が圧倒的数を占める将官職にあって、彼は驚くほど若い。恐らく自分とあまり変わらないだろう。そう思うと益々、胸のうちの痛みが強くなる。
 片や、上官に倣う事だけで精一杯の新米医務官、そして片や何千の何万を率い、何百万という国民の命を背負う将官。その重みが、ソラリスには想像できなかった。
 そんな中で彼が、友人でもある護衛官を失ったと知ったら…?
 新米のソラリスが担架を一瞥しただけでも、分かった。呼吸や脈動が全く感じられなかった体、物質のように重力に任せて垂れ下がっていた手。あの護衛官からは、もう、命の気配が全く感じられなかった。
(失ったと知ったら………永遠に…)
 指揮官とその護衛官のことは、ソラリスの耳にも届いていた。初等教育時代からの知り合いで、士官学校時代も共に過ごした親友同士らしい、と。
「だ、大丈夫です、大丈夫ですから!我々にお任せ下さい!」
 気がついたら、ソラリスは声に出していた。横たわる同年代の指揮官に向かって、何度も同じ言葉を繰り返した。「大丈夫」と。
「…………」
 彼は、苦しげな息遣いでこちらをまっすぐに見た。けどられないよう、ソラリスは懸命に声を張った。詳しい戦局は、一介の医務官たるソラリスには分からない。だが、軍が戦争の泥沼化を回避するために一気に終局に向けて追い込みをかける動きに出ている事は、知っていた。ここに来て指揮官の戦意が喪失されれば、大隊の士気低下と不統率を引き起こし、戦局を危険に曝す結果になりかねない。
 今の段階で、護衛官の死を知られてはならない。ソラリスはそう直感した。
「大丈夫…ですから!今は、ご自分の事を考えて…ください!」
 目尻と頬がやけに熱かったが、ソラリスは構わずに続けた。後で上官から「お前は演技が下手だな」と言われることになる。
「…………」
 イーザー指揮官は、黙ってソラリスを見つめていた。軍医も、周囲にいた士官達も、誰も口を開かなかった。沈黙がテント内の空気を支配し、分厚い布壁の向こうからくぐもって聞こえる、忙しない複数の足音と人の声が、漣のように行き来する。
「…………っ…」
 そのうち彼はソラリスから視線を外して俯くと、小さく三回、咳をした。肺から押し上げられるような、深い咳だった。手を伸ばそうとした医務官を片手で遮り、彼は自分の力で起き上がる。
「グスタフ大佐を呼んでくれ」
 静かな命令が呟かれた。彼は診療台に腰掛け、枕元に積み重なれているコンテナに腕を乗せて体を支えている。
「いけません。まずは安静に…―」
「報告を聞きたい。呼んでくれ」
 医務官の忠告は、イーザー指揮官の指し伸ばした左手に遮られた。指先がテントの外を示していた。
「指揮官殿!」
「この程度では死なない!呼んでくれ!」
 医務官による再度の忠告も、鋭い一喝で抑え込まれた。
 後になって思えば、きっと彼はこの時に気がついていたのだろう。護衛官ライズ・グレリオ・サイファが既に死んでいる事に。
「……分かりました。ただ、治療はさせて頂きます」
 諦めて医務官は、溜息と共に頷いた。当惑気味に事態を見ていた士官に、大佐を呼ぶよう言付ける。
「ありがとう…怒鳴って、悪かった」
 悔恨の色を眉目に浮かべ、イーザー指揮官は診療台に腰掛ける形に姿勢を正した。全身を濡らす水が未だ雫を垂らして、白かったシーツを赤灰色に変えていく。
「タオルと着替えをお持ちしろ」
 医務官に命じられて他の助手がテントを出て行った。この時彼がソラリスにそれを命じなかったのは、蒼白な顔をしていて役に立ちそうになかったからだそうだ。
「ライアン・グスタフ。参りました」
 間もなく、テントの外から畏まった声がした。返事を待たずに長身の佐官服がテント内に滑り込んでくる。彼もまた、若くして異例の昇進を繰り返してきた士官だった。これが、ソラリスにとってライアン・グスタフとの初対面の瞬間だ。
「大佐、現状報告を聞きたい」
 テント内に足を踏み入れたグスタフ大佐が何かを言いかける前に、指揮官が口を開いた。
「……了解しました」
 全身ずぶ濡れで泥と血にまみれた姿で診療台に腰掛けた指揮官に出迎えられて、大佐は刹那に驚愕を表したものの、すぐに資料と地図を使って戦況報告を始めた。手当てを受けながらのイーザー指揮官が矢継ぎ早に質問と指示を繰り出し、対しグスタフ大佐は間髪入れずに応じていく。次々と難しい単語が早口に流れ、軍略知識の無いソラリスには理解不能の会話が弾丸のように相互掃射されている。会話の合間と合間に別の部下達が姿を現し、それぞれ指示と質問を受けて入れ替わっていく。さながら救護テント内は簡易作戦会議室に変化していた。
 不気味なほどに、それは「通常」の光景だ。
「以上、明朝六時までに完了報告をせよ」
「は!」
 一時間ほど続いた慌ただしい即席会議が、ようやく一段落がついたようだ。最後の命令を受けた数人の士官たちがテントを飛び出していく。残ったのは、最初から立ち会っていたグスタフ大佐一人。その頃には、濡れた指揮官の上着は取り替えられ、ベッドのシーツもはり替えられ、治療も完了していた。
(愚図る赤ちゃんを診察するより難しかったわ…)
 ソラリスは一息ついて汗を拭った。なにせ腕に包帯を巻いている最中に「今すぐにだ!」と部下に命令するざま腕を振り上げられたり、頭に包帯を巻いている最中に「違う!」と部下に怒って首を振られたり、上着を着せようとしたら「確認してこい!」と勢いづいて立ち上がったりするのだから。
 外見から受ける印象よりもかなりアグレッシブな性格のようだ。
それとも、血匂に酔っていたからなのだろうか。
「鎮痛薬は連続投与できませんので、傷が痛みだす前にお休み下さい」
 と、薬瓶を片付けながら軍医が言う。急に静かになったテント内、気が緩んだかイーザー指揮官はベッド脇のコンテナに体重を預けて、少し眠たそうな視をしていた。軍医の声が聞こえているのか、いないのか、彼の虚ろな視線はテントの隅に向いたままだった。
「………それ、貸してくれ」
 ふいにイーザー指揮官の腕が上がった。グスタフ大佐に向けて伸ばされている手。指先は、大佐が手にしている書類を示していた。視線は、まだ虚ろなままだ。
「明朝までに読んでおくから」
「寝ろよ。もういいから…」
 そう返したのは、グスタフ大佐。佐官が将官に対して、本来あるまじき言葉遣いだ。テントの中の面々は驚き、誰もが思わず肩越しに振り返った。ソラリスも驚いて、ファイルで顔の下半分を隠して様子を窺う。
「……眠りたくない」
 グスタフ大佐に手を伸ばしたまま、イーザー指揮官は呟いた。彼の言葉遣いへの言及はなく、それがさも当然かのように。この二人が士官学校時代からの友人同士なのだと、これも後に知る事になる。
「バカヤロウ」
 そう「暴言」を口にしながら、三歩下がった畏まった位置に立っていたグスタフ大佐は、目端を僅かに歪ませた。大股二歩でイーザー指揮官に歩みより、
「泣きたいのを我慢してるのがお前だけだと思うなよ」
 と、持っていた書類でイーザー指揮官の頭を叩いた。
(な、な…)
 両者の関係をまだ知る由もない、ソラリスを含めた医務官の面々は、グスタフ大佐の「暴挙」にただ呆然と見てみぬ振りも忘れていた。
「…………悪かったよ」
 頭の上に乗せられた書類の束を手にとって、指揮官は小さく笑った。
「私だって、いつかは、こういう時が来ると覚悟していた」
 俯いて呟きながら、彼は無造作に組んだ膝上に乗せた書類を一枚ずつ捲る。紙が擦れる音が、やけに乾いて聞こえた。彼の言葉にグスタフ大佐が眉間に皺を作る。
「でも、慣れる事などできない…な……」
 その言葉の後、重たい静寂が空気を這う。聞こえてくるのは、紙の音だけ。
「そんなもんに慣れたら、人間オシマイだぜ」
 グスタフ大佐の言葉に指揮官は紙を捲る指を止め、上背のある彼を見上げる。
「俺は一生忘れないぞ、あいつの事。だからお前だって、忘れようとしなくていいんだ」
 そう言ったグスタフ大佐と、それを聞いたイーザー指揮官がどんな表情をしていたか。
 何故かソラリスは思い出せずにいる。

「それで…どうなったんですか」
 ラルフの問いかけ。
「え?あ、えっと、結局ね」
 ソラリスの意識は急激に現実に引き戻った。
 その後、大隊の統率は崩れる事なく戦局も持ち堪え、戦勝する事ができた。
 そう答えながら、ソラリスは自分が存在する「今」を意識が再確認しているようだ。手元の書類を手にとってみたり、ペンを指先で転がしてみたり、無意識に感触を確かめている。徐々に現実に立ち戻りつつある女医務官の様子を、ラルフは待つ。
「―泣く事が許されないって、辛いですね」
 ラルフは、ソラリスの言う「戦場特有の静けさ」というのが、少し理解できたような気がしていた。
「………そうね」
 子供がよく見せる、ぽかんとした表情を浮かべていたソラリスは、指先で眼鏡のフレームを押し上げる。それがスイッチのように、両眼に理知的な光が再び灯った。
「士気のコントロールも、大事な軍略テクニックってわけね」
 これは、その後のソラリスが職場である戦場で徐々に学んできた事の一つである。
「…………」
「…………」
 会話の途切れをきっかけに、両者の間に沈黙が降りた。
「じゃ、じゃあ、ソラリス医師はイーザー将軍を見たことがあるんですね」
 無性に照れくさくなり、静寂を打ち消すためにラルフは別の質問をした。
「そりゃそうよ。今話した通り」
 当たり前じゃない、とソラリスが顔を上げた。
「いいなあ。いや、ほら、だってマスコミ嫌いで有名だったじゃないですか」
 大戦当時、ラルフは軍と全く関わりのない立場にいた。民間人に戦局を伝える報の中に、イーザーの名は出ても、写真、パレード、講演等、活字以外の場でその姿を目にした事がほとんどなく、「将軍はマスコミ嫌い」との評判が立つようになっていた。
「そうだっけ?」
「そうですよ。どんな人だったんですか?」
「どんなって…」
 ラルフの問いに答えようとした途端、ソラリスの脳裏で鮮明に蘇っていた諸々の情景が一瞬のうちに崩れて消えた。空気の匂いまで思い起こす事ができた鮮烈な邂逅であったのに、まるで幕を下ろしたように何もかもが消えている。イーザー将軍の顔を思い出そうと試みるが、浮かんでくるのは白紙だった。
「若かったって事ぐらいしか………よく覚えていないわ」
「とても普通の人だったから」と付け加えつつソラリスは首をかしげた。それを見て、少し残念そうな顔をするラルフがいる。
「新米だったソラリス医師と同年代という事は、二十代で将官だったって事ですよね」
「そうなるわね」
 へえ、と声を漏らし「軍も思い切った事をしたもんだ」とラルフは足を組み替えた。
「どうして?」
「だって、いくら軍が実力主義とはいえ、国の命運を二十代の若造に委ねるなんて」
 民間生活が長かったラルフにとって、軍部内での仕来りや常識に、未だ不慣れな部分が多い。士官学校在籍時の十代の頃から軍部と関わり続けてきたソラリスとは、感覚が違った。
「よく見出せましたよね。なんとも巧妙な人事采配というとこですか」
「上層部の考える事なんて私は分からないわよ」
 ソラリスは首をかしげている。だがすぐに「そんなことより」と細い指先をラルフに突きつけた。
「そもそも私達、何の話をしていたのだっけ?」
 大幅に脱線していた会話の戻り道を探して、ソラリスは手元の書類を探った。
「え、嫌だなあ。田舎町殺人事件で検出された血液の話だったじゃないですか」
「ああ、そうだったわね」
 完全に元に戻った空気に安堵して、ラルフはかつかつと笑う。
「ははは。思い出に浸りやすいのと忘れっぽいのは年をくった証拠って言いま……」
 そしてこの直後、高らかな打撲音が研究局中に響き渡ったという。





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押印師ACT12-3
03

「話を戻すわね」
 こめかみに青筋をたてかねないソラリスの声が、刺すように冷たい。
「ふぁ、ふぁい…」
 ラルフは背を丸めて、殴られた頬を撫でていた。涙目になっている。完全な自業自得なので、同情の余地は無い。
「この結果を、私はどうすれば良いと思う?」
 グレリオセントラルで起こった殺人事件、そこで検出された血液が、十数年前に死んだ故人の物と合致した、という検査結果の事だ。
「ううん…」
「この目で確かに死亡を確認した人が、生きていたかもしれないんですなんて」
 ソラリスの声調は、既に通常に戻っていた。
「そんな非科学的な事をどう説明するべきか……」
 ますます捜査を混乱させ、それどころか、公式の死亡報告書を作成したソラリスの責任も問われかねない。それぐらいはラルフにも想像できた。
 殴られた事は忘れよう。そう思い直してラルフも、いつも通りに尋ねる。
「もう片方の血液は誰なのか、目星はついているんですか?」
「こっちは、指定された範囲では該当するものがなかったわ」
「まさかイーザー将軍なんて事は?」
「…………」
 しばしの絶句の後、
「何を言っているの。そんなわけ…」
 ソラリスは苦笑と共に答えたが、ラルフの面持ちは真面目だった。
「イーザー将軍って、今は?最近まったく噂を聞きませんが」
「シールズ大佐が捜索任務を担当しているのよ」
「捜索?行方不明なんですか?」
「詳しくは知らないけど」
 国民は勿論の事、軍部内に「退職」の報せさえ渡っていない。
「ほら、何かありそうじゃないですか」とラルフは手を鳴らした。楽しそうである。
「もともと、ありえないはずの人間である可能性が高いんです。この際、何でもありで考えてしまってはどうです?」
 持っていたペンの尻で、ラルフは書類の赤く印のつけられた「ライズ・グレリオ・サイファ」の箇所を示した。
「あなたね、都合よく私の昔話に登場した人物を結び付けているだけでしょう。コイントスでいくら連続して同じ面が出続けたからって、そのあとも出続けるとは限らないのよ?」
 呆れた様子のソラリスは、肘を突いた手を頬に当てた。ラルフは封筒を抱えていた手を机に乗せて、手の平を開く。
「ソラリス医師、ちょっと見ていてください」
 言いながら、ペンで素早く手の平に模様を描く。すると、机の上に置かれたグラスの中にのこっていた水が、突然高く跳ね上がった。
 コップから飛び出した水粒が中空で集まり、一つの球体となる。ラルフの「戻れ」という短い命令に従い、ゆったりとした動きで水の球体はコップの中へと戻っていった。
「今のは、ごく低級な水の精霊印です。こんな「非科学的なモノ」を扱ってると……」
 言いながら、手の平に描いた模様を拭き消す。すると、コップの中で球体を保っていた水が、ぼちゃりと音を立てて元に戻った。
「奇跡ってものを信じたくなるんですよ」
 非科学的なモノ。
 それは以前、ソラリスと口論になった際に言われた言葉である。
 現実的調査と検証、科学的実証の世界に生きてきたソラリスにとって「精霊の印」は、医学と相容れない存在だった。だが、自らの希望で被押印者のメンテナンス医療に当たるようになってから、世の中を構成するものは、科学的根拠が全てではないと知るようになる。
「昔の私ならきっと、あなたを変人呼ばわりして終わったでしょうね」
 リストを両手で揃えながら、ソラリスは静かに微笑む。
「それはそれで、楽しいですよ。ソラリス医師」
「そういうのマゾっていうのよ、変態!」
「だからどうしてそうな…」
 近くを通りがかった若い女性研究員が、ソラリスの言葉を聞いて「また?」という視線を二人に向け、苦笑しつつ去っていく。
「ちょっと…!」
 ラルフは慌てて訂正を求めるが、声をかける前に研究員は逃げるように角を曲がって姿を消してしまった。ソラリスのおかげで、ラルフはこの部屋において「女性経験ゼロ」で「ロリコン」で「マゾ」で「変態」という数々の目もあてられないレッテルを貼られている。かつて受けた「前科者」という蔑視はとっくにかき消されていたが、それより酷い気がしないでもない。
「まあ…いいですよもう、今更」
 ラルフを変態呼ばわりするのは、ソラリスが元に戻っている証拠だ。ラルフは盛大な溜息をついて見せるものの、内心は大して自分の評価など気に掛けていないのだった。
 そんな彼の心を知ってか知らぬか、ソラリスは「そうそう」と顔の前で両手を叩いた。
「あなたの方はどうなのよ。検体の体に残っていた印の調査。進んでるの?」
 ソラリスの指は、ラルフが手にしている茶封筒を指し示している。封筒の中身は、R指定が必要なグロテスクな遺体写真であるが、ソラリスが相手では隠す事は無意味だ。
「それが、ソラリス医師のようにすんなりといかなくて」
 苦い面持ちで写真を机に取り出した。遺体の胸元に空いた穴が大写しにされている。肌の上に茶黒く浮かび上がっている模様のほぼ中心には穴が穿たれており、ラルフでさえ長くは凝視していたくない画だ。だが、ソラリスは眉を微塵も動かさずに写真を見つめている。
「見える部分だけで推測しても、こんな印は見たことないんです。印に関わる様々な文献を調べたのですが、該当するものがなくて行き詰っちゃいました」
「印じゃないって事かしら。単なるタトゥーだったとか」
「そうかもしれないです。ただ、世の中に存在する印で把握されているものって、実はかなり少ないんです。極めて珍しい印なのかもしれない」
「それじゃどうしようもないわね」
 ソラリスの声には、同情が含まれていた。
「でも」とラルフの表情は明るい。
「そちらの血液が判明したとあれば、こちらの手掛かりにもなりそうですよ。非科学的な出来事の裏に「精霊印」の存在をまず疑え。これ、セオリーですからね」
 明らかに楽しんでいる風のラルフに、少しばかりの窘めを口にしてからソラリスは「そうかしら」と答える。
「まあ、まさかとは思うけど、あなたが言う線も調べてみることにするわ」
 突飛すぎるが、行き止まりに現れた一筋の活路である可能性もある。渋々、または半信半疑で、ソラリスは肩を竦めた。
「それにしても何でこんな急に昔の事を、あんな鮮明に思い出したのかしら、私…」
 呟きながら、ソラリスは無造作に手元の書類束を整える。そして唐突に、
「そうだ!」
 と勢いで両手を叩いたおかげで、せっかく整えた束を再びデスク上でバラけてしまった。だがそれを気にする事なくソラリスは「そうそう」と再びラルフに詰め寄る。
「不思議な事があったの。「非科学的」な事が得意なあなたなら分かるかしら」
「な、なんですか?」
 勢いに圧倒されたラルフは、思わずたじろぐ。
「さっきの昔話の続きよ」
「何か非科学的なこと、が?」
「そう。このサイファ中佐が私の記憶に引っかかっていた、一番の大きな原因」
 再び机に両腕を乗せて前屈みの姿勢をとることで、ラルフは続きを促す。
 ソラリスの記憶は、イーザー指揮官とグスタフ大佐の会話を耳にした時から、二時間程後に移る。
「私、上官命令でサイファ中佐の死亡確認書を作ることになったの。そのとき、遺体が酷く汚れていたから、血と泥を拭ってあげて…」
 一つずつ、自分が行った仕事を思い起こす。
 あの後、イーザー指揮官の方は貧血を起こした為に、上官軍医は彼に付き添わねばならず、護衛官の死後処理はソラリスが全て一人で行う事となった。他の軍医達も出払っており、彼の遺体が安置されたテントには、ソラリスだけが残っていた。

 サイファ中佐の軍服や肌を汚す血と泥を拭っていくと、胸部に大きな刺傷を見つけた。他にも下腹部や首筋等に裂傷が出来ており、どれが致命傷となったのか判断がつかない程、護衛官の全身は傷つけられていた。反して顔面に傷はなく、汚れを拭うときれいなままで、まるで眠っているように見える。
「…………」
 まだ空欄の死亡報告書類を手にしたまま、しばらくソラリスは護衛官の遺体を見つめ続けた。胸の刺傷は背中から突き立てられたもので、彼の厚い胸板を貫通している。これと似た形状の傷が、イーザー指揮官の肩口にもあった。
(文字通り、彼が体を「盾」に……)
 こうして傷を眺めていると、嫌でも様々な事が分かってくる。凶器は護衛官の背に刺さり、本来の標的であった指揮官に浅い傷を付けただけにとどまった。他にも指揮官と共通する傷跡が幾つか見られる。身長差を考慮して傷の位置を比較すると、彼は指揮官の頭を抱え込む形で盾になっていた事が推測された。これらも、一つ一つ調べて死亡報告書に記さねばならない。
「もうこんな時間」
 傍らに置かれた時計は、とうに日付を越えた時刻を示していた。せめて寝る前に下書きだけでも済ませてしまおうと、ソラリスはファイルボードを手に取る。その時、背後で人の気配を感じた。上官が戻ってきたのだろうか。
「申し訳ありません、まだ報告書が…―」
 言いながら出口を振り向くと、そこにいたのは白衣ではなかった。
「し、指揮官殿……!」
 テントの入り口から姿を現したのは、緑地のロングコート、裏地は紅。肩章は無地の金に銀星が一つ、少将の証。
「失礼する」
 短く断りを入れながら彼は、テント内の奥、ソラリスの向こうに横たわる護衛官の遺骸に視線を向けた。
「あの……」
 戸惑うソラリスの前を横切って、イーザー指揮官は寝台の前に立つ。しばし無言で遺体を見下ろす背中を、ソラリスはただ見守るしかできない。気を遣って出て行くべきか、遺体を任されているという立場上ここに残るべきか、迷っていた。
「医務官」
「は、はい」
 突然に声をかけられ、ソラリスは肩を強張らせた。指揮官の声は、低く、平坦だ。
「氏名と階級は」
「ソラリス・クリューガー。少尉であります」
「ああ、君が……」
「??」
 まるで自分を知っていたような口ぶり。不可思議に感じながらも、今はそれを問うべき時ではなかった。ソラリスが理由を知ったのは、もっと後になってからになる。
「君は口が固い方か」
 理由を口にする代わりに、彼から出てきたのはそんな問いかけだった。
「は…、約束は守るものと、心得ております」
 ソラリスの答えは、この若い指揮官を満足させるものだったらしい。肩越しに振り向いた彼の面持ちは、僅かに笑んでいた。「では」と言葉を挟みながら、イーザー指揮官はまた視線を護衛官の遺体に戻す。
「これから目にする事を、最低限この戦争が終わるまでは決して他言しないよう約束して欲しい」
 ソラリスの立場を理解している彼は、「出て行け」とは言わなかった。それは仕方の無い事で、鑑識中の遺体から目を離す事を禁じる、その規約書に承認印を押したのは立場上、彼なのだから。これは、戦死者の遺物を確実に回収する為の業務規律の一つなのだ。
「はい、決して」
 頭上に疑問符を残しつつも敬礼で応え、ソラリスはテント出口付近まで下がった。
「ありがとう」
 そう静かな言葉を返して、再び指揮官は遺体と向き合ったまま動かなくなった。
「………」
 ソラリスが辛抱強くその背中を見守り続けていると、徐に彼の左手が動く。遺体の胸元にそっと添えて、またしばらく動かなくなった。聞こえない語らいが交わされているようにも見える。そして突然、ざっくりと砂に沈み込む音を立てて、指揮官はその場に両膝をついた。
「!」
 思わず持っていたファイルを落としそうになり、ソラリスは胸の中できつく抱きしめた。息をとめて、彼の様子を見つめ続ける。
「…………」
 イーザー指揮官は寝台の前に膝をつき、遺体の胸元に縋る形で顔を伏せていた。添えられていただけの左手が、遺体の軍服を掴んで握りこぶしを作っている。彼の背中や肩や手元が震えているように見えるのは、気のせいではないはずだ。
(私、どうすれば……)
 呼吸音さえ出してはいけない気がして、ソラリスは胸にファイルを抱いたまま、口元を両手で覆った。テントの外からも、何故だか物音一つ聞こえてこない。目の前の光景が、雪のようにすべての音を吸収してしまっているのではないかと思えるほど、テントの中は静かだった。
 居た堪れなさから逃げ出してしまいたい気持ちと、見守り続けなければならない気持ち、誰もテントに入って来ぬ様にと祈る気持ちとが、脳裏でぐるぐると高速回転し続けている。
 瞬きを忘れていた為に、眼が乾いて涙が出てきそうだ。ソラリスは眼鏡の奥で、強く瞳を瞑った。
「…………?」
 生理的な涙をやり過ごして少しずつ瞳を開くと、さきほどまで眼にしていた光景に異変が生じていた。
(え……?)
 見間違いかと思い、ソラリスは二度三度と瞬きを繰り返してから改めて目を見開いた。テントの中には、護衛官の遺体、指揮官、自分の三人がいた。
 そこに、一人増えているのだ。
「っ!?」
 跪く指揮官の傍らに、新たな人影が一つ。軍服を着込んだ、長身の後ろ姿が立っていた。
 テント内に置かれたランプの弱々しかった灯りが、無風にも関わらず強くゆれて燃え上がった。まるで、鬼火のように小さな爆ぜ音を立てながら燃え立ち、周囲に淡光を散らしている。
(だ……誰……誰!?)
 両手で押さえたままの口が、無様に動くだけで声が出ない。脚が竦んだソラリスの目の前で、長身の人影が灯りに照らされて陽炎のように揺らいだ。よく見ると、その体の向こうにテントの布幕が透けて見えており、足元には影がなかった。
 こんな非科学的な事があるわけがない。ソラリスの医務官としての理性が、瞳に映っている光景を懸命に否定しようとしている。だが一方で感受性が、この「奇跡」を受け入れようともしている。背中を向けた人影の幻は、跪いたまま動かない指揮官を見つめていた。ソラリスが立つ角度から辛うじて目視できる横顔は、
(サ…サイファ中佐………?)
 寝台に横たわる白い横顔と同じ。表情の無い横顔で、ただ己の主人を見おろしていた。そして徐に動いたかと思うと、伸ばした左手が、動かない指揮官の肩に置かれた。指揮官はこの状況に気がついていないのだろうか。死んだ部下がそこにいる、姿を現していると、伝えるべきなのか。
 だがソラリスの喉の奥では、空気が空回りするだけで声が出ない。
「!」
 ソラリスの目の前で、また「非科学的」な事が起きる。指揮官の肩に置かれた護衛官の手が、徐々に光彩を失くして行くと共に、イーザー指揮官の体へ沈み込んでいく。寝台近くに置かれた蜀台で、灯火がひときわ大きく爆ぜ、テント内が一瞬皓光に包まれる。思わずソラリスは口元を押さえていた両手で顔全体を覆った。胸元に抱いていたファイルボードが落ちて、書類とペンが転がる。
「やっぱりここか」
「きゃあああ!」
 突然、真後ろから別の声がした。たまらずソラリスは声を上げてその場にしゃがみ込んだ。
「何だっ、驚きすぎだぞ」
 背後からテント内に入ってきた声の持ち主も、ソラリスの声に驚いて戸惑いを見せる。妙に現実感のある声に顔を上げると、うずくまるソラリスの様子に肩を竦めるグスタフ大佐がいた。すっかり腰が抜けた新米医務官の脇を通り抜け、グスタフ大佐は寝台の前の指揮官の元に歩み寄る。
 護衛官の幻影は、いつの間にか消えていた。蜀台の明かりは何事もなかったかのように、弱々しく揺れているだけだ。グスタフ大佐は上から護衛官の遺体と、そしてそこに上半身を預ける形で伏せているイーザー指揮官の顔を覗き込む。
「泣き疲れたのか?ガキかお前は」
「ね、ね…眠っていらっしゃるんです…か?」
 笑う膝を叱咤してようやくソラリスは立ち上がる。少し冷静さを取り戻して観察すると、指揮官の背中が呼吸と共に規則正しく上下しているのが分かる。
(中佐に……連れて行かれてしまったかと思った……)
 安堵の深い溜息を吐き出すと、ようやく夢から覚めたような気持ちになった。
「仕方ない奴だな、まったく」
 大佐の大きな背中が、少し大げさな溜息と共に動いた。そして、寝台に折り重なる二人を見おろして彼もまた、しばらく動かなかった。
「………お前ら二人とも馬鹿だ」
 誰に告げるともなくグスタフ大佐は言葉を零しながら、上背のある体を屈めた。両手を寝台につき、指揮官と護衛官の両者を上から包み込むように己も頭を垂れる。
 まるで、ずっと昔に聖堂で眼にした宗教画みたいだと、ソラリスは思う。「祈り」というタイトルの絵で、聖櫃に深く傅いて祈りを捧げる巡礼者達の後ろ姿を描いたものだった。
 
「思い出した…そう、そんな事があったの」
 呟かれたソラリスの声で、ラルフは我に返った。
「はあ………それは……」
ソラリスが語る戦場の話はあまりに静謐で、耳にしているうちに意識がどこまでも深く引きずり込まれそうになる。
「この十数年、誰にもこの話をしなかったわ」
「大した口の固さで」
 呆けていたとはいえ、我ながら頭の悪い返答にラルフは軽い後悔をする。
「そんなのじゃないわよ」
 交わした約束の遵守という使命感からではなく、記憶が固い蓋の下に閉じ込められていたように、今まで封じられていたのだ。
「どう?何が起こったのだと思う?」
「どうっていわれてもですね……」
 超心理学とでも言うべきか、とにかく幽霊はラルフの専門外だ。ただ一つ引っかかるのは、
「中佐の幽霊が、指揮官の体に吸い込まれていった?」
 という点。
「の、ように見えただけで、本当にそうなったのかどうか」
 何か気になる?とソラリスは、盛んに何か考え事をする様子のラルフを眺める。
「…………ちょっと、今の段階ではまだなんとも」
 煮え切らない返答を漏らした直後、ラルフは「でも」とソラリスをまっすぐ見据えた。
「さっき話したもう一つの血液、冗談抜きで「グレン・イーザー」の線を調べてみてくださいよ」
「何よ急に」
 もとより、この出来事を思い出した時点でソラリスの意向は決まっている。
「結果が出たら、ぜひ教えてください」
「いいわよ」
 心が決まれば、行動は早い。ソラリスは早速、資料室に向かうべく席を立った。





ACT12-4⇒
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閑話(1) 本当はコワい国軍のはなし
第一回すきなキャラクターアンケートで上位に入った、
・エルリオ
・グレン
・イルト
・ミリアム
・ジャスミン
を使った番外編です。
一時間ほどで一気にノリだけで書きました。
非常に不真面目な話なので、お気をつけ下さい。

でも、書いてて楽しかったです(笑)














閑話(1)本当はコワい国軍のはなし










「あのさあ、士官学校生活って、どういう感じなんだ?」
 移動中の列車内、いつまでも続く山の景色に飽きて、イルトは暇を持て余していた。何の気なしに、向かいの座席に座るグレンに尋ねる。
「私も、興味があるお話です」
 ずっと本を読み続けていたミソラも、顔を上げて反応を示した。
「え?何で急にそんなことを」
 考え事をしていたのか、じっと窓の外の一点を見つめ続けていたグレンが、我に返って頬杖姿勢を崩した。
「予備知識を仕入れて心構えをしておこうと思って。あと、暇だし」
「そんな事は合格してからでも遅くないのに」
「………ぐっ…」
「………ぅ……」
 全く悪気の無い顔でさらりと出された答えが、二人の胸に鋭く突き刺さる。この男と接していると「言葉は凶器になりえる」という言葉を非常に体感できるのである。本人にその自覚は無いようだが。
「受験生はデリケートなんだぞ…」
「あまり縁起のよろしくない事を仰らないで下さい……」
 鋭く痛む(ような気がする)胸元を押さえて顔を引きつらせる両名に、グレンは柔らかく笑いかけた。
「だって、二人とも必ず受かるんだろう?」
「………」
「………」
 イルトとミソラは顔を見合わせる。激励のつもりで言っているのか、頭の良い人間特有の傾向だが「落ちるという選択肢がそもそも存在しない」と本気で思っているのか、どちらとも分かりかねた。いずれにしろ本人は全く悪びれていない様子なので、両方なのだろう。
「そういう事」
「そういう事です」
 少しだけの強がりを含めて、二人はそれを肯定した。
「そうだな~」との独語の後、
「一言で表すと、やっぱり「汗くさい」かな」
 と苦笑しながらグレンは答えた。
「年々女性が増えているとはいえ、やはりまだまだ男所帯だからね。全寮制だし」
 全寮制。なんとも悲喜こもごもを感じる言葉である。
 ちなみに士官学校が全寮制なのは、士官学校入学はすなわち「国軍入隊」と同意であるからだ。入寮したその日から、学生達は学業や戦闘技術の他、徹底的に規律と軍人精神を叩き込まれる事となる。
「うわあ大変そうだなあ」
 野放しとまではいかないまでも、田舎で自由に育ってきたイルトにとって、「規律」という言葉は不慣れなものだ。そんなイルトの不安を知ってか知らぬか、グレンは目を細めて笑う。
「集団生活における一通りの事は、経験する事になるんじゃないのかな」
「一通り?」
「と申しますと?」
「そうだなあ」と一瞬、視線を天井に向けてから、グレンは指を一本ずつ折って行く。
「学生間のイジメは当然あるだろ?それから教師や上官による嫌がらせだろ?自殺や自殺未遂もあったな。訓練中の事故死や過失致死とか―」
「ちょちょちょちょ、ちょっと待った」
「……」
 列車内に微妙な空気が走ったのを感じて、イルトは咄嗟にグレンを止めた。
「入学したその日からサバイバルだね」
 グレンは、さもそれが当たり前のように平坦な顔をしている。
「噂には聞いていましたが、やはりそうなのですね」
 隣で、ミソラが冷静な感想を述べる。
「どんな噂だそりゃ」
「私もそうだったけど、君みたいなタイプも上から目をつけられ易いから、気をつけた方がいい」
「君」のところでグレンの視はイルトを向いた。表情全体は笑みを保っているが、目は笑っていないように見える。
「目をつけられるっていうのは……」
「単純なものだと、階段から突き落とされたり、上から物を落とされたり、手の込んだ物となると、試験の不正の濡れ衣とか、訓練中にやたら事故が頻発したり―」
「ちょちょちょちょ、ちょっと待った」
 穏やかでない事項と共に次々とグレンの指が折られていくのを、またイルトが慌てて止める。
「何だそれは!」
 出る杭は打たれる。恐らくそういう事だったのだろう。
「よく生きてご卒業できましたね」
 とミソラ。イルトは全く同感だった。
 そこでグレンの表情が、一段と和らいだ。
「友達がいたから」
「………」
 両手の指では数え切れない程の「嫌な事」も、「友達」の存在が全てを打ち消してくれる。そんなかけがえの無い存在の中に、イルトの父親も含まれているのだろう。
「ライズがいつも、守ってくれた」
 それを尋ねる前に、グレンから応えが返る。
「………」
 のろけられたような気がして、イルトはむず痒さを覚え、思わず眼を伏せた。
 父親の名前を口にする時、グレンの眼には、自分に向ける時と異なる色が浮かぶ。その意味を、イルトは少しずつ分かり始めている気がしていた。
「とりあえず彼がいなかったら、いきなり入学翌日に階段から落ちて首の骨を折っていたかもしれないし」
「…………ソウデスカ」
「…………それはそれは…」
 もう突っ込みようがなくなってしまい、イルトもミソラも深い溜息を吐くしかなかった。とにかく「覚悟して頑張れ」という事は理解できた気がする。
「もちろんそんな殺伐とした事ばかりじゃないから大丈夫だよ」
 またグレンは、無害な笑顔に戻っている。
 もうこの表情に騙されるものかと、イルトは身構えた。
「規律は確かに厳しいが、「恋愛禁止」なんてルールは明記されていないからね。職場恋愛、結婚率は高かったと思う」
「へえ」
 ここまでの話の流れから、てっきり「不純異性交遊厳禁!」とでも校則に謳っているかと思っていたが、意外な事実だ。
「でも、男女比ではまだ圧倒的に男性が多いと聞いていますけど」
 とミソラ。確かにそういえば、学校案内にそんなデータが出ていた気がする。
「少ない女子をめぐって、これまた殺伐とした恋愛沙汰が起こってそうだな」
 結局またそのオチなんだろ、とイルトは目を細める。それを受けてグレンは、
「いや、そうでもなかったみたいだけど」
 と、罪の無い顔で答えるのだ。
「え?」と口を開くイルトに向けて、グレンはまた衝撃的な答えを口にするのだ。
「そういうのの対象は異性だけとも限らないみたいだし」
「!!」
「!!」
「だから当然、そういったハラスメントもあるわけで」
「!!」
「!!」
「それ絡みの暴行事件も起こるし、それは当然、罰則もあるわけだが」
「ちょちょちょ、ストップ!」
「………」
 イルトは髪が逆立つ程の衝撃を受け、流石のミソラも周囲に聞かれてはいないかと辺りを見渡した。静かだった列車内に、微妙な空気が流れているのは気のせいではないはずだ。
「……ふーん……」
 空気を読め!と言いたくなるが言葉にならず、イルトは気持ちの悪い汗を拭った。そんな微妙な空気の中で、
「驚いたかい?」
 とグレンは相変わらずだ。
「驚くって!」
「噂には聞いたことがありますが、本当なのですね」
「どんな噂だ!」
 グレンは呑気な面持ちで、そんなイルトとミソラの漫才を眺めている。
「だから、言ったろ?一通りの事は経験する事になるんじゃないかとね」
「「一通り」のバリエーション幅が広すぎるんだが……」
 そう呟くイルトは、未だ汗が引きそうにもない。対照的にその隣で冷静さを取り戻していたミソラは、「という事は」と言葉を続けた。
「グレンさんは一通りご経験されたってことなのですね?」
 何て質問をするんだ!と仰天するイルトは、自分が思っているより古風な考えの持ち主らしい。それともこの二人の感覚が逸脱しているのか。
「長生きしてると、色々あるんだよ」
 悩むイルトを他所に、グレンはまた車内の空気を淀ませる答えを悪気の無い顔で答えるのだ。
「そこから先は話すなよ!」
 思わず座席から腰を浮かしてイルトは手元にあったガイドブックでグレンの口元を塞いだ。
「え~…」
 その隣でミソラが肩を竦めている。
「お前はそこで残念がるな!」
 天然気質の人間の間に挟まれて気苦労を背負わされる。そういうイルトの運命は、この時すでに定着していたのであった。




 奇しくも同じ頃、列車に乗ってレクティカに向かう女三人の間でも、似たような会話が交わされていたのであった。
「ジャスミンさん、軍隊生活って、どういう感じなの?」
 移動中の列車内、いつまでも続く平原の景色に飽きて、エルリオは暇を持て余していた。何の気なしに、向かいの座席に座るジャスミンに尋ねる。
「私も、興味があるお話です」
 ずっと手元でキューをいじっていたミリアムも、顔を上げて反応を示した。
「え?何で急にそんなことを」
 考え事をしていたのか、じっと窓の外の一点を見つめ続けていたジャスミンが、我に返って頬杖姿勢を崩した。
「うーん、なんていうの?敵の実態もっと知っておこうと思って」
「私とヴィル様の事でネタを探しているなら、残念ながら何もないわよ?」
「………ぐっ…」
「………ぅ……」
 笑顔でさらりとかわされてしまった。すっかり思惑がバレてしまっているようだ。
「そんな事じゃないよー、単純な興味なの!」
「そうです、そうです!」
 少しだけの強がりを含めて、二人はそれに反論した。
「そうね~」と、ジャスミンは微笑を伴う独語の後、
「一言で表すと、やっぱり「汗くさい」かな」
 と答えた。
「年々女士官が増えているとはいえ、やっぱりまだまだ男所帯だから」
 男所帯。なんとも悲喜こもごもを感じる言葉である。
「確かにね~男って暑苦しいのが多いから……」
 と苦笑するエルリオの隣で、
「グレンは汗くさくありませんでしたよっ」
 とミリアムが頬を膨らませた。
「はいはい」と適当に受け流してエルリオは、
「でも、規則とか厳しそうだよね」
 とジャスミンに続きを促した。
 一人で生活してきたエルリオにとって、「規律」という言葉は不慣れなものだ。
「軍隊に入ると、集団生活における一通りの事は、経験する事になるんじゃないのかしら」
「一通り?」
「と申しますと?」
「そうね~」と一瞬、視線を天井に向けてから、ジャスミンは指を一本ずつ折って行く。
「イジメは当然あるし、それから上官のイビり、自殺や自殺未遂はしょっちゅうあるし、訓練中の事故死や過失致死とか―」
「ちょちょちょちょ、ちょっと待って!」
「……」
 列車内に微妙な空気が走ったのを感じて、エルリオは咄嗟にジャスミンを止めた。
「入隊したその日からサバイバルね」
 ジャスミンは、さもそれが当たり前のように平坦な顔をしている。
「噂には聞いていたけど、やっぱりそうなんだね…」
 額に浮かぶ汗を拭って、エルリオは呟く。ミリアムは隣でキューを抱きしめた。
「私、愛想もないし、可愛げのないタイプだったから、目をつけられ易かったのよね」
 言いながら、ジャスミンは微笑む。表情全体は笑みを作っているが、目は笑っていないように見える。
「目をつけられるっていうのは……」
「単純なものだと、階段から突き落とされたり、上から物を落とされたり、手の込んだ物となると、不正の濡れ衣とか、訓練中にやたら事故が頻発したり―」
「ちょちょちょちょ、ちょっと待って!」
 穏やかでない事項と共に次々とジャスミンの指が折られていくのを、またエルリオが慌てて止める。
「何それは!」
 出る杭は打たれる。恐らくそういう事だったのだろう。
「よく生きていられましたね」
 とミリアム。エルリオは全く同感だった。
 そこでジャスミンの表情が、一段と和らいだ。
「ヴィル中尉が上官になってからは、違ったわ」
「………」
 両手の指では数え切れない程の「嫌な事」も、ヴィルの存在が全てを打ち消してくれた。
「彼は、優れた上官だった」
「………」
「………」
 のろけられたような気がして、少女二人は急に照れくさくなり、思わず眼を伏せた。
 ヴィルの名前を口にする時、ジャスミンの眼には、常と異なる色が浮かぶ。その意味は、分かりきっていた。
「とりあえず彼と出会わなかったら、どこかで戦死していたかもしれない」
「…………」
「…………それはそれは…」
 突っ込みようがなくなってしまい、エルリオもミリアムも深い溜息を吐くしかなかった。とにかく、いかにヴィルがジャスミンにとって特別か、という事は理解できた気がする。
「もちろん軍隊ってそんな殺伐とした事ばかりじゃないわよ。ちょっと大げさに伝わっているみたいだけど」
 またジャスミンは、無害な笑顔に戻っている。
「規律は確かに厳しいけど、「恋愛禁止」なんてルールは特に無かったし。職場恋愛、結婚率は高かったと思ったわよ」
「へえ」
 ここまでの話の流れから、てっきり「不純異性交遊厳禁!」とでも軍規に謳っているかと思っていたが、意外な事実だ。
「でも、男の人の方が多いのですよね、やっぱり」
 とミリアム。
「少ない女性をめぐって、これまた殺伐とした恋愛沙汰が起こってそうだよね」
「ねー」
 少女二人は顔を見合わせる。
「耳年増はこれだからイヤだね」
 ミリアムの手元からそんなつっこみが出て、エルリオは有無を言わさず白いキューの頭に拳骨を沈めた。
 それを受けてジャスミンは、
「うーん、そうでもなかったみたいだけど」
 と、罪の無い顔で答えるのだ。
「え?」と口を開く少女二人に向けて、ジャスミンはまた衝撃的な答えを口にするのだ。
「そういうのの対象は異性だけとも限らないでしょう?」
「!!」
「!!」
「だから当然、そういったハラスメントもあるわけで」
「!!」
「!!」
「それ絡みの暴行事件も起こるし、それは当然、罰則もあるわけだけど」
「ちょちょちょ、ストップ!」
「………」
 ミリアムは思わずキューを落としてしまう程の衝撃を受け、流石のエルリオも周囲に聞かれてはいないかと辺りを見渡した。静かだった列車内に、微妙な空気が流れているのは気のせいではないはずだ。
「……ふーん……」
 空気を読もうよ!と言いたくなるが言葉にならず、エルリオは気持ちの悪い汗を拭った。そんな微妙な空気の中で、
「そんなに驚くこと?」
 とジャスミンは相変わらずだ。
「ええ…!?」
 ミリアムは顔を真っ赤にしている。
「噂には聞いたことがあるけど、本当なんだ」
「どんな噂ですかっ」
 ジャスミンは呑気な面持ちで、慌てふためく少女二人の様子を楽しそうに眺めている。
「だから、言ったでしょ?一通りの事は経験するってね」
「「一通り」のバリエーション幅が広すぎるんだけど……」
 そう呟くエルリオは、未だ汗が引きそうにもない。ミリアムも、ひろいあげたキューで顔を隠しながらも、「という事は」と言葉を続けた。
「ジャスミンさんは……その、一通りご経験されたってことなのですか?」
 何て質問をするの!と仰天するエルリオは、自分が思っているより古風な考えの持ち主らしい。
「もう少し大人になったら教えてあげるわね」
 真っ赤になる少女達二人を他所に、ジャスミンはまた車内の空気を淀ませる答えを悪気の無い顔で答えるのだ。
「えーっ!」
「大人って何歳のことですか?」
「成人は二十歳だけど」
「まだまだ先ですねえ。残念です」
 そんな少女達の他愛もない話を聞きながら、ジャスミンはまた、柔らかく微笑むのだった。
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押印師ACT12-4
04

 学匠の街、レクティカ。
 ジャスミンは、雑多な商店が並ぶ通りを、人の流れに逆らって颯爽と歩いていた。
 この街は商店街と言えど白色を基調とした建造物が多く、どこにでもありそうな平凡なベーカリーまでが高級店に見えてしまうから不思議だ。
 細い横道に入り、メインストリートから二本外れた通りに出る。看板の無いオフィスや、貸し倉庫、空き室の目立つ貸しビルなどが並んでいる。その一画に、目的の看板を見つけてジャスミンは店舗の扉を開いた。錆びた蝶番の音を背に、入ってすぐに地下へと続く細く急な階段が口を開いている。切れかけの電球が目障りに点滅していた。ジャスミンは何の躊躇いもなく階段を降りていく。
 入り口の印象とは異なり、階段を降りきった先の小部屋は小奇麗だ。電球の灯りも燦々としており、階段までは打ちっぱなしのコンクリートだった壁が、オフホワイトに塗られている。だが室内に家具は極端に少なく、広げた新聞紙ほどの大きさしかないカウンターが一つと、カウンターの奥に置かれた戸棚だけ。カウンターの向こうには、奥へと続くドアが一つある。
 室内には三人の先客がいた。一人は、一目でそれと分かる国軍の制服を身に着けており、一人は役所の事務員のようなスーツの男で、三人目は白いワイシャツに黒のパンツという、学生のような風情の青年。三人三様、それぞれ離れた場所に立っており、順番待ちをしているようだった。カウンターの向こうに人影はない。
「………お疲れ様です」
 静かな会釈と共にジャスミンは胸元のポケットから、半分だけプラスチック製のカードを覗かせた。それを一瞥した三人も同じように、胸元のポケットや上着の内ポケットなどからカードを僅かに覗かせ、そして小さく敬礼をし合う。
 皆、国軍人だ。制服を着用していない二人は、隠密任務を請け負った身なのだろう。
「お待ちどう」と声がして、奥の扉から人影が現れた。本屋か雑貨屋でも営んでいそうな小柄な初老の男で、両手にダンボールの箱を抱えている。それをカウンターの上にどっかと音を立てて置いた。先客の三名はその場を動かず、店主の様子を横目で見ている。
「ええと、最初にお待ちの方」
 と、店主は先客の一人をカウンターに呼んだ。事務員姿の男が「私かな」とカウンターの前に歩み寄る。頷いた店主が箱から取り出したのは、小ぶりな辞書程のサイズの箱。受け取った男は箱の蓋をマッチ箱のようにスライドさせた。中にはぎっしりと弾丸が詰め込まれている。指先で軽く弾いて数を確認してから、事務員姿の男はスーツの懐から一丁の銃を取り出した。軍の制式セミ・オートマチックの拳銃だ。ベーシックタイプのグリップ部分にカスタムが加えられている。
(見かけと違って、銃のカスタムは個性的なのね)
 変装の為、七三に分けられた髪型と地味なスーツと眼鏡のいでたちが、銃のカスタム具体と奇妙なギャップとなっていて、少し可笑しかった。男は弾丸を弾倉に詰め、残りを内ポケットに。そして最後に安全装置を留めた拳銃を反対側の内ポケットに仕舞いこんだ。
「武運を祈るよ」
 空箱を捻り潰しながら店主が口端で笑うと、事務員の男は片手を上げて踵を返し、無言で店を去っていった。
「………」
 地上へと昇っていく足音が遠ざかるのを、ジャスミンは階段方向を見つめて見送る。こんなアカデミックタウンにも、武器・弾薬の補充にやってくる軍人が絶えないのかと、少しの驚きと共に思う。同じように、二人目も呼ばれてカウンターに赴く。制服の男だ。こちらは弾薬の補充のほか、カスタム部品も受け取りその場で工具をいじっている。
 こうした場所は「サプライヤー」と呼ばれており、アリタス各所、国軍地方執政局の管轄内であれば、ほぼ全ての街に設けられている。各地域で任務にあたる国軍人が武器や弾薬、装備品の補充ができるのだ。
「お次、どうぞ」
「あ……はい」
 気がつくと、先客ニ名の姿は無かった。カウンターの隅で、制服の男が黙々と武器のメンテナンスを続けている。ジャスミンは懐からカードを取り出しカウンターに置いた。カードには、ジャスミンの顔写真、そして国軍人である事の証明文と、偽名が書かれている。
 当然、かつて自分が持っていた本物のカードを元に作った、偽造品だ。
「これをお願いします」
 カードと共に、メモも一枚カウンターに乗せる。主人はカウンターの向こう側に置いてある書類と、ジャスミンによる提示物を照合し「はいよ、確かに」と応えて奥の部屋へと消えていった。
 国軍人がサプライヤーで備品を補充する場合、国軍人身分証明書と「ライセンス」と呼ばれる許可が必要となる。ライセンス発行の手順には二通りあり、事前に国軍がライセンスを発行しサプライヤーへ連絡する方法と、備品が必要となる者が直接サプライヤーにライセンスを発行してもらい即時に供給を受ける場合。緊急事態の場合、後者の手段をとる場合が多いが、後日サプライヤーから直接「管理局」へ請求連絡が行くため、ジャスミンのような場合は前者の手を使う方が安全なのだ。
「ほい、お待たせよ」
 と、奥の扉から再び店主が現れる。両手に小ぶりの箱を持っていた。これは、ジャスミンが予めシュトル局勤務のラファルを通じてライセンスを発行してもらったもので、この場合は「管理局」を直に通さないために「安全」だ。よほどの事態でも無い限り、厳密に調査される事はない。
「持つべきものは国軍のコネ」と、裏界隈では言われているようだが、まさにそうだとジャスミンは実感する。
「しかしまあ、最近増えてきたな」
「?」
 受け取った弾薬を武器に装填するジャスミンに、店主が言葉を向けてくる。
「あんたみたいな、若いお姉ちゃんが単独任務を任される事がさ」
「確かに、そうかもね」
 ジャスミンが現役だった時分から、単独潜入や捜査を任される機会は多く、女性戦闘員の数も増えている。怪しまれにくいという点で、女性捜査官の方が重宝されるケースも多いのだ。
「どんな任務なんだい?」
「オトリ捜査ってとこかしら」
「危険な任務だな…ぐれぐれも気をつけておくれいよ」
 淡々と武器の調整を行うジャスミンの姿に、店主は太い眉をハの字に下げた。
「キレイな顔のお姉ちゃんや、あんたみたいな華奢な体のお姉ちゃんに風穴が空くとこなんざ、想像したくないからね」
「細いから、弾にも当たりにくいのよ」
 表情を変えぬまま冗談で応え、ジャスミンは武器の整備を終えた。最後に「ありがとう」と肩越しに微笑み、振り返る。店主が名残押しそうに見送っていた。黙々と武器を調整していた制服の男も顔をあげ、敬礼を向けてくる。それに同じように敬礼で応えて、ジャスミンは階段を駆け上がった。
 出口付近で、新たな制服の男とすれ違う。お互いに無言で敬礼を交わして、男は地下へ、ジャスミンは地上へと駆け出した。
 この「阿吽」のやりとりが、なんだか懐かしい。お互いに素性を知らなくとも、もう二度と見ない顔になるであろうとも、一本の糸で繋がっているような連帯感、そして親近感が根に生まれてくるものだった。
「ふう…」
 雑念を振り払うために、ジャスミンは一度立ち止まって息を吐いた。
「さて」と独り言を漏らして前を向き直る。
「あの子たちは…上手くやっているかしら」
 そして、別の場所で行動を起こしているであろう二人の少女達を、思いやった。


 この一時間程前。
 ジャスミンがサプライヤーに出向く事になった原因は、医務官の尋問後、ライフェルの死に、その友人であるローランドが疑問を抱いたのが始まりだ。

 友人ライフェルの自殺に納得がいかないと、ジャスミンの静止を振り切りローランドが踵を返した。
「待ちなさい!」とジャスミンが咄嗟に彼の腕を取る。
 そして……―
「寮棟の、あいつの部屋に行きます」
 そう言ったローランドは、腕を振り解こうと体を引いた。だが細腕の見かけに拠らないジャスミンの握力に、腕を払う事が出来ない。
「部屋?」
 あからさまに眉根を顰めたジャスミンにひるむ事なく、ローランドは主張を続ける。
「あいつが落ちた窓は、あいつの部屋だったんです。自殺、他殺いずれにしろ、何かしらの手がかりがあるはずですから」
 言い終わるや否や、一瞬ゆるんだジャスミンの手を振り解こうと試みる。
「これだから学者肌の人って……っ」
 苛立たしげな小さい舌打ちと共に、ジャスミンは空いた片手を振り上げた。
 乾いた音が高らかに響き、「あちゃあ」「いたた…」と目を瞑って肩を竦める少女達の呟きが尾を引く。クラースも丸眼鏡の向こうで両目を細めていた。
 軽く叩いたつもりが、ローランドの体が少なくとも二メートルほど飛んでいた。
「だ、だ、いじょうぶですか、君」
 慌ててクラースが駆け寄る。
「はっ……ご、ごめんなさい、つい」
 赤くなった手の平の痛みで我に返ったジャスミンも、ローランドの傍らに膝をつく。それ以上に赤く色づき、腫れかかっている頬を押さえ、ローランドはクラースの手を借りてやっと起き上がった。
「…………」
 頬を手の平に包んだまま俯く年下の学生の様子に、さすがに心配になってジャスミンが顔を覗きこむ。
「俺……将来は科学捜査官を目指しているんです」
 ぽつりと、ローランドが呟く。口の中が切れたのか、舌が回りきっていなかった。
 科学捜査官は、理学や医学等を学んだ学生が志望する業職の一つだ。警察局に敷かれた部の一つで、科学的立証の元に案件捜査を行う。鑑識の仕事のみならず、その知識は幅広い現場で要求され、要所で重要な役割を担う。
「ライフェルの死は、不可解です。矛盾しています。納得できる結果ではない」
「あなたが納得するか、しないか。そういう話ではないわ」
 あえて冷たく言い放つジャスミンへ、「でも!」とローランドは喰らいつく。再び殴られるのでは、という恐怖は持ち合わせていないようだ。
「あなたも警察局に所属していた経験がおありなら、俺の気持ちが分かるはずです!違いますか?」
「………」
 肯定とも否定ともとれる無言が挟まる。
(気持ち……?)
 エルリオはジャスミンの横顔を見つめる。警察局にいたからこそ分かる、ローランドの気持ち。それがどういう物なのか、具体的に知りたいと思った。頭の中で様々を示唆しているうちに、ジャスミンが小さく首を横に振る。
「それで、納得しないあなたは何をするつもり?」
「何って…、あいつが死ななければならなかった理由を突き止めます」
「つきとめてどうするの。それに、その前にあなたが死ぬことになるかもしれない」
「な……」
 厳しいジャスミンの言葉に、ローランドは言葉を失くし、エルリオは目を丸くした。クラースとミリアムは、実感が沸かないようで子供のようにぽかんとしている。
「遺体はロクに検分される事なく片付けられ、事故か自殺という診断書が作られる。そしてもし、あなたの死因に疑問を抱いた家族か友人がいたとすれば……似たような運命をたどることになるのでしょうね」
「それはもしや…?」
 ローランドは、それが暗にライフェルと自分の事を示していると気が付く。
「敵は一人ではないのは明らか。しかも司法手続きを操作できる様子。一介の学生であるあなたなど片付けるに容易い存在よ。科学捜査官志望なら想像つくでしょう?」
「………」
 よく理解しているだけに言い返す言葉を失ったローランドは、座り込んだ地面を見つめて俯く。
「お友達には本当に気の毒だけど……あなたの将来の夢と家族や友人を危険に晒したくないのなら」
「あきらめなさい」と静かに忠告し、ジャスミンは立ち上がる。ローランドは項垂れたまま、動かなかった。
 それをきっかけに、会話が切断されて沈黙が漂う。貯水池にかかる枝垂れ樹の狭間から漏れ出す鳥の声だけが、軽快なリズムを響かせていた。
 沈黙が空気を支配する中で、
「でも私、この人の気持ち、わかる気がする」
 エルリオは思案を声に出していた。
 面々がエルリオを振り向き、最後に顔を上げたローランドと視が合う。ジャスミンの忠告を受けて失望する彼の姿が、いつかのエルリオ自身と重なる。熱風を浴びながら燃え盛るアパートメントを見上げていた時が、それだ。父親の遺体が、崩壊していく建物と共に焼け落ちていく様を見ているしかできない。手を伸ばそうとも届かない、見えない運命の壁を前にした時の焦燥と絶望感。だけれど、どうしても諦め切る事のできない足掻きが怒りとなって体の芯から湧き上がってくる時の、苛立ちと熱。
「知りたいのに、知る事ができないって、すごく辛い」
 想いが的確な言葉とならない歯がゆさが、エルリオの首筋にちくりと刺さる。
「原因を知って、それからどうするかなんて、知ってみないと分からないよ」
「………」
 ジャスミンは、じっとエルリオの言葉を聞いている。黒曜の瞳をまっすぐエルリオに向けて、
「事実はいつも、真っ直ぐとは限らないの」
 そう低く、静かに言葉を向けた。
「どういう、こと…?」
 首を捻るエルリオの隣で、ミリアムも柔らかい前髪の下で眉を顰めさせる。そんな少女二人と変わらない不安げな面持ちで、ローランドもジャスミンを見つめていた。
「さっき、彼が言ったわね。「警察局にいたなら、自分の気持ちが分かるはずだ」って」
 エルリオは強く首を縦に振った。
「どういう事か、教えてあげるわ」とジャスミンは、少し伏せ目がちな視線を上げた。
「警察局は「法の防人」と呼ばれている。国が定めた法に沿った「正義」を立証させるために、存在するの」
 法を元に「正」か「悪」かを立証させるために動く二種類の人間が、警察局内には存在する。一つは「捜査官」。科学調査、鑑識、時に強行手段として武力行使等、あらゆる捜査手段を駆使して「事実」を追究する人々。
「私はこの、「捜査官」側の人間だった。主な役割は武力行使の部分だけれどね」
 そこでジャスミンの視線は、ローランドを一瞥した。ローランドがジャスミンに訴えようとしていたのは、「事実追究」を行う側にいた彼女のプロ意識。それを問おうとしていたのだ。
「そしてもう一種類の人間。捜査官からもたらされる情報を元に、誤り、不正の有無を追究するいわゆる「検察官」と呼ばれる人々がいる」
 ローランドに向けられたジャスミンの瞳に、厳しい光が宿る。
「ここで常に必ず、パラドックスが生じるの」
「パラドックス?」とジャスミンの言葉を繰り返したのは、ミリアム。
「矛盾、という事ですよ」
 そう補足したのはクラースだ。それに頷き返してジャスミンは言葉を継ぐ。
「私達が突き止めた「事実」がもたらす結果は、必ずしも「法」が定める是非に則すとは限らない。これがどういう事か、分かる?」
「法律は、よく分からないや……」
 少し迷ってから、エルリオは首を傾げた。押印師として法をかいくぐるための知識は身につけてきたつもりが、国の法曹構造自体はさほど詳しくなかった。
「この国にとって何が正しいか、悪いのか、決めるのは「事実」そのものじゃない。法律なの。法律はこの国を護るための防具。私達が突き詰めた事実がこの国にとって都合の悪いものである場合、それは法の防人達によって潰される」
 この国にとって法律とはそういう物だ。ジャスミンの言葉に、三歩離れた場所に立つクラースは否定を示さなかった。
「……そんな、納得いかない事ばかりで良いのですか?」
 そう疑問を口にしたのは、ローランドだった。徐々に、ジャスミンの謂わんとしている事が分かってき始めているようだ。エルリオは肩越しに彼を一瞥して、またジャスミンに向き直る。
「私は、仕事の為に命をかけてきたわ。隠すために、暴く。非とする為に是を求める。だから、パラドックスなの。科学捜査官を目指すなら、心得ておいた方がいいかもしれない」
 当然の事ながら警察局の人間は、全て国軍人で構成されている。国軍人とは、国を護るために命を捧げ、その見返りに自身及び家族の生活と、地位が保障される人種だ。納得するもしないも、彼らの全ての行動はこの国の為にある。そう、自らに植え付けているのだ。
「脱線したけど…「事実」の追究は「事実」にたどり着くとは限らない、それに、そこに辿り付くまでに多く物を失う可能性もあるって事を言いたかったの。そして例え、真実にたどり着いたとしても、それが昇華される確証は保証できない」
 特に今回のように、組織がかった影の存在が感じられる場合は。
 ジャスミンはそう付け加えて、唇を閉じる。彼女の背中には、子供である自分達では計り知ることのできない過去の影が聳えている、エルリオにはそう感じられた。
「私は、それでも……それでもやっぱり知りたいって思う」
 重量を増していく空気を押し上げるように、エルリオは両手を強く握り締めた。失う物はもう、何も無いのだから。唯一の家族である父親は死んで、ACCの家も捨てて来た。何も恐れることはない。
 だが、ローランドは違う。
「………」
 ジャスミンの言葉を受けたローランドは、静かだった。友人ライフェルの死に加え、目指していた科学捜査官の「現実」を突きつけられたのだ。軽度の自失状態になっているのだろう。
(やっぱり、似てる…あの時の私と)
 座り込んだままの彼を見て、エルリオは額に刹那の熱を感じた。熱風と共に飛んできた火の粉が、額や頬にぶつかっていった夜を思い出す。
「私達で、何か探れないかな」
 エルリオの口から出たのは、そんな思いつきだった。思いつきというよりは、素直に口から出た本心だ。
「え…?」
 目を丸くして、ローランドが顔を上げた。ジャスミンは存外、冷静にエルリオの言葉を聞いていた。ミリアムも、じっと表情を変えずに様子を見つめている。この顔をしている時のミリアムは、内面でリューシェと何かを語り合っている。
「ごめん、そうは言ったけど、ローランドさんのためだけじゃないんだ。実はどうしても気になる事があって…それをほうっておくのは気持ち悪かったから」
「いいんです。俺もですから」
 エルリオの言葉を継いで、ローランドの声。声調が戻っている。殴られた頬から手を離して立ち上がり、自分の胸元に手を当てた。
「ライフェルが死んだ理由には勿論、納得がいきません。ですが「死に方」はそれ以上におかしい。皆さんも見たはずです、あいつ…体の内側から…砕け散ったようにしか見えなかった……」
 思い出す事が辛く、ローランドの語尾は消えうせそうに萎む。
「私も、見た。あんなの、普通はありえないよね?」
 隣でエルリオも、声を張る。その側から、
「あの…私も見ました……」
「私も……です」
 と遠慮がちにミリアムとクラースも続く。
「でも、「押印」の世界ではありえる話なんだよ」
 そう続けるエルリオに、皆が一斉に振り返った。
「精霊の暴走にはいろいろ形があるけど…、「爆発」する場合もあるんだ。押印した箇所が、印ごと破裂して体を傷つけちゃう。実際に見たことないけど事例はある。お父さんの資料で、見た」
 捜査セオリーの一つ、「ありえない出来事の裏に精霊印の存在をまず疑え」は正しかったようだ。
「だから……今回の件も気になるの…」
「………」
 エルリオを含む、縋るような四つの視に見つめられ、ジャスミンは長く深い溜息をついた。二呼吸分の沈黙の後、
「……だから見るな、って言ったのよ…」
 低く呟いて、ジャスミンは長いポニーテールをおざなりに手の甲で跳ね上げた。黒く艶やかな尻尾が、生き物のように揺れる。
「何か、知ってるの?ジャスミンさん」
 とエルリオが問う。ジャスミンは確かに「見ちゃダメ」と皆に向かって叫び、ローランドをライフェルの体から引き剥がした。彼女はあらかじめ、ああなる事を知っていたのだ。
 ジャスミンの黒い瞳が、エルリオの茶色い瞳を見やった。薄い唇を結んで真っ直ぐに真理を問い詰めてくるこの時のエルリオを、ジャスミンは「幼い少女」とは認識していない。軍役時代の無能な上官より、よほど頭が良く、時にあどけないだけに油断ならない存在だ。
「久々に」
 ポニーテールの揺れが止まる頃、ジャスミンは改めてエルリオと、そしてミリアムへ順番に視を向けた。
「命をかけてみようかしら」
 言いながらジャスミンは胸元からカードを取り出し、表面を一瞥してまた仕舞い込んだ。
 こういう気持ちにさせられた人間は、ヴィル以来だ。血の気が多い自分は、やはりこういうのが向いている。ジャスミンは口の中で小さく笑った。
「い、命を?」
 勢いに任せてみたものの、エルリオはジャスミンの言葉に目を丸くする。
 命をかける。
 それを口にした時、常は平静な彼女の黒曜の瞳の奥で、紅が灯ったように見えた。





ACT12-5⇒
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押印師ACT12-5
05

「いましたいました!」
 ジャスミンがサプライヤーに出向いていたその頃、その二人の少女は物陰に隠れながら一人の男を捜していた。
 目的の人物を先に発見したミリアムは、別の方向を探していたエルリオを手招きした。ミリアムが指差す先には、ライフェルの「自殺」について尋問を行った医務官の姿が。大学校付属の病棟ロビーだ。
「心の準備はオッケー?」
「大丈夫です!」
 門の裏側に身を潜めていた二人の少女は顔を見合わせて、気合を入れる。エルリオの背負う鞄の隙間からは、キューの白い耳が垂れていた。
「いきなりブスリと殺られないようにね」
 鞄の中からくぐもった声。
「縁起の悪い事言わないで下さいぃ」
 ミリアムが身を縮める。
「多分、平気だよ。あれだけ人が大勢いれば」とエルリオ。
 鞄から垂れる白い耳を一瞥してから、エルリオは前方を指差した。病棟の入り口は広いロビーとなっており、一般外来用の受付もある。ロビーでは、医療事務員、看護官や医務官の他、一般人も多くいた。
「行こう」とエルリオが先に駆け出す。ミリアムも後に続いた。二人が大きなガラス戸からロビーに入ったところで、医務官の方が二人に気がついた。
「………!」
「医務官さまー」
 そう声をかけながら駆け寄ってくる二人の少女が、ライフェル・ルストの「飛び降り自殺」について尋問を行った相手であると知り、眼鏡の奥で目を細めた。
(医務官次長、スターン・ヴェイニス…か)
エルリオは医務官の名札に記された名を内心で呟き、記憶する。
「あのね、あのね、私たち、見ちゃったんですぅ」
「そう、見てしまったのです!」
 わざと興奮気味に声の音量を上げて、エルリオとミリアムは医務官に詰め寄る。周囲の幾つかの目が、不思議そうに振り返るのが感じられた。それが、狙いなのだ。
「み、見たって何をだね」
 周囲を気にする医務官の様子がよく分かる。しめたとばかりにエルリオは更に続けた。
「さっきの学生さんの事なんですけど、体の真ん中がぁ…―」
「黙りなさい」
 厳しいヴェイニス医務官の声が、短くエルリオの言葉を遮った。逆効果であったようで、特に一般外来客達が目を丸くしてヴェイニスと二人の少女達を眺めている。
「………向こうで話そう。ここでは不謹慎だ」
 舌打ちを隠し、ヴェイニスはロビーの外を指差した。
「うん、いいですよ」
 頷いて同時にエルリオはロビーの外に向けて走り出す。ミリアムも続いた。
「―っ…おい」
 また舌打ちを残し、ヴェイニスも二人の後を追う。建物を出て、エルリオは左手、駐車場の方へと走る。右に誘導されては、完全に人気の無い場所となるため危険だと判断したからだ。
 一般外来客の、人影がまばらな駐車場の隅で足を止めたエルリオとミリアム、周囲に目を配らせてヴェイニスも遅れてたどり着く。
『特に同業者達に聞かれる事を避けたがると思うの』
 と前もってジャスミンから聞いていた通り、他の医務官や医療事務員の姿が無いと確認したヴェイニスは、他の場所への誘導を諦めたようだ。
「で、聞かせてもらおうか。何を見たのだね」
 周囲に気を向けつつ、きもち小声で尋ねてくる。
「自殺した学生さんがね」
 わざと、エルリオは一息の間を空ける。考えて言葉を選ぶ振りをするのだ。
 そして僅かに相手が苛立ちを覚えたところで、
「体が爆発したみたいに、見えたんです」
 と、単純明快な回答を向ける。
「………」
 ヴェイニス医務官からの顕著な反応は無かったが、冷たい光を放つ眼鏡の向こうで目尻が動いた。
(……もう一息、かな…?)
 エルリオは、彼の様子を上目で眺める。
「「姉」が、どうにも不思議だから、さっきの医務官さんに相談したほうがいいのか、それとも警察局に行った方がいいのか、どうしようかしらって」
「な……」
 ヴェイニス医務官の言葉が不自然に揺れた。驚きの直後に吐かれた吐息には、安堵が見え隠れしている。
 掛かった。
 そう確信し、エルリオは横にいるミリアムに目配せした。
「でも、こんなに早く医務官様が見つかってよかったです」
 と、申し合わせていた通り、ミリアムが口元で手を合わせてエルリオに頷き返してくる。それを受けてエルリオも示し合わせていた台詞を口にする。ヴェイニス医務官の眼鏡の奥にある瞳を見やりながら。
「医務官様が見つからなかったら、警察局に行かなきゃいけないかなって思ってたんです。でも私達でちゃんと説明できるか分からないですし、変な疑いをかけられてもいやだなって」
 エルリオとミリアムは、困った顔を作ってお互いに顔を見合わせる。
「そ、そうか……よく、報告しに来てくれた」
 僅かながら、動揺が完全に収まりきれないヴェイニスの声が頭上に降ってくる。やはりこの医務官は、ライフェル・ルストの「死に方」が他の耳に入る事を避けたがっている。鑑識官が到着する前に現場を片付けたのも、頷けた。
「どうしたらいいですか?医務官様」
 背中を押すつもりで、再度エルリオは医務官に問いかける。
「………そうだな」
 幾分ばかりか冷静さを取り戻したヴェイニス医務官は、一度エルリオから視線を外して周囲に気を向ける。きっと心の奥で、どう自分たちを処理しようか考えているに違いない。エルリオは医務官の冷たい眼鏡硝子の奥を見つめ続けた。
「詳しく話しを聞こう。君たちが見たものについて」
「私達、怖くてすぐに目を瞑ってしまったので、はっきり見てないんです」
「でも「姉」は、はっきり見たと言っていました。そのせいですっかり怖がってしまって…だから私達が代わりに医務官様に相談にきたんですぅ」
 あらかじめ用意していた台詞を、二人は畳み掛ける。シナリオの結論にたどり着くまで、相手に長く考える時間を与えない。それがポイントだ。
「では、君たちのお姉さんに話をうかがいたい」
「それがね、医務官さまぁ」
 ヴェイニス医務官が次を言う前に、エルリオが「問題」を被せに行く。眉を八の字に下げて、いかにも困った顔をして。
「姉は、かなりショックだったみたいでぇ、帰ってからずっと塞ぎ込んじゃって。外に出たくないって」
「………」
 思案するために、ヴェイニス医務官がエルリオから目線を僅かに逸らせた。
考えさせる時間を与えてはダメ。
 ジャスミンの指示とおり、次のカードを今度はミリアムが出す。
「なのに、田舎のパパやママには、心配かけるから連絡するなって言うんです……」
「田舎?」
 逆方向を向いていた冷たい眼鏡が、ミリアムを向いた。その視線を離さぬよう、ミリアムは大きく頷く。
「私達、期限講習生なのです」
 レクティカ大学校では、学徒の門を外に開く名目で、期間限定の講習を随時開催している。大規模な夏期講習や冬期講習の他、大小さまざまな講座を開講しており、学生の他多くの一般市民がレクティカ内外から参加している。「期限講習生」とは、そうした講習を受講する人々を指す。長いもので一ヶ月ほどの講習もあり、わざわざホテルや短期アパートメントを借りて通ってくる人も少なくない。
「学生だと偽れば、身元を調べられてすぐにバレてしまいますが、期限講習生なら講習によっては登録が必要としない完全オープンなものもありますので、調べようがありませんから」
 という、これはクラースからの提案だった。どうやらまかり通ったらしい。
「そうか……」
 エルリオの言葉を聞いて、ヴェイニス医務官は一つの決断を下したようだ。
「では、私から覗おう。重要な証言となり得る。ぜひ話を聞きたい」
「本当ですか?」
 顔をほころばせてミリアムは顔の前で手を叩いた。
「じゃあ、今すぐ来てくださいますか??」
 これも、カードの一つ。ジャスミンの予測では、「すぐに行く、とは言わないはず」だ。その通り、「む」と言葉を切ったヴェイニス医務官はまた、ちらりと視線を外して思案を廻らせる。
「彼は必ず、思案と仲間を集める時間を欲するはず」
 そういったジャスミンの推測通りとなる。
「今は勤務中なのでね。明日はどうだろうか」
「わかりましたぁ!では明日、また同じ時間にここへ来ますね!」
 早口にそう言い終えて、エルリオとミリアムはその場から踵を返した。
「あ、君達、滞在場所は…!」
 背後から呼び止める声を無視して、敷地外へと走る。
「教えるわけないじゃない」
「そうですよねー」
 走りながらエルリオとミリアムは、小声で笑いあった。
「どう、追ってくる?」
 とエルリオが問うと、背中に背負った鞄の中から「こないよ」と返答。
「それより何だあの舌ったらずなしゃべり方。気持ち悪い」
 背中からのクレームに「いいじゃない!」と言い返し、エルリオはわざと背負ったリュックを上下に揺らした。
「頭がわるそーにしゃべって、相手を油断させるためなの!」
 ともあれ、用意したカードがすべて機能している。これでこちらも時間が稼げた。二人は次の目的地に向けて、白い建造物の合間を縫って駆け抜けた。

 たどり着いたのは、ライフェル死亡現場でもある学生寮。血痕は完全に砂で均されて跡形もなくなっており、午前の講義から戻ってきた学生たちの姿も疎らに見えている。つい先刻、人一人がここで衝撃的な死を遂げたとは、誰も気がついていない様子だ。
 エルリオとミリアムは、その建物の影に隠れていた。エルリオはキューを鞄から取り出し膝にのせる。そして左手のひらを開いてそこに、手早く印を描いた。その手をキューの背中、ちょうど裏側に印が縫い付けられている箇所に当てた。
「血痕を片付けてた人の服装…覚えてる?」
「作業服だね」
 エルリオの質問を受けたキューの耳が、鳥のように数度羽ばたいた。手のひらと布の接点が青白く淡光を放ち、そして一瞬で消え去る。「よし」と呟いて次にエルリオは、手のひらの印を別のものに書き換える。
「青い作業服…青い作業服」
 口の中で繰り返し、瞳を閉じる。体中の神経を手のひらに集中させると、描かれた印が発光した。また青白い光が生まれ、繭糸のようにエルリオの全身を一瞬包み込む。
「!」
 眩さにミリアムが瞳を閉じ、開いた瞬間にはエルリオの姿が青い作業服の男に変わっていた。ほう、っと、ミリアムの口から羨望の溜息が漏れる。
「拝見するのは二度目ですが、やっぱりすごいですね!」
「ふふ、マカセテ☆」
 青い作業服男姿のエルリオはV字サインを作ってニタリと笑う。
「だからそういう格好でそういう事するのは公衆衛生上良くないって…ムギュ」
 余計な事を口走るキューを紙袋に突っ込み、それを肩にかけてエルリオは「じゃあ、くれぐれも気をつけて待っててね」と寮の入り口に向かった。
「はい、リオさんも……気をつけて」
 ミリアムの声を背中で受けて、エルリオは寮の玄関へと入る。声をかけてきた管理人と言葉を交わし、自殺現場の調査を行う旨を伝える。鍵を受け取ると管理人と別れ、階上へと上がった。ライフェルの部屋には鍵がかけられているが、特に立ち入り禁止テープが貼ってある等の異変はない。鍵を開けて、中に入る。
「二人部屋かあ」
 部屋に入ってまず目についたのが、左右両側の壁に据え付けられたベッド、そして机とドレッサーだ。その両側とも生活の跡が見られた事から、ライフェル・ルストには同居人がいたという事になる。
(同居人が戻る前に一通り調べないと……)
 捜査官志望のライフェルとジャスミンのアドバイスに従い、まず机の引き出しに手をかけた。遺書か、それに値する書き残しが無いかを確かめるためだ。そういうモノを意識的に遺すとすれば、机周辺か、枕元周辺と相場が決まっているらしい。
「几帳面な人だったんだなあ」
 自分の机周辺とはまったく違う、よく片付けられた机上と引き出しの中を見て、エルリオは感心する。外で見張っているミリアムがかつて言った通り、ACCの自室は書物やメモで足の踏み場も無かったほど、散々な有様だったから。
「おかげで探しやすいや」
 目に付いた手帳やノートなどを片っ端から捲って中身を確認していく。紙や封筒が挟まれているという事はなく、理学科の学生だけあってノートの中身も数式や科学記号等ばかりで、変わったところは無いようだ。
「無いみたい……」
 遺書は無いと判断し、次にこれもアドバイス通りに今度は窓を観察した。
「……?」
 カーテンレールが二重になっているが、片方にしかカーテンが取り付けられていない。
(あまり気にする事ないか)
 少し不自然に思ったものの、学生寮ならこんなものかと納得して窓枠を見る。
「爪跡等、争った形跡が無いかどうか」というローランドのアドバイスを思い出しながら、窓を開けて木枠に触れた。
「これ、そうなのかな……」
 窓枠に幾つかの傷が見られたが、争った痕跡なのか、単に老朽化してできた傷なのか、エルリオの審眼ではまったくわからない。紙袋から顔を半分出したキューに、傷の形状と場所を正確に覚えてもらう。後でジャスミンとローランドに確認してもらう為だ。
「あとは、ベッドかな?」
 窓から、最後の探索場所となるベッドへと振り向いたところで、
(誰か……来る?)
 廊下の奥から人の気配が近づいてくるのを感じた。






ACT12-6⇒
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押印師 ACT12-6
06

 一人でいる時。
 特に、何もする事がなく、ただひたすら待っているだけの時。
 誰かの無事を祈る事しかできない時。
 こんな時は、頭の中にもう一人誰かが居るのも、悪くないのかもしれない。
 寮へと姿を消したエルリオを待っている間、ミリアムはそんな事を考えた。
「リューシェ?」
 いつもは勝手に現れては強引に人格を入れ替えられるが、今日はミリアムの方から内面へと問いかけてみる。だが、返事は無い。
「ジャスミンさん、どうするつもりなんでしょうね?」
 反応は無いが、かまわずにミリアムは内側への問いかけを続けた。
「ねえ、貴方も、感じた……でしょう?」
 スカートが汚れる事を厭わず、ミリアムはぺたんと地面に座って膝を抱えた。
『何を?』
「ふふ」
 内面から応えが返り、ついミリアムは笑みを零す。何故だか、嬉しかったのだ。だが、その笑みも波が引くように消えうせる。
「ライフェルさんが…その、亡くなった時……」
 折りたたんだ膝小僧に額をつけ、ミリアムは背を丸めて目を閉じる。心の中にライフェルが死んだ瞬間の記憶を浮かべて、小さな唇をきゅっと噛んだ。
「弾けた…あの瞬間に、頭の中に飛び込んできたの」
 ジャスミンが何かを叫び、彼の体が無残に弾け散った瞬間、焼き付けられるように鮮明な残像が一瞬、ほんの刹那、ミリアムの脳裏へ飛び込んできた。
 それは、太陽。亡くなる直前に彼が資料室で読んでいた本にも載っていた、あの「ヴェロニカの記憶」という名の紋章だ。砂の町、シュトル・セントラルの暴走者からも感じ取ることのできた、残像。
「ライフェルさんの体が爆発した原因、リオさんは「暴走」の可能性もあるのではないかと仰ってましたけど…私は別の原因があるのではと思うのです。そしてきっと、ジャスミンさんも」
 ジャスミンの心の中、太陽の紋章の下に隠されていた数々の血塗られた記憶。
 炎、銃声、怒号、死、叫び、熱、憎しみ、嘆き…―あらゆる「負」があそこに存在していた。ミリアムが見たものは断片的でしかなかったが、紋章に隠された記憶は根を生やし、凄まじいエネルギーと共にジャスミンの深奥で渦巻いている。ジャスミンの心を読んだ時、ミリアム一人の力では、そのまま引きずり込まれて帰って来られなかったかもしれない。それほどに、凄まじい記憶の激流だった。
(今にも爆発してしまいそうな……記憶の塊……)
 エルリオのように、上手に物事を言葉にする事ができない自分が歯痒い。ミリアムは少し強く唇を噛んだ。
(きっと、ライフェルさんも持っていたんだわ…この紋章を…)
 そしてあの瞬間、ライフェルの内面に封じられていたエネルギーの渦が、太陽の紋章を破って爆発した。理屈も仕組みも説明できないが、ミリアムにはそう感じられた。
(でも、心の中の記憶が体を傷つける。そんな事があるのかしら……確かに押印の暴走、の方が納得しやすいけど……)
「……という事は……まさか……?」
 恐ろしい考えに行き着いて、ミリアムは思わず独語を口外に洩らした。脳裏で思案が具体的になるにつれて、血の気が引くのを感じる。
「まさか、ジャスミンさんも、ああなってしまうかもしれないって事なの…?」
 己の体を両手でかき抱いて、もう一人の自分に問いかける。もし本当にミリアムの考えが当たっているのなら、ジャスミンはその事実を知っているはずだ。知っていて、ライフェルの死因を暴く手伝いをしようとしている。
『どうなのかしら』
 やっと、リューシェが答えてくれた。
 確かに一度ジャスミンは、事実の追究を否定していた。ローランド達の身の安全を理由にしていたが、彼女自身が決断に迷っていたようにも思える。そうでなければ、一度は否定したエルリオやローランドの言葉を、簡単に承諾してしまうはずがない。
「………」
 そこでミリアムは思考を止めて頭を振った。
 何が理由であれ、ジャスミンの目的が何であれ、ミリアムがそれを止める理由は無い。
「……あの記憶の中にはグレンがいたの……」
 熱と死が渦巻くジャスミンの記憶の中で、確かにミリアムは三年間焦がれ続けた声を聞いた。そして彼は、太陽の紋章の鍵を身につけていた。その事から太陽の紋章が、「ヴェロニカ」という言葉がグレンに繋がる微かな糸口である事は紛れも無く、それがどんな遠回りでも、ゼロではないのだから。
「そう、ですよね?あの声は、間違いないですよね…?」
 心の中に問いかけるか、リューシェから応えは無かった。
「もう、何で黙ってしまうのですか!」
「いつもはおしゃべりなくせに」とミリアムは小さな拳を握り締めて抗議するが、それきり内面からの声は聞こえなくなった。


 足音は更に近づいて来る。
「…………」
 慌ててはいけない。自分にそう言い聞かせ、エルリオは息を潜めた。
 足音はエルリオから向かって左側奥から近づいている。右が外へと続く階段。つまり、今近づいて来る足音は外から来た人間ではないという事だ。ここで生活している学生が通り過ぎていくだけかもしれない。
(通り過ぎろ、通り過ぎろ!)
 何度も内心で繰り返す。
 だがその願いは裏切られ、窓を背にしたエルリオの前で、部屋の扉が静かに開けられた。
「……あ」
 中にいた青い作業服姿の男-エルリオの事だが-を見て先に声を出したのは、部屋に入ってきた人物だった。ローランドやライフェルと同じ背格好の、一目で学生とわかる青年だ。この部屋の、もう一人の住人だろう。
「悪いね、邪魔してるよ。管理人には許可とってるから」
 動揺を完全に押さえ込んで、エルリオは少し面倒くさそうな声調を作ってそう言った。
「………そう、ですか」
 まだ多少の猜疑色が残った口調で、学生は低く答える。
(うーん、怪しまれてる……?)
 だがエルリオは表情を変えず、安全牌を出す。
「ヴェイニス医務官のツカいなんだ」
 その名を出したのはてきめんだったようで、学生の表情から若干だが猜疑心が解ける。
「じゃあ、ちょうど良かった。これ、ヴェイニスさんに持って行ってもらえませんか?」
 彼は自分のクローゼットを開けて、中から紙袋を取り出した。動揺を悟られないよう、エルリオはそれを受け取った。
「けっこう重いな」と呟く事でエルリオは暗に「これは何だ」と問う。
「ヴェイニスさんに頼まれていた、ライフェルの遺品です」
 袋の中身は、本やノートが数冊ずつ。この学生がライフェルの机や引き出しから持ち出した物のようだ。
(何でこの人が遺品を?)
 疑問と不審に思いながら、
「確かに。渡しておくよ」
 とエルリオは口調を崩さないように応えた。
「それから、カーテンですけど」
「!」
 学生の言葉に、袋の中を見ていたエルリオは思わず勢い良く顔を上げた。
「言われた通り、焼却炉に突っ込んできましたから。もう今頃、灰になってますよ」
「あ、ああ、わかった」
(カーテンに痕跡があったんだ…!)
 心の揺れを覚られないよう、エルリオは学生の様子を観察した。焦げ茶の頭髪に、白いワイシャツ、首からネクタイが少しだらしなく結われており、そんな所もまったく普通の学生だ。面持ちも悪事を働くような人相には決して見えず、大人しくて真面目そうなのに。
 そんな彼の左手首、白い包帯が巻かれているのに気がつく。
「痛むのか?それ」
 ボカした表現でエルリオは、その怪我らしき痕跡について尋ねる。
「え?あ、これ…そんなでもないんです」
 右手で包帯を撫でながら答える学生の目は、どこか虚ろだった。重たい疲労感に圧し掛かれているような、そんな気だるさだ。
「あいつ、往生際の悪い奴で」
(な…!)
 彼が、殺したのだろうか。その傷は、ライフェルと争った時につけられた抵抗の痕だという事なのか。この青年の体格を考えると、単独行動ではなかったのだろう。それこそ、共犯者はこの作業服の男だったのかもしれない。それとも、他の学生が?
「………」
 言葉を継ぐ事ができなくなったエルリオは、間を誤魔化すために渡された遺品の一つのノートをおざなりに捲り始めた。目は内容を映していても、頭に入ってこない。学生はその様子を眺めながら、苦々しく目を歪めていた。
「あいつが、余計な疑問を持たなければ、こんな面倒な事しなくても……」
 語尾の「済んだのに」が掠れた。
(え……?)
 異変に気がついて、エルリオはノートを捲る手を止めて前を見る。眉間に深い皺を作って面持ちを歪める学生の目から、大粒の涙が零れ落ちていた。
「………な、何で…」
 思わず、エルリオは問いを口にしていた。
(あんたが殺したんじゃないの?何で泣くの?)
 エルリオが混乱する以上に、学生の方も取りとめが無くなっているようで、
「な、え、いや、その」
 と意味を成さない言葉をいくつも漏らしながら、袖で乱暴に顔を拭いていた。
「これは…違うんです。あいつに同情してる、とかじゃなくて……」
「………」
 エルリオの沈黙を「問い詰め」と受け取ったか、学生は変に慌てていた。
「さすがに俺、初めてだったから……人が死ぬとこ見るの…だから…」
「仕方ない、さ」
 やっと、そんな応えを口にして、エルリオは手にしていた遺品を紙袋に戻した。
「じゃあ、僕、これから講義なのでこれで……」
 泣き顔を隠すように学生はエルリオから顔を背け、自分のベッド脇に置いてあった鞄を掴み、部屋から出て行ってしまった。
「………」
 乾いた足音が今度は右へと遠ざかっていき、階下へと降りていった。
「はあ………」
 緊張のために強張っていた肩を落としながら、エルリオは冷や汗を拭った。紙袋を持つ手が、今になって震え始める。嘘をつくのが上手くなったとはいえ、こんな場面は慣れるものではない。
「…早く戻ろう」
 もうこの部屋に用はない。二つの紙袋をしっかり抱え、エルリオは廊下に出た。廊下の向こうに、階段の踊り場から漏れてくる外光が見える。鍵を取り出そうとポケットに入れたと同時に、背中へ、何か硬いものが当たった。
(?)
 確認しようと首を動かす前に、
「それを渡してもらおうか」
 すぐ背後から、低い声がした。
(ちょっと嘘でしょー……)
 いつの間に現われたか、人間の気配が真後ろにある。だが首が動かせない。背中にあてがわれているのは、よく考えなくても武器だろう。しかも、銃。
「なんのことだ?」
 できるだけ平静に、エルリオは答えた。
「その紙袋だ」
「二つあるんだが」
「さっきの学生から受け取った方だ」
 少し挑戦的な言葉にも、男は冷静だった。そんな事より、いつの間に見られていたというのだろう。
「………」
 手元を確認する振りをして、エルリオは右手を左手の甲に重ねた。そして呟く。
「守檻」
「!?」
 凄まじい硬音と共に、エルリオの体の周囲に透明な防壁が現われ、背後の男を弾き飛ばした。
「くっ…!」
 向かいのドアへ背中からぶつかりかけるところで、男は巧みに受身を取った。鍵をまだかけていなかったのが幸いで、エルリオはライフェルの部屋に飛び込む。走りながら今度は右手の甲に別の印を描いた。防壁を張り巡らせたままエルリオは窓を突き破る。
「ひえっ」
 目の前に、寮の玄関と広場を一望できる景色が広がった。ここは六階なのだ。
「何だと!?」
 背後から追いすがる男の声が遠ざかる。中空に体を躍らせたエルリオは、右手に描いた印を発動させた。背に光が宿り、粒子が集まって羽を象る。重力に逆らった動きでエルリオの体が浮き上がり、叩きつけられる事なく緩慢とした速度で着地した。
「はあ…っ」
 急に息苦しくなり、エルリオはその場で足を止めて深い息を吐いた。変化の印を使っていた事に重なり、同時に守檻の印と飛翔の印を使った事で急激に疲労がピークに達しかけていた。
(変化が解けちゃう!)
 青い作業服の全身に、淡い白光が纏わりついている事に気がつく。印の効力が薄れている証拠だった。
「くっ…」
 急いで両手の印を消して負担を軽減しようとするが止まらず、作業服の男だったエルリオの姿は、元の少女に戻ってしまった。
(もう、誰なの!?)
 焦りと共に見上げると、窓から下を覗く男と目が合った。
 男は白いワイシャツに茶ジャケットとスラックスの組み合わせと紺ネクタイという、一見すると学校職員かという出で立ち。左手に銃を持ったまま、狙撃する事を忘れて驚愕の眼をエルリオに向けて立ち尽くしている。
(今のうちに!)
 二つの紙袋を胸に抱いて、エルリオは寮敷地外を目指して走り出した。
「っは…」
 男は我に返り、階下へ降りるべく廊下に向けて踵をかえしかけ、思いとどまって再び窓の方に向き直った。
「こっちの方が速いな」と呟きながら、男は懐から取り出した鈎付きワイヤーを、エルリオによって破れた窓枠に投げつけた。鈎が枠に絡みついたのを確認し、ワイヤーの端を手にして窓を飛び越える。
「げげっ!」
 軽い身のこなしで、ワイヤーと建造物の突出部分を利用しながら確実に階下へと降りてくる男の姿に、エルリオは行儀の悪い声を洩らした。
「スゴいけど反則でしょそれ!」
 あの男は特殊な訓練でも受けているのだろうか。驚いている暇はない。ガラスが割れた音に気がついて、玄関から人影が疎らに出てき始めた。二階の雨避けまで降りてきた男は、ワイヤーを手早く胸元に押し込み、地上に飛び降りた。
「!」
 深く膝を曲げて着地し、衝撃で舞い上がった砂の円陣の中心から一気にバネのようにエルリオに向かって走り出す。エルリオも再び走り出した。門を出たところで困惑顔のミリアムとぶつかりかけ、
「だ、大丈夫ですか!?」
「走って!」
 ミリアムの腕をとって、鋭角に右に曲がる。背後から迫る足音を耳にしながら、エルリオは咄嗟に左手に印を浮かび上がらせた。
「待…」
 追いつきかけた男の声を遮断するように、エルリオは押印を施した右手を振り払った。爆音と共に石畳の地面が瓦解し、破片となったブロックが浮き上がった。不自然な動きと共に瓦礫は三叉に分かれ、エルリオの手の動きに従って男に襲い掛かる。
「なっ!」
 スーツ姿の男は咄嗟に一撃目をかわし、後方に数歩退く。エルリオは間髪入れずに再び右手を振った。
「待て!話を……」
 という男の言葉を再び遮り、瓦礫が一斉に弾け散った。
「!」
 細かい砂嵐が辺りを覆い尽くし、男の視界を奪う。
「行こう、走って!」
 すかさずミリアムの腕をとってエルリオは逆方向へ走った。
「おい!」
 後を追おうと、遠ざかる足音を頼りに男も砂嵐の中を一歩踏み出すが、瓦礫となった地に足を取られる。
「ちっ……」
 追随を諦めた男は砂嵐を避けて逆方向へ踵を返す。今の騒ぎで寮の敷地内外から人が集まりつつあった。手にしていた銃を懐に仕舞い、衣服や頭にかかった砂を払いながら男は人気の無い場所へ身を隠す。
「あの娘は何なんだ」
 人目に触れて違和感の無い出で立ちに戻るべく、着衣の乱れを直し、髪を指で梳く。ざらりとした砂の感触が残るが、我慢するしかない。口内に入った砂を唾と共に吐き捨て、一つ深呼吸を挟む。
「さて…」と独語を呟きながら、男は両目を閉じた。右手の先を額に当てて、精神を統一させる。しばらく、男の静かな呼吸音だけがその場を支配した。
 野次馬の喧騒を遠くに聞きながら、男は徐に目を開く。
 そして再び、動き出した。




ACT12-7⇒
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押印師ACT12-7
07

 少女二人は、落ち合い先である貯水池の裏に到着した。ジャスミンはまだ帰っていないようで、人気の無いその場所では、相変わらず鳥の声しか聞こえない。
「はあ、はあ、あの……リオ……さ…」
 完全に息が上がったミリアムは、草の上に座り込んだ。
「あの……だん……いは……ど…様…で…」
「あの男性はどちら様ですか?だそうだよ」
 言葉にならないミリアムを、キューが代弁する。握っていたミリアムの手を離し、エルリオも一息ついた。
「わかんない。これを狙ってた」
 答えながらエルリオはその場にしゃがみ、片腕で抱きしめていた紙袋を地面に置いた。中身をおざなりに引っ張り出す。
「ノートや、本、ですか?」
 息を整えつつ、ミリアムは赤ちゃんがそうするように膝と手でエルリオの方に歩み寄る。
「うん、ライフェルさんの遺品なんだけど、実はこれ―」
「!!」
 エルリオの答えを聞き終えぬ内、ミリアムが顔色を変えて背後を振り返る。
「だ、誰か、来ます」
「ジャスミンさんじゃないの?」
 それが間違っている事は、ミリアムの様子から明白だ。
「印、精霊印の気配がすぐそこに」
「なっ!」
 咄嗟にライフェルの遺品を拾い上げ、エルリオはミリアムの腕をとった。再び逃げる為に立ち上がりかけたところで、不自然な枝葉のざわめきが頭上から落ちてきた。
「!!」
「きゃああ!」
 黒い影が落下してきたかと思うと、目の前に黒い物体を突きつけられる。
 銃だ。
「動くなよ」
 反射的にエルリオの右手が左手に触れようと動きかけたところで、男が短くそれを制す。手中で黒い銃が金属音を立てていた。
「君が印を発動させるのと、俺が引き金を引くのと、どちらが速いか考えるんだな」
「く………」
 反論の余地がなく、エルリオは動きを固めたまま舌打ちするしかなかった。
「しかし、驚いたな」
 低い呟きが頭上からこぼれて来る。改めてエルリオは男の外貌を確認する。まさにそれは、寮で遭遇した男だった。白いシャツに地味な色合いのジャケットやスラックスの出で立ちは変わらず、ただ違うのは言葉と裏腹に冷静な面立ち。年齢は、三十前後だろうか、死んだワイヴァンよりは若いようだが、ジャスミンやヴィルよりは明らかに年齢が上のようだ。
(驚いたのはこっちだっての…!)
 エルリオは内心で悪態をつき、男をにらみつける。
「妙な気配がすると思ったら……お互いに印持ちってわけか」
 天啓印や使命印、つまり押印ではない精霊印の保持者同士は、お互いの気配が通じ合うらしい。男が言う「印持ち」はミリアムの事を指している。
「あ、貴方は、何者ですか!」
 と、エルリオの体に半分隠れた状態のミリアムが、男に対して気丈に歯向かう。男の鋭い視線がミリアムを向き、びくりと彼女は肩を震わせた。エルリオの衣服を強くつかんでいる。
「まけたと思ったのに…どうしてここが分かったの?」
 エルリオの質問に、男の視線が戻った。大方、印の力であろうと想像はつく。
「何のことは無…」
と男が答えかけたと同時に、再び不自然に枝葉が擦れ合う音が頭上から零れた。直後に男は右に飛び、寸時前まで男が立っていた場所に別の黒い影が降り立った。
「!?」
「ぇ??」
 少女二人が事態を把握する前に、右に飛んだ男は体を一回転させながら銃を構えなおし、新たに現れた黒い影は着地のために丸めた体をバネにして、男に向かい踏み込む。
 二つの小さな金属音が同時に鳴り、
「………」
「………」
 それきり一切の音が消えて静寂が降りる。時が止まってしまったように、その場にあるものすべてが動きを止めた。片膝を地につけた男と、その男に向けて片足を踏み込んだ姿勢のジャスミンが、互いに銃を向け合っている。
「ジャスミンさん!」
「気をつけて、その人印保持者だって!」
 エルリオの忠告。ジャスミンは鋭い目許に更なる警戒の色を乗せ、一方で男は余裕ともとれる苦笑を口にした。
「人聞きの悪い事を言わないでくれ。俺の印にそんな殺傷力はない」
「それより」とつないだ男の言葉は落ち着いていた。
「話をしないか」
「……話?」
 警戒を緩めずジャスミンは探るような視を男に向け続ける。
「まさかとは思うが…君達では無いのだろう?あの学生を死に追いやったのは」
「ち、違うよ!」
 思わず反論したのはエルリオだ。
「俺だって違う。恐らく君達と目的は同じだ。探しているんだ、何故あの学生が死ななければならなかったのか、その理由を」
「え……?」
 目の前の危うい均衡状態にも関わらず、反射的にエルリオは腰を浮かして立ち上がる。
「じゃあおじさんは、ライフェルさんの知り合い、なの?」
「直接の知人ではない。だが俺はどうしても彼の死因を知らねばならない」
「……三つ」
 男の答えを聞いて、ジャスミンは銃を構えた姿勢を崩さず口を開いた。
「三つの質問に答えて」
「多いな。何だろうか」
 同じく不自然な体勢にも関わらず、銃を構えた腕を微塵も震わせる事なく静止した男は答える。
「一つは、何故あなたがあの学生の死因を探っているのか。二つ目は、あなたが誰なのか。三つ目は、あなたが保持している印について、よ」
「良いだろう。その代わり、君達もそれと全く同じ質問に答えてもらおうか。三人のうち、一人でいい」
 等価交換を申し出た男の交渉セオリーは、一理ある。どう応えるべきか迷う少女二人を横目で一瞥してから、ジャスミンが「いいわ」と簡潔に答えた。そしてどちらからともなく、
「3」
「2」
 とカウントダウンを始める。二つの声が「1」と発したと同時に、両者の銃を持った腕が下ろされる。お互いに未だ警戒が残った視線を向け合いながらも、ジャスミンは銃を腰に、男は懐にそれぞれしまいこんだ。
「まず、俺の名はフォークロード。フォードでいい」
 質問に答えながら男は立ち上がる。
「ジャスミンよ」
 応じてジャスミンも答えた。立ち上がったフォードはジャスミンより頭が一つ分高く、だが服装のせいかさほど大柄な印象は抱かせない。
「一昔前に国軍に居たこともあるが、今は民間で傭兵を稼業にしている」
 という男の二つ目の答えに、
「国軍から傭兵に……。私も似たようなものね。昔、国軍の警察局にいたわ」
 ジャスミンの平等に答えた。
 国軍の戦力はプロパーとなる国軍人だけではない。ヴィルが率いる竜翼谷のように戦闘能力を有する民族や集団の他、民間の傭兵斡旋団体等の、外部団体も含まれる。大規模な対外戦争の際に発せられる「第一級戦局令」を軍が行使しない限り、外部団体と軍の関係はビジネスライクな「契約」という形で結び付けられる。
 ちなみに「第一級戦局令」とは、アリタスが対外戦争の頻発を受けて設けた歴史的には新しい憲法の一つであり、国の防衛に関わる戦局を五つの重要度レベルに分けた基準である。その第一級は正に国の存亡がかかった最重度レベルを示しており、発令される事は稀だが、近年では対ライザ帝国戦の中盤に発せられた。これが発令されると、国内のあらゆる組織、個人は国防のために軍が提示した令に従う義務を負う事になる。その代わり、発令が解除されるまで国軍人と同条件の社会的保障を与えられ、成果に対し賞与を得られるというものだ。
 この他、国への貢献度を数値化する事で様々な公的恩恵を受けられる制度など、国は様々な制度を設けて国民へ国税の還元を行っている。だがこれらは言い換えれば、拒否すなわち国賊とみなされ、社会的不能者とされてしまうという事でもある。犯罪に対する処罰は非常に重く、アウトローが生きて行くのは難い国である。
「それから、俺が持つ印」
 男、フォードの言葉が続く。
「詳しくは知らないが「鷹目の印」と呼ばれているらしい」
 フォードは徐に片手で前髪をかき上げると、日に焼けた額を見せた。何も描かれていないが、男が目を閉じて精神を集中させると、その中心におぼろげに光が浮き上がる。
「本当だ!」
 状況を忘れてエルリオは男に駆け上がり、無遠慮にフォードの顔を至近距離から覗きこむ。
「これのホンモノ、初めてみた」
 エルリオは感嘆の声を洩らして、男の額に青白く浮かび上がる印を眺める。その名の通り、片翼にも見える印の中心に、ひし形の鷹の目が配置されている。幾何学的に美しい印だと、エルリオは思う。
「その分だと、この印がどういうものか、お嬢ちゃんには分かるみたいだな」
 フォードが目を開くと、額の印が消え去る。名残惜しそうに離れていくエルリオに、フォードは問いかけた。
「視覚を司る印の一つ、だね。地上にいながら、飛翔する鷹と同じ、俯瞰からの光景を視にする事ができるっていう」
 自分で言いながらエルリオは、「あ」と合点した声を上げる。
「だから私達の居場所が分かったんだ」
「そういう事だ」とフォードは頷く。
「さぞや作戦時には重宝されたでしょうにね」
 と言うジャスミンの声には感嘆が含まれていたが、フォードの面持ちは浮かない様子だ。
「まあな。探知機扱いだったぜ。そんな事はどうでもいいな。最後の質問に答えよう」
 苦笑しつつフォードが胸元に手を差し入れ、首からかけたストラップを引き出した。紐の尖端に、数枚のカードが括り付けてある。一枚は、ジャスミンにも見覚えがあった。国軍の身分証明書。おそらく偽造だろう。そしてもう一枚も、おぼろげながら見覚えがある。
 その差し出された二枚目のカードに、三人の視線が集まる。
 それは、学生証だった。クラースに見せられた事のある、レクティカ大学校関係者の身分証明書と色違いの物だ。カードに印刷された写真に写るのは若い男。フォードではない。
「俺の弟だ」
「弟……」
 三人に向けていたカードを自分に向けてひっくり返し、フォードは色あせつつある弟の写真を眺める。
「ここで医学を学んでいたのだが、ある日突然、行方不明になった」
「行方不明……どうして?」と尋ねたのはジャスミン。
「分からない」
 フォードの声が一段と低くなる。
「弟さんを探す手がかりの為に、これを狙ってたの?」
 草の上に置いてあった冊子を、エルリオが拾い上げた。フォードの視線が、向く。
「これと、弟さんの行方不明になる事と、どういうつながりがある、の?」
 ノーとは使い古され、書き込み尽くされて紙がよれている。あるはずのない温度が感じられるようだ。
「分からない」
 また、フォードの答えは短い。
「ここから先を話す前に、君たちがそれを必要とする理由を教えてくれないか」
 地味な色のジャケット袖から伸びたフォードの手が、エルリオが手にしているノートを指した。視線はジャスミンに向いている。
「どうする?」
 それを受け渡すように、ジャスミンはエルリオを見やった。
「え……」
 びくりと肩を震わせ、エルリオは声を漏らす。フォードが一拍分の間ジャスミンを見やった後、その深い群青色の瞳をエルリオに向けた。
 戸惑った様子のエルリオと、その横にいるミリアムに向け、
「私は、二人の守護者よ」
ジャスミンは落ち着き払った面持ちで頷いた。
「あなたたちに判断を委ね、従い、そしてそばにいる限り必ず護るわ」
「………ジャスミンさん……」
「…………」
 ジャスミンと少女たちの様子を、フォードは静かに見つめて待った。
「さあ、どうする?」
 この男、フォードの言葉を信じ、こちらの情報を与えるべきか。ジャスミンはエルリオに判断を仰いだ。手に持ったノートを胸に抱きしめ、エルリオはジャスミンとフォードを交互に見やった。
「?」
 足首をつつかれる感触に下を見ると、地面に置かれたままだったキューが、こっそりと耳先でエルリオの指先をつついていた。何かの合図のようだ。
(あ…)
 そこで、隣に立つミリアムの様子に気がつく。彼女は、じっとフォードの顔を見つめて先ほどから微動だにしない。また、心を読んでいるのか。
「ミリー……?」
 判断材料が得られないかと、エルリオはその人形のような面持ちを一瞥する。
「嘘をつく方ではないようです」
 と桃色の小さな唇が答え、陶器のような白い肌の横顔がゆっくりと頷いた。
 不思議と、エルリオも同じことを考えていた。弟の写真を眺めた時のフォードの瞳、雨の日の窓ガラスのような沈んだ鈍光が宿った瞳が、印象に強く残っている。
「私達…」
 一つの決断を飲み込んで、エルリオはフォードに視線を戻した。フォードの瞳がそれに応える。
「ライフェルさんが亡くなる瞬間を、見たの」
「現場に立ち会ったのか」
 明らかに興味を示したフォードに、エルリオは頷く。
「亡くなった瞬間もそうだけど、その後も、おかしいことが続いて気になって」
「君達と死んだ学生の関係は?」
「直接は無いけど、もしかしたらあるかもしれない。おじさんと同じ、かな」
「同じか」と呟いたフォードは僅かに視線を伏せた。そして再び顔を上げ、
「君は押印師か」
 とエルリオを向く。
「え、うん、一応……」
 実地を見られているので、今更ごまかす必要もない。エルリオは恐る恐る頷いた。
「………じゃあ、あの噂はまんざら嘘でもないって事か……」
「え?」
「?」
 フォードの独語に、エルリオをはじめ、ジャスミンも目端を細めた。「どういうこと」と問う前に、フォードは右手をエルリオに差し伸ばした。
「共同戦線を張らないか」
「共同、戦線?」
 エルリオにとってあまり聞きなれない単語だ。
「俺達はお互いに共有できる情報が多いと思うが、どうだろうか?」
「……」
 戸惑うエルリオの隣から、
「いいわ。そうしましょう」
 涼やかな少女の声。
「ミ……」
 驚き振り向くエルリオの視線の先で、胸の前で上品に腕を組んだミリアムがいる。リューシェと中身が入れ替わっているのは言うまでもない。最近、仕草や雰囲気だけでも見分けがつくようになってきた。
「………」
 フォードは何か違和感に気付いたようで、面持ちは変えなかったが無遠慮に探る視線をミリアムに向けている。
「……貴方」
 その視線が気に入らなかったようで、明らかに目許に不快な色を表し、リューシェはエルリオの足下に転がっていたキューを拾い上げると、
「何を見ているの無礼者!」
 と、フォードの顔面に投げつけたのである。



→ACT12-8
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押印師ACT12-8
08

 キルギストック内サプライヤーカウンター。
「はいよ、ご注文の品だ。ベーシックと9mmが3箱、あとアルファ弾が2箱」
 店主はスーツを着込んだ「客」の前に、複数の小箱を置いた。部屋の隅で、客の連れらしき青年が壁に背をつけて待っている。少し視の動きが落ち着き無かった。
「アルファ?」
 身に覚えの無い追加オーダーに、スーツの客、グレンは思わず聞き返す。
「ああ、伝言もらってたよ。オマケだそうだ」
 カウンターに差し出されたメモを受け取り中身に目をやると、備考欄に「伝言:オマケしてやった。有効に使えよ馬鹿野郎」と、電話で聞いたままを書き取ったであろう文字列が書き流されている。小さく笑ってメモを上着のポケットに入れ、グレンは箱を受け取った。
「試し撃ちをさせてもらいたいのですが」
「ああ、いいよ。そこの扉から入ればすぐだ」
 あまり広くない室内にある、三つ目のドア。その先に射撃場が設けられている。大抵どこのサプライヤーにもあるものだ。店主に礼を言った後、グレンは背後を振り返った。
「おいで」
 壁を背にして立ち、物珍しさに少し落ち着きなく辺りを見渡していたイルトを、呼び寄せる。
 射撃場は三つのブースに分かれており、それぞれに腰の高さ程度の仕切りが立てられ、正面のフィールドに標的が並んでいる。先客は無く、静かだった。
「銃、使えるんだな」
 場内を見渡しながら、背後からイルトが問いかけてくる。他愛の無い質問が逆に新鮮だ。
「そりゃあね。軍人のたしなみだから」
 答えながら、グレンは物置台の上で受け取った箱から一丁の銃を取り出した。鉄の銃身が、電球の白光を受けて重厚に黒光りしている。
「国軍のプロパーとあれば、事務員にだって射撃訓練が義務付けられているんだよ」
「へえ!そうなんだ」
 感心するイルトが見守る前で、グレンは感触を思い出すために銃倉が空の銃を握った。銃弾を幾つか纏めて手に握り、カートリッジに手早く装填し、指先で器用に回転させて親指の付け根あたりを使って弾倉に押し込む。一連の動きが流れるようだ。
「これは一種の「型」みたいなもので、弾を素早く装填する動きは何度も練習させられる事になる」
「へぇ……」
 口で説明しながら、同じ動きを淀みなく数度繰り返し、今度は立ち上がった。興味津々といった様子でイルトも二歩離れた場所から様子を覗う。グレンは銃を持った方の袖を左手で少し摘んで引っ張ってから、間を空けずに標的に向け一発撃ち込む。
「!」
 密閉された室内、間近で鼓膜を震わせる発砲音にイルトは無意識に目端を細めた。
「ふむ…」
 静かな独語の後、少し握り方を調整し、グレンは再び標的に向かって腕を伸ばして一発。そしてまた間髪入れずに二発、瞬きするほどの間の後、続けて三発を撃ち込んだ
「………」
 イルトは発砲された方向を見つめる。的は人の形を模しており、眉間、心臓部分に目印が描かれている。最初の一発目は、心臓の中心から僅かに外れ、ニ発目は命中していた。だが次の二発は肩口すれすれと、続けての三発は反対側の二の腕に穴を空けている。
(……急所を外す練習……なのか?)
 イルトの目には、グレンの弾筋が明らかに「外れた」のではなく、「外している」ように見えた。
「やってみるかい?」
 突然グレンが振り返った。
「え、何を」と戸惑うイルトの前へ、当たり前のように銃が差し出される。
「でも俺、民間人だし…」
 国が発行する銃所持免許を持たない人間による銃器保有と使用は、違法行為である。だけど、興味が無いと言えば嘘になった。
「一応、私もそうだよ」
 と悪びれなく笑うグレンを見ていると、後ろめたさが消える。さすが違法上等男だと、イルトは苦笑しつつ銃を受け取った。
「重い」
 グレンの手から離れた瞬間、イルトの手の平に収まった鉄の塊は、見た目よりも重かった。物体としての質量以上に、これが生命を奪う道具だという意識も、重く圧し掛かってくる。
「弾はニ発残っているはずだから、撃ってしまって構わないよ」
「う、うん」
 的と向き合う位置に立ち、銃を両手で持ったまま正面を見る。
「………」
 徐々に、コンクリートに囲まれた灰色の空間が、闇に包まれる。僅かな空調の音も消え失せた。
(この感覚…どこかで……)
 不気味なほどに心臓の鼓動が緩慢になり、一本の針金のように神経が研ぎ澄まされていく感覚。そのうち、すぐ隣にいるグレンの姿も見えなくなり、闇色に浮かび上がる的だけが世界の全てとなる。
(あの時の感覚と同じだ)
 グレリオ・セントラルで押印持ちの子供たちと戦った時に経験した、スローモーションの世界。それに気付いた直後、銃の扱いなど知らぬはずのイルトの手が、自然に動き始めた。
「………?」
 異変を感じ取ったグレンは、イルトの横顔を見やった。
 いつもは好奇心旺盛によく動く瞳が、微動だにせず、突き刺すように的を見つめている。この年の青年に似つかわしく無い冷たい色が、降りていた。触れる事にさえ戸惑っていたはずなのに、何の躊躇いも迷いもなく、イルトは的に向けて銃を構え、
「!」
 間髪入れずに二発、撃ち込んだ。
「な……」
 グレンが駆け寄り、的に目を凝らす。
 二発残っていた弾は、それぞれ的の額と心臓に命中していた。
「イルト、君、銃を…―」
「………」
 無感慨に弾道を見つめた後、イルトは踵を返す。傍らの台に置いてある箱から弾丸を数個掴み取ると、手馴れた動きで弾倉を外し、カートリッジに弾を手早く詰めていく。呆然と見守るグレンの目の前で、田舎育ちの十八の青年は、カートリッジを押し込んだ。その際、わざと指先をスライダーに引っ掛けて音を鳴らす。小気味良い四連のスタッカートが響いた。
「っ!」
 その音を耳にしたグレンが、顔色を変える。
(この「癖」は……まさか……)
 カートリッジをセットする度に、少し人をからかうような音を立てる癖。グレンの記憶の中で、この音を立てる人物は一人しかいない。
(まさか……)
 グレンは次にかけるべき声を失う。イルトは、弾の補充を終えた銃を手に、満足そうに微笑む。そして、銃口に持ち替えてグレンに差し出すのだ。
『ほら』
 その姿と、かつての友の姿が重なる。
 イルトの父親に。
「ライ………」
 思わず口に出ていた。
「え?」
 夢から醒めたように、イルトが目を丸くする。
「あ、その…君、銃の扱い方をどこで教わったんだ」
 口走りかけた名前を飲み込み、グレンはイルトから銃を受け取りながら問いかける。
「何いってんだよ」とイルトは笑って肩を竦める。
「いま初めて触ったに決まってるだろ」
 自分が今何をしたのか覚えていないとでも言うのだろうか。だがグレンの目に映るイルトから、嘘は感じられない。黙り込むグレンの様子に、「どうしたんだ」とイルトは不思議そうな顔で覗き込んでくる。
「だってひどく外し…」
 言いながら的を振り返るイルトの横顔が「あれ?」という疑問と共に凍る。的の眉間に見事に命中している穴。グレンはそこを撃たなかったはずだ。
「凄いマグレだなあ。でも二発目は掠りもしてないみたいだけど」
 イルトは笑って目を細めている。グレンは生返事でそれに応えたが、それがまぐれであるはずが無い事を知っていた。心臓に命中した二発目は、グレンが空けた穴と寸分違わない場所に撃ちこまれたのだから。それに、イルトが見せた弾倉をセットする一連の動きは、訓練されなければ再現できないものだ。
(どういう事なんだ)
 これまで「防人の印」を受け継いできた者は、確かに遺伝の次元を超越して類似する傾向にある。軍事技術もその一つで、銃の扱い方にしても、癖が引き継がれるのは珍しい事ではない。だがそれは訓練と経験を積んだ結果であり、今のイルトのように白紙の初期状態で受け継がれているのは初めての事だ。
 これも、印の「変化」と「成長」なのだろうか。
 だが、今それを思案している場面ではない。
「行こう。ここでの用事は、終わりだ」
 植物園へ。
 銃と備品をスーツの懐にしまい、グレンは出口へと踵を返した。


 平日の昼にもかかわらず、植物園は集客数が良かった。
 植物鑑賞や見学に訪れる人々のほか、特別展示会場以外は入場料無料の為に公園代わりとして利用している町民も多いのだ。夫婦やカップルの姿もよく見られる。
 その中で、長身の男と若い女が、何やら言い合いをしている姿もあった。
「だから、ついてくるなと言っているだろう」
 そう女を退けようとする男は、稲穂のような金髪を持ち、長い手足を持つ長身だ。
「でも、お一人でなんていくらなんでも無茶です」
 男よりも少々年若く見える女は、怯む事なく追いすがる。平和な植物園の中で、傍から見れば些細な喧嘩をしているカップルに見えた。
「何でついて来ようとする?」
 男、ノア・レイブリックは女のあまりのしつこさに辟易した様子で振り返った。これ以上しつこいようなら、そろそろ一発ぐらい殴ってやるかと考えていた。
「私……」
 女は、レイブリックが所属する部隊に組み込まれた新米士官、セイラ・ブルックナー。制服から私服に着替え、レイブリックの後を追って植物園に出向いてきた。
「私、別に中尉の単独行動を容認しているわけではありません」
「ならとっとと…」
「でも」
 突き放そうとするレイブリックの袖をとり、セイラは言葉尻に喰らいついた。
「でも私、人質がいるかもしれないのに、何もしない隊長のやり方はもっと容認できません」
「………」
「本当に人質がいるなら今頃どんな怖い思いをしているか……国軍人は弱い立場の人を…人質の気持ちを思い遣ってあげるべきなんです」
 若い士官特有の、熱がこもった瞳が見上げてくる。
「人質のなあ。まるで見てきたような台詞だな」
 だがレイブリックの反応はドライだ。情熱だけにほだされて、実力の伴わない若い士官が何人も命を落とす光景を、彼は見てきた。
「私、人質になった事があるから分かるんです!」
「なに?」
 予想外の答えに思わずレイブリックは足を止めた。付近に建つ巨大なグリーンハウスへ入っていく客が、好奇の視線を寄越してくる。
「幼い頃の話ですが。だから…助けてあげたいと思うんです」
 俯くセイラを見下ろし、レイブリックは袖を掴む彼女の手を外した。
「なら、余計な事をせずに隊へ戻れ。足手まといになるだけだ」
「でも……」
「お前の昔話に興味はない」
 ナイフで落とした切り口のように、にべもなく反論を切断されては、新米はそれ以上の追随を諦めざるを得ない。「速やかに隊に戻る事だ」と言い残し、レイブリックはセイラに背を向けた。立ち尽くし、遠ざかる背中を見送るしかないセイラ。両者のその様子は傍から見れば喧嘩別れをしたカップルだ。成り行きを見守っていた通りすがり達は、残されたセイラを横目で眺めている。
「ここまで来て、このまま帰れるものですか」
 気丈に唇を引き締め、セイラは両手で作った拳へ更に力を込めた。隊に戻るにしろ、何も新しい情報を得ないままでは、ただの無断外出だ。レイブリックが園内に人質を取られているとふんでいるのなら、確率は高いのだろう。
(もう少し、探索していこう)
 レイブリックとは逆の方向に踵を返したセイラは、そのまま園内の探索を続ける事を選んだ。私服に着替えているが、念のために武器も携帯している。ジャケットの内側に忍ばせた銃の感触を確かめて、気持ちを落ち着かせた。
とはいえ、
(こういう時ってどこをどう探索したらいいのかしら)
 学校を卒業したての新米に、応用力は無い。巨大な園内マップの前で立ち止まって、しばしセイラは思案した。
(思い出すのよ。「私の経験」を)
 かつて幼い頃、セイラが被拉致を経験した、実業家だった父親の財産目当ての営利誘拐事件。犯人は玄人と言えないツマらないチンピラ連中ではあるが、誘拐犯が取る行動の傾向に大きな違いは無いはずだ。セイラはそう考え、これまで封じてきた過去のトラウマを引き出そうとする。
 誘拐犯は、音に気を遣っていた。人質であった自分に暴れられ、むやみに声を出される事に神経質になっていた。
(こんな一般人が多く出入りする場所に人質を隠すなんて…考えにくい事だけど……)
 案内図に穴があくほど食い入るセイラの姿に、一般客たちは遠巻きに避けていく。
「ここ、かしら」
 図の一点で目を止める。レイブリックが去っていった方向とは異なる場所。一般客用の簡易な地図では単なる空白となっているが、作戦会議で目にした植物園設計図では、様々な気候条件に室温を調節できるという研究用の温室が建っていたはずだ。
(確か、ボイラーと冷水管が酷く複雑に入り組んでいた……)
 私服の胸元に隠し持っている武器の感触を確かめて、セイラは意を決して歩き出した。
 何か手がかりか情報を見つけてやるんだ。
 それだけを考えていた。

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