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北野ふゆ子
  • 北野ふゆ子
  • 昔は、ゲームやマンガの二次創作をしておりました。現在は主にオリジナルネット小説を執筆しています。得意は「シリアス」「アクション」「サスペンス」です。



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押印師ACT10-2
02

 精霊印研究局は、五棟から成る国軍の建物のうち、最も奥まった場所にある。諜報部や司令部のある中央棟からは、円を描くように内周廊下を歩き続けなければならない。広めの廊下を二人の大佐が肩を並べて歩き、その後ろにアイラス、ランド、更にまたその後ろに、物珍しそうに視線を泳がせる二人の下っ端が続く。
「そういえばグレリオ・セントラル、だったか?田舎町の殺人事件はどうなった」
「ああ」
 長い廊下の途中、シールズがキールの受け持つ案件について話を及ばせた。少し疲れているのか、キールの短い返事と共に溜息が挟まれる。
「遺体の身元は判明した。元士官だったがとうに退役した男だそうだ」
「名は?」
「ラースル・ミドフィルド。元中尉だ」
 シールズには聞き覚えの無い名だった。セントラル周辺ではありがちな平凡な姓名が、偽名のようにも聞こえる。
「検視の結果は出たのか?」
「血痕を調べさせているのだが、辺り一帯が水浸しだったせいで抽出に手こずっているみたいだ」
「水?」とシールズが繰り返す。
「ちなみに、降雨は無かった」
 疑問を先読みしてキールが答えた。
「消火栓が開けられていて、送電パネルが壊されていたそうだ。遺体の損傷具合を見ると、おそらく感電させられたと思われる」
 致命傷は刺し傷だが、とキールは付け加える。
「ほほう。どんな状況だとそうなるんだか」
 両腕を胸の前で組んだシールズは、どこか楽しそうに呟く。彼と似た反応を示しているのが、ランドとアレックだった。
「武器でもなく印でもなく、何だってそんな手間のかかるネズミ捕りをするんだかな」
 と話しかけてくるランドに、アイラスは「さあ」と聞き流すように頷くに留めたが、彼の言葉が真意を突いているのは感じられた。
 その更に後方を歩くアレックは、
「あらかじめ仕組んだ罠だったのかな。となると計画殺人ってやつ?即席にしては機転が利きすぎてるし。それならそれでかなり地の利があるってことだよね。とすると犯人は地元人!」
 と、最近よく読むジャンルの小説の影響をマトモに受けた発言をしている。
「変な本の読みすぎよ」
 アリサは呆れて苦笑しているが、それらを背中で聞いているキールの目は、笑っていなかった。

 半時計回りの方向にしばらく廊下を歩き続けると、ようやく「研究棟」の案内板が目に入るようになる。廊下を行き来する人々も、緑地の制服から白衣に変化していた。
 この周辺には、様々な研究局が集っており、先日アレックも谷から持ち帰った水草を知人に手渡すためにここに訪れていた。資源や素材研究・開発を行う化学研究局は手前にあるが、精霊印研究局は更に奥まった場所にある。
「………なあ、シールズ」
 心なしか、廊下を更に奥を目指して進むにつれ、すれ違う研究員の醸し出す雰囲気が異様になっていくような気がする。キールは不安に駆られて思わず隣を歩く同僚の名を呼んだ。
「なんだ?」
 シールズは何事もないように振り向く。
「いや…なんでも…」
「ない」と言いかけたキールの声にかぶさって背後から、
「今すれ違った白衣の人さあ、歩きながら一人で笑ってたね。脳みそがどうとか薬がどうとか呟いてたし」
「しっ!見ちゃダメよ」
 と新米下士官二人の小声が転がってくる。これから一体どのような場所に連れて行かれるのか、分かったものではない。キールはある程度の覚悟を決めることにした。
 間もなく、廊下の突き当たりに観音開きの鉄扉が姿を現した。他の研究室のドアは簡素な木造であるのに対し、固く重たいこの扉の姿は異様に映る。シールズが先頭に立ちノックの直後、返事を待たずに片側の扉を開けた。
「不味すぎる!」
「?」
 同時に、男の声によるクレームが室内から飛び出してきた。廊下と室内境界線上でシールズは驚き足を止める。
「人間の飲むものじゃないぞこの味は」
「問題は味よりも、飲んだ後のことじゃないのかね」
 入り口に立つシールズとキールの目の前に、二人分の背中があった。簡易会議室にあるような無駄に縦長のテーブルが扉と平行線を描いて置かれている。二人の背中はそのテーブルの前に隣同士で腰掛けていた。左側は白衣、そして右側は見慣れた緑地の軍服。見れば傍らに、軍帽が無造作に置かれている。入室してきたシールズ達を尻目に二人の男は、テーブルに置かれたいくつかのコップを中心に議論とも口論とも言えない会話を交わしていた。
 右側の男に、シールズは見覚えがあった。つい数日前に、大佐執務室に足を運んだ人物。
「グスタフ准将……?」
 その背中にシールズは声をかける。
「ん?」
 名を呼ばれて、右側の男はコップを片手に振り向いた。唇が真緑色に変色している。つられて振り向いた白衣の男、こちらは唇が鮮やかなピンク色に染まっていた。
「きゃっ!―っぁはははは」
 一番後ろにいたアリサが悲鳴をあげ、直後それが笑いに変わる。我に返って両手で口を押さえたが、とき既に遅かった。
「やあ、シールズ大佐、キール大佐もおそろいでどうした」
 緑の唇のまま笑顔で立ち上がるライアン・グスタフ。位は准将。男盛りの三十九歳。
「ええ…あの……」
 シールズとキールは、目の前の事態を指摘するべきか、見てみぬ振りをするべきかの葛藤を脳裏に廻らせている。机の上には、赤、青、緑、黄色、紫と、色とりどりの妖艶な原色光を放つ液体が注がれたコップが複数置かれており。
 まさかアレを飲んでいたのか?
 アイラスが隣を一瞥し、「だろうな」とランドも視線で応えた。
「口をお拭きになってからお話ししはじめてはいかがですか」
 テーブルの向こうから女の声。胸の前でトレイを抱えている。こちらも白衣を身につけていた。茶色が混在した長い黒髪を後ろで結わえており、理知的そうな双瞳の上に細い黒縁の眼鏡を着用していた。
「口?」
 言われてライアンは手で口を拭う。絵の具を塗ったかのような緑色に染まった手の甲を見て、片手にもったコップの中身と見比べて、ひどいなと笑った。
「一体なにを飲まされていたので?」
 尋ねながらコップの一つを手に取り、シールズは鼻を近づけて匂いを確かめる。キールもそれに倣った。異臭は無いが、視覚的に飲もうという気持に到底なれない色をしている。よく飲めたものだと、両大佐の背後に控えている両大尉は思った。
「迂闊に得体の知れない物を口にされないで下さい。万が一があったらどうするのですか」
 そう嗜めるシールズの言葉にすかさず、「得体の知れない物とは何ですか」と女研究員の抗議が続いた。
「お言葉ですが大佐。これまで私の調合した薬に、一度として間違いがございましたか?」
「無い無い。それは信用してる。だがな、お前もう少し色彩センスを養え。な。どうみてもこりゃ毒だぜ」
 と言うシールズが手にしたコップの中では、場末の娼婦でさえ今どき身につけないような原色の紫の液体が揺れている。
「紫だと、ちゃんと媚薬に見えるから良いじゃないですか」
「研究費使って何作ってんだバカモノ」
 ばい菌でも見るような目でシールズは恐る恐るコップをテーブルに戻す。理知的な容姿の女研究員は薄くルージュの引かれた唇を尖らせながら、コップをトレイに乗せていった。
「ピンクだと、何の薬なんだろうね」
「私は黄色が気になるわ」
 ドア付近に立っているアリサとアレックは、そんな事を小声で話している。その前に立つアイラスとランドも、さほど変わらない次元の会話をしていた。
「……シールズ」
 隣からキールに小突かれ、シールズはようやく本来の目的を思い出した。だがその前に、上官であるライアン・グスタフがこの場にいる理由を尋ねなければならない。
「ああ、俺は個人的な理由で遊びに来ていただけだ。気にしないで話を進めてくれ」
 ライアンがそう言うものの、やはりその理由をシールズが気にかけないでいるわけにはいかない。彼は、シールズが追う標的と最も近しい関係にある人間の一人として、少なからず重要参考人であるのだから。
「とりあえず、紹介しよう」
 目端にライアンの様子を見止めつつ、シールズは促されて本来の目的に入った。トレイに色水コップを乗せる女研究員をキールに示す。
「キール、こっちはソラリス・クリューガーだ。位は少佐にあたる。医者だ。鑑識課も兼任している」
 紹介を受けてキールは軽い会釈を、敬礼する女研究員に向けた。「それから」と続けてシールズは、ピンクの液体に唇を汚したままの研究員の男を示す。無頓着に伸びた髪が面持ちを隠しており、年齢が不詳だ。シールズの視線を受けて男は慌てて白衣の袖で口を拭った。
「こっちはアーサー・ノーブル。こちらも位は少佐にあたる。史学博士だ。士官学校の講師も兼任している」
 物語に登場する騎士のような名に似合わない、ピンク色に汚れた白衣の袖が敬礼する。キールもまた、軽い会釈を返した。そしてシールズは三人目の姿を探して室内を見渡す。
「ラルフはどうした?」
 シールズの問いを受けてソラリスが部屋の奥へと、首をもたげる。テーブルの手前にいる面々からは本棚が死角となっていて見えない。
「はい、ラルフなら……」
 答えかけたソラリスの脇に、小さな影が本棚の影から飛び出してきた。
「ママー!」
 声を上げながら、小さな人影はトレイを持ったままのソラリスの腰に抱きつく。それは幼い少女だった。
「なっ!」
 ソラリスは危うくトレイを落としかける。黒髪の小柄な少女が「ママー」を繰り返しながら白衣の女研究者にしがみ付く様子を、その場にいる野郎共は口を開けて見守っている。
「ソラリス、お前子供がいたのか。初耳だな」
 最初の口を開いたのはシールズ。
「違います!」と力いっぱい否定してからソラリスはトレイを傍らの台に置いて、腰に巻きつく少女を剥ぎ取ろうとする。
「あんたみたいなクソガキを生んだ覚えはないわよ!」
「ママ、ひどいよぅ」
 少女は一層、女医にまき付く両腕に力を込める。
「黙りなさい!ラルフ!」
 最後の一吼えと共にソラリスは少女の体を引き剥がす。バランスを崩して後ろに転びかけた少女は、それまでの捨てられた小動物のような面持ちを一変させて「ち」と小さく毒づいた。
「ノリが悪いですよソラリス医師。余裕がないって思われたら損ですよ?」
 言いながら少女はワンピースの袖をまくり細い腕を露出させた。そこに描かれている印を乱暴に手の平で擦り、描かれた線を消す。印の消失に伴い、少女の姿は男の姿へと変わっていった。皮肉を言い終わる頃には、ピンク色のワンピースを身につけていた可憐な少女の姿が、白衣の三十路男へと完全に変態を遂げていた。
 ラルフ・イレイズ。研究局所属の押印師である。
「お騒がせしました。ラルフ・イレイズであります。位は大尉」
 シールズが紹介する前に、ラルフはキールに敬礼を向けた。
「あ、ああ…」
 気後れしたキールの相槌が、三秒遅れて戻ってきた。
「今のは、変態系の精霊印なんです。なかなかのレアで、扱うのが難しいんですよ。でも面白いでしょう?これを使いこなす人間がいれば、それこそ諜報活動お手のもの。あ、変態といっても「いかがわしい」方の意味ではありませんので悪しからずご了承下さい」
 腕を擦りながら得意げに述べるラルフの背中に、「どうだかしら」と女医の毒言がぶつけられる。
「かわいいピンクのワンピースの女の子なんかに変身しちゃって。まんまあなたのお好みなんじゃないの?ヘンタイ!」
「待ってくださいよ!それではまるで僕が幼女趣味みたいじゃないですか!」
 負けじと反論するが、彼は興奮すると顔が赤くなる癖があるために、苦しい言い訳のように見えてしまう。
「『諜報活動もお手のもの』なんてもっともらしい事言うなら、それっぽいものに変身すればいいじゃないの」
「場合によって男が女に変身する必要性がある場面だってあるじゃないですか。どうせ変身するなら可愛いものになったほうが楽し―」
「ほら見なさい!子供のいない独身男のくせに!変態変態!」
「何故そうやって僕の価値を堕とそうとするのですか!」
「自業自得よ!」
 アリタスの頭脳を集約させた機関の中で、最もレベルの低い言い争いが繰り広げられる。
 為すすべも無く見守るしかない面々は、小劇場を黙って眺めていた。喧嘩内容の低俗さに惑わされがちだが、その直前までのパフォーマンスから、男の押印技術が確かなものである事を理解するのには十分だったが。
「なあ、シールズ」
 だがキールはどうしても、これだけは言ってやる必要があった。
「お前にはまともな知り合いや部下がいないのか」
「ははははは」
 シールズは乾いた笑いでそれに応える。
「言われて見れば、お前も含めて、いね~な」
「私をあれの頭数に入れるな!」
 アイラス達の前で今度は上司同士の小さな小突き合いが発生する。肩を落して溜息をつく両大尉の後ろで、二人の新米下士官は顔を見合わせる。
「ねえアレック。研究局って、もっと陰湿な場所だと思ったけど、随分賑やかなのね」
「友達がいる素材開発研究室はこうじゃなかったんだけどな」
 アリサの疑問に答えるアレックは、さりげなく自分も「まともではない部下」の頭数に入れられている事に気がついていないのであった。
 そんな面々に前後を挟まれた形で椅子に腰掛けているライアンは、傍らに座るアーサーと共に口直しの水を飲みながら呑気に構えている。
「ああ、そうそう。こんな事している場合じゃないんです」
「ぶっ」
 身を乗り出してくるラルフの顔面を、ソラリスは大判のファイルで押し返した。
「ラルフ、あなたも頼まれていた物もってきているんでしょ」
「ああ、はい」と我に返りラルフは本棚脇のデスクの上から、大判の茶封筒を取り上げた。固い感触の膨らみがある。封筒を手に、「どちらからお話ししましょう?」とソラリスの意思を窺う。
「恐らくお話の順序として…」
 ソラリスはシールズとキールを一瞥して白衣のポケットから何かを取り出した。
「これから始めた方が良いと思いますので、始めさせて頂きます」
 それは、ビニールに入れられた二本のアンプルだった。中は薄紅の液体で満たされている。満足そうに微笑んで、ソラリスはそれをテーブルに置いた。ラルフの顔を叩いたファイルを開きながら、シールズとキールにも着席するよう促す。
 目端にライアンの存在を気にかけながら、二人の大佐は勧められた椅子に腰掛けた。
 両大佐が真顔に戻ったのをきっかけに、室内の面々の面持ちと場の空気も変わった。





ACT10-3⇒
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押印師 ACT10-3
03

 着席を待ってから、徐にソラリスはアンプルを指し示し話しはじめた。
「こちら、先日グレリオ・セントラルで起こりました元軍人殺害事件の、被害者以外の血液のみを抽出したものです。いずれもかなり水で薄まってしまっているので、純度がだいぶ落ちているのですが―」
「ちょっと待ってくれ、今なんと?」
 唐突に止めたのは、ライアンだった。ソラリスが質問の意図を測りかねていると、
「グレリオ・セントラルで元国軍人の他殺体が発見されたのです」
 キールが案件の概要を説明する。
「いつ起こったんだ」
 椅子から腰を浮かせたライアンの様子に視線を向ける面々は、皆一様に不思議そうな面持ちだ。シールズ、そしてもう一人、ライアンの隣に座るアーサー・ノーブルを除いて。
「つい三日前の事ですが」
 キールが答える。
「被害者の名は?」
「ラースル・ミドフィルド。元中尉です」
 それを聞いた准将の面持ちに、明らかな安堵が浮かんだのをシールズは見ていた。
「そうか……悪い、中断させて。その辺り出身の知り合いがいるものだからまさかと思ってな。事件の事、詳しく訊いてもいいか?」
 そう謝罪する准将にソラリスは微笑みと共に「いいえ」と頷き、特に彼の様子を訝しがることなく話を進める。現場の様子についてはキールが、遺体の損傷具合についてはソラリスがそれぞれ、詳細を語った。
「水攻め、電気、串刺しか。効果的だがエラいえげつないな……」
 最後の感想としてそんな呟きが、苦笑となってライアンの口から漏れていた。最後にまた「水……」という独語が二度繰り返される。
「さて」という言葉から、再びソラリスに会話の主導権が戻った。
「この血液、どの線から洗い出しましょう」
 ペンを回しながら、ソラリスが問う。軍が保有する膨大な血液サンプル数から、特定サンプルを洗い出すのは気が遠のく程の時間を要する。ある程度の目星と範囲を決定しなければならない。
「グレリオ・セントラル周辺の犯罪者リストは当然として」
 と言いながら考えて、キールは「被害者が退役する前の三年間に関わった可能性のある犯罪者」のほか、軍人同士のいざこざの可能性を考え「被害者が軍役中に関わった可能性のある全ての軍関係者」、「被害者が退役した時期の前後三年間に退役した人物」を指定した。退役軍人が犯罪の被害者となった場合は私怨の確率が高く、軍に関わりのあった人間が加害者である可能性も低くない。
「質問」
 隣からシールズが口を挟む。キールは無言で続きを促した。
「押印経験のある者、印保持者の線はどう思う?」
 これはキールから話を聞いた現場の様子からシールズが割り出した可能性だ。シールズの助言を受けたキールが、グレリオ・セントラル局の鑑識課から、証拠物を大急ぎでセントラルに運ばせた。その一つである血液が、ソラリスの手に渡ったのだ。
「それから、地の利を活かした犯行とあれば、グレリオ・セントラル出身の軍役経験者の線もある」
 ソラリスはシールズの言葉に一つ一つ、相槌を打ちながら手帳に記していった。後者は多少、アレックからのうけうりも含まれているが、シールズは黙っていることにした。当の本人も、何も気付いていないようでただ好奇心を丸出しにした目でその場の空気を楽しんでいる。
「そう、その事なのですが」と言葉を繋げ、ソラリスは手元のファイルを捲る。
「先ほどグレリオ・セントラル局の鑑識課から電話がありまして、被害者の体に印らしき痕があるとのこと」
「「らしき」とはどういう事だ」
 尋ねたのはキール。
「はい。箇所は左胸部。つまり心臓間際です。ただ、ポールで貫かれた部分がちょうど同じ場所で、印と思わしき描画模様の形状を完全に確認する事ができないようです」
 写真資料はまだ届いていない。僅かに残った描線を手掛かりにグレリオ・セントラル局の人間が検証したものの、印と特定する事ができなかったためにセントラル預かりとなった。写真資料が届けば、恐らくはラルフに回されるはずだ。
「ここで、もう一つの証拠物件についてご説明しなければなりません」
 ソラリスから、次にラルフが会話を継ぐ。彼はテーブルの上に置かれた茶封筒を徐に開くと、中からビニールに密封された黒い物体を取り出した。それは一丁の銃。
「ただし、弾倉が抜かれています」
 念入りに現場を捜索させたが、結局見つからなかった。現場からは弾や薬莢も見つかっていない。
「まず考えられるのが、犯人が全て持ち去ったという可能性です。しかしキール大佐のご報告によると、事件当時、大量の放水が為されたにも関わらず、排水溝や水道管からも見つからなかったと。あまりに完全な隠滅で逆に不自然です。それに火薬反応もありません。となるとこの武器は、全く薬莢を残さない、弾丸を消費しない武器だという事になるのだと思います」
「そんな武器があるんですかぁ」
 背後からアレックの独語が、相槌がわりに流れてくる。ちょうどキールや二人の大尉達の内心を代弁していたので、誰も咎めようという様子は無かった。
「物質押印、の可能性があります。現在、研究局で研究開発が進められている技術です」
 ラルフの出した結論に、
「ありゃ、情報漏洩ですかぁ」
 と、またアレックの独語。今度は苦そうな面持ちが数人分、振り返った。隣でアリサが「バカッ!」と小声で小突く。ラルフも寸時、細めた視をアレックに一瞥させたが、すぐに面持ちを戻して物質押印された武器についての説明を続ける。「何せゼロからのやり直しでまだ数年ですので、不明な点が多く恐縮ですが」と前置きをして。
「概要をご説明するのは簡単です。要するに、人体に押印すると負担なら、無機質にしてしまえという事です」
 肩を竦めながらラルフは手袋をはめ、ビニール袋から銃を取り出した。グリップ部分を握り、中が空洞になっているのを面々に見せる。物質押印が施されていたとすれば、この失われた弾倉にあたる部分だ。
「これだけでは、威力の程や、どのような攻撃が行えるのか…まだわかりかねますが、しかし最低でも通常の銃と同様の威力があるのではないかと思います」
「そういう武器を携帯しているという事は、胸元の印らしきモノは、精霊の印じゃなかったという事かしら」
 とソラリス。
「どうでしょう。印であっても、攻撃手段を持たない種類のものかもしれませんし、この物質押印と何か連動しているものかもしれません。いずれにしろ、写真が来るまでは何とも言えませんが、不思議なのは加害者側の行動ですね」
 再び銃がビニールに仕舞われる。ラルフが最後の言葉でキールに同意を求めると、「そうだな」と相槌が戻ってきた。そのままキールが言葉を続ける。
「周辺住人の証言によると、銃声は確かに複数発あった。不意打ちであるとは考え難い。正面から対峙したのであれば…容疑者は他に攻撃手段を持っていなかったという事になる。武器を用いた痕跡がなく、印保持者や、容疑者も同じく物質押印された武器を持っていたのであるなら、あのような手口に出る必要もないはずなのに」
「意図的にあの形にしたという可能性はあるのでしょうか?」とラルフ。
「まさか印を持たない生身の人間が素手で銃と対峙しようなどという事はないだろうから、可能性はあるだろうが……そうなるとまた複雑だな…」
 キールは苦笑する。今はまだとにかく、判断材料が少ない。
「物質押印の線でも何か探れるな」
 これが、ここで得られた最大の有効情報だ。物質押印は、軍部内から外に漏洩した技術。その流出ルートを紐解く事も、大きなヒントになりえる。
「しかしそうなると、単なる田舎町殺人事件の範囲を越えそうな話だがな」
 そう苦笑するシールズの言葉は的を得ており、それが確証されればキール一人が責任を負うレベルの話ではなくなる。
「段々お話が大きくなっているようですが…」と呟きながら手帳に文字を書き込んでいくソラリス。血液サンプルの検査については、軍が現状保持しているデータの範囲内でとりあえずは取り掛かることで両大佐の了解を得た。
 会話に一区切りついたところで、シールズは端に腰掛けているライアンの様子に目が止まった。テーブルに肘をつき、思案に暮れているのか一点を見つめたまま動かない。「水」と独り言を漏らして以降、先ほどから一言も発していなかった。
(そういえば)
 シールズは思い出す。彼が何故この部屋にいたのか。自分がそれを尋ねるタイミングを失っていた事を。改めて問いかけようと息を吸いかけたところで、
「キール大佐、銃声は何発聞こえたと?」
 視を一点に向けたままのライアンの口から言葉が発せられた。またシールズはタイミングを失い、口を閉じる。彼の質問に、興味があった。
「二分ほどの間隔を空けて、二発です」
 そうキールは答え、その数十分前に別の場所でも数発の銃声が聞かれており、そちらも同様に薬莢が見つからない事から同一人物達によるものだと推測される事を追言した。
「地点Aと地点Bの特徴を言ってくれ。特に地点Bの構造を詳しく、だ」
 更にライアンから問いが飛ぶ。この場合の地点AとBとは暗黙に、最初に銃声がした場所をAとし、後の遺体が発見された場所をBとしている。その場にいる全員がそれを理解していた。キールは地点Aが街の外へ続く裏通りの廃ロータリーである事、地点Bが市場通りの裏にあたる事、排水溝、消火栓、電源パネルの位置、三叉路の形状などを説明した。ライアンは無言で聞いている。視線は変わらず、虚空を見据えていた。
 そして呟く。
「トラキスの水攻めって………聞いた事あるか?」
 と、誰にともない問いかけがライアンから漏れた。
 記憶と合致しない単語だ。シールズとキールは顔を見合わせ、アイラスとランドも顔を見合わせ、お互いに答えを持っていない事を確かめ合う。無論、ソラリスやラルフにも聞き覚えが無く、始めから思案を諦めてライアンの答えを待っていた。
「おっと、お前は答えるなよ。歴史の先生に答えられたらつまらん」
 一同が返答に詰まる中で、ライアンは隣に座るアーサー・ノーブルに笑い半分に厳命する。無造作に伸びた髪に顔が隠れがちな男は、無言で頷いた。
 記憶に無い物は無い。後で調べれば良いと判断し、シールズは早い段階で思案を諦めた。それより肝心な問いをライアンに向ける。
「その、「トラキスの水攻め」が何か?」
「いや…分からないなら、いいんだ。ただの余談だから説明するまでもない」
 苦笑しつつライアンは席を立つ。アーサーに「ちょっと、いいか」と外廊下に続くドアを指し示す。促されてアーサーも席を立った。
「邪魔したな。その事件、また進捗聞かせてもらいに来る」
 片手を軽く上げて、若い将軍は白衣の友人をつれて外に出て行った。しばらく全員が、扉の方を見送る。
「准将は、何をしにここへいらっしゃったんだ?」
 誰にともなくシールズが問う。
 まさか色水を飲みに来た訳ではなかろう。
「よく分かりませんが。どうやらアーサーが呼んだらしいのです」
 答えたのはソラリスだった。
「准将と、アーサーはどういう仲なんだ」
 言いながらシールズは、アーサーがライアンと同年齢である事を思い出す。案の定、ソラリスからは「ああ見えて同い年なのですよ。あの二人」と同様の答えが返ってきた。
「片や司令部の将軍、片や歴史博士兼講師って、妙な組み合わせですけれども」
 そう追言したソラリスの言葉に、その場にいた面々は概ね同意見だった。そもそも知り合うきっかけがどこにあったというのか。
「うーーん……」
 そんな中で、後方に立っていたアレックの小さな唸り声が漏れてきた。
「聞いたことが……」
 全員がアレックを振り返る。
「何をだ」
 シールズが尋ねる。
「あ、トラキスについてです」
 組んでいた腕を解きながら、アレックは答えた。隣のアリサが面々を代弁する形で「本当に?」と問いかける。
「水攻め云々はわかりませんけど、トラキスは、古い地名です。今はテストルスとい名前に変わっています。ライザとの国境付近にある地域です」
「何でそれを早く言わなかったんだ」
 シールズの声に若干の批難が混在しており、アレックは眉を八の字に下げた。
「も、申し訳ありません……今ようやく思い出して……」
「まあいい。いつの時代に使われていた名だ?」
 その単語自体を知らなかった以上、偉そうに強い事は言えないと自覚していたから、シールズは声音を元に戻して尋ねた。
「えーっと……そこまでは……地層調査に行ったときに耳にしたのですが…でもだいぶ古いはずです」
「後で資料室にでもいくか」
 知らなかった事が悔しかったのか、隣でキールが静かに呟いた。
「そうだな」
 そこにシールズの同意が重なった。





ACT10-4⇒
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押印師ACT10-4
04

 研究室を出た二人の三十九歳は、無言で廊下を歩いた。しばらくしてすれ違う人気が極端に少なくなった頃、
「ライアン」
 白衣のアーサーが先に声をかけた。
 その言葉遣いは、士官学校で同期だった頃のまま。第三者がいる前では決して見せない、心を砕いた物言いだ。
 軍部内において、位は絶対的な上下関係を示す。本来、少佐の地位にあるアーサーは、ライアンを「准将」と呼び敬う事を義務付けられている。だがライアンはそれを嫌い、業務外では位で呼ぶなと「厳命」していた。
「ん?」
 ライアンは足を止めて、振り返る。将官用コートの長い裾が、彼の動きに沿って小さく翻った。念のために周囲を確認した後、アーサーは口を開く。
「何故あそこでトラキスの話をした?」
「材料を提供しただけだ」
 尋ねられる事を想定していたので、ライアンの口からは即答が返る。
「キールから地点Bの説明を聞いたとき……ちょっと思い当たってな。奴らなら少し調べればすぐに俺の意図が分かるだろう。もしかしたらその先に何かを見つけてくれるかもしれない」
「なるほどな。だが気付くと思うか?はっきり口にしていたじゃないか。『まさか生身の人間が素手で銃と対峙する事はないだろうから』って」
 アーサーの言葉を聞いてライアンは小さく笑う。
「そういう類の馬鹿が本当に存在する事を知れば、また一つ勉強になるだろう。そしてそれを真似する馬鹿もな」
 顔を見合わせ、二人はしばし笑いあった。研究室内で堪えていた窃笑が今、込み上げてくる。今も、放笑しかけるのを耐えるのに必死なぐらいだ。
「しかし、その馬鹿を真似してのける馬鹿が退役して十年以上。完全に消息を絶って三年になるんだな」
 とアーサー。笑みが一段落したところで、息を整えながらライアンは廊下の窓の外を見やる。晴れきっていない靄の中で陽光が、砂金のように小さな瞬きを不規則に繰り返していた。
「目標はあくまでも、俺が最初に奴を見つけ出すことだ。だが俺一人で出来る事には限界があるからな……こう言っては悪いが、諜報部のミッションを利用させてもらう。あいつらだって、やたらと俺を監視して利用してくれてたんだからな」
 逆恨みであると自覚している上での発言だ。シールズの前任者も含め彼らはただ任務に忠実なだけで、自分は「親しい友人」という立場から重要参考人なのだから。だがこの三年間、完全に「彼」の消息が途絶えた事で、ライアンへの関心度も徐々に白へと転じつつあった。電話の盗聴捜査も打ち切られている。その動きを見計らい、准将昇格も相まって、ライアンは担当がシールズに変わったのを機に自ら諜報部へと接近をし始めた。
「狡賢いお前の得意技だものな。そういうの」
 アーサーの皮肉に、ライアンは笑った。
「手腕といってくれ」
 与えられた立場、権力は最大限に行使する。そして相手の面子を崩さず、相手にも利益を与えて尚且つ、相手の手持ち牌を最大限に利用させてもらう。一歩間違えばただの「権力にものを言わせる嫌な上官」だが、ライアンはこうした行動をごく自然に行う能力があった。優秀な管理職の特徴である。
「アーサー」
 そしてライアンはまた、「行使」に出る。
「今度は何だ」
 もう慣れたものとして、白衣の友人は拒む様子を見せなかった。
「また例の、頼む」
 ライアンは電話の受話器を耳に当てる仕草を見せる。
「了解」
 アーサーは同じ仕草で、それに応えた。


 諸々の旅支度を済ませた後、
「色々と寄り道をするが構わないか」
 と言ったグレンの最初の寄り道先は、見渡す限りの草原の真ん中だった。グレリオセントラルからは交通手段を使わずに徒歩でしばらく山沿いを歩き、一時間ほど歩いてようやくバスに乗った。終点まで乗って、また歩く。着いた先は、ただっ広い放牧地帯だった。
 岩肌が露出した、肥立ちの悪そうな剣山が連なり、波濤のように隆起する草原を囲んでいる。黄金色に変わりつつある草の波、岩肌の隙間から健気に茎を伸ばす山の花々が、そよぐ風に身を任せている。牧歌的な匂いが、イルトのいた村の空気を髣髴とさせた。
「あの茶色い屋根?」
 黄金の波濤の中に唯一建っている木造の家屋を、イルトは指差した。
「ああ」
 懐かしそうに、グレンの両瞳が細められる。突き抜ける青空の高いところで輝く陽光がまぶしそうだ。イルトが見渡せる景色の中に、白く塗られた木柵と、石を積み重ねた垣根が草原の中で、まるで白波のように緩やかな曲線を描いている。その中央に敷かれた獣道とも言えそうな歩道を、三人は歩き続けていた。
「………何やってんだ」
 背後が気になり振り返ると、背中にリュックを担いだ黒髪の少女、ミソラがしゃがみ込んでいた。道端に生えている草を手にとって眺めている。
「あ、すみません。家畜の牧草だから、栄養がある草なのかと思いまして」
 もはやこれは一種の職業病のようだ。
(栄養があるならなんでも材料にしようって話か……?)
 風に乗って遠くから、羊の声が木霊してくる。牧羊犬と思われる、犬の鳴き声も混在していた。ガラガラと、荒い作りのベル音も連なる。一心不乱に草を食む家畜の姿を想像して、イルトは一種の寒気を覚えた。家畜の堆肥で育ってきた牧草を薬の材料にされてはたまったものではない。
「今から寄るところって、誰の家なんだ?」
 気を取り直して、前方を歩くグレンに向けてイルトは素朴な疑問を口にした。
 ミソラが同行するにあたり、グレンは幾つかの事を彼女に確認した。
 一つ目は、ACCにたどり着くまでに寄り道が多い事。
 二つ目は、グレンやイルトについて他言しないと約束して欲しい事。
 そして三つ目は、何かあった時は自分を優先し、自分の都合を考えて行動して欲しい事。
 いずれの条件についても、即ミソラは首を縦に振った。試験日は数ヶ月先であるし、無理やり同行を願い出たのだから迷惑をかける事を極力避けたいと彼女も思っていたから。それに、小さな田舎町の外を知らない自分にとって、逆に寄り道は歓迎だった。
 だから最初の寄り道先は、ミソラにとっても興味のあるところ。
「私の家族、だよ」
「家族?」
 最初に思いついたのは、「妻」という単語。だが彼はグレリオ出身だと言っていたのを思い出す。
「ここがご実家ですか?」
 無意識に続いたミソラの問いは、イルトの思案を代弁していた。
「いや、実家という訳ではないんだが」
「ワンワンワンワン!」
 グレンの語尾を踏み荒らして犬の鳴き声が頭上から降って来た。次の瞬間、空を見上げた三人は、空中を飛ぶ巨大なモップを見た。
「何…わあああ」
 イルトは反射的にグレンとミソラの前に出た…までは良かったが、その上目掛け、巨大なモップが落下。無傷な二人の目の前で、損な役回りを運命付けられた青年はモップと共に地面に転がった。
「うひゃひゃっやめっきぼちわるっ」
 モップは巨大な牧羊犬だった。圧し掛かられたまま猛烈な勢いで顔を舐められ続けるイルトが、悶絶している。
「やめなさい、アール!」
 慌ててグレンが犬を制止する。犬は長い毛並みに隠れた顔を振り向かせた。
「あ、アールな訳がないな……じゃあヘクタールか?それともフィート?」
「それはもしかして犬の名前なのか?」
 唾でべたべたになった顔面を拭いながらイルトは起き上がる。モップ犬はグレンの足下にちょこんと座り、興奮気味に長いピンクの下を垂らしていた。
「ああ。元々は私が拾ってきた犬が始まりで、その子は「メートル」という名前だったんだ」
 人が涎まみれになっているというのに、悪気がなさそうな男は、イルトの質問に笑顔で答えた。
「メートルの子がアール、アールの子がキロメートル、その子がヘクタール、インチ、フィート…」
 全て、長さや面積の「単位」だ。その奇妙な命名センスにイルトは肩を落とす。世代を重ねているという事は、この犬は「マイル」とでも言うのだろうか。もしくはネタが尽きて「ピコメートル」や「ギガメートル」などになっていたら不幸だ。
 だがイルトの推測は外れる事となる。
「リットル~。リットル~?」
 風に乗って、女性の声が届いた。モップ犬は高らかに一声啼いて、声の方向へと走り出す。巨体に見合わない俊敏さだ。
「今度は体積の単位……ですか」
 イルトもミソラも、自分の名付け親が一般常識を持った人間であった事に心から感謝したのであった。
 脱兎のごとく駆け出していった犬の後を視で追うと、その先に佇む人影があった。黄金の波の上に浮かぶ蜃気楼のように、現実感の無い光景だった。白い大判のショールを肩から羽織り、長いワンピースを身に纏った初老の女性がこちらを見つめている。家屋のドアが半分空けられている様子から、騒ぎを聞いて出てきたこの家の住人であろう。何より、グレンと女性の間で交わる視線の温度が、感じられる。リットルという名のモップ犬は、女性の足下に行儀良く座って相変わらず興奮気味に長い舌を垂らしていた。
「久しぶり」
 女性に歩み寄り、グレンは静かに会釈を向けた。
「ええ」と初老の女性は微笑んだ。グレンの背後にいるイルトとミソラを見て、
「今回は、ずいぶんと可愛らしいお連れ様なのね」
 穏やかな両瞳に微笑まれて、二人は遠慮がちに頭を下げた。女性は小さな子供に向けるような柔らかい声音で「こんにちは」と二人に頷き返した。薄い茶色の髪の毛が、陽光を受けて時々銀色に輝く。ところどころ白髪に変わりつつあるところを見ると、だいたいの年齢が窺えた。
 そしてまた、彼女はグレンに向き直る。ゆったりとした動きと、老熟した落ち着きを持つ微笑み。グレンと似ているなと、イルトは思った。
「お久しぶりです。兄さん」
 白いショールが風に揺れた。
 グレンも再び、頷いた。
 布がはためく音にかき消され、イルトは危うく二人の会話を聞き逃しそうになる。隣でミソラが「え?」という形に口を少し開いたまま、黒目がちの瞳を見開いていた。「どういうこと?」と問いかける視がイルトを振り向く。どうやら自分と同じ単語を聞き取っていたようだ。イルトも、「俺もわからない」と首をふってミソラに応えた。
「紹介しよう」とグレンが振り向く。
「彼女はソフィア。私の、妹だ」
 言葉を失う若い客人に、初老の女性は母親のそれに似た柔らかい笑みを湛えた。「ソフィア」とグレンは彼女の名を呼び向き直り、ミソラとイルトを交互に示した。
「彼女は、ミソラ。ミソラ・ラドキス。医者志望の学生だ」
 グレンによる紹介に、ソフィアは「まあ、素晴らしいわね」と微笑む。
「そして」と次にグレンが視線を向けたイルトにも、同じ微笑を手向けた。
「彼はイルト。ライズ・グレリオ・サイファのご子息だよ」
 それを聞き、ソフィアの品のいい口元から「まあ」と軽い驚嘆がこぼれる。ミソラに向けていたものとは違う、追憶が混在した眼差し。
 また、自分に父の姿を見出されていると、イルトは感じた。


 広くはないが、落ち着いたインテリアの色調が心地良いリビングには、仔犬や猫が放し飼いにされていた。ちなみに名前を確認したところ、やはり全て「単位」だった。長さや容積のみならず、ヘルツといった周波数や、ファゾムといった聞いたことの無いものまで揃っていた。そんな事情を全く知らない動物達は、幸せそうに午前の陽光を浴びながら各々の場所で寛いでいる。
 グレンを兄と呼んだ初老の女性の名は、ソフィア・レンブロー。旧姓、イーザー。夫は既に亡くなっている。この牧羊場と家屋は、母方の一族のものだった。
「良かったわ。兄さんが来てくれて。ずっと渡したい物があったの」
 奥の部屋に姿を消していたソフィアが、箱を手にしてリビングに戻ってきた。籐で編んだ籠の中に、開封済みの封筒の束がリボンで結ばれて置かれている。それをグレンが座るテーブルの前に置いた。
 リボンを解き、グレンは封筒の一つを手にとった。中の便箋を広げる。
「ここにあるお手紙、差出人は全部同じ人よ。最初に来た時はびっくりしちゃったわ」
 差出人はアーサー・ノーブルの名。
 だが手紙の末尾にはこう書かれていた。
『彼の悪友 ライアン・グスタフより』
「グスタフ将軍といえば…新聞でも目にしたことのあるお名前だもの。そんな人が、マメに何通もお手紙を下さるのよ」
 全ての手紙の名義がアーサーによるもので、中身はライアンによるものだ。恐らく軍から監視を受けていた時期があったのだろうと推測される。
 手紙はすべてライアンがソフィアに宛てたもので、一通目の文面はグレンの消息を尋ねるものだった。回数を重ねるごとに、季節の挨拶や雑談が加わるようになっているのが分かる。手紙を出し続けるうち、田舎に便りを出しているような気分にでもなったのだろう。豪胆そうな容貌からしばし誤解されるが、彼はとても細やかな人間なのだ。
「私の名前だって何度か新聞に載ったと思うんだが」
 背もたれに体を深く預けたまま、グレンは無造作に放り出していた足を何気なく組んだ。
「兄妹の場合って、最初は珍しいのだけれど、回数を重ねると当たり前になってしまって飽きちゃうのよ」
「ひどいな。でも確かにそうかもしれない」
 ソフィアの皮肉を受けて笑いながら、グレンは手紙一つ一つを手に取り、目を通していた。籠の中に束ねられている封筒は、目視で数えて少なくとも五十通はありそうだ。イルトとミソラは、少し離れた場所、彼の横顔が見える位置に置かれた大きめの二人がけソファに腰掛けている。
 奇妙な兄妹が交わす、喧嘩とも言えない実にささやかな皮肉の押収。だがそこには「兄弟」の間に存在するごくありふれた温度が確かに存在している。アムリという姉がいたイルトには、それが感じられた。
「グスタフ将軍って……有名な方ですよね。聞いた事があります、私」
 僅かに口を耳に寄せて、ミソラが小声で呟いてきた。イルトはそれに「俺も」とやはり小声で答える。
 グレンは意識を手紙に没頭させている。手持ち無沙汰になってしまったイルト達の様子を見とめて、ソフィアはティーポットを手にテーブルから二人のソファの方に歩み寄った。二人が慌てて姿勢を正すと、少し中身が減ったカップにお茶を継ぎ足してくれた。ソファの前のテーブルには、手作りと思われる菓子が載った皿が置かれているが、手が付けられていない。複雑な緊張感に口が渇いてしまっていた。
「驚いたでしょう?」
 テーブルの下で丸くなって眠る、単位を表す名を持つ猫たち―確かアンペアとオングストロームと言っていた気がする―とは正反対に、凝固して肩を強張らせている二人と向き合う形で、ソフィアは一人がけの籐椅子に腰掛けた。
「私が彼の妹だなんて」
 言いながらソフィアがショールの羽織られた肩越しにグレンを見やると、小さく籐が軋む音が転がった。それに気がつき、グレンの視が手紙から離れてソフィアに向いた。
「私の名誉のために、おかしいのは兄さんの方だって、この子たちに説明してもいいかしら?」
 その言葉を受けてグレンの瞳が細められ、小さく笑い声が漏れる。「そうだな」とだけ答えて彼はまた意識を手紙に戻した。それを肯定と受け取り、ソフィアはまた二人の若い客人に向き直った。十八年の間に培ってきた常識を逸脱した会話に対して、経験値が足りない二人はただ視を泳がせているしかない。
「少し長いお話し、しましょうか」
 そんな二人を諭すように、ソフィアはティーカップからたつ湯気の向こうで、微笑んだ。




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05

 いつもはアレックとアリサの指定席と化していた資料室の椅子。今日はそこに、二人の大佐が腰掛けていた。なにやら物々しい雰囲気に、文官たちは遠巻きに見てみぬ振りをしている。テーブルの上は乱雑に積まれた書籍やファイルの類に占拠されていた。
 トラキスという地名が約三百年前に使われていたものと判明し、そこからシールズとキールは三百年前の戦史資料を漁っていたのだ。
「なんだこりゃ」
 静まり返った空気の中、シールズの素っ頓狂な声が転がった。
「見つかりましたか」
 背後の本棚を検分していたアイラスが、本を手に苦い顔をしている上官に呼びかける。彼が目を通していたのは、国軍公認の戦史書籍だった。
「確かに三百年ほど前、「トラキス」という名のつく地域でライザとちょっとした戦闘が行われたようだ」
「シールズ、それ読んでみてくれ」
 分厚いファイルを見ていたキールが顔を上げた。
「聞いて哂うなよ」と本を手に取り、嘲り混じりの苦笑を一つ挟んで、シールズは文面に視を落とす。
「時代はアリタスノヴァス暦三十六年」
「……というと共暦で何年だ?」
「えっと……二二〇〇年ぐらい、か」
 途中まで計算しかけて、シールズは面倒くさくなって諦めた。そもそも「アリタスノヴァス元年」がいつか正確に覚えていない。「年表を探しましょうか」と動きかけたアリサを止めた。今の時点では、それがとても古い暦だという事さえ分かっていればいい。
「それも後で調べよう。かいつまんで言うと、ライザの国境に程近い、トラキス地域最西北のトラキス村が帝国の部隊に襲撃された。この部隊の目的は、アリタス侵攻に際しトラキスに拠点を敷く事にあったようだ」
 シールズが手にしている本によると、アリタス司令部は逃げ遅れ人質となった村民の救出、およびトラキス奪回と防衛のために先発隊含めて合計千五百の大隊を派遣した。
「ここからが笑えるぞ」
 シールズは苦笑と共に、本のページを捲る。
「トラキスにはトラキス・ダム湖と呼ばれる湖があり…ああ、ちなみにダムといっても人工ではないらしいな、ただ、湖の標高が村より高い事を利用して水路を敷き、水力活用や灌水などの手が入っている事からダムと名がついているようだが。で、そのダム湖周辺には水門と水力調整設備と開発中の水力発電設備があったのだが、戦いの折にライザがいずれもぶっこわしちまったために大洪水が発生、大量の水に押し流されてライザの大隊は自滅―だとさ」
 おざなりな仕草で本をテーブルに置き、シールズは肩を竦めた。
「なんですかそりゃ」
 背後から、シールズと全く同じ感想を洩らすランドの声。
「その自滅行為が「水攻め」なのですかあ?」
 三歩ほど離れた場所で地図を抱えて控えていたアレックが、素朴な疑問を投げかける。
「うーん…」
 笑い話にもならない歴史に、シールズはもう一度目を通して唸る。これが准将の口から仄めかされた「トラキスの水攻め」という事項であるなら、何故彼はこんな珍事を持ち出してきたのか。全く理解に苦しまれた。
 だがその時、
「いや…」
 低いキールの声が、シールズの疑念を遮る。
「准将が仰っていた「トラキスの水攻め」は……恐らくこっちだな」
 分厚いファイルを捲っていたキールの呟きに、「まだ笑い話があるのか」とシールズは丸椅子ごと動かして隣に移動した。二人の大尉も、上官達の背後に立ち戻った。
 キールが手にしていたのは、一冊の古ぼけたファイル。対外戦の記録を綴った非公開史料、そのうちの一冊だった。
「記入日、アリタスノヴァス暦三十六年」
「同じだな」
 綴じられた一枚を引き抜きながら、キールは文字を目で追う。それは、歴史書にも公式文書にもならない、味気のない報告書フォーマットに沿って書かれた書類。承認印も無い、無造作に保管された紙片に過ぎない紙だ。だが無味乾燥な書式とは裏腹に、手書きで隙間なく文字と図が埋め尽くされており、整然とした文字列から書き手の鬼気迫るような熱が感じられる。
「記入者代理、ロス・グレリオ・サイファ。大尉」
 文書の項目を読み上げるキールの声が続く。
「ん?グレリオ?」
 妙な符合にシールズは思わず鸚鵡返しに呟いた。
「グレリオ周辺の出身者なのだろうか」
「そうだなあ」
 国軍には、セントラル出身者の他アリタス全域各地からも人材が集う。だがこれを偶然として片付けて良いものか、シールズは判断に迷った。キールは続きを読み進める。
「トラキス村襲撃の報を受け、国軍情報局視察部隊十五名、トラキス地域偵察を任命される。偵察部隊長はグレン・ノースクリフ少佐。敵はライザ辺境部隊による拠点確保目的の侵略と報告、急遽トラキス奪回の為の援軍を司令部に要請」
「グレンなぁ。ノースクリフ……いかにもセントラル出身者らしい姓名だが、あまり公式には聞いたことないな」
「グレン」もよくある名前だが、と付け足すキールに、シールズは生返事で頷いた。
「村の近辺にトラキス・ダムと呼ばれる湖がある事も、その本と同じく書いてある」
 記されている内容から、この書類は先ほどシールズが読み上げた公式戦史と同一の事象を表している可能性が高かった。
 口頭での読み上げを止め、キールは素早く文書を目で追う。そこから得られる情報を簡略化して言葉にする方に切り替えた。
「その頃の地図はあるのか?」
 シールズは背後にいるアレックを振り向く。
「はい、こちらが古地図です!」
 待ってましたとばかりの笑顔でアレックが地図を差し出す。あらかじめアリサに言われて用意しておいたものだ。
 トラキス・ダムは自然の湖だがかなりの水深があり、元々村落だった場所だが歴史的豪雨のために水没して出来上がった水溜りだ。それが「ダム」と称されるようになった所以の一つであると、三百年前の「トラキス」の地図を示しながらアレックが説明していく。
 二人の大佐は素直に頷いて、新米技術者の話を聞いていた。年功や位による序列に捕らわれがちな頭の固い軍人が少なくない中、この二人は柔軟な思考の持ち主だと言える。ことにキールは、紋切り型の一辺倒に見える外見とは裏腹に、意外と素直で応用の利く性格だ。だからこそランドやアレックのようなタイプの部下とも上手くやっていける。
「そして、次にこれが現在の地図です」
 言いながらアレックは二冊目の地図を広げる。
 一目で、シールズは異変に気がついた。
「湖の位置が変わっているな」
 その言葉通り、地図の座標と照合しても明らかにダムの位置がずれている。アレックは徐に地図を指差して説明を始めた。
「旧トラキス地方と呼ばれるこの辺り一帯は大昔、地盤が緩く岩盤移動による地震がかなり頻繁に起きていたらしいのです。結果的に激しく隆起した地形が多くなり、そのために、豪雨となれば小さなダムがいくつもできてしまうような条件が揃っているのです」
 ちなみに今現在は地盤も固まり、地震は滅多に起こらない。
「なるほどなあ」
「本来、トラキス地方は乾燥地帯で降雨量が少なかったのですが、トラキス・ダムができた時は異常気象であったようです。なので、その「水攻め」当時のトラキス村は、ダムの底から西部に移転させた後の事であったらしいのです」
 つまり、三百年前より更に歴史を遡ると、元々「トラキス村」は、トラキス・ダム湖の位置に拓かれていたのだ。
 アレックのその説明に、シールズはキールが手にしている紙に再び視線を落とした。西に村が移動したために帝国との国境に近づきすぎてしまい、拠点確保場所として目をつけられたのだろうと予想される。当時はまだ他国干渉が過酷になる前であった事から、ACCから遠のく辺境ほど国軍の政策局の手が薄く、地方の対外意識が低かったのかもしれない。用水路が引かれ、水門が築かれ、発電所が試運転中という事は、ライザが侵攻を企てたのは移転から十数年後といったところだろうか。
 国境に生まれた些細な綻びを狙っての行動に、帝国側が虎視眈々とアリタスを狙っていた様子が窺えた。
「という事はこの村民は、この数百年の間に二度も水没の憂き目に遭わされたって事だな」
 地図を凝視してシールズが呟く。現在の地図を見ると、彼の言う通り、今度は西に移転した村の位置が湖と化し、テストルスダム湖と名がついている。肝心の旧トラキス・ダムは枯渇した状態で再びそこに村落が拓かれる事もなく、現在は完全に無人の名も無き泥土地帯となっていた。
 ちなみに現在は国境に国軍による防衛戦が引かれている為、村人達は住まいを東よりに移転させている。現テストルスダム湖より標高の高い場所を選んで危険を避け、且つ湖からの水力発電の恩恵を受けていた。ようやく平和的な場所に落ち着いたと言えよう。
「そうなんですね~。ダムの水がほとんど村に流れちゃって半分水没しちゃって、今度はそこがダムになっちゃったって事でしょうか」
 とアレック。シールズは違和感を覚えた。
「本当にそんな馬鹿な話がありえるのか」
「これが答えのようだぞ、シールズ」
「事実ならばな」と付け加え、しばし無言を保っていたキールが目の前に資料を差し出した。先ほどの、ロス・サイファ・グレリオという名の尉官による未公認報告書だ。
「ああそうだ、援軍を要請した後どうなったんだ」
 まるで物語の続きをねだる子供のように、胸の内が静かに興奮を覚えているのをシールズは感じていた。さすがに今回は口出すことが何も無い二人の大尉、アイラスとランドも、好奇心が押さえ込み切れない両視をキールの手にある書類に向けている。
「援軍は三百名からなるシェイン・ユーランド大佐率いる中隊。逃げ遅れ人質となったトラキス村民約五十名の救出を第一目的とした。更にノースクリフ少佐は後続隊として千二百名からなるトラキス国境線防衛部隊の進軍を要請していた」
「まあ、妥当な判断だな。それで?」
 村民の救出後、敵軍に拠点を張られる前に軍を展開させて防衛を計る。士官学校出身の佐官なら誰でも想定する、順当手段と言えよう。戦場の狭さと進軍の遅延を避ける事を考慮した上の数字だ。とにかくこの時点では、「速度」が求められていたであろうから。
「ユーランド隊が作戦開始と同時に、ノースクリフ隊はトラキス・ダム湖脇の水力供給施設と水力発電施設を制圧。村への水力と電力供給を塞き止め、ユーランド隊を援護」
「十五名で制圧か。そりゃすごいスね」
 長時間沈黙を続ける事に耐えられなかったか、ランドがそんな感嘆を洩らす。だが両大佐も概ねそれに賛成していた。
 報告書はその後、ユーランド隊は損害を出すも村民救出を成すが、作戦想定時間を大幅に越えた為に帝国の援軍が到着してしまい、撤退を余儀なくされ、結局再び村を軍に明け渡す事となる不手際を記していた。
 そして更に悪い事に、ユーランド隊側の連絡不行き届けによりアリタス側の援軍到着が大幅に遅延。ノースクリフ隊はダム湖近辺に孤立する事となる。
「あ~あ。ダメ上司を持つと部下が苦労する典型だな」
 とシールズ。
「………」「………」
 さすがに二人の大尉は安易な同意を避けた。だが、アレックは、
「そうですね~、大変なことになりましたね、このノースクリフ少佐」
「ばかっ!」
 凶悪な言葉を、全く悪気の無い様子で言ってのけて、アリサに頭を叩かれるのだった。
「痛いよアリサ……」
「なに肯定しちゃってるのよ。上司によっては今の発言で左遷よ左遷!辺境局に飛ばされちゃうんだから!」
「…………」
 新人特有の怖いもの知らずな発言を背中で聞きながら、二人の大佐は奥歯で苦虫を噛み潰すのであった。ちなみに二人の大尉は、聞いて聞かぬ振りを押し通していた。誤解を招きかねない発言だが、彼らは決して上司を侮蔑しているわけではない。
「で、どうなったんだ、その後。この報告者はその苦労人少佐の隊にいたんだろ」
 これを書いて提出しているという事は、生還したという事だろう。そうは思いながらも、シールズは続きを知る好奇心を抑えきれずにいた。
「ユーランド隊が撤退した直後、ノースクリフ隊は陽性行動に出ている。一度ダム湖から村に向けて隊を二つに分けて動かしている」
「何のために?」
「ダム湖方面に敵をおびき寄せる事が目的だったと書いてあるな」
 敵は援軍と合流した直後で浮き足立っており、同時にアリタスの援軍が到着する前に、高地の確保とダム湖からのエネルギー供給を再開させねばならないという焦りも伴っていた。上司に恵まれないこの少佐は、敵隊の統率が取りきれていないと判断し、まばらに高所と低所に散っていた敵の誘導作戦に出たという。
 話を聞き進めるうち、シールズの面持ちが僅かに変わり、続いて伝染したようにアイラスとランドも眉根を顰めた。そして最後に、
「あはは、水攻めってまさか……」
 最後尾に立つアレックの口から苦笑が漏れた。
「そのまさかのようだ」
 そして最後に淡々としたキールの声が締めくくる。
「シールズ。公式文書では、発電所と水路を破壊したのは帝国側だと書いてあったな」
「ああ。完全な自滅だ」
「この紙によれば、それをやったのは帝国軍ではない」
 キールの手にある報告書には、ノースクリフ隊、ダム湖方面に敵が突出し始めたのを確認した直後に用水管と水門を破壊、とあった。
「その結果、大量の水が津波となりライザ大隊の鼻面と横っ腹に直撃、と」
「そんな作戦アリなんスか」
 ランドの独語を聞きつつ、キールは続ける。急激な水流の変化により、試運転状態だった発電所がオーバーワークでショート。それを見計らい隊は発電所を破壊、発電所内の帯電機器に蓄電されていた大量の電流が瞬発的に豪流へ放電。
「発電所に最も近づいていた敵の一隊が即死。更に渓流の形状が狭小だったために水流の勢いが衰えず、中腹以下に散っていた一隊も一掃。そのまま中腹から下腹にかけての一帯を巨大な水溜りへと変え、敵隊の分断に成功。敵の動きを抑えたところに、クルーリック少将率いる千二百の援軍が到着。残った敵隊を撤退させ、トラキス国境の防衛に成功、と」
「えげつねぇな」
 思わずシールズが苦笑と共に洩らした言葉は、研究室でライアンが口にしたものと同じだった。
 キールの手元にある紙には簡単な手書きの地図が描かれており、ダム湖から伸びる渓流は下腹部で急激に広がりを見せ、村を囲うように底辺が広がっている。このために水は下腹部に達するまで勢いが衰えず、水流を拡散させないそのままの水量をもって、標高の低い一帯を水底に沈めてしまった。
「帝国が発電所や水門を占拠しきれなかった時点で、勝敗は決まっていたのかもしれませんね」
 非現実感に思考が浮つきかけている中、沈黙を続けていたアイラスの平静な声。「そうだな」と同意に頷いてから、キールは古地図上のダム湖を指した。まず「司令拠点たりえる高地の占拠」というのは、これも士官学校就学経験のある者なら誰でも知っている基本セオリーだ。
「基本に準拠できなかったのが、敵にとっての致命傷だったな」
 しみじみと、紙面を眺めながらキールが呟く。
「このノースクリフ少佐隊十五名が無能集団だったら今頃、微妙に歴史が違っていたかもしれませんね」
 両大佐の頭の上から書類を覗き込む形で立っていたランドが、呟く。重要拠点たる水門や発電所を敵自ら破壊するとは、到底思えなかった。したがって、矛盾を多く含んでいるのは公式史料の方だという結論になる。だからといって、この未承認の紙切れが表す内容もあまりに荒唐無稽で、信憑性があると断言する事はできない。
「フラスコ状……か」
 呟いたのはシールズだった。地点Bの特徴を聞き出していた時のライアンが思い浮かぶ。奇しくもトラキス・ダム湖の中腹から下腹にかけて、村を取り囲む地形が描く線は、フラスコのそれに似ていない事もない。また一つ現われた、グレリオ・セントラルの殺人事件との奇妙な符合だ。
「それにしても、何だって准将はこんなマイナーもいいところな情報をご存知だったんでしょう」
 と、またアレックの素朴な疑問が流れてきた。「そうですよね」と相槌をうつアリサと、彼は首を傾げて顔を見合わせている。だが何かに合点したようで、レトロに手の平に拳を打ち付けた。
「さすが、相当な戦略マニアですね!いますよね~、極端に知識が偏っている方って。僕の先輩にも、ここ百年間のアリタス全土の天気を全て暗記してるのに、何回教えてもコーヒーメーカーの使い方を覚えない方がいらっしゃるんですよぉ」
 ぬけぬけと、何ら悪気の無い、むしろ尊敬さえこもっている言葉を嬉々として発している。
「そういう問題か?」
 すぐ前にいたランドが振り返った。
「………」「………」
 テーブルの前でアレックに背を向けている両大佐は、既に振り返る気力も失っていたのだった。同時に、今後アレックのことはウマが合いそうなランドに任せよう、そんな事を思いたっていた。




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06

「しかしシールズ、准将は何故この事項を引き合いに出したと思う?」
 背中でまだアレックがランドも交えて何やら語っているが、それを聴覚からシャットアウトして、二人の大佐は目の前の課題に意識を戻した。キールの言葉を受けて、シールズは人差し指を立てる。
「共通する部分が多い事は分かった。地名と姓名の違いはあるが「グレリオ」、水、電気、地形、「グレン」という名…これはありふれた名だからどうかしらんが、それから、「素手と銃」だ」
「何だ「素手と銃」って」
 キールの細く神経質そうな眉が顰められる。シールズは不敵に微笑んだ。
「お前がさっき言ったじゃないか」
「私がか?」
「グレリオ・セントラル殺人事件の容疑者が、まさか素手で銃と対峙する事はないだろう、と」
 言われてみれば、身に覚えがある。キールは素直に肯定した。だがそれが、どうだというのか。シールズは笑みを崩さず「いいか」と言葉を繋げた。
「トラキスに侵入した帝国隊は恐らく三桁規模。少なくとも先発隊だけでも百人以上はいたと思う。村を占拠し、高所を制圧し、陣を敷くためには人手が要る」
「そうだな」
「対して、この紙にあるアリタスの視察隊は十五名だぞ」
 素手と銃。すなわち、少数対多数。圧倒的武力の差を表す揶揄とうわけだ。
「そんな出来すぎた暗喩があるのか」
 納得する一方でキールは、彼には珍しく辟易とした面持ちで大げさに肩を竦めた。少し声が高くなり、声量も増していた。
「事実、符合するのだから仕方ないではないか」
 拗ねた少年のように口をへの字に曲げたシールズ。我ながら屁理屈と同義だと自覚していた。だがこの無名の仕官による未承認報告書が、ライアン曰く「トラキスの水攻め」である事はほぼ間違い無いようだ。問題はその先で、この報告書内容の何から殺人事件を紐解けというのか。
「グスタフ准将も恐らくそこから先をご存知無いのでは」
 相変わらず平静なアイラスの声が、両大佐の会話が途切れかけたタイミングで差し込まれる。
「研究室でのご様子では、殺人事件について初耳のように見えたのですが」
 それは恐らくそうなのだろう。両大佐は否定しなかった。
 単に彼の頭に記憶されていた膨大な戦史記録の中から、凄まじい検索能力によって「トラキスの水攻め」が偶然値を超えた合致性をもって抽出された、それだけの事なのだ。言葉にすれば理屈は簡単だがそれが如何に非凡な事か、両大佐も二人の大尉も、知っている。
「この十五人、この後どうなったんだろうね~、アリサ」
 アレックは、まだ仕切りに感心顔を紅潮させていた。
「もし、こっちの紙の方が事実なら、何で国はこれを認めずあんな茶番みたいな作り話で取り繕ったと思う?」
 シールズは「茶番」戦史が記された本の表紙を指先でノックした。キールは書類に視線を向けたまま。
「武勲を立てたと言え、公の施設を破壊したのだ。この少佐も無事じゃないだろう」
 司法分野に知識が通じているキールが言う「無事じゃない」とは即ち、責任の所在と処罰の軽重を表している。全国軍人の処罰履歴を表した軍法会議か裁判記録でも漁れば、今件についての記載が見つかる可能性もあった。
「ま、確かにそうだよな。軍法会議の資料か……」
 だが業務の責任上、シールズにそこまで踏み込む必要性は、無い。今のシールズの思考は、個人的好奇心のレベルで動いていた。
 あまりに不本意な事なのでシールズ自身は気がついていないが、「破壊力のある好奇心」を持ち合わせている点で、彼も非常にアレックと似ていたのである。



 柔らかい微笑みに勧められて、ようやくミソラはテーブルの焼き菓子に手を伸ばした。口に入れてみると、綿菓子のように舌の上で溶けた。香ばしさと甘さが口いっぱいに広がる。
「美味しい…」
 思わず呟いたところでソフィアと視線がかち合い、ミソラは「お、美味しいです」と慌てて言い直した。ソフィアから、また微笑みが戻る。
「私たちはね」と緩やかな速度で言葉を紡ぎながら、ソフィアは足下に顔を摺り寄せてきた子猫を拾い上げて、膝に乗せた。名前はボルト。由来は、背中に走る茶斑が稲妻に見えるからだ。
「旧聖地グレリオの村で生まれたの。母の故郷よ」
 多くの経験を超えてきた年月を感じさせる、少し痩せた指先がボルトの細い毛並みを撫でる。
「そう…なんだ」
 誰にともなくイルトは呟く。自分が生まれた同じ場所で、この男も生を受けた。同じ風景を見ていたのだと思うと、妙な感慨がした。
「私達、最初は三歳違いの兄妹として出遭ったの。幼い頃をグレリオで過ごした後、私が十一、兄が十四の時、元々ACC出身だった父と共に家族はACCに移住したのよ」
「だから、グレリオは私達の故郷でもあるわ」とソフィアは微笑んだ。
 イルト達の耳に「出遭った」という言葉が引っかかる。兄妹関係を表すのに、あまり使わない語彙のように思われたからだ。
「でも、私が二十六歳の時に、年齢が逆転してしまった」
「どういう、ことですか?」
 独語のようなミソラの問い。
「「精霊隠し」って聞いたことある?」
 逆にソフィアが問いかける。イルトは首をかしげたが、ミソラが少し前に乗り出した姿勢で「聞いたことがあります」と答える。
「地方によっては、「鬼隠し」や「神隠し」、「妖隠し」とも言われ方が色々あると本で読んだ事があります」
 ミソラの答えに「そうね」とソフィアが頷く。対照的に、イルトは首を捻った。
「俺はちょっとそういうの…わからないです」
 どのような類の本を読めばその類の事が書いてあるのか、文芸に疎いイルトには想像もつかなかった。ミソラの説明によると、ある日忽然と人が姿を消して行方不明になってしまう現象の事を言うらしい。二度と戻ってこない場合もあれば、数年後、あるいは数十年後、行方不明になった時のままの姿で、突然に再び戻ってくる場合もあるという。戻って来る場所は、行方が知れなくなった場所とは限らない。行方不明になる対象は、未成人の子供である場合が多く、行方不明になっている間の記憶が無いという。
(記憶が…?)
「……あの、ちょっと待ってください」
 話を聞くうち、イルトの脳裏に記憶が浮き上がってくる。漠然とするそれを懸命に掬い出そうとして、イルトは続きを話し出そうとするソフィアを引き留めた。
 そう、あれはグレンと初めて会った日に聞いた話。

― 一回目の時もそうだ。この時も、数年の記憶が剥ぎ取られている

 そう言っていたあの言葉は、これの事なのだろうか。
「あの話は……「一回目」って、この事なのか?」
 ソフィアの向こう側で手紙を読み続けているグレンに向けて、イルトは問いかける。手元に落としていた視線を上げて、
「ああ」
 微笑みと共にそう一言だけ発して、彼は再び視線を手紙に戻す。ソフィアに任せている、信頼しきっている、そんな安心感が伝わってきた。
「私が十一歳の時、当時十四歳だった兄さんは突然姿を消したの。共暦二五二九年、夏の事だったわ」
 今から四十二年も前の事である。
「いつものように学校に行ったまま、兄さんは帰ってこなかった」
「………」
 イルトの隣でミソラが片手を口元に当て、息を呑んだ様子が感じられた。反して、ソフィアの膝の上ではボルトが呑気な大あくびをしている。
「それから十五年が過ぎて…当然、兄さんは死んだものとして戸籍にも登録されたわ。でもある日……母の故郷である旧聖地グレリオの村から、長と名乗る人物から両親の元に連絡が入ったの」
「え…」
 当事の長。それはつまり、イルトの曾祖父の事だった。
「死んだと思っていた兄さんが、そこにいるって」
 話の流れから、グレンが行方不明になったのはACC。だが再び姿を表したのはグレリオの村。以前に聞いたグレンの話とも、イルトが初めて彼と遭遇した時と、条件が合致していた。
「十五年ぶりに帰って来た兄さんは、十四歳のままだった」
 ボルトを撫でていたソフィアの指が止まり、ニーと抗議の鳴き声が小さく挙がる。
「ホントに、精霊隠し…なのですね」
 口元に手を当てた姿勢のまま固まっていたミソラは、ずっと息を詰めていた事に気がつく。独語と共に小さく長い息をついた。黒い瞳をソフィアの向こうにいる男に向けるが、当の本人はまるで読書を楽しんでいるように寛いだ表情で手紙に視線を落としたまま。
「そんな、素直に信じられるものなのか?」
 目の前でその事象の断片を見たとはいえ、イルトは未だに違和感を抱き続けている。正直過ぎるほどにソフィアの言葉を受け止めるミソラに、イルトは内心で肩を竦めた。
「でも実際に、そういう事件はいくつか起こっているんですよ。新聞でも見たことあります。諸説は様々ですけど」
 弁解するようなミソラの面持ちは真剣だった。
「医者志望がそんな非現実的な事を素直に信じていいのか?」という心情を、イルトは口にはせずに飲み込んだ。あの大先生の娘である。怒らせたら実は怖いのかもしれない。
「イルトくんの気持ちは、よく分かるわ。私だってしばらく信じられなかったもの」
 租借しきれないイルトの面持ちに、ソフィアは同意の頷きを向ける。
「でもこういう時、親って凄いものよ。子供が戻ってきたというだけで無条件に喜ぶの。私なんて、頭の固い方だったし、結婚を控えた良いオトナだったから…」
 年老いた母親が十四歳の兄を抱きしめて泣いている。それを少し離れた場所から見つめている二十六歳の自分。今でもその光景を覚えている。ソフィアの瞳は追憶を映していた。
「あのう…そういう時って、社会復帰はどうされたんですか?戸籍上は既に死亡している事になっていたのですよね?」
 妙に現実的な質問が、ミソラの口から飛び出した。一瞬、目を丸くしたソフィアだが、直後には鈴を転がすように笑い出す。膝の上で午睡に落ちようとしていたボルトが迷惑そうに顔を上げた。
「ええ…?」
 これはイルトの口から思わず出た、言葉にならない声。「精霊隠し」という非現実的な言葉を真剣に受け止めて会話していたかと思えば、今度は急に現実に立ち返った事を言う。ソフィアも「頭が固い」と自らを評しながらも、ごく自然に全てを受容している。
 イルトはますます「女の心理」が分からなくなっていた。
「父が国軍公務局の人間だったから、戸籍管理課のツテで戸籍操作したんだ」
 ソフィアの後ろから、グレンが答えた。偽名金庫の件を聞いていたので、イルトはさほど驚かなかった。
「その時から私は兄さんの年の離れた「姉」になったの」
「個人情報管理法が厳正化されたから、父さんは苦労したと仰っていたっけ」
「そうよ、下手したら父さん、逮捕、免職だったのよ?」
 戸籍上「姉弟」の兄妹は、平和な顔して笑いあっている。
「………ちょっと……」
 イルトは絶句する。驚かなかった代わりに、この危険な話を事も無げに笑いあいながら言い交わす「違法上等」兄妹が空恐ろしい。
「もう、これだけでも十分おかしいでしょう?人として。でももっとおかしい事があるのよ、この人」
 絶句する若い二人に照れ笑いを向け、ソフィアは少し言葉を砕けさせた。その際に垣間見せた些細な表情が、グレンのそれを彷彿とさせるとイルトは思う。不思議と少しずつ、この兄にこの妹ありという気になってきた。
「本当なら兄さんは今、五十六歳。いなくなった十七年間を差し引いたとしても、四十一歳のはずなの。なのに、そうは見えないでしょう?」
「羨ましいわ~」とソフィアは茶化した風に大きな溜息をついて肩を竦める。
「ええ??!」
 と、イルトとミソラからは甲高い声がひっくり返った。それを尻目にソフィアは「あらやだ、私の年齢もばれちゃったわ」と笑っている。
「私の父……が四十四歳…なのです…が…」
 ぎこちなく首をこちらに向けるミソラと、目が合う。ぱっと脳裏に大先生の白髪まじりの厳つい顔面がイルトの脳裏に思い出された。比較対象を挙げられてみると、如何にグレンの外貌が不自然か分かる。
 口に手を当てたままミソラは黒目がちの瞳を丸くして、それ以降の言葉をどこかに失くしてしまっていた。
「あの、イルト君…」
 視線をグレンの横顔に向けたまま、ミソラが小声で問いかけてきた。
「私……こんなお話を聞いてしまって、よかったのでしょうか?グレンさんて……何者なのですか?」
「えーと…」
 イルトに答えが出せるはずもなく、彼も恐る恐るとグレンに答えを求める視線を向けた。極力、軍には己についての情報をひた隠しにしてきた彼が、イルトの元同級生というだけで全くの第三者であるミソラに、ここまで様々を聞かせてしまうその意図が計りかねたからだ。もっとも、核心が隠されているままである点は同じだが。
「あら、ミソラさん、兄さんから何も聞いていないの?」
 ティーカップを手に首を傾げて、ソフィアがミソラに尋ねる。
「ダメよ、女の子が簡単に妖しい人について来ちゃ」
 温かく甘い湯気の中、ソフィアの柔らかい微笑みが悪戯っぽいそれに変わっていた。黄金の草原の中、儚げな空気を纏っていたように見えた彼女が今は、同級生の少女のようにも見える。
「ソフィアさーん」
 そんな時、外からの声がリビングを横切った。モップ犬、もといリットルの鳴き声も後を追う。警戒しているのではなく、遊んでくれとねだる時の声だ。
「郵便屋さんだわ。何かしら」
「ちょっと失礼」と言い残してソフィアは玄関に向かう。親しげな会話と犬の鳴き声が玄関から響いてくる間、リビングに残った三人、特にイルトとミソラは意味もなく息を潜めていた。玄関のソフィアの様子を気にかけていたグレンが、二人を振り向く。
「私の事については、おいおい説明するよ。悪かった」
 緊張感に縛られたままのミソラに小さく笑った。
「い、いいえ。イルト君と…何せあの父が信用した人ですから。妖しいだなんて思っていません」
 ミソラは慌てて顔の前で小さく両手を振る。フォロー、というには少々墓穴を掘ってしまった感はあるが、気持ちに嘘はなかった。どのような言葉で説得したのか聞かされていないが、断固として頑なに進学を反対し続けていた父親の心を溶かしてくれた事を、ミソラは心からの驚きをもって感謝している。
「兄さん」
 玄関からソフィアの声が近づく。リットルの声が再び遠ざかっていった。去っていく郵便屋を追いかけているのだろう。
「電報だったわ」
 リビングに戻ってきた彼女は、片手に白い封筒を持っていた。
「兄さんによ」
「私に?」
 グレンが立ち上がる。
「………」
 胸の奥で、イルトは心臓が一度だけ大きく打ち鳴らされるのを感じた。ありふれた白い封筒が、激動の運命への招待状のように見える。思えば、テイダスと再会し己の未来を決定付けたきっかけの一つであった小切手も、白い封筒に入れられていた。
 グレンは封筒を受け取り、中から白い少し厚手の紙を引き抜く。開いた直後、最初の一行を目にした瞬間に「ふっ…」と口から苦笑を漏らした。
「親愛なる大馬鹿者へ」
 出だしはそう書かれていた。
 本文は、ただ一行「連絡よこせ、馬鹿野郎」。
 そして文末はこう締めくくられている。
「悪友より」と。
 差出人名義は、アーサー・ノーブル。そして本文はライアン・グスタフによるものだ。軍の暗号送信システムを応用した電報は、リアルタイム性が高い。この放牧場から郵便局までの距離を考えると、この電報は少なくとも二時間以内に打たれた物と考えて良い。
「そのうち、な…」
 グレンは電報本文の向こうにいる友人に短く語りかけ、手にした紙をたたんだ。




ACT10-7⇒
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押印師ACT10-7
07

 乾きの街、シュトル・セントラル。暴走者により甚大な被害を受けた街は、市場通りを中心に街は瓦礫と砂に半分埋もれた状態となった。
だが二晩が明けた日の午前、半壊状態となった市場通りに再び、人の色が行き交うようになる。人々は、砂と石片の上にシートをひき、天蓋を立て、あり合わせの物を持ち寄り、再び市を開いた。
 その様子を、高台から見つめる目があった。薄汚れた砂色の中央でまばらに動く色を眺めて、投げ出した両足をぶらぶら動かす。
「すごい、逞しいね。もう市場が開かれようとしているよ」
 街を見つめる人影は二つ。俯瞰で景色を見渡せる高台に腰掛ける少女と、その後ろに立つのは大柄な体躯の男だ。
「そうだな。で、どうする?」
 黒や灰色、ベージュを基調としたモノクロームのいでたちの男は、大柄な体躯が伴いさながら壁か柱のよう。まっすぐ伸びた姿勢と短く刈られた頭髪が、精悍だ。「どうする」と問いかけられた少女も、黒い上下を基調としているが、少女らしい薄桃色の刺繍が施された、絣折りのカーディガンを羽織っていた。絶壁から放り出した細い足を引き上げると、その場に立ち上がる。
「レイノスが暴走させた精霊を止めたのが、私と同じ年恰好の女の子だって言うじゃない?」
 自分の倍はありそうな男を振り返って見上げる。
「だが、流石にもうこの地から去っているんじゃないか」
「やっぱりそうかな」
 男の推測に、少女は残念そうに眉を下げた。
「指名手配人だという自覚があれば、これだけの騒ぎを起こしたんだ、一刻たりとも一箇所に留まりたくないはずだ」
「なるほど、そうだね。谷が匿ってるっていうなら、また一揺さぶりかけて炙り出したいところだけど……」
「今となっては無駄だ」
 男の短い答えを受けて、少女は「ちぇ」と小さな唇を窄めた。黒がかった茶色い髪の毛が、砂混じりの風を受けて揺れる。目元にかかった髪の毛を指先で無造作に払って、少女はその手を前方に差し出した。
「翼よ、我が背に宿れ」
 小さく呟くと共に、差し出した右手の甲が輝いた。
「メア」
 そう男が呼びかける目の前で、少女の背に白い翼が現れる。背伸びをするように大きく空に向かい羽ばたくと、小柄な少女の体はいとも簡単に中空に浮き上がった。
「ちょっと街の様子を見に行くだけ。すぐ戻るよ」
「しかし」
「大丈夫、顔はちゃんと隠すから」
 非難の色を目元に浮かべる男に、メアと呼ばれた少女は悪びれない笑顔を向けてから更に高度を上げた。滑るように小さな体が遠い砂色の街へと吸い込まれていった。





 駅に佇む若い女は、それだけで絵になる。ドーム型の立派な高天井を構える駅構内、時計がすえられたモニュメントに背を預けて立つ黒髪の女がいる。長く真っ直ぐな髪を後ろで束ね、細くしなやかな肢体が野生の豹を彷彿とさせる。だが涼やかな両瞳は伏せられ、その物憂げな様子は道行く人々の関心を引いた。
 これから旅立つのか、それとも少し前に到着したばかりの列車に乗ってこの駅にたどり着いたのか、女の足元にはいくつかの鞄が置かれていた。
「こんな街に、旅行か?」
 誰かを待ち侘びた様子の女に、男が声をかけた。昼間から酒に酔っているのか、どこか虚ろな目をしている。
「……」
 細い両腕を胸元に組んだまま、女はそれを無視して顔を背けた。アルコール臭い息が不快だったからだ。男は女の反対側に回りこんで再び酒臭い息を吐きながら「こんなとこに来たって楽しい事はないぜ」と馴れ馴れしく話を続ける。
「貴方は、この街の人なの?」
 言いながら女はまた、息から顔を背けた。
「ああ。生まれた時からこの街さ。もっとも…すぐに出て行ってやるがな……だけど、なんなら隅々まで案内してやろうか?」
 女の言葉から、彼女が外の人間であると察しがつく。一方の男は、手にしている中型のボストンバッグと言い草から察するに、これから生まれ故郷を去ろうというところらしい。
 女は感情を乗せない冷ややかな視で男を一瞥した。
「レクティカは「品位高き学匠の街」と聞いていたのだけど」
 レクティカ・タウン。
 いくつもの専門大学校や膨大な蔵書数を誇る図書館、基調な学芸品を保有している美術館や博物館などを有する、「知的財産の街」とも称される、学匠の街(アカデミック・タウン)。アリタスには、ACCを中心に五芒星を描くように五つ、こうした「アカデミック・タウン」と呼ばれる学芸都市が存在した。
「品位だと?」
 男は赤らんだ顔を更に紅潮させた。
「俺がこの街の品位を落としてるって言いたいのか。だけどな、俺だって好きでこんな昼間から酒なんか飲んでるんじゃない」
 興味がない、とばかりに女は視線を反らして腕を組み替えた。だが目端で気付かれぬように男を観察してみると、確かに男は根っからの飲んだくれではないようで、乱れているものの身につけている白いシャツは、仕立ての良い物に見える。
「品がいい街だなんて気取っているがな、学閥闘争ほど頭が悪くて醜いものはない」
 管を巻く男の言葉を、女は視線を明後日の方向に向けたまま、聞かない振りをして聞いていた。男の方も、相手は誰でもよく、ただ吐き出した言葉を聞き流してくれる誰かを望んでいただけのようで、相槌一つ打たない女に気を悪くするでもなく、恨み言になりきれない愚痴を零している。
(……長い話)
 女がいい加減にうんざりとした面持ちとなってきた頃、同じレクティカ・タウンの駅構内で、二人の少女が地図を手に案内カウンターを後にした。
「すごい、うわさでは聞いていたけど、本当に街全体がキャンパスみたい」
 片方の少女が地図を広げ、感嘆の声を上げている。その隣から人形のように造詣の美しい少女が「キャンパス?」と問いかけた。
「えーっと、この街全体が一つの大きな学校みたい、という意味」
「学校の街ですか~。私、学校って行ったことがないので興味深いです」
「ああ…そっか……ん?」
 次に続ける言葉に迷った少女の瞳に、時計モニュメントの下で待つ黒髪の女の姿が入った。見知らぬ酔っ払いの男が、その隣で何やら喋り続けている。
「ジャスミンさんの隣にいるあの人、どなたでしょう?」
 美しい少女もそれに気付き、首を傾げた。「さあ」と左右対称に首を傾げる隣の少女。ナンパにしては、男が視線を明後日に向けて一人で喋り続けている印象がある。観察しているうち、黒髪の女、ジャスミンと少女達の視線がかち合う。途端、野性的だった黒い瞳に、親しげな笑みが浮かんだ。
「ごめんね、お待たせ~」
 そう声をあげて駆け寄る少女達は、エルリオと、ミリアムだ。
「ううん、それなりの暇つぶしはできたから大丈夫よ」
 足元の鞄を拾い上げながらジャスミンと呼ばれた女は、傍らの男を一瞥する。二人の少女の登場に、男はバツが悪そうに赤くなった鼻を小さく啜った。
「何だ、子持ちか」
 男は酔いと共に興味を消失させ、間の悪さを誤魔化すために小さく悪言を吐き出す。それが、命取りとなると気付かずに。
「…子持ち?」
 温度の低い笑みを浮かべたままのジャスミンの唇が、低く男の言葉を繰り返した。
「あ、ダメだよ」
 エルリオのポケットの中から発せられた声が言い終わらる間もなく、小さな金属音と共に微かな風が下から吹き上げた。男が瞬きのために瞼を閉じた瞬間に、顎の皮膚に冷たく硬い感触がした。
「私、こんな大きな子供が二人もいるように見えるのかしら……?」
 顎下に突きつけられたのが黒光りする銃口と知り、男の酔いは急激にマイナスへと転じた。紅潮していた面持ちが、今は青い。
「あ~あ」
「まあ」
 その様子を下から見上げるエルリオとミリアムは、顔を見合わせる。うまい具合に周囲から、銃の存在が隠されて見えていないようだ。
「と、とととととととんでもない…デス」
 男の声は完全に上ずっており、歯の根が合わずに酷くどもった。
「ダメだよおじさん、そういう時は『姉妹?』って言わないと」
 哀れなほどに萎縮してしまった男の目に、下から見上げてくるあどけない二人分の顔が映る。震えながらも男の視線が、エルリオ、ミリアムへと動き、そして最後に再びジャスミンに戻った。
「……よく見たら、ちっとも似てないんだな…じゃあ連れ子な―」
 その余計な一言第二弾が発せられた半秒後、哀れな男の体が宙を舞った。
「世間知らずは命取りになる良い見本だわ」
 完全に伸びてしまった男を尻目に、「これだから学問で頭が凝り固まった人は嫌いよ」と呟きながらジャスミンは、銃を素早く懐に仕舞いこむと足早に踵を返した。二人の少女達が慌ててそれを追随する。背後で野次馬が騒いでいる声が膨らんでいるが、振り返らないようにした。ただ、エルリオのポケットから顔を出したキューだけが、倒れた男に群がる野次馬達の様子を見守っている。
「何のお話しだったのですか?」
 駅構内を抜け出し、バスターミナルの上を掛かる歩道橋に差し掛かった頃、ようやくジャスミンは速度を緩めた。それを機にミリアムが問いかける。
「つまらない話よ。恐らく、学閥闘争にでも負けて街を出て行かざるを得ない状況だったんでしょう」
「学閥闘争?」
「ええ。真理が権力闘争の材料になる、醜い現象のこと」
 まんざらあの酔っ払いの言葉は間違っていないのだ。
 エルリオ、ミリアム、ジャスミンの三人が、シュトルを出た後最初に向かったのは「学匠の街」、レクティカだった。五つのアカデミック・タウンの中で最もセントラルに近い位置に存在している。
 エルリオが二箇所目の旅先としてここを選んだ理由は、蔵書数が豊富な資料館や図書館の数の多さだった。郊外のアカデミック・タウンには、セントラルで所蔵しきれなかった数多くの史料が移されていると聞く。それに、これまでの短い旅の中で得た数々の情報を整理する良い機会でもある。
「あ、あのぉお……」
 背後から、聞きなれない声がした。
「!?」
 それは柔らかいテノール。だが酷く震えていた。三人はほぼ同時に振り向き、ジャスミンは反射的に右手を銃を隠している腰の位置に移動させていた。その勢いに逆に驚いたか、眼鏡の奥で目を丸くした男がそこにいた。肩から羽織っている紺色の外套は、この街でよく見かける大学院所属研究生の制服だ。アリタスでは珍しい、色素が薄い稲穂色の頭髪が最初に目に入った。
 男がジャスミンに向けて差し出している手に、銀色の鎖が握られている。
「こ、こ、これ、あ、貴女が落とされ、たもの、ではない、ですか…?」
 その声は酷く上ずり、そして手をジャスミンに差し出しているものの、体は完全に逃げ腰で、背を丸めて不自然な体勢だった。頭髪の色の珍しさより、三人の意識はすっかり男の口調とへっぴり腰に向いていた。
「句読点が変だよ、おじさん」
 エルリオが呟く。
「あ……」
 男の手にあるものを目にしたジャスミンは、短く息を呑んで自らの胸元に手を当てる。首にかけていたはずの鎖が、ない。
「あ、あな、貴女がサルークを殴り、飛ばした辺りから、見ていたんです。あ、サ、サルークとは、あの、酔っ払いの名です。私は、本当は彼を見送りに来たのですが」
 完全に怯えながらも「どうぞ」と男は手にしている鎖を更に前に差し出した。どうやらジャスミンがあの男を殴った拍子に、落としたらしい。
 心底から安堵した面持ちでジャスミンは男に歩み寄り、
「ありがとうございます、大切な物だったのです」
 と男の手に自らの手を伸ばした。
「これ、は、とても珍しいもの、ですね」
「………」
 男の言葉に、一瞬ジャスミンの手が止まる。それは、谷を出立した時にヴィルがジャスミンに贈ったものだった。銀の鎖に、「竜の卵」と呼ばれる小さな石が吊り下げられている。列車の中でエルリオも見せてもらったが、石の表面に鱗のように細かく模様が刻まれている。
 男は、己の手の平に乗る宝石をしげしげと眺めた。たった先ほどまでジャスミンに怯えきった表情を見せていたのに、今は珍しい物に喜ぶ子供のように己の手の平を見つめて、微笑んでさえいる。
「この刻まれた模様によって石が、薄紅にも、薄緑にも見える。透明でもあり、濁っているようにも見えて、宝石とも硝子とも言えない不思議な物質、です」
 ジャスミンの瞳に訝しがる色が浮かんだ事に気がつき、男は「あ」と我に返る。宝石に向けていた視線を慌てて上げ、また怯えた表情で背中を丸くした。
「す、す、みません!へ、変な、変な詮索をするつもりは、ないのです。私の悪い癖で」
 そして再び「どうぞ」と手を差し出してくる。ペンダントは素直にジャスミンの手に収まった。
「で、で、では、私はこれ、で。先ほどは、知人が、失礼しましたぁあ」
 言いながら男の姿は既にその場から消えていた。脱兎のように駆け出した語尾が、ドップラー効果のように遠ざかる。遠くに、紺色のマントが歩道橋の下へと駆け下りていくのを、三人は呆然と見送った。
「あそこまで怯えなくてもいいのに」
 ペンダントを再び首にかけながら、ジャスミンが溜息をつく。
「この街の人って、コミュニケーション能力に少し問題があるんじゃない?」
 エルリオの意見に「大丈夫なのかしらね」とジャスミンが同調する。そんな中ミリアムは、男が走り去っていった方をぼんやりと見つめている。
「何か落ちてる」
 ポケットからキューの声。足下を見やると、タイル敷きの歩道橋に、一枚のカードが落ちていた。我に返ったミリアムがそれを拾い上げる。
「さっきの男の人のようです」
 写真つきの身分証明書だった。紺色の上着を身につけた眼鏡の男の顔写真と共に、所属組織名が記されている。人と対面する時はろくに目を合わさなかったのだが、写真の中の男は真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
「レクティカ大学校研究院考古学科、助手。国軍研究局助手・有期講師兼任。クラース・ベルトラン」
 随分と長い肩書きだ。思わず読み流すところだったが、エルリオの目は「国軍」の文字で止まる。
「これ、お届けにうかがいませんか?」
 ぽつりと、ミリアムが呟く。
「『彼女』も…そう言っています」
 後に続いた言葉は、語尾が消えかけるほどにひそやかだった。
「彼女?リューシェが?」
 エルリオの問いかけに、ミリアムは平静な顔で頷く。その面持ちが「リューシェ」のものに変化した様子はない。頭痛に顔を顰める様子もなく、どうやら頭の中での共存に慣れてしまっているようだ。
「まあ、親切するに越したことはないけど」
 ミリアムの手からカードを受け取って、エルリオは改めてそこに書かれている文字を眺める。
「………」
 ミリアムは視線を斜め下に逸らした。どうやら『彼女』と対話しているようだ。小さな口の中で聞こえない程の独り言を呟いた後、「一期一会は大切になさい、だそうです」と顔を上げる。
 はぐらかされたような答えに、エルリオは肩透かしをくらう。自己主張が強いリューシェが表に出てこないところも勘繰りどころだ。何か意図があるのかもしれない。だがこの街の人間と接触を持つ好機であるとう点で、エルリオの意思はリューシェと一致する。
(あのひと句読点がちょっと耳障りだけど、害があるようにも見えないし)
 国軍に少なからずや関わりがありそうな肩書きに用心が必要だが、概ねエルリオの中で心は決まっている。
「これ、届けにいこっか」
 誰も異論を唱える者はいなかった。




ACT10-8⇒
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押印師 ACT10-8
08

 レクティカ・タウンの中心部は、巨大な菱形を描くような構造をしている。最南の頂点にレクティカ中央駅があり、東の頂点に庁舎、西の頂点に国軍のレクティカ局、そして北の頂点にレクティカ大学校が、聳えている。エルリオが駅の案内カウンターで貰ってきた地図では、その菱形を「レクティカ・ダイアモンド」と称していた。
「あれが、ダイアモンドのコアという事かしら」
 駅から真っ直ぐに北を目指す途中で、ふと足を止めたジャスミンが指差す先には、緑地公園の中央に建てられた、一体の巨大な像。
「知の神リブロですね」
 とミリアム。
「よく分かったね」
 レリーフの説明書きを見なくても、それがリブロだとエルリオにも分かった。だが学校に通った経験がなく、世間を知ることのできなかったミリアムが即答した事に、少なからず驚き、感心してしまう。
「読んでもらった絵本で、見たことがあります」
「『イタズラ賢者フーミ』ね?」
 と、今度はジャスミン。「そうそう」とエルリオが同調する。この国で育った子供が誰でも一度は耳にする童話だ。生まれ育った環境も、流れる血も全く異なる三人同士。だが「アリタス」という国に生を受け、育った、そのたった一つの大きな共通点がもたらした共感がこの瞬間、三人の心を繋げている。
「………」
 その奇妙な事実に気がついて、エルリオは胸の内に複雑な感情を覚えた。
 レクティカ大学校の本館は、まるで神殿のような造りをしている。横に広い階段を上がると、巨大な四本の柱が玄関屋根を支えており、神話に登場する元老院を模していた。これはこの街における「学問」の地位の象徴としているらしいが、傲慢だとの批判も出ている。
 身分証明書の所属先を頼りに、三人は広い構内を歩き回った。正面玄関を潜り抜けると、巨大な吹き抜けの中庭に出る構造になっており、市民が自由に出入りできるようになっていた。とにかく、広い。
「うわあ、一度来て見たかったんだ、ここ」
 高い場所に位置する四角く区切られた空を見上げながら、エルリオは呟く。アリタス国内で士官学校と並んで受験希望者が多いとされる高学の園。実学拠りな士官学校と対象的に、学問色が濃いのが特徴だ。
 散歩や図書館、資料館を利用しに来た一般市民に混じり、紺色の外套が特徴的な制服姿も多く見られる。
 大学校は、二つのセクションに区切られている。就学中の学生が属する「学部」と、国からも研究予算が与えられる「研究院」の二つ。後者は国軍研究局と毛色が似ており、国軍研究局間との人材のやり取りも多い。
 クラース・ベルトランが所属する研究院は、一般市民が立ち入り禁止とされている区間にあたる。研究員のものとは違う制服を身につけた警備員が、入り口に立っていた。エルリオは遠目から一瞬、躊躇したが、
「あれは国軍警察局の制服ではないわ。庁舎からの派遣ね」
 隣からのジャスミンの小声に、安堵して歩を進めた。見慣れぬ三人の人影に、警備員が警戒の視線を向ける。エルリオは胸ポケットからクラースの身分証明書を取り出した。
「クラース・ベルトランさんにお会いしたいのですが」
 手渡さず、カードの写真と名前が見えるよう、翳す。警備員は目を細めて凝視した。
「どこでこれを?」
 訝しがるのは、警備員として当然の責務だ。
「訪ねる時に、これを提示すれば分かるからと言われて」
 エルリオは嘘を吐いた。淀みない物言いに警備員の男は「ああ、そう」と呟きながら壁の案内図に目をやった。三人にその場で待つように言い残して、姿を消した警備員。大人しく待っていると、一人の研究員を伴って戻ってきた。クラース・ベルトランではない。
「ベルトランへの来客と聞きましたが、貴方達ですか?」
 事務的な印象が強い口調が、年長者のジャスミンにかけられる。そうだと肯定すると、研究員は無遠慮に三人を頭のてっぺんから爪先までを観察し始めた。
「失礼だが、ベルトランとのご関係は?」
「……私たち、ACCの学生なんです」
 これも、エルリオの口から出た嘘だ。男の態度に不快感を感じながらも、それを面持ちに出さないよう唇をじっとかむ。隣にいたミリアムはジャスミンの背中に半分隠れていた。
「ああ、そういえば奴は士官学校の有期講師だっけ」と苦々しく独語を挟んで男は、エルリオがクラースを訪ねてきた彼の教え子と一人合点したようだ。
「今、つれてきますのでもうしばしお待ちを」
 そして男はもと来た道を戻っていった。
(何よあの態度)
 わざわざ訪問者を確認しに来る理由も、男の態度にも奇異な印象を抱いたが、三人は口を噤んだままクラースの登場を待った。そのうち、廊下の角から「すみません」をどもりながら数度繰り返す声が聞こえてくる。
「あ………」
 推測通り、ようやく現れたのは、中央駅の歩道橋で出会った男。クラース・ベルトラン。エルリオら三人の姿を見とめるなり、怯えた動物のように体を強張らせた。
「あ、あの、一体……」
「これを」
 クラースが何かを言い出す前に、エルリオは手にしていた身分証明書を低い位置にかざす。視力の悪いクラースが凝視して目を細め、一歩を踏み出す。そのタイミングでエルリオも一歩下がった。そのやりとりを三度繰り返して、エルリオは警備員が立つ位置から距離を置いた。念のため、会話を聞かれる事を避けたかったからだ。
「す、すみません、わざわざ」
 ようやく証明書を手にしたクラースは、安堵しながらも、まだ怯えを残した瞳でエルリオを、そしてジャスミンを見やった。最後に、ジャスミンの背後に半分隠れる形で立っているミリアムを見て、
「………」
 視線を数秒の間、止める。老若男女を問わず、初めてミリアムを目にした人間は必ずと言って良いほどに、視線を留めるのだ。それほどに彼女の造詣は幾何学的と表現できるほどに整っているのだ。
「さっきの人、すごく態度悪いんだけど、ここの人ってみんなそうなの?」
 エルリオはひとまず、言いたい事を口にしてみた。レクティカ中央駅に下車してから、まともな人間に出会っていない気がする。
「いいえ、そんな、ことありませんよ。それはきっと、皆さんが私の、親戚か何かだと、思われたから…、かもしれません。不快にさせて、申し訳ありません」
 クラースはエルリオの言葉に弁解する。
「おじさん嫌われてるの?」
 相変わらず気になる句読点の打ち方をするが、人柄自体に問題はなさそうに見えるのだが。「またそんなストレートな」と、ジャスミンの背後からミリアムが慌ててフォローに回る。
「ええ、そう、なんです」
 眼鏡レンズの向こうでクラースの瞳が苦笑する。
「わた、しは…」
 そこまで言いかけて、クラースは背後の警備員の存在を、肩越しに気にかける。
「外、に出ません、か」
 手にした証明書で出口を指し示してクラースは先んじて歩み出す。「はーい」とエルリオは素直に従い、ミリアムとジャスミンは床に置いてあった鞄を拾い上げて後を追った。
「あの、改めて、ありがとう、ございました」
 廊下に出たところで、クラースが振り返る。三人が担いでいる荷物の大きさを見やった。
「御礼、といっては何ですが…どちらか、ご案内、しましょう…か?」
「この街で一番大きな図書館に、行きたいの」
 間髪いれずにエルリオは答えた。だがクラースの説明によると、一般的な図書館であれば庁舎内にあるが、より専門性を求めるとなれば分野ごとに建物が別れているようだ。
「ACCの学生、だとうかがいましたが、何か調べたい事があるのですか?」
 エルリオが広げる街の地図を隣から覗き込みながら、クラースが尋ねる。心なしか、口調が流暢になりつつあるように、エルリオには感じられた。少しばかり心を開いてくれているという事だろうか。
「ここ一年ぐらいの、地方紙含む新聞と、あと精霊の印についての文献が揃っているところに行きたいな」
「新聞の、縮刷版でしたら、庁舎内図書館が、豊富に揃っています。精霊、の印については…本当ならACCの、国軍、研究局内の資料館、が、一番なのですが」
(そうだろうなあ)
 クラースの答えを聞きながら、エルリオは心内で呟く。レクティカ内では、現在いる場所から少々移動した先の東別館にある資料館が良いとの事。「ご案内しましょう」とクラースが歩きかけたところで、
「あの、私、別行動してもいいですか?」
 とジャスミンの背後から声。ミリアムだった。
「私、歴史の本が…読みたいです」
「歴史?」
 何の歴史かとエルリオが問えば、「この国と…」と、小さな声が戻る。
「この国じゃない国のことも……」
「………」
 ライザ帝国の事だろう。エルリオやジャスミンが思いつくには容易な事だったが、口に出さなかった。
「珍しい、事ですね」
 足を踏み入れかけた静寂を押しのけたのは、クラースの声だった。幼い二人分の視線が、同時に気弱な男を見上げる。温度の低い面持ちを保ち続ける若い女の黒い瞳も、静かにクラースの横顔を向いた。
「貴女みたいに、若い人が、国の外に興味を持つというのは」
 そう続ける声に、徐々に明るさが生まれているのは気のせいだろうか。
「国の教育は、内へ、内へと、向かっていますから」
 最終的に、国に才能を奉仕する事が最大の美徳とするよう、初頭教育の頃から、教育システムが出来上がっていると、クラースは言う。だが一概にそれが悪とも言えず、現在の世界情勢とアリタスが置かれている状況から、国を守るために致し方ない事なのだとも、彼は言い加えた。
(でも確かに……そうかもしれない)
 改めてエルリオは、学校に通っていた頃の自分を思い浮かべる。士官学校を目指す事が子供達の間で最大の誉とされていた。何の疑問も、理由もなかった。
 エルリオが国の外を意識したのも、ミリアムと出会ってからだ。それまで、エルリオのような世代には帝国との戦争でさえ、記録でしかなく、何ら実感をもたらすものではない。それがごく一般的な子供なのだ。
 クラースにはそれが分かっていたのだろうか。
「おじさん」
 もっとこの男と話しをしてみる価値がありそうだ。エルリオはそう直感した。気弱だが人の良い男は「はい?」と、見上げてくる幼い視線を受け止める。
「歴史資料の豊富な図書館はどこにあるの?」
 エルリオは広げていた地図をクラースに向けた。
「時間はあるし、みんなで見て回ろうかなって」
「そうですか」
 手向けられた地図に、クラースは指を置いた。現在エルリオ達がいる場所からそう遠くない、隣の建物に「歴史資料館」の文字が記されている。
「私も、自国他国含めた、歴史を紐解く研究をしているので、ここは詳しいんです」
 男はそういって、微笑んだ。




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