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北野ふゆ子
  • 北野ふゆ子
  • 昔は、ゲームやマンガの二次創作をしておりました。現在は主にオリジナルネット小説を執筆しています。得意は「シリアス」「アクション」「サスペンス」です。



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押印師ACT9-5
05

「押印のペナルティって…どうなっちまうんだ」
 依頼者の男は、差し出された契約書を強く握り締めて震えた声を漏らした。
 たまにこういう奴がいる。押印の危険性を記した契約書を目にした途端に気弱になる奴が。
 人は大抵、「副作用」という言葉に怖気づく。対価の代償が、金だけで済むと思っている気楽な奴らなのだ。
 そういう客を前にした時、ワイヴァンの姿を借りたエルリオは、姿勢も表情も崩さずに淡々と事務的に説明をする。
「暴走するのです。精霊が」
 暴走。
 その単語をこの数年間、幾度と耳にした。口にもしてきた。
「脳が破壊される」
「体内組織を侵される」
「廃人になる」
「死ぬ」
 あらゆる脅し言葉で説明してきたが、
「これが暴走…か…」
 十五歳のエルリオにとってそれらはいずれも、実体感の伴わない空想に過ぎない事が思い知らされた。
 砂は男を完全に飲み込み、蠢動する有機腐敗物のように小丘を成した中心部は巨大な砂蜥蜴の温床代わりとなり、砂と石を吸い込んで巨大化しながら暴れ狂い街を破壊し、人を襲う。
 これが初めて目にした「暴走者」の姿だった。
 竜巻の足下に、ヴィルの長身を見つけた。そのすぐ近くに、谷の装束を来た人間の姿もある。轟音をたてる砂と風を掻き分けてエルリオは二人の影に近づいていった。
「―事ないはずが、暴走―とコレになるのか」
 轟音に紛れてヴィルの声が聞こえてくる。彼は辟易した面持ちで頭上を見上げた。その隣にいる青年が何やら懸命に、ヴィルに何かを訴えていた。その声を聞き取れるように、エルリオは崩れた屋根を伝って更に二人に接近を試みた。
「本当です。現にあの砂の人は砂に水が染み込んで変質しただけで操れなくなっていたし、爆発を起こした人だって、火力自体は大した事なくて単に、空洞を利用して小さな火花を起こす事で爆発を起こしていただけだと思うんです、エクスプロード弾と似た原理で―」
(え…)
「結構な応用力だね、それは」
 その話に、思わずエルリオは声を出していた。
 このような状況で今さら姿を隠し続ける意味もない。エルリオはミリアムと共に砂塗れの街道の上に飛び降りた。
「お前…!」
 あからさまに「嫌なものをみた」顔で、ヴィルは振り向いた。
「ごめん、ついてきちゃった」
 悪戯を見つかったようにおどけて両肩を竦めながらエルリオは、「それより」と砂嵐に温床を指差した。
「今はこれを止める事を考えよう!」
 非難転嫁である事は丸分かりだが、エルリオの言葉も尤もである。ヴィルは背後に立つアレックを気にかけながら砂に飲まれた男の方を振り向いた。
(この子達、いまどこから??)
 突然現われた二人の少女。アレックは降りかかる砂に目を擦りながら、空から降って来たエルリオとミリアムを眺めていた。
「あの中に…本当に人がいるのですか?」
 エルリオの背中から、禍々しく蠢く砂丘を覗き見てミリアムは眉根を顰めた。
(綺麗な子だなぁ)
 その後ろから、つい事件そっちのけでミリアムを眺めているアレックがいる。アレックの目から見ても彼女は美人に映るようだ。不意に目が合って、慌てて反らした。
「中の人、まだ生きているのでしょうか…?何も、心が感じられないのですが」
 アレックの反応に一度首を傾げてから、ミリアムは改めて前方を見やる。
「生体的には…生きてるんだと思う。」
 息を呑むエルリオの声は暗い。視線は前方を凝視していた。
「でもミリアムの言うとおり、意識はもう無いんじゃないかな…。精霊にどんどん侵食されて、体が朽ちるのも時間の問題だと思う」
「暴走した人間が死ねば、この砂の暴走も止まるのか?」
 ヴィルは飛来する石粒を風で防いでいた。問いに対してエルリオは「そうとも言えない」と首を振る。
「暴走者が死んでも、印が残っている限り精霊は消えないと思う。それに印を消しても、この暴走がすぐに収まるかは、分からない」
 エルリオ自身、暴走者に遭遇するのはこれまでに無い経験だが、根拠があった。
 幼い頃、父の見よう見真似で自分の左手の平に押印を施した事がある。
 ごく下級の、火花を出せる程度の火の印。
 子供の火遊びのつもりがその力を制御仕切れずに、己の意思に反して左手の印は静電気と融合し巨大な火花を上げ始め、あやうく火事を引き起こすところだった。
「何してるんだ!」
 慌てて駆けつけた父親がエルリオの手から印を拭き消したが、暴れだした火花の炸裂がすぐには止まらず、結局親娘ともども、軽い火傷を負う事となった。
「精霊の力をオモチャにしてはいけないよ」
 火傷が残った手を水で冷やしながら、ワイヴァンはエルリオを叱り付けるでもなく静かにそう言っていた。
 その事があったから、ワイヴァンは自分に何も教えてくれないままだったのだろうか。
 甦った追憶に目を細めながら、エルリオは目の前の暴走者を眺めていた。
「印……顔に書いてありました、よね?」
 背後から恐る恐る発せられた声で我に返ると、ヴィルより幾分か若い青年が眉を下げた小動物のような面持ちでそこにいた。
「顔??」
 思わず声がひっくり返る。ほぼ脳に直結する位置に描かれた印となれば、その融合率は相当なもの。これほどの暴走はそのせいなのだろうか。それ以前に、エルリオはとてつもなく嫌なことを思いついてしまった。
「印の付き方によっては……頭ごと顔を潰さないといけない…カナー…」
「うへえ」
 情けない声で即座に反応を示したのはアレックだった。ミリアムも口元に両手をあてて眉を顰めている。
「必要ならやるしかない。俺がやる」
 刃から飛沫を飛ばすように右手を軽く振り降ろす仕草と共に、ヴィルの体を風が纏った。まず、男と印の状態を確かめる必要がある。男の体を貪る大量の砂を剥ぎ取らねばならなかった。
 生半可な力では太刀打ちは不可能。ヴィルは目を閉じると共に深く息を吸った。
「いくぞ」
 ヴィルの低い声と共にエルリオの目にも鋭さが宿る。上空からの竜の嘶きを合図に、ヴィルは両腕を媒介し大量の風を呼び出した。足下を埋めていた砂が螺旋を描いて吹き飛ばされ、崩れた石畳が姿を現す。
「―行け!」
 短い命と共に、幾重かの旋風が絡み合い、目の前の砂繭に放たれた。スクリューのように螺旋を描き、風は砂の塊にからみ付き、凄まじい勢いで外層を削り取っていく。だが、
「ご当主!」
 上空からラファルの声。見上げると、ラファルにより砕かれた蜥蜴の首が落下してくるところだった。そのまま砂は飛散し、ヴィルが起こす風に巻き込まれながら男を覆う砂繭へと吸い込まれていった。
「!」
「印を死守しようとしてるみたい」
「……」
 エルリオの解説を聞き、ヴィルは表情を変えずに更に風を呼んだ。下から吹き上がる猛烈な風に他の三人は目も開けていられないほどだが、エルリオは両腕で顔を庇いながらヴィルの背後から必死で前を見つめた。
「一気に剥ぎ取るぞ」
 風にかき消された言葉と共にヴィルは右手を前方に突き出した。風が巨大な球体となり砂繭に喰らいつく。大地が陥没したかのように、空気が炸裂する音と共に、砂壁が弾け散った。
一瞬、男の姿が露わになる。
「!」
「っひぇ」
 ヴィルとエルリオが息を呑み、
「ぅわあ!」
「きゃああ!!」
 その背後でアレックとミリアムが悲鳴をあげた。四人の前に姿を現したそれは、元が人間であった事を失念させるほどに変わり果てていた。砂の繭に取り込まれた男の体は水分を全て抜き去られたように弾力性を失いやせ細り、辛うじて直立させられている骨の上に衣服の残骸と皮だけが付着しているような状態で、その顔面は土色に変色し、落ち窪み陥没して白く引っ繰り返った眼球の色が、酷く鮮やかに写る。
「な…」
 驚愕の声と共にヴィルの手から風の力が失われる。再び砂蜥蜴は男の体を飲み込み、四人の前に砂の繭が再生される。砂の繭を中心にとぐろを巻く砂蜥蜴が目の前の四人を敵と見なし襲い掛かった。
「ラファエラ!」
 上空からラファルの号令、それと共に騎竜の啼声、ヴィルがエルリオの体を抱えて後方に飛び、そして一筋の風が砂蜥蜴とエルリオ達の間を横切った。大量の砂が飛散する。
「わ、わ、わか、分からない、よ、あんなの、よく見えない」
 砂の上に転がり、もんどりうちながらエルリオは縺れる舌で必死に言葉を組み立てる。印の状態を見極めようと必死に目を見開いていたのに、頭が真っ白にリセットされて機能しなくなっていた。ミリアムは腰を抜かしたのか砂の上に座り込んでガタガタと震えている。
「―頭を潰すしかないか」
 ヴィルが決断するが早いか、砂蜥蜴の首が再び襲い来る。頭上にいたラファエラが間に立ちはだかり、蜥蜴に向かい咆哮を上げた。鼓膜を突き破るかという声は空気を震わせ、横薙ぎの真空の斬馬刀と化した風が蜥蜴の鼻面を押し留める。
「ラファル、持ちこたえさせろ!」
「了解!」
 ヴィルは首を避けて再び男を飲み込んだ砂繭の前に立った。蜥蜴の首が後を追うが、ラファルの命に従い再びラファエラがその首を食い止める。凄まじい力に押し戻されそうになるラファエラの横からラファルも風を送り込んだ。
 脈打つ度に砂を噴出す蠢く芥は、大きさを増している。一歩近づくと、威嚇するように砂の触手が伸びてきた。
「ちっ」
 舌打ちと共に軽い動きでそれを叩き落とし、ヴィルは瞬発的に足下から大量の風を湧かせ、間を置かずに生きた砂塊に向かい地を蹴った。
「ヴィルさん!」
 至近距離から再び球体の風をぶつける。削られ抉られた砂が激流と化して後方へと流れていく。ヴィルの体全体を風が護るように包み込んでいるが、凄まじい量と勢いの砂は風壁の合間をぬって侵入し、ヴィルの頬を切った。
「邪魔…するな!」
 更に意識を右手に集中させ、彼には珍しい怒号と共に一気に砂繭の根本から砂を剥ぎ飛ばした。砂嵐の中に再び干からびた屍が姿を現す。砂が作り出す風圧によりゆらゆらと、淀んだ水面に浮かぶ枯葉のように、または蜃気楼に浮かぶ人影のように、竜巻の目の中心で翻弄されていた。
「……」
 両目を細めつつヴィルは男の顔面を凝視した。土色になっている肌に、皺とは異なる不自然に黒ずんだ模様が沈んでいるのが分かる。己の生理的嫌悪感を撥ね付けながら風の膜の向こうに手を伸ばそうとするが、
「くっ…」
 凄まじい砂の勢いを止める両手を僅かに緩める事も許されない。暴走する精霊の叫びに導かれ徐々に砂の量嵩と力が増していた。状況に気が付き、エルリオは力の抜けた膝に両手を当てて立ち上がった。
「エルリオさん!?」
 ミリアムが背中を呼び止めた。
「わ、私が、やる。やらなきゃ」
 動けるのは、自分しかいない。全身で精霊の猛攻を食い止めるヴィルやラファル、ラファエラを前にして、自分が動かないわけにはいかなかった。
「む、無理、です、そ、そんな事」
 震える声でエルリオを引き止めるミリアムは、右手でエルリオの裾を掴み、左手を自分の口元に添えている。嫌悪感からくる生理的な涙が溢れて、止まらなかった。
「でも…ぉえ…」
 振り切ろうとエルリオは前を向くが、視界に容赦なく飛び込んでくる異形物は、エルリオに急激な嘔吐感を与えた。
「僕いきます」
 背中を丸めかけたエルリオの耳元を、若い男の声が通り過ぎた。
「―え?」
 応える間もなく、谷の装束を着た青年、アレックが少女達の脇をすり抜けていく。手には、どこから拾ってきたか、拳銃が握られていた。砂から掘り起こしてきた、恐らくイリオン少尉の部下の誰かが落としていった物だ。弾はまだ残っている。
 アレックは瞠目するヴィルの前に滑り込むと、両手で固く握った銃を木乃伊の額に付きつけ、
「お父さんお母さんアリサごめんなさい!」
 そんな事を無意識に叫びながら引き金を連続して引いた。
 その瞬間、ヴィルとアレックは.357マグナム口径から発射された弾が、茶黒く干からびた人間の頭蓋を半分に吹き飛ばす様を目の前で見た。見ざるを得なかった。
「っ!」
「うげっっ」
 前者はヴィルが目を細めて息を呑む声で、
 後者はアレックの喉が反射的に発した奇声である。士官学校時代から数えて国軍に関わる事五年。アレックが初めて銃を放った記念すべき相手は変わり果てた暴走者となった。
 表面は朽ちていたが、一部の体内組織は生きていたようだった。吹き飛ばされ、アレック達の元に砂と共に飛び散る頭蓋の破片、その中に水気を含んだ生暖かさを感じた。それが飛散した脳味噌の一部だという事実を、アレックは頭の隅にシャットアウトする事で危うく失神しかける自分を引き止めている。
「げほっげほっ」
 繰り広げられる光景がもたらす吐き気を、エルリオは咳で散らす。
 印は消滅した。男の頭蓋ごと粉々に吹き飛んだ。
 糸が切られた操り人形のように、男の体は砂の上に崩れた。関節を無視して手足が不自然な方向に折れ曲がっている。大きく孔の空いた頭蓋から染み出す髄液が砂に染み込んで行った。
「砂が…」
 急速に力を失った砂は、ラファエラの翼による風の一吹きで飛散し、ヴィルの体を飲み込もうとしていた砂も風に撒かれて砕けた。砂蜥蜴の模りも失われ、シュトルセントラルに突き立った巨大な砂柱は落ちた。
「収まった?」
 だが。
 顔を覆っていたミリアムが指先の間から瞳を覗かせた、その直後だった。
 石畳の上を這いまわっていた砂の流線が突如、再び狂ったように動きを持ち始める。
「きゃあ!」
 ミリアムの傍らに転がる砂で作られたブロックの残骸が次々と粉砕していく。辛うじて残っていた足下の石畳も次々と砕かれた。
「今度はどうなったんだ。前より暴走ぶりが酷いんじゃないのか」
 印という母体を失くした精霊が、今度は実体を持たず無秩序に暴走を始める。拡散したために個々の力は弱いが、それでも辛うじて残った家屋を崩し、石畳を蛇行しながら人工物を粉砕していく程の威力は残されていた。
 前後左右、上からも下からも支離滅裂に降り注ぐ砂を風で吹き飛ばしながらヴィルは、銃を手にしたまま固まるアレックを引きずりつつエルリオの元に駆け寄った。ミリアムはエルリオの腕に捕まりようやく立っている状態だ。
 ラファルがラファエラを呼び寄せ、その上にミリアムとアレックを引っ張り上げる。エルリオにも手を伸ばしたが、首を横に振る拒否が返ってくる。
「エルリオさん…!」
 ミリアムが縋るようにラファエラの背中から手を伸ばすが、エルリオはそれも拒否した。
 ラファルがヴィルに視を向けて指示を仰ぐと、彼からは頷きと共に「先に安全な場所へ」と具体的な答えが戻ってくる。
「何か心当たりがあるようだな」
 飛び去る竜を一瞥した後、ヴィルはエルリオを見やった。
「昔、ちょっと似たような事があったんだ…こんなすごい規模じゃないけど…それを思い出してるとこ」
 ヴィルが起こす風のバリア越しに見える砂の乱波を見つめて、エルリオは必死に記憶の泥を掻き分けたていた。
(どうしたっけあの時。火花が止まらなくて、お父さんが駆け込んできて、お父さんはどうやって火花を止めてくれた?)
 キューは谷に残してきた。答えてくれる者はいない。キューに頼ってばかりいた自分の怠慢さと、記憶力の無い頭に苛立ちを覚えながらエルリオは固く目を閉じた。
 印を消しても止まらなかった精霊の暴走。
 熱い、と泣き叫ぶエルリオを抱きかかえながらワイヴァンがとった行動は―
「作用と相殺…そうだ!」
 エルリオの脳裏に閃きが走った。泥に埋まっていた砂金の一粒を掬い出した、そんな興奮。
「やってみる」
「やれるのか」
 エルリオの眼つきに変化が表れたのを見てヴィルは最低限の確認だけを示す。
「………わかんない」
 外に向けられていた厳しい視線が、くるりと上向いてヴィルを見た。
「…………やめておくか?」
「やる」
 心なしか優しい問いに短く即答して、エルリオは左手を前方にゆっくりと伸ばした。





ACT9-6⇒
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押印師 ACT9-6
06

 街は、暴れまわる砂に支配されつつある。その中心で、エルリオはヴィルの風に守られていた。
(さっきの人が使っていた印と、同種で上位の印を使えば…相殺できるはず)
 前方に差し出した自分の左手を眺めて、口の中に溜まっていた唾を呑んだ。
(でも本当に砂の印で正しいのかな…、土や石の印の応用だったらどうしよう…それに私、使いみちがないからあんまり大地に関係する印は使ってこなかったし…)
 いざ心を決めた直後になって、様々な懸念が頭を巡った。こういう時、頭は通常の何倍ものスピードで思考を吐き出してくる。印の系統が合っていたとしても、エルリオが使える印が男の使っていた物の上位にあたる確証もない。
(失敗したら、今度は私が暴走する…)
 その最大のリスクが残されていた。
 頭を吹き飛ばされた男の死骸は既に暴れる砂に呑まれて見えなくなっている。目の前で見た光景が脳裏を点滅する。エルリオは頭を振った。精霊は恐怖心や迷いに付けこんで来るのだ。
 大丈夫。私は、ワイヴァン・グレンデールの娘。
 自分に厳しく言い聞かせ、瞳を閉じた。
「乾きの地、砂を泳ぐ主よ」
 言葉と共に瞼を開くと、そこは音が遮断されたモノクロの世界。目に映るのは、己の左手と、そこに添えられる右手だけ。
エルリオの右手の指先が、左手の甲の上で印を描き出す。
「鎮まれ」
 全神経を左手に集中させた。淡い発光による点滅が二度、三度と続き、地に接触した足の裏にざわめく感触が通り過ぎた。
「エルリオさん…!」
 中空にいるラファエラの背に乗せられたミリアム達からは、エルリオを中心に砂が波紋を描いて、シュトル・セントラルの街全体に影が走るのが見えた。その動きに伴い、あちこちで起こっていた小さな爆発や破裂が、ドミノ倒しのように消えていく。
 足下の低い位置を砂風が通り過ぎていったのを最後に、乾きの地の精霊達は完全に動きを止めた。
 空中を暴れまわっていた砂は浮力を失い、重力に従って空中を漂いながら、静かに地を目指して降下していく。砂色の粉雪は陽光を受け、空気中に幾つものオーナメントを咲かせている。乾燥した砂と砂が擦れあい、焦げ付いたような匂いがする。砂の粉雪が降る街は、セピア色に包まれている。
 これと似た光景を、エルリオはかつて見たことがあった。
 古い写真の中に吸い込まれていくように、エルリオの脳裏で幼い頃の記憶が蘇ってきた。
 十年近く前の、それはほんの児戯から来た小さな事件。
 昔、郊外の一軒屋に住んでいた頃。
 あの家には大きな書斎があった。父親、ワイヴァンの部屋。
 そこは、幼いエルリオにとって魔法の世界だった。
 整然と本棚に並ぶ書籍は、厚い革表紙が古めかしい香りを漂わせていた。背表紙に彫られているタイトルは、どれもエルリオにとって理解不能なもの。それがまるで魔法の言葉のようだった。本棚に入りきらなかった為に床に積み重ねられた本は、高くて古い塔のよう。表面が色あせた文机の周辺の壁には、たくさんの幾何学模様が描かれた紙が貼られており、壁はすっかり姿を隠されている。
 そんな「魔法の部屋」に忍び込み、エルリオは小さな興奮を胸に辺りを見渡した。側に積まれた本を一冊手にとって、革と紙の匂いを楽しむ。まったく解読不能だが、捲ってみると手触りが心地よく、エルリオは何度も本を開いては閉じるを繰り返した。それに飽きると、次に本棚に並ぶ仰々しい背表紙達に触れてみる。指をひっかけて一冊取り出そうとしたが、ぎちぎちに詰め込まれていて、子供の力では引き出せなかった。
「むむう…」
 ふて腐れて頬を膨らまし、エルリオは文机の上に目を移した。ワイヴァンの走り書きによるメモの束が、無造作に卓上を散らかしている。メモそれぞれには、見たことない模様や難しそうな数字の羅列などが書かれている。その一枚を手に取った。きれいな模様が描かれたメモだった。
「こら、エルリオ」
「!」
 背後からワイヴァンの声がした。肩を竦めて振り向くと、少し怒った顔の父親がドアの前にいる。慌ててエルリオは無意識に、手にしていたメモをワンピースの前ポケットに突っ込む。
「勝手に入っちゃ駄目だと言っただろ?」
 ワイヴァンは本気で怒っているのではない。それが分かっていたのでエルリオは、「やーだ!」と笑いながらワイヴァンの前をすり抜けて、部屋を駆け出た。背後から「まったく」と溜息交じりの苦笑が聞こえたが、エルリオは気にせずそのまま自分の部屋へ向かう。
「何で入っちゃ駄目なんだろう、イジワル」
 ドアを後ろ手で閉めた後にエルリオは、机の引き出しからペンとノートを取りだす。それを持って部屋の真ん中、カーペット敷きの床にぺたんと座る。前ポケットから、ワイヴァンの部屋から持ち出したメモを取り出す。それを開いたノートの横に置いて、エルリオはそこに描かれている模様の一つを真似てノートに描き始めた。
「難しい~」
 床に置いたメモに、伸びをする猫のような姿勢で顔を近づけながら、エルリオは夢中になってノートに模様を少しずつ描いていった。ペン先が震えて線が歪んだが、なかなか満足いく模写ができた。
「何のマークだろう?」
 ノートを手に取り、顔に近づけたり離したりを繰り返す。星でも、花でも、ハートでもない、不思議な面と線の集合物。こんな模様がワイヴァンの部屋にはたくさんある。
 近所のお姉さんのスカートの模様。教会のステンドグラス。誕生日にワイヴァンが買ってくれたワンピースの模様。読んでもらった絵本に出てくる絵。様々を思い浮かべてはノートと照らし合わせる。プレゼント箱の模様。居間に飾られているよくわからない抽象画の模様。手袋の模様。
「―手袋だ!」
 エルリオは両手を大きく打ち鳴らす。遊びからの帰り、家を出たワイヴァンの来客とすれ違った時に見た、手袋の模様。背の低い幼いエルリオの視線の高さは丁度、体の両脇に垂れる来客の男の両手と同じ位置にあった。すれ違った瞬間に視界を過ぎていった、手の甲に描かれていた不思議な模様。
 それが手袋ではなく、手の甲に直接描かれた印であった事を当時のエルリオが知る由もない。
 手袋が無いので直接、小さな手の甲にペン先を当てる。くすぐったい感触が楽しくなって、メモを見ながらどんどんペンを進めていく。
 小さな手の甲いっぱいに、一つの模様が完成した。立ち上がり、手を伸ばし顔から離して印を眺める。嬉しくなってその場でくるりと回ってみる。
 すると、くす球が弾けるような音がして、指先から赤色が散った。手の甲が印の線に沿って淡い紅色を発光する。
「うわあ!」
 夕陽が差し込み始めた室内に、一瞬咲いた火花はひどく美しかった。幼い子供にとって、印から発せられた火花の原因と作用の追求など、関係のない話だ。エルリオはひたすら夢中になって、印を描いた手を動かした。動きに呼応して火花が鬼火のように浮かび上がっては消えていく。
「あつ…っ」
 次第に火花の大きさと炸裂する回数が増えていき、エルリオは寸時の不安に襲われる。刹那、エルリオの心の揺れに感づいた精霊は、隠していた牙を剥いた。
「―きゃっ!」
 熱さに堪り兼ねて、火花を振り切ろうと手を振る。だが火花の暴走は止まらず、意志に反して指先から発した火花が手の平全体を包み込む。
「お父さん!お父さん!」
 無我夢中で助けを求めて叫んだ。
 階下にいた父親は、階上から響く娘の叫びに、弾かれるようにその場から立ち上がって駆け出した。
「何してるんだ!」
 部屋に踏み込んで、光景に驚く。部屋一面に火花が飛び散り、窓から差し込む夕陽の色と混ざり合って室内は真っ赤だった。その中心で一人娘は火花を発し続ける左腕を掴んで座り込み、泣いている。
 その側に、ノートとメモ用紙が散乱していた。
「エルリオ!」
 威嚇するように暴れまわる火花を避けながら駆け寄って、娘の手をとる。小さな手の甲いっぱいに描かれた模様を見て驚愕した。
「お前…!」
 描かれていたのは、低級の火の印。落ちていたメモは紛れもなく自分のものだった。それが一寸のぶれもなく正確に、手の甲に再現されている。娘の持つ才能の恐ろしさに身震いしつつ、娘の声に我に返る。
「怖い、お父さん!」
「大丈夫だ、大丈夫」
 シャツの裾を手に取り、エルリオの手の甲を擦る。乾ききっていないインクペンで描かれた印が皮膚に滲み、これで印の効力は失われているはず。だが火花は止まる様子を見せない。
(暴走している…!)
 ごく軽い暴走現象だ。
「熱いよお父さん…!」
 暴れまわる火花に包まれる右手。エルリオは左手でワイヴァンの袖に縋る。父親は、「よしよし」と言いながら肩を抱いてくれた。
「すぐ止めてやる」
 ワイヴァンは転がっているペンを拾い上げると、ペン先を己の左手の甲に当てた。
(落ち着け…)
 書き損じては娘を救えない。若い父親は静かに瞳を閉じると、泣き叫ぶ幼い娘の声を脳裏から遮断した。世界は静寂に包まれ、目を開けるとそこはモノクロの世界。ただ、そこにあるのは右手のペンと、自分の左手の甲だけ。ワイヴァンはそこに、エルリオが描いた印の上位にあたる印を描いた。最後の線が結ばれると、仄かに赤く発光する。印が描かれた手を天井に翳した。
「鎮まれ」
 短い言葉と共に、部屋中に散っていた火花が最後の炸裂を残して一斉に消えた。
「あ…」
 エルリオが顔を上げると、嘘のように室内は静かだった。燻った小火がカーペットやベッドのシーツの上に残っている。視線を真上に向けると、遠くを見つめるように壁に向けられた父の横顔があった。
「お父さん…お父さん…」
「―エルリオ…!」
 娘の声に若い父親は我に返る。小さな両手がシャツの胸元を掴んで震えていた。右手に小さな焦げ痕が残っている。
「大丈夫か、もう、何ともないか?」
 エルリオの手をとり、完全に印が沈静化したのを確認する。
「お父さん、ごめんなさい、ごめんなさい」
 謝ることしかできないエルリオを、若い父親は長い間抱きしめ続けた。
 徐々に沈み始めた夕陽色が、室内をセピア色へと包み込んでいく―

「…、おい」

 空を見上げていたヴィルが、傍らのエルリオの様子に気がつく。
 少女の視線は一点に向いたまま、焦点が合っていないのか黒目がちに空を見つめている。吊られているかのように前方に伸ばされたままの左手には、印が光の点滅を続けていた。
「エルリオ!」
 ヴィルは強くその名を呼んで、エルリオの左手をを掴み、印を隠すように両手で覆った。
「…はっ」
 電気に撃たれたように肩が震えて、少女の両目に光が戻る。夢から醒めた子供と同じ目で、エルリオはヴィルを見やった。
「おとう…さん……」
「え?」
「じゃないってば!違うに決まってるじゃない!」
 目の前で訝しげに眉を顰めるのは、金髪の青年。「何言ってるのわたし」と焦りに焦ってエルリオはヴィルに掴まれていた手を振りほどいた。
 視界に映る光景は、昔の自分の部屋なんではない。崩れ落ちた砂に包まれた街、シュトル・セントラルの中央部。
(私……)
 エルリオは改めて自分の手を見た。もう、あの頃の小さな手ではない。手の甲に発動させた砂の印も既に消えている。
 印を発動させた瞬間、夢と現実、過去と現在がエルリオの頭の中で混迷していた。懐かしい夢の中に溺れかかっていた自分を自覚している。
 名前を強く呼ばれなければ―
(戻ってこれなかったかもしれない)
 少し遅れて、寒気と恐怖が背筋から込みあがってきた。
「エルリオさん!」
 頭上から、羽ばたきが起こす風と共にミリアムが降って来た。
「ミリアム?」
 見上げると、太陽を背に落ちてくる天使の姿―ではなく。
「きゃー!」
「ぎゃー!」
 小柄で痩せているとはいえ、落ちてくる少女一人分の体重をエルリオが支えきれるはずもなく、エルリオの潰れたカエルような声と共に二人は砂溜まりに沈み込んで転がった。
「あ、今のは風を起こしてやるべきだったな」
 空中に浮かぶラファエラの上で、ラファルはそんな独り言を呟くのだった。


 砂の粉雪が降り続ける中、国軍シュトル局の仕官達は街の整備に動き回っていた。破壊されし尽くした市場通りはテープが貼られて簡易的に封鎖される。砂から発掘された男の死骸にはシートが掛けられ、後ほど鑑識課に運ばれるという。
 残りの男達の姿は消えていた。
「大変大変大変、誠に申し訳ありません」
 騒ぎの原因たる張本人アレック・シュタインウェイは、すでに悟りを開ききった面々に囲まれて小さく縮こまっていた。
 悟りを開いた面々、つまりヴィルとイリオン少尉は、叱り付ける気力も失くしてアレックの様子を眺めていた。
「いや…俺が不注意だった。それに説明不足だったようだ」
 表情に大きな変化はないが、谷の当主の面持ちには諦念が浮かんでいる。
「いえ…俺が駅にコイツを落としたままではなくホームまで見送るべきだったんでしょう…」
 ガキじゃあるまいに。隣でイリオン少尉の溜息が続く。
 元上司と臨時上司の二人に挟まれてアレックは、ただただ恐縮していた。
「どういうこと?アレ」
 シチュエーションを理解できていないエルリオが傍らに立つラファルに尋ねるが、彼とて事情を知るはずもなく、「さあ」という言葉のみが返ってくる。
「………そうだった」
 背後に立つエルリオとミリアムに気が付きヴィルは低く呟いた後、
「アヴェル、ロデイ」
 少し離れたところで騎竜と共にこちらの様子を見ていた二人の部下の元へ、大股に歩み寄った。
「あの娘二人を連れて帰ってくれ」
 小声になる当主の様子から、二人の部下は事情を察した。
「ラファル」
 次にヴィルはラファルを振り返る。
「ラファエラ連れて帰っても、構わないか」
「お願いします」
 軍施設内に騎竜を留めておくことはできない。元よりそのつもりで、ラファルは即答した。ヴィルが「構わないか」と尋ねたのは、単に心情的な問題だ。最後に顔を寄せてくる相棒の横面を撫でてやり、ラファルは手綱をヴィルに受け渡す。ラファエラは素直に歩き出した。主人の無事が確認できたのだから、彼女にとってもう目的は果たされたのだ。
「娘。」
 ヴィルに呼ばれたエルリオは、「ん?」と短い返事と共に顔を上げた。手招きされて、ミリアムと共に駆け寄る。
「もう、後の事は軍に任せる範囲だ。二人とも戻れ」
「え~、つまんない」
 頬を膨らませるエルリオに、ヴィルは笑わず、低声を小声にして囁くように告げる。
「あの谷装束の男は、セントラルの諜報局から派遣された国軍人だ」
「うっそ!あれが!」
 反射的に叫んでしまい、エルリオは両手で口を押さえた。隣でミリアムも目を丸くしている。
「…………」
 身長の低い自分達を見おろすヴィルの冷ややかな両目が、更に温度を下げていく気がする。
「な、何で…?」
 ヴィルの背中の向こう側、谷の装束を着てきょろきょろと視線を四方にめぐらせている、くすんだ金髪の青年。「落ち着きが無い」とでも怒られたのだろうか、近くに立っている警察局の制服を着た男に頭を叩かれて、子犬のような目で肩を竦めている。
「細かい事は後で話す。とにかく、先に谷へ戻ってくれ」
(ああいう人も、軍人なんだ……)
 暴力と無縁に見える小柄な体。好奇心の権化のような瞳や、小心そうな言動。全身全霊をかけて暴走者に発砲し、悲鳴を挙げていた彼。
どの光景を思い起こしても、国軍の、しかもセントラルから何かしらの目的があって派遣されてきた人間には、見えない。
 エルリオは背中に冷たい汗を感じた。あの青年の前でとった自分とミリアムの言動を、一言一句思い出そうとするのだが、思考が空転しかしまう。気がつけば、体の中で心臓が暴れまわっている。思っているよりも今の自分は、冷静になりきれていないようだ。ここはヴィルの言葉に従う方が良い。
「わか…った」
 素直に頷いて、エルリオはヴィルの指示通りにミリアムと共にラファエラに飛び乗った。
「頼むぞ、ラファエラ」
 ヴィルの手が、太い竜の首を軽く叩いた。
「キュウウウウ」
 空気を引き絞るような甲高い声と共に、ラファエラは宙に舞い上がる。左右を挟む形でアヴェルとロデイもそれぞれ、騎竜と共に離陸した。
「お~」
「すごーい」
 押印の力で空を飛ぶのとは違う感動に、二人の少女は声を上げてはしゃぐ。足下に、中心部を破壊されつくした砂の街が遠ざかる。ラファエラは上昇する気流に羽を預け、頭上で燦々と輝く太陽の中に溶け込んだ。
 ようやく静けさを取り戻した乾きの地を、白い陽光は変わらぬ面持ちで照らし続けていた。 




ACT9-7⇒
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押印師ACT9-7
07


 正午過ぎになりようやく、ヴィルが谷に戻ってきた。
 シュトル・セントラルの騒ぎはようやく収まり、今は国軍の者達が整備にあたっているという。
 谷では、落ち着きを取り戻したラファエラが、騎竜舎で遅い朝餉を与えられていた。
 事の次第を聞いて目を丸くしていたジャスミンは、
「結局、アレック君は、どうしたのです?」
 とエルリオも気になっていた部分を最初についてきた。
「事情説明と報告に、シュトル局に向かったようだが、さすがに…もう何かやらす事はない……だろう……と思いたい」
 ヴィルの語尾は、悪い思い出にうなされるように、苦々しく濁っていた。言いながらその場で上着を脱ぎ、汗で肌にはりついた砂を落としている。
「その人、何のためにセントラルから来たんだろう?」
 不快感そうなヴィルと対照的に、既にシャワーを浴びてすっきりしたエルリオが尋ねる。
「分からない。表向きは精霊狩りの被害調査なのだろうが…」
 そもそも、例えそれが目的だとしても、わざわざセントラルから一製図師が派遣される理由などない。
「俺にはお前達を探るためだとしか思えない」
「え…まさかもうバレてるの…こんな短期間に?」
 エルリオとミリアムは顔を見合わせる。
「軍の諜報部を甘くみない方が懸命よ。でも確信はないのだと思うわ。そうでなければ逮捕状つきで小隊の一つぐらいは送り込んでくるはず」
 髪の毛についた砂を落としているヴィルに代わり、ジャスミンが答える。
「だがどちらにしろ手掛かりとなりえる状況材料を与えすぎた」
 引き継いだヴィルの言葉を受けて、エルリオは「うーん…」と低く唸る。ミリアムも、何度かエルリオの名前を連呼してしまった記憶があったから、責任を感じて肩をすぼめていた。
「あまり日を重ねないうちにここから去る方が懸命だろう」
「う……でも…」
 そうするべきだと、エルリオも心の隅で考え付いていた。だが、淡々としたヴィルの提案が、何かの最終通告のように胸に突き刺さる。
「安心しろ。お前の父親について、俺達が知る所まで話してやるから」
「そ、それもだけど、…でも私まだ何も押印について教えられない、協力できてないし…」
 散々に引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、何も残さずに去るのは申し訳が立たない。暗に「出て行け」と言われているのだと思うと、エルリオは無性に悲しかった。隣でミリアムも、胸の前で手を組んで俯いている。
「また来ればいい」
「え……」
 思わぬ言葉に、二人同時に顔を上げた。
 顔を見合わせた後、紅潮した頬で見上げてくる二人の少女に、
「そうだろう?」
 出会って初めて、谷の当主は微笑みを向けた。


 一方でグレリオ・セントラルでは、診療所の主が唐突な帰宅を果たしていた。
「患者でもいるのか」
 唐突に玄関から太い声が聞こえてくる。
「お、お父さん!?」
 キッチンににいたミソラが、不自然に慌てて駆け出してきた。同時に、粗末なコートを羽織った初老の男が診療室に足を踏み入れた。そのちょうど中央に置かれた椅子に座っていたグレンは、膝の上に広げた本を読んでいるところだった。
「……お邪魔してます」
 膝上の本を閉じて、グレンは初老の男に会釈を向けた。
「誰だお前は」と語る視に睨まれた。ミソラと同じ黒髪と、少し角ばった顔面が厳つい印象を後押ししている。
「すみません、実は―」
「どうしたんですか、お父さん。明日になるって言っていたのに」
 立ち上がったグレンの言葉を遮ったミソラの声は、不自然に上ずっていた。彼女にしては珍しい。机の上に広げたままのノートや本、そして士官学校の受験要項を大慌てでまとめている。
「早く帰ってこられちゃ不都合な事でもあるのか」
 途端、ミソラの父親の厳しい顔面に、更に不機嫌さが上乗せされた。音を立てて娘に詰め寄ると、ミソラが背中に隠そうとした腕を掴んだ。
「っ!」
 分厚い本やノート、封筒が足下に落ちる。
「お前はまだこんな事をしとるのか」
 足下に広がる娘の受験勉強の痕跡に、唾をも吐きかねない憎悪の籠もった父親の声が向けられる。
「いい加減に諦めろ。お前が医者になぞなれるか」
 ミソラの目の前で、父親の足が本や書類を踏みつけた。
「やめてください!」
 発作的にミソラは父親の手を振り払い、両手で強く体を押し返した。後方に一歩、二歩とよろけた初老の男。
「私が何をしようとお父さんには関係ありません!」
「なんだと―」
 激昂した娘の言葉を受けた父親は、引いた足を再び踏み出す勢いと共に、右手を振り上げた。
「あの…」
 父娘の間に割り込んでくる第三者の声の直後、
「っ…!」
 打撲音が鈍い音を響かせた。ミソラが息を飲む声も重なる。
 父親が振り下ろした右手は、父娘の間に割って入った男を殴りつけていた。
「何だお前は…!」
 さすがに驚きを隠せず、父親は鈍い打撲の感触が残る右手を引きながら、目の前の若い男を見やった。
「すみません……」
 容赦なく殴られた頬に手をあてて、グレンは苦笑でその場を誤魔化すしかなかった。
「患者さんです」
 背後からミソラの声。
「お父さんに診て頂きたくて、お泊めしたのです」
 つまり「入院患者」か。
「そんな事は見りゃ分かる」
 グレンの肩から肘にかけてを覆う包帯に目をやって、苦々しく言葉を吐き捨てた。そして、ミソラとグレンから背を向ける。第三者に水をさされた形で、父娘の親子喧嘩は消沈した。
「そこに座りな」
 父親は、診療所の隅に掛けてあった己の白衣を、乱暴に引っ手繰った。
「え」
 寝台の前に置かれた患者席を勧められて、グレンは一瞬、言葉を詰まらせる。
「でも、小動物ご専門だとうかがったのですが……」
「あ?」
 刺々しい言葉と共に、「大先生」はミソラを一瞥してから、再びグレンに視線を戻した。
「人間も動物も同じだろうが」
「さっさと座れ」と苛立ちが含まれた声と共に、彼が蹴飛ばした丸椅子が転がってきた。
「お父さん…!」
 非難めいたミソラの声。床から拾い集めた本やノートを抱いている。
「そんな態度で、患者さんを不安がらせるのは、良くないことです!」
「うるさい、そんなもの早く捨てて来い!」
 刺々しい言葉を吐き捨てながらも、大先生は手際よく診療台の上に次々と道具を用意している。大きな白衣の背中が忙しそうに動いていた。
「…………」
 足元で弧を描いて揺れている椅子を見下ろして、何故だかグレンは小さく笑っていた。
「どうしたんですか」
 訝しがってミソラが尋ねる。右手で椅子を拾い上げてグレンは「いいえ」とまた笑む。大先生の側に椅子を置き、そこに座った。どこか楽しそうだ。
「………けったいな患者をつれてきやがって」
 また大先生の苦々しい言葉が、硝子とステンレスが擦れ合う音に混ざり合った。グレンが左腕の包帯に手を伸ばすと、「俺がやるから触るんじゃねえ」と背中ごしに鋭い視線が振り向いてきた。
「はい、すみません」
 とグレンが素直に従うと、大先生は苦虫を噛み潰した顔のまま再び顔を背けるのであった。
「いつまでそこでつっ立ってるんだ、ミソラ」
 部屋の隅で本とノートを抱えたまま、二人の様子を見つめている娘。
「言ったでしょう、私の勝手です」
「……むぅ」
 言い返す代わりに、大先生の手が乱暴に薬瓶をこじ開けた。半ば叩きつけるように、可動台の上に蓋が置かれた。かなり不機嫌そうだ。険悪な空気を流し合う父娘の間で、だがグレンは困惑している様子もなく、分かり易い反応を見せる医者の背中を眺めている。
「腕出しな」
 振り向いた大先生はそう言いながらも自分から、グレンの腕をとった。どんな荒療治が始まるかと思えば、包帯を外していく指先の動きは、柔らかい。歯軋りしている面持ちだけ見ていると、今にも腕をへし折って来そうな空気を漂わせているのだが。
 包帯を外す時、乾いた血液が糊となって肌や傷に痛みを与える事がある。それを防ぐために、薄めた消毒液と脱脂綿を使って染み込ませながら、包帯を取り除いていくのだ。そんな小さな気遣いでも、患者の精神的苦痛や不安を大幅に緩和させる事ができる。この「小動物専門家医」には、それがちゃんと出来ていた。
「……お前、軍人か?」
 取り除いた包帯をシンクに放り投げ、振り返りながら大先生が問うてきた。娘による応急処置が施してある傷を繁々と眺め、「ヘタクソめ」と素直じゃない呟きを噛み潰している。
「ええ」
 いずれ嘘ではなくなる。グレンは淀みなく応えた。少し離れた場所で、ミソラが反応を見せたのが感じられる。
「痛みに対する恐怖感が薄いな」
 大先生の厳つい顔が真っ直ぐ、グレンを見据えてくる。
 瞳孔の動きや、汗のかき方、呼吸の回数や深さなどを観察していたのだ。通常、人は無意識に医療器具に対しても恐怖心を抱くものだが、グレンはそれが希薄だった。
(この人が、軍人……?)
 ミソラは教科書を抱く腕に、更に力を込めた。
 父に言われてみてようやくミソラも、グレンの様子を思い返す。消毒をすると言った時に彼は自ら、何の躊躇もなく包帯を外していたが、患者の心理から考えれば、深い傷を負った人間ほど、包帯を取りたがらないものなのだ。隠しておきたい、見るのが怖い、痛い、様々な不安と苦痛の葛藤が生じるからだ。
(イルト君とこの人って一体……)
 ますます二人の関係が見えなくなってきた。
 ミソラはイルトを思いながら、父親が動かす手先をずっと、見つめ続けていた。


 鞄に荷物を詰めていた手を止めて、エルリオは顔を上げた。
 ミリアムはジャスミンと共に下層へ行っている。旅に必要な物を買い揃えてくれるとの事だ。
 谷を発つのは明朝。最後の夜となる今晩、ヴィルからワイヴァンについて話を聞くことになっている。
(何かないかな…)
 荷物をまとめながら、エルリオはずっと同じ事だけを考えていた。
 何か、自分からヴィルにもたらす事のできる情報はないのか。
 もう、与えられるだけの自分は嫌だった。
(でもなぁ…)
 押印技術そのものは、一朝一夕に教えられる事ではない。そもそもエルリオ自身でさえ、父親の見よう見まねから始まった事であり、何ら系統だてて整理されているわけではないのだから。それに、純粋に印の力を比較した場合、エルリオ程度であれば、谷の印保持者達のほうが数倍も上だ。それに、ヴィルは研究室付けの尉官であったと言っていた。だとしたら、基本的な知識を教えるまでもない。
「………キュー」
 視界の端に、ベッドの上に転がるキューが入った。
 ヴィルが最も興味を示していたもの。それはこの縫いぐるみ。
 物質に印を押印する技術についてだ。
 列車強盗の親玉、バスクスが操っていた、強力な銃器。妹のメロウを束縛していた器具。
 押印技術を応用した新しい技術だ。
「あんたって、何気にすごいのね」
 その最たる尖端にいるのが、この古ぼけた縫いぐるみ、なのだろう。
 未だに実感が沸かないほど、キューはエルリオにとって近い存在だった。
「あんたの体の中って、どうなってるの?キュー」
 ベッドに手を伸ばし、丸い体を手に取った。
 体をひっくり返して、縫い目を探す。足の付け根に、文字が刺繍されていた。
「わが娘へ。Qの魂を。」
 自分に宛てたメッセージが縫い付けられているのは、これを貰った時から知っていた。これを見てエルリオは、彼を「キュー」と名付けたのだ。意味を深く考えたことはない。
「そういえばQって何のことだろ」
 呟きながら、いつも何気なく触れてきた弾力性のある体を、注意深く触れてみる。手の平や、指先で深く押し込んでみる。
「…………」
 キューは無言でされるがままになっていた。
 化学繊維の表皮。細く柔らかい指触りの下にあるつっぱる感触は、おそらく裏地として縫いつけられた人工皮だろう。そして、溢れるほどに詰め込まれた綿の感触。更に、更に強く指を押し込むと、固いものにぶつかる。丸い体の中央、綿に守られるように、固い芯が埋まっている。キューが平らにつぶれるほどに表皮を押さないと、分からない。人形の形を支える芯だろうと思いずっと気に留めてこなかった。
「ちょっと…ごめんね」
 念のために謝ってから、キューの体の前後から両手を添えて、柔らかい体を潰した。
「ギュウウゥゥゥ…」
「その声、わざとでしょ」
 キューの体の中心にある芯。その形を確かめようと、両手の指先で辛うじて感じられる感触を確かめる。
 表面が滑らかだ。だが角があり、平面もある。
「―…円筒?」
 形状が判別した時点で、エルリオの腕力は限界を迎える。綿が詰め込まれたキューの体は、ゴム鞠のように丈夫で思ったよりも弾力性がある。子供の細い腕で長時間押さえ込むのは困難だった。
(鞄に詰め込んでも、投げても、ちっとも綻ばないしね…)
 外からは、ほとんど縫い目の見えないキューの表皮。縫い目を器用に内側へ織り込んだ作りになっている。開腹したら、元に戻す自信が全く無かった。
「いくら恩人でも……これだけはダメだぁ…」
 諦めて、キューの体をベッドに放った。ベッド上で数回バウンドした後、キューは皺のよった体を、自分で動いて捩って伸ばし始める。
「形状記憶シャツよりスグレモノ…」
 と、下らない事を呟きながら、エルリオは荷造り途中の鞄を枕にして床に転がった。
「何かないかなぁ…私にできること」
 エルリオの問いに答える者は、いない。
 木の床の冷たさが心地よくなり、エルリオは徐々に眠りに誘われていった。




ACT9-8⇒
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押印師ACT9-8
08

 エルリオが床で惰眠を貪る事になる二十分前。
「保存食とか、マッチとか、買い物できるところあるかなぁ?」
 寝所に顔を出したジャスミンに、エルリオが尋ねた。シュトル・セントラルでの買い物は諦めるしかなさそうだったからだ。
「下層でほとんど揃うと思うわよ。三人で行きましょうか?色々と譲ってもらえるかもしれないわ。お客様だしね」
「やったー!」
 エルリオは喜び、立ち上がる。
「あのー」
 その横から、ミリアムの手が上がった。
「お買い物は、私が参ります。なので、エルリオさんは鞄の整理と、ヴィルさんとお話しをされてきたらいかがでしょう?」
 エルリオの足元は、広がったままの荷物が酷い散らかりようだ。生活用品だけではなく、本や筆記用具の他、用途不明な薬なども詰め込まれていたのだから。
ふと我に返ったようでエルリオは「うーん…」と頬を掻く。
「パッキングなら、後で手伝うわよ?」
 床の散らかりようにジャスミンも小さく笑うが、折角だからと外を指差してエルリオを誘い出そうとしている。
「………」
 散らかった荷物の真ん中にしゃがんだままで迷っているエルリオの前に、ミリアムもしゃがみ込んできた。無言で、身動ぎせずに見つめてくる、美しい顔の中にある、灰色の瞳。何かを訴えかけていた。
「……じゃあ…買い出し、お願いしても…いいかな…?」
 エルリオは一言ずつ、ミリアムの表情を窺いながら結論を出していく。どうやら望みどおりのものだったらしく、人形のような面持ちが「はい」と微笑んだ。
「というわけで、ジャスミンさん、行きましょう!」
 不自然に思えるほどにはしゃいで、ミリアムはジャスミンより先に外に出た。
「本当に、大丈夫?」
 エルリオを気にかけてジャスミンが振り向く。エルリオは頷いて二人を送り出した。
(何でそんなにジャスミンさんと…)
 そう少し考えかけて、すぐに「まあいっか」と諦めた。いずれにしろ、考える時間と、ヴィルと話をする時間を多く取りたかったエルリオにとって、ありがたい気遣いでもあったから。
「よし」
 そうと決まれば、一刻も早く荷物整理を終わらせよう。
 心に決めて、再びエルリオは散らかった荷物の中心に居座って、忙しなく手を動かし始めたのである。


 アウトドアは、サバイバル。
 本日ミリアムが学んだ事である。講師はジャスミン。
「小型のナイフを、一人一本ずつ常に身につけていると便利よ」
「小型がいいのですか?」
「必ず身につけている事が大切なの。しかも、すぐには見つからない場所、だけどどんな姿勢からも取り出せる場所にね」
 買出しを終えて、下層から上層に向けて歩いている中小二つの細い人影がある。ジャスミンのサバイバル講義は続いていた。隣でミリアムが懸命に相槌を打つ。
「ロープを切ったり、時間はかかるけれども、鎖やベルトを切って逃げられるわよ」
 「水のろ過について」から始まったアウトドアの話が、いつの間にか「捕虜になった時の心得」という傭兵向きサバイバル術話へと発展している。いつ役に立つか分からない話に、ミリアムはしきりに感心して頷いていた。
「ナイフ、大きいのを一本しか持ってないんです」
 言いながら、ミリアムが指先でナイフの長さを示す。
「中層から少し歩く場所だけど、刃物を作っている職人の家があるの。小さいのを譲ってもらいましょうか」
 脱出に使用するかどうかは別として、実際、小さいナイフは利便性が高い。簡単なアウトドアの調理は勿論、採集や怪我の応急処置などにも使える。
「はい、お願いします!」
 頷くミリアムに、ジャスミンは柔らかく微笑みを返した。
 刃物職人の工房に向かいながら、ジャスミンは隣を歩くミリアムを見やる。
(この子は、本当に純粋なんだわ…)
 地揺れがあった夜に見た、リューシェと名乗った別人格が表出した時との差が激しい。あの件以来、ジャスミンはどうしても興味が混在した視を、ミリアムに向けざるを得なかった。
 ミリアムである時の彼女を一言で表現すると、「白」だとジャスミンは思う。
 彼女が如何に数奇な人生を歩んできたのか、ジャスミンに知る術はない。だがミリアムの「純粋さ」は「世間知らず」で済ます事ができない、別の次元にある気がするのだ。
 あの時表出した「リューシェ」が、「ミリアム」に及ぼしている影響が大きいのだと、ジャスミンは感じていた。ミリアムと逆にリューシェを「黒」と表現するならば、黒の濃さが白を際立たせていると言える。その逆も然り。
 ジャスミンも懇意にしている刃物職人の住居は、中層の奥にある。上層から落ちる小滝の受け口となる沢があり、その畔を目指して歩く。徐々に人の数が減っていくと共に、苔色の岩肌と、水草の鮮やかな緑が増えてくる。水に触れる風が流れてくるため、空気も涼やかに感じられる。
「ここから急に涼しく感じますね」
「天然の冷房みたいなものだもの」
 アーチを描く岩のトンネルが続く風景に入り、物珍しさにミリアムが歓声を洩らしながら走り出す。
「ね、ミリアム」
 ジャスミンがその背中を呼び止めた。この数日で、ジャスミンを姉のように慕ってくる二人の少女達を、今では名前で呼ぶようになっていた。
「はい、なんですか?」
 ミリアムからも、素直な返事が戻ってくる。
「ここを出た後は、二人でどこに行くつもりなの?」
「……」
 風が渦を巻く横穴を、楽しそうに覗き込んでいたミリアムが、急に面持ちを濁して姿勢を戻した。
「さあ…わかりません」
 と呟き返す。何故だか、声は寂しげな色を含んでいた。
「私は…エルリオさんの後について歩いているだけですから」
 少しぎこちなく首をかしげたミリアムと、ジャスミンの視線が交わった。
「そう」
 ジャスミンが柔らかく微笑む。それを受けてミリアムも笑った。
 笑おうとした。
 だが、ミリアムは笑みを作りかけた表情を強張らせて、そして、瞳を伏せる。
「…どう、したの?」
 ミリアムの異変に、ジャスミンが訝しげに覗きこむ。そこから更に逃げて、ミリアムは背を向けた。間もなく、小さな歩幅で進んでいた足が、ぴたりと止まる。
「?」
 背中を向けたまま動きを止めた、小さな少女の影。ジャスミンが声をかけようと口を開きかけると、
「ジャスミンさん……」
 弱々しい声がそれを遮った。そして、意を決したように振り替える。
「どうしたの」と再び問いかける前に、
「ごめんなさい、ジャスミンさん!」
 小さな叫びと共に、灰色の瞳がジャスミンを正面から見据えてきた。
「!」
 ミリアムの語尾と入れ替わるように、突然、ジャスミンは酷い眩暈に襲われる。見据えてくるミリアムの灰色の瞳が、視線を通じて頭に毒を流し込んでくるようだ。たまらずジャスミンは、荷物を抱えたままこめかみを押さえ込んだ。
「や…やめて!」
 思わず叫んでいた。
(心に入り込まれている…!?)
 そう直感してジャスミンは固く瞳を閉じ、灰色の視線から逃げようとする。だが脳内に入り込んでくる洪水は止まらなかった。
「やっぱり…」
 ミリアムの独語。と同時に、頭の洪水が止まる。耳鳴りも消えた。
「……」
 ジャスミンの息が荒ぶる。焦点が定まらず、足下が揺れた。二度ほど深く息を吐き出した後、恐る恐る顔を上げる。
 ミリアムが不安そうな瞳を、だがまっすぐこちらに向けて来るのが見えた。
「一体何を…」
 戸惑い、そして敵愾心を含んだ硬い光を宿したジャスミンの視が、ミリアムに向けられる。
 帝国の血で引き継がれた精霊印を宿しているミリアムが、読心能力を持っている事は分かっていた。事実、目の前でジャスミンは、ヴィルの心が読まれた光景を目の当たりにしている。だがそれは、物理的に触れ合うという条件が必要だったはず―。
「ごめんなさい…私、見えるんです。見えるようになったんです。触れなくても、見える―」
 ジャスミンの疑問を読み取ってか、即座にミリアムから答えが用意された。
 異様なものを見るようなジャスミンの視線。それが酷く悲しく、寂しく、だがそれでもミリアムは、唾と躊躇を飲み込んで、「ジャスミンさん」と呼びかける言葉を続けた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ジャスミンさん、私…」
 ミリアムの声は震えていた。
「あなたの心を読みました。最初は、谷に初めて来た時。それから、今です」
「谷に来た時…」
 眉目を顰めてジャスミンは思案する。
 エルリオが転び、縫いぐるみが転がり、それを拾った記憶が蘇る。
 それを受け取りに来た、美貌の少女。
 白い指先が触れた感覚を、確かに覚えていた。
「……あの時……」
 ジャスミンは口の中で聞こえない舌打ちをした。
「ごめんなさい…最初は、好奇心からでした」
 ジャスミンとヴィルは果たして両思いなのか!
 少女達(主にエルリオだが)の他愛もない、恋への好奇心、その延長だった。
 だがミリアムがジャスミンの中に見たものは―
「何を見たの」
 これまで自分に向けていた柔らかい笑みが消えて、今のジャスミンには厳しい面持ちが浮かんでいる。そう、まるで「敵」と対峙している時の戦士。鋭い眼光に呑まれそうになり、ミリアムは次の言葉に詰まった。
「答えて」
 短い言葉と同時に、ジャスミン右手は腰の後ろに差していた銃を掴み取る。安全装置が外れる音と同時に、銃口がミリアムに向けられた。左手は、荷物を抱え込んだままだ。ミリアムを見据えると同時に、ジャスミンの両目は、周囲の状況を確認していた。ここは人通りの少ない、風孔の道。二人きりになる機会を狙われていたと知る。不自然なほどに、エルリオから自分を引き離したがっていたミリアムの様子も、合点がいった。
「私……」
 突き出された銃口に、ミリアムは一度大きく肩を振るわせた。だが怯えを見せたのは一瞬の事で、灰色の両目は銃口を通り越してジャスミンの瞳に、再び向いた。
(どこまで…どこまで答えたらいいの…)
 どう説明する事が、自分にとって、そしてジャスミンも含めた大切な人々にとって、最良なのか。懸命に思案するが、焦りばかりが汗となって体内から込み上げるばかりだ。
「どうしたの…」
 ジャスミンの声に、僅かな柔らかさが戻っている。
「私に話があるから、こうして誘い出したのでしょう?」
「……ジャスミンさん…」
 意図はとうに知れていた。嘘が苦手な少女の小さな企みなど、国軍出身の才女が見破るには容易い事だ。
「時間はまだあるわ。ゆっくり話しましょう。脅かしてごめんなさいね」
 安全装置を留めて、ジャスミンは銃を下ろした。その流れで再び、腰の後ろに銃を差す。
 全身からカミソリのような鋭さを漂わせる黒髪の女戦士。細い足が砂利を踏みながら一歩ずつ近づいてくる間、ミリアムはずっと手の平を硬く結んでいた。





ACT9-9⇒
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押印師 ACT9-9
09

 その頃。
 頬にくすぐったい感触がして、エルリオは無意識でそれを払いのけた。
「眠いのー…」
「おい、娘」
 低い声と共に、今度は額にくすぐったい感触。またエルリオはそれを払いのける。
「起きろ」
「!」
 跳ね起きると、傍らに片膝をついてこちらを見ている金髪がいた。鞄を枕にして床で眠り込んでいたエルリオに、呆れた面持ちを向けている。だいぶ傾いてきた陽光を背中に受けた逆光の中でも、それが分かった。
「お前の連れに、ジャスミンと買出しに行くと聞いた。今が良い機会だと思ってな」
「あ…」
 エルリオは跳ね起きて、背を正す。
「ミリアムに?」
 ヴィルにまで根回しをしたミリアムの行動が気になった。
「何をそんなにジャスミンさんと話すことがあるのかなぁ」
 首を傾げて疑問を口にするが、ヴィルからも「さあな」と短い返答。
「ま、いっか」
 それ以上は深く考えず、エルリオはベッドに転がるキューを傍らに引き寄せた。
「あのー、まず私から、いいかな」
 正座して背筋を伸ばすエルリオ。その膝上に、白い縫いぐるみが置かれている。ヴィルは片膝をついた姿勢のまま、次の言葉を待っていた。
「私、ヴィルさんが必要な情報は何だろうって考えてたんだけど…」
「俺の?」
「やっぱりそれって、物質押印についてだと思うんだ。で、」
 そこで、膝上のキューを両手で持ち上げて、ヴィルの目の前に突き出す。
「この子を調べれば何か分かるかなって思ったんだけど、ごめんなさい、それはどうしてもできなくて…」
 そして、突き出したキューを再び己の膝上に戻した。小さな肩を落とす主人と対照的に、キューはプラスチックの無機質な瞳を、エルリオとヴィルの間で忙しなく動かしている。
「だから、外でもっと勉強して、必ず何か協力できるようになるから、それまで待ってて欲しいの」
「………そんな事を考えていたのか」
 エルリオの様子を眺めていた、ヴィルの感情の少ない面持ちに、小さな苦笑が生まれる。
「また来ればいい、って言ってくれたの、すごく嬉しかったよ。次に私がここに来る時には、もっとちゃんとなってるようにするから」
「ガキが変に気を遣うもんじゃない」
 周囲に散らかるエルリオの荷物に視線を一巡させて、ヴィルはまた苦笑する。
「もう!取引しようっていったのそっちじゃん!」
「言葉のあやだ、鵜呑みにするな。これだからガキは困る」
 呆気なく切り捨てられてエルリオは口をぱくぱくさせる。窒息した金魚のようなその様子を無視して、ヴィルはその場に腰を据えた。
「お前の父親…―グレンデール氏のことだがな」
 父親の名前が出た途端、エルリオの面持ちが素に戻る。縫いぐるみを抱く腕が強張っていた。
 ヴィル・レストムがアリタス国軍に入軍したのは約七年前。士官学校を経由しない、特殊技能枠と呼ばれる入軍枠からだった。その頃のヴィルは、谷の一竜騎兵に過ぎず、まさかその四年後に、当主に選出されるとは思ってもみなかった時である。
 配属先は、中央局特殊部隊。同時に、精霊印研究所兼務の肩書きも得た。ただし研究員としてではない。軍属の印保持者は基本的に、本属、兼務、顧問など何かしらの形で「精霊印研究所所属」の肩書きを得ることになるのだ。
「という事は…軍にいた時にお父さんに会った…ってわけじゃないんだ?」
 ワイヴァンが退役したのは、大戦の混乱のさなか。だとすると、少なくとも十年以上前だ。ヴィルと時期が合わない。
「俺が入軍した時は、対帝国戦の戦後処理が沈着する前だった。ことに精霊印研究所は、根幹を担っていた研究員達が混乱に乗じて姿を消した為に、混乱が酷かったな」
 エージェントのサイクルから聞いた話の通り、その一人がワイヴァンだったのだろう。
「大戦前、研究所では二つの重要課題について研究を進めていた。一つ目は、より簡便に押印を扱う技術の研究。二つ目は、物質に押印する技術の研究だ」
「………ふむ」
 ヴィルの指が一本ずつ立てられていくのを、エルリオは相槌と共に見つめた。
「だが二人の研究員が、この二つの研究成果をそれぞれ軍から持ち出して、姿を消した」
「………一人は、お父さん…?」
 当たり前であろうが、ワイヴァンは軍規違反者のレッテルを貼られているようだ。分かっていながらも、エルリオは胸の痛みを覚える。エルリオの質問に直接答えず、ヴィルは言葉を続けた。
「そしてもう一人は、リハルト・デイムという名の研究員で、物質押印技術の研究を盗み出して消えた」
「リハルト・デイム…」
 聞いたことの無い名前だ。キューにも確認してみるが、記録にないようで、反応がない。
「だが実際、二つの研究結果を持ち出したのは、このリハルト・デイムだ」
「え?」
 思わず膝の上のキューを押しつぶして、エルリオは前屈みにヴィルを見上げる。
「じゃあお父さんは…」
 それよりも、何故ヴィルがその事実を知っているのか。
「お前の父親も、この谷に来た。ちょうど今のお前のように。三年前の事だ。俺はその時、彼に会った」
 国軍に所属していた誼で、ヴィルは当時の当主と共に谷を訪ねたワイヴァンと言葉を交わしていた。
「どうして…?何しに?」
「グレンデール氏は、デイムを追っていた。軍を出た理由も、彼を追う為だったそうだ。どうしても取り戻さなければならないものがあると」
 取り戻さなければならないもの。軍の研究成果という事だろうか。
(取り戻したら…また軍に戻るつもりだったのかな…)
 だから軍は、押印師招集候補の一人にワイヴァンの名を記していたのだろうか。
(それなら、なんでお父さんは…)
「-ん?」
 父親のことを思案している途中、ヴィルの言葉に引っかかりを覚えて、エルリオは顔を上げた。
「お父さんは、そのデイムという人の足取りを追って、谷まで辿り付いた?それが三年前?」
「そう言っていたな」
 三年前。それはワイヴァンが死んだ年でもあり、谷が精霊狩りに襲われた時期でもある。
「三年前って…それって、谷が精霊狩りに襲われた時期でもあるよね…?」
「そうだ」
 ヴィルの返答は、淡々として、そして短かった。
「じゃあ、その精霊狩りには、リハルト・デイムが関わっていたってこと?その人が盗み出した技術を、精霊狩り達が使っていたってこと?あの列車強盗もそうなの?」
 列車強盗のバスクスが使用していた不可思議な武器も、元は軍が研究、開発に携わっていた技術だったという事だろうか。だとすれば、竜翼谷が、これだけ独立した戦闘能力集団を保持しているにも関わらず、甚大な被害を受けた理由も分かる気がした。
「辻褄は合っているな。だが明確には何も分からない。確かに、バスクスを含め谷を狙う精霊狩りの人間は、物質押印技術を使う。だがリハルト・デイムとの関連性を見出すまでには至らなかった」
 谷を守護する事で精一杯だった。
「………」
 背中から這い上がる歯がゆさに、エルリオは唇にあてた指の背を、軽く噛んだ。自分は何か大きな間違いを犯している、そんな予感が湧き上がった。だが確証が持てない。
「リハルト・デイム」。「グレン」に続き、また新たに浮上した、手掛かりとなりえる名前。
「お父さんは、谷の襲撃事件に居合わせたんだね?」
「ああ」
「お父さんは、一人だったの?」
「―いいや」
 エルリオの言葉で初めて思い出したようで、ヴィルの返答に呼吸が挟みこまれた。
「年恰好が似た男と二人だった。」
「どんな人?」
「友人だと紹介されたから、押印師関係の人間だと思うが」
「名前は?」
「名前…………」
 長く深い呼吸と共に、沈黙が降りる。エルリオは辛抱強く待った。
「レ…ネス、そうだ、レネスと名乗ったと思う」
「レネス?下の名前は?」
「名乗らなかった」
 レネス。これも知らない名前だ。キューに尋ねてみるが、珍しい名前とは言えないためか、
「役人とか、軍人とか、科学者とか、歴史の人とか、該当する人がいっぱいだよ」
 と手掛かりになりそうにもない。
「どんな人だったの?」
 ワイヴァンの交流関係などエルリオに知る由も無く、偽名である可能性も高いが、念のために聞いておこうと思った。
「どんな……さほど気に留めなかったからな…」
「そっか…そうだよね」
 だが、これまでに得られた情報の大きさに、エルリオは道先に光が点ったような気がした。同時に、その奥にとてつもなく深い孔が待ち構えているような不安にも襲われる。
「という事は…」
 キューを胸に、強く抱きなおした。ヴィルは静かにエルリオを見つめている。
「精霊狩りを追えば……お父さんの足取りが辿れるって事だよね……」
「お前…」
 ヴィルが訝しげに目を細める。
「お父さんの足取りを追えば、何故、死ななければいけなかったのか、分かるかもしれない…」
「お前、確か「精霊の印のルーツを探る旅をしている」と言っていたな」
「あ…」
 失言だった、と開けた口に手の平を当てる。神妙な色が浮かんだヴィルの瞳を見上げて、「あ」とエルリオは声を上げる。花火が弾けるように、頭の中に浮かんだ名案。
「そ、それはある意味、嘘じゃないよ!それにそれに、物質押印についても色々わかるかもしれないよ!」
 なんだ一石三鳥ぐらいになりそう!と脳裏にはじき出された単純計算の結果に、エルリオは顔を明るくする。だが対照的に、ヴィルの面持ちに浮かんでいたのは、厳しい怒りだった。
「馬鹿を言うな!精霊狩りを追う事がどんなに危険な事か!」
 叱責と共に、ヴィルの周囲に風が通り過ぎた。室内だというのに、風はヴィルの足下から湧き上がり、螺旋を描いてすぐに消えた。陽の感情に呼応して、印が風を呼んだのだ。
 この男が見せた初めての陽性反応に、エルリオは思わず固まる。珍しい光景に呆然としたのは一瞬で、次の瞬間には腹の底に反発心が沸いてきた。
「べ、別に精霊狩り自体を追うわけじゃないもん」
「同じ事だ。精霊狩りの動きが活発な場所に出向けば、必然的にあの列車強盗事件のような危険に巻き込まれる」
「あいつらが危ないって事ぐらい分かってるよ!それに、巻き込まれたってどうにかなるもん」
「分かっていない」
 エルリオの声が荒くなると、逆にヴィルの声音は這うように低く、
「三年前。不意だったとはいえ、一隊だ、竜騎兵の一隊が壊滅させられたんだぞ」
 そして深く沈んだ。
「対帝国戦では勝利の一旦を担った―アリタス最強の遊撃戦力と謳われたシュテラールの竜騎兵一隊が、だ。」
「…………」
 エルリオは反論の言葉を完全に失って、どこまで深く沈む闇色を湛えたヴィルの瞳を、見つめるしかなかった。乾いた砂地を通り抜ける風のように、つかみ所が無く、どこか生気に欠けていたヴィルとは違っていた。
 目の前にいるのは紛れも無く、谷に生きる者の誇りと覇気を備えた、谷の当主。
「当時の当主も、殺された。竜も人も、未だ怯え続けている」
 猛り狂う巨大な竜王達。エルリオの押印に反応し、我を忘れて狂った竜達。シュトル・セントラルに現われた竜騎兵達。寂寥に包まれていた、畑の女性。若い革職人の双眸に浮かんでいた静謐な色。
 脳裏に次々と記憶がスライドしてくる。
(それでも、それでも私は…)
 エルリオは胸に溜めていた言葉を、一気に吐き出した。
「精霊狩りなんて怖くないもん!だって最初は軍をつぶすつもりだったんだから!」
「………………………」
 長い沈黙の後、
「なんだって?」
 ヴィルの呆けた言葉が続き、
「………」
「………」
 そして寒い隙間風が、二人の間を吹きぬけていった。





ACT9-10⇒
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押印師 ACT9-10
10

 ミリアムが「それ」を見たのは、谷に足を踏み入れた時。
 はじめは単純な好奇心だった。

「プライバシーの問題ですよ!?」
「関係ない関係ない」

 そんな児戯の粋を越えない会話の後、エルリオの手から、憐れなぬいぐるみが転がされていく。それをジャスミンの手が拾い上げた。ミリアムは渋々ながらエルリオの言葉に従い、縫いぐるみを受け取るためにジャスミンの元に駆け寄った。
(もう……でも少し…見てみたいかも…しれない)
 涼やかな瞳と黒髪の、研ぎ澄まされた美しい獣を彷彿とさせる、大人の女性。微笑みを浮かべてはいるけれど、薄氷でコーティングされたような心の内に、どんな気持ちが隠れているのか―興味が無いといったら嘘だった。
 好奇心が混在した緊張と共に、ミリアムはさりげなくジャスミンの手に触れた。
「……?」
 瞬間、ミリアムの脳裏に流れてきたものは、
(何も無い…)
 虚無だった。
(どうして?)
 例え一片の変化を面持ちに表さない人間でも、体に触れて心の中を覗けば、そこには必ず「形」が存在しているはずだった。心のうちに抱えているものが、善であれ、悪であれ、喜であれ、哀であれ、何かしらの色や形があるはずなのだ。
 それなのに、ジャスミンからは何も感じられない。
 何故だかミリアムは、焦りを覚える。こんな事があるのか、本当に何も無いのか。能力が消えてしまったのか。
 視線をジャスミンの手元に落としたまま、奥を奥を探った。
 すると―

―太陽?

「………どうしたの?」
 頭上から、ジャスミンの声が降りてくる。
「…あ、」
 我に返り、ミリアムは顔を上げる。そこまで二呼吸分にも満たない、それは刹那の出来事だった。ミリアムは改めて礼を言ってキューを両手で受け取ると、ジャスミンから離れていく。足についた土を払いながら立ち上がる、エルリオの元に駆け寄っていった。
「……」
 話を聞きたそうにエルリオが首を傾げるが、ここで話せるはずもなくミリアムは俯いて歩いた。
「何か?」
「いつもよりも数が多い。それに少し高ぶっている」
「―来るかもしれないな」
「何が「来る」んですか?」
 三人の会話が、左から右の耳へとすり抜けていく。空を見上げたり顔を見合わせながら歩くエルリオ達を尻目に、ミリアムの視はずっと足元に向けられていた。
 ジャスミンから指を離す直前に辛うじて読み取った「画」を思い起こす。
 それは言葉や映像ではなく、画。模様、と言った方が正しいだろう。ジャスミンの心内で、朧のように浮かび上がっていた唯一のものだった。
(紋章…?それとも、精霊の印かしら…太陽…のような…)
 印ならば、後でエルリオに聞けば良いことだ。
 だが不可解なのは、それをかつて、ミリアムはどこかで見た記憶がある、ということ。
今日初めて出会ったジャスミンの心の中、沈み込んでいたイメージに、己の記憶が反応するのが不思議だった。
(どこで…どこで見たの…私。何だったのかしら…あれ)
「模様」「印」でまず思い出されたのが、グレンから託された、ピルケースに入っていた印。だがそれとは全く別物。あれほど複雑ではない。もっと身近で目にした事があった気がする。
 水面を浮上しかけては沈む記憶に苛立ちながらも、結局は思い出せず、いつしか谷の風景や竜の出現に興味が移り、一騒動あるうちに忘れてしまっていた。


 再び「それ」を思い出したきっかけは、エルリオと共にシュトル・セントラルに向かった時に遭遇した出来事。そこでミリアムは、エルリオが「暴走」と呼んでいた現象を、目の当たりにする。
砂が模る巨大な繭の中に人間がいると聞き、心を探れるかどうか、手探りの状態で意識を集中させた。
(…やっぱり姿が見えないとだめかしら…)
 完全に姿を覆われた状態では心を読むことがままならないのか、意識を集中させたところで何も聞こえてこない。砂が暴れ狂う轟音だけが、そこにある音の全てだった。
「中の人、まだ生きているのでしょうか…?何も、心が感じられないのですが」
「生体的には…生きてるんだと思う。でもミリアムの言うとおり、意識はもう無いんじゃないかな…。精霊にどんどん侵食されて、体が朽ちるのも時間の問題だと思う」」
 ミリアムの言葉を受けて、エルリオの推測が繋がる。結果、押印された顔を潰すしかこの暴走を止めることができない、という惨い結論が突きつけられる事となった。
 そして、
「一気に剥ぎ取るぞ」
 と、ヴィルの声と共に風が砂を削ぎ、中にいた人間の姿が明らかになる。
 元が人間であった事を疑いたくなるほどに、変わり果てた男の姿がそこに。
「きゃああ!!」
 隣で見知らぬ青年が悲鳴を挙げると同時に、ミリアムもあらん限りの声を上げていた。落ち窪んだ頭蓋の溝に、白い眼球が不自然な角度で転がっているのが見える。まともにそれを見てしまい、恐怖で体が凝固して、視線を戻す事がままならない。
「――っぁ…」
 喉の奥で再度、引きつった悲鳴が上がりかけた瞬間、
 脳裏にまた「画」が浮かんだ。

 モノクロームの太陽。

「…え……」
 骨と皮と衣服の端切れだけとなった屍から、激流に紛れた木の葉のように、ミリアムに流れ込んできた刹那の思念。
「な……に…?」
 無意識に呟いた問いに、答えてくれる者がいるはずもなく。
 直後には、
「お父さんお母さんアリサごめんなさい!」
 という青年の叫びと共に銃声が爆発し、凝視していた視界の中で男の頭蓋が破裂した。
 そして、「画」も完全に途切れて消える。
「…………―ぃや!」
 頭の中を直接殴られたような刺激の強すぎる光景に、それからミリアムは砂に座り込んで震え続けるしかなかった。生理的な涙が目端を伝う。歯の根が合わず、しきりにかちかちと落ち着きのない音が口の中で連続していた。肩の震えも止まらなかった。
「きゃあ!」
 だが恐怖を拭う間もなく、収まりかけた砂が唐突にミリアムの周囲で再び暴れだした。そこから、精霊の暴走騒ぎが収まるまでの事はよく憶えていない。気がついたら、竜の背からエルリオに向かって飛び降りていた自分がいた。


 谷に戻りようやく落ち着くことができてからも、ミリアムの面持ちが晴れる事が無かった。
 暴走者の心から読み取った太陽の画が、脳裏から離れない。風のように一瞬で通り過ぎた幻影が、時の経過と共に胸に焼きついてくる。だが刺激が強すぎる光景に頭を掻き回されて、うまく記憶と照らし合わせる事ができない。
「お風呂が用意できたわよ。砂を落としていらっしゃいな」
 ジャスミンが二人を出迎える。その笑顔を目にした瞬間、
「あ…」
 思い出してしまった。
 ミリアムの意識に重く蔓延っていた霧が、剥ぎ取られたように晴れる。
(何故…?)
 疲労で軋む身体と裏腹に、頭の中で事実が組み立てられていく。
 その結果、己が出した答えに自問が浮かんだ。
(何故、ジャスミンさんの中に見えた「もの」と、同じなの)
 砂の中に崩れ落ち、脳髄を撒き散らす死骸が脳裏に甦る。
 谷の入り口でジャスミンから読み取った、奥底に沈みこんだ微かな記憶。
 弾け飛んだ暴走者から漏れ出した記憶。
 その二つが一致してしまうのだ。
 それだけではなく、
(どうして……)
 自分の記憶とも整合してしまう。つまり、ミリアム、ジャスミン、暴走した精霊狩りの男、この三人が同じ「画」を記憶として共有していたという事だ。
 案内された浴場は、天然の岩場を利用した露天となっており、周囲は天蓋で囲まれていた。温水が湧き出る泉を中心に、掘った穴に岩が敷き詰められており、それが浴槽となっている。壁の数箇所からは滝から引かれた水が止め処なく流れ出してシャワーのようになっていた。
 そこでミリアムは頭から水を浴びながら、尚も思案し続けていた。
「画」は、国や市の紋章でもなければ、地図記号や標識のような整然としたものでもない。中央に描かれた五角を中心に、辛うじて螺旋と判別できる歪な輪を描いていた。歪な輪からは、枝分かれした線が無作為に八方に伸びている。全体を見れば太陽にも見えるが、線は銀色で、冬の結晶のようにも―
「―銀?」
 沈殿したモノクロームのイメージが、無意識に口にしていた一言で急激に鮮やかな色を取り戻し始める。
「やだ…」
 思わず呟いた。
 それは、美しい銀色だった。
 重ねた年月が銀の表面をくすませていたが、布で擦ると再び白銀が顔を出す。
―綺麗!これは、なあに?
 たった一度、ミリアムは確かに「それ」を手にとった事があった。
―鍵だよ
 懐かしい声が重なる。
(グレンだわ…)
 グレンが本を読んでくれていた時、隣に座るミリアムの視界で時おり、銀色が光を反射させていた。ミリアムの視線の高さには、グレンの胸元がある。
 光の正体は、首から下げられた銀色の金属。
 銀色の輪に細長い棒状の金属が繋がっており、尖端に銀色の太陽が着いていた。
(グレン……)
 混乱する思考が、胸の奥から懐かしさを掬いだしてくる。
 断続的な流水音に満たされる浴場の片隅で、頭から水を浴びたままミリアムはその場に座り込んだ。
三年の間、生死が分からず焦がれ続けた相手の顔が思い浮かんで、とてつもない寂しさが込み上げる。
全身に纏わりついていた砂が流れ去っても、ミリアムは長い間そこに座り込んだまま動かなかった。

「……あ…」

 一瞬のうちに、この半日の事が高速で脳裏を巡る。
 風に飲み込まれるような感覚と共に我に返ると、一歩、一歩とジャスミンが近づいてくる姿が視に入った。ようやく定まったピントが、まっすぐこちらを見据えてくる黒髪の女戦士をとらえている。
(グレン…)
 最後にグレンの姿を瞼の裏に浮かべる。浴場で浴びた水が心の中にまで染み渡るように、不思議と落ち着いた。徐々に近づく足音に対する恐怖も、緩和している。体は緊張のために冷たい汗をかいていたが、意識は冴えていた。
 これは、三年経って初めて掴んだ彼への手掛かり。
(あなたはどこに繋がっているの…?)
 逃したくなかった。
 グレン、ジャスミン、暴走した男。この三人の間に成立する関係性を、どれだけ思案したところでミリアムに見出せるはずがない。暴走した男は、谷の人間を狙っていたという。恐らくは精霊狩りなのだろう。だが同じ記憶を共有しているから、ジャスミンが仲間であると位置づけるのは短絡的であるし、考えたくなかった。
 ならばグレンはどうなのだろう。何故同じ形を象った物を身につけていたのだろうか。
 ただ、グレンには他の二人と異なる点がある。彼の心には、色や音、形が存在していた。だが他の二人は、無の中に唯一あの模様がまるで心の蓋のように静かに横たわっているだけ。もっとも、暴走した男は既に半死の状態であったから、一概にジャスミンと同列に考えられないのかもしれない。
 ジャスミンは国軍人だった。退役後は谷までヴィルに付き添い、常に共に行動していると下層の農婦も言っていた。軍がジャスミンを谷に仕向けた可能性もあるのだろうか。だがその場合、軍が取り締まり対象にしている精霊狩りとの関係性が説明できない。
 そもそも、あの太陽の模様は何なのだろう。
―綺麗!これ、なあに?
 幼い自分の声が再び脳裏に甦る。
(グレンは何て答えたかしら……?)
―鍵だよ。珍しい形だろう?これは―
 そうだ。思い出した。
「ジャ…ジャスミンさん」
 背中を押されるように、自然とミリアムの喉からその言葉が問いとなって滑り出していた。
「『ヴェロニカ』って何ですか」
 精一杯の詰問調を含ませた問いかけ。
「……」
 ジャスミンの足が、止まる。
―ヴェロニカ民と呼ばれる人々が作った民芸品だよ
―この太陽に似た部分が、紋章なのだそうだ
 無言が無音となって両者間に横たわる。ジャスミンの反応を待つ一瞬の間、グレンの口から聞いた言葉が、次々とミリアムの記憶の水面に現われていた。
 足を止めたままジャスミンは、更に静謐な瞳でミリアムを見つめている。

 ヴェロニカ。
 それは二百年前までアリタスに存在していた、民族の名。




ACT9-11⇒
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押印師 ACT9-11
11

 ヴェロニカ民。
 アリタスにおいて、工芸、工業分野において高い技術力を持ち、自決し独自の文化脈を築き上げてきた民。だが内戦の末に史実上、滅んだとされている。
 周囲の列強、ことにライザ帝国からの威圧行動が顕著になりはじめていた当時、アリタス国軍は軍事力増強政策を打ち出した。それに端を発した内戦は最終的に、アリタス国軍対ヴェロニカ民という図式となり、実に数十年にわたり慢性的に泥沼化。だが結局ヴェロニカは敗れ去り、史実はそれを「クーデター失敗」として、その逆賊民の名を公から消し去った。
 粛清を免れた末裔達は、離散と旧姓名を捨てる事を条件に、再び市民権を与えられたという。国民の浪費を善しとしないアリタスの国政が、「逆賊」の完全浄化を行わなかったのは美談として、世論にのぼっていたという逸話もある。
 内紛終結からの数十年、ヴェロニカ末裔の監視と戸籍管理を続けた国軍は、三世目に入った時点でヴェロニカに対する全ての監視体制を解除。そこからようやく事実上、彼らは完全なる「アリタス国民」となったのである。
 それから更に、約百五十年経過した現在、ヴェロニカの末裔達の現況を知る者は、いない。
「ヴェロニカって…民族の名前、なのですよね…?」
「その話をしたかったの?」
 ジャスミンの声は、静かだった。
「その言葉は、どこから?私の心を読んだから?」
 その問いにミリアムは首を横に振った。
「ジャスミンさんの心の中には、扉がありました」
「扉―…?」
 静かな相槌が帰ってくる。だが、ジャスミンの眼光には鋭さが増していた。負けじと、ミリアムは視線だけは外さまいとジャスミンを真っ直ぐ見つめた。
「ある紋章が、心の扉…蓋となって、その奥にあるものを全て隠していた…。それは、太陽のような形をしていました。あれは「ヴェロニカ」の紋章なのでしょう?何故だか、とても心が揺さぶられて、不安になります……」
「………」
 今度は相槌が戻らなかった。ジャスミンは、黙ってミリアムの言葉を聞いている。
「最初は、私の読心能力の限界なのだろうと思って…もうそれ以上考えるのをやめました。でも、それから間もなく、今度は別の人の心の中で同じ紋章を見ました」
 シュトル・セントラル。砂に飲み込まれかけた、乾きの街で。
「精霊狩りの、男性です」
「え……」
 静謐に沈みかけていたジャスミンの黒い瞳に、再び鋭い警戒が生まれる。あと一息。あと一息だと、ミリアムは自分に言い聞かせるように、深い息と共に言葉を吐き出した。
「心を失っていながらも、あの男性の奥底に、同じ紋章が焼き付けられて残っていました。あの、太陽が」
「…………」
「何故ですか…なぜ、そんな人と同じものが、ジャスミンさんの心の中にもあるのですか…?」
 グレンのことは、あえて伏せた。
「その答えを、あなたの力で読み取る事はできないの?」
 ミリアムは、首を横に振った。
「先ほど試みましたが、できませんでした」
 一度目よりも更に深く、ジャスミンの中に潜り込もうと試みた。
 だが、やはりそこにあったのは、モノクロームの太陽が横たわる灰色の砂漠。
「その紋章の奥にあるものが、まるで封をされたように見えないんです。ジャスミンさんの心は…他に何も無い、灰色の空間でした」
「そう」
 小さく呟いて瞳を伏せるジャスミンが、安堵しているようにも、どこか寂しそうにも見える。
「教えてください、その「ヴェロニカ」について」
「何のために知る必要があるの」
「人を探していて、やっと掴んだ手掛かりなのです」
 胸元に当てた小さな手を強く握り締めて、人形のような少女は身を乗り出してくる。ジャスミンは唇から苦笑を零した。
「民族の歴史について知りたいのなら、少し詳しい歴史書でも見れば分かるわ」
「え、え?」
 顔面に水でもかけられた子犬のように、ミリアムは目を丸くする。頬が徐々に赤らんできた。
「そ、そう、なんですか…やだ私…本当に物知らずで……」
 胸に当てていた手で頬を包み、肩を小さく窄めて俯く。ジャスミンの言葉は正しい。ただ、アリタス国民の義務教育課程の教科書にその名を見ることは出来ず、高等教育を受ける学生以上向けの歴史書などに、短く登場するだけだ。ミリアムが知らなくても仕方のない事だが、特にジャスミンは補足しなかった。
「で、では…」
 両頬に当てていた手を外して、ミリアムは再び顔を上げる。
「何故、あの暴走した男性とジャスミンさんが同じ紋章を……」
 ミリアムの言葉は暗に、ジャスミンと暴走者の関連性を問うていた。
「私が知りたいぐらいよ!」
「…!」
 突然の鋭い声音に、ミリアムは肩を一度震わせる。すぐに後悔の色がジャスミンの瞳に浮かんだ。
「ごめん……でもミリアム、あなたこそ何故その紋章の事を」
「私は、ただ―」
 逆に詰問が返って来る。むしろ彼女の方が切迫しているように見えた。
「帝国の末裔であるあなたが何故ヴェ―っつ」
 突如、ジャスミンの声が途切れた。迫るように前方に踏み出していた足が、引かれる。
「ジャスミンさん?」
 訝しがるミリアムの前で、衣服に隠れたジャスミンの左胸周辺で一瞬、光が弾けた。
「うっ…く…!」
ジャスミンは左胸を抑え上半身を屈める。左腕に抱えていた荷物が落ちて、中身がばらけた。ミリアムが駆け寄り、一歩手前で、遠慮がちに止まる。ジャスミンの顔色を覗き込むと、光と共に苦痛の表情は既に消失しており、呆然とした空虚が瞳に浮かんでいた。
「大丈夫ですか…?」
 足元に散らばる荷物に気がついて、ジャスミンは深呼吸代わりに溜息を落とした。
「私にはもう、これ以上話せない」
「ジャスミンさん…」
 ジャスミンが二度、三度と深い息を吐いて呼吸を整える様子を、ミリアムは静かに待っていた。
「あなたの前では、その言葉を口にすることもできないの…」
「どういう事ですか…?」
 意味を図りかねてミリアムは首を傾げる。ジャスミンは答えずその場にしゃがみ込み、散らばった荷物を拾い始めた。向かい合う形でミリアムも膝を曲げた。
(………あの光は、何だったのかしら……)
 落ちた物を拾う素振りで、目線の高さにあるジャスミンの胸元を見やる。火花のように弾けた光は完全に消えており、今は面持ちから苦渋が消えていた。
「それは…何故ですか……」
 語尾を言い終えない内に、ミリアムは低い声と共に己の手をジャスミンに伸ばした。
「!」
 ジャスミンは反射的に体ごと手を引こうとするが、一瞬遅く、ミリアムの白い指先が喰らいつく。
「心の扉を開いてください…!」
 懐に潜り込んできた小さな少女の体。ジャスミンの視からは、下から灰色の双眸が間近に迫る。
「止…」
 逃げようとするジャスミンの手を、地に縫い付けるミリアムの小さな手。その上に、更にもう片方の手が重ねられた。そしてミリアムは、真っ直ぐジャスミンを見つめる。口付けが届きそうな距離まで瞳を近づけ、瞬きを忘れさせるほどに、ミリアムは目の前の黒い瞳に視線を注ぎこんだ。
(………もっと深く…!)
 体から抜け出した魂がジャスミンの体に重なっていくような錯覚と共に、ミリアムの目の前に闇が広がった。
 飛び込んだ波間は、無音の世界。果てしない水底を目指して潜り込むうち、薄らと足元に太陽が見えた。
 それは、紋章。
(見えた…!)
 もっと、もっと、奥を探る。次第に紋章の姿が鮮明になる。虚構に彩られた灰色の太陽。それ以外に存在しない砂漠の世界。
(こんなはずない…ジャスミンさんの心には…もっといっぱいの色が…)
 エルリオや自分に向けてくれる、柔らかい微笑み、仕草。自分達を癒してくれたその優しさい心が、無色無音であるはずがない。
(あの紋章が、隠してしまっているんだわ)
 灰色の巨大な蓋に手を伸ばす。だが手応えを感じる前に、紋章は陽炎のように指先からすり抜けて、遠くへ逃げる。否、ミリアムの意識が押し戻されているのだ。
 逃がさない。
 切迫した観念のみに駆られて、ミリアムは更に意識を紋章の向こう側に送り込んで手を伸ばした。指先が微かに紋章に触れる。生温い沼に沈み込むような感触がした。
(入っ……た…?)
 浸水する感覚が、指先から手の甲、そして手首にまで達する。
 すると、
『…………!』
 すぐ耳元で、甲高い叫びが聞こえた。言葉は聞き取れなかったが、何故だかそれが若い女の声だと直感する。
 目を開けると同時に、目の前で人影が横倒れになった。
「な…?」
 足下に落ちていくその影は、子供を抱いた女だった。見たことのない装束を身に纏っている。
「あの…」
 助け起こそうと手を伸ばしかけると、ミリアムの指先を鈍い閃きが掠った。肉に異物がもぐりこむ異様な音と共に、女の背中に何かが突き立てられる。
「きゃああ!」
 叫んで尻餅をついたミリアムの真上に影が被さる。見上げると、女に突きたてられた槍の柄を握る人影がいる。呆然とするミリアムの視界の中、男は何かを口走った後、女の体から槍を引き抜いて踵を返した。ミリアムの姿に気がついていないようだ。あまりに生々しい感覚に、これが幻影である事を失念してしまいそうになる。
『……!』
『********!』
 言葉は聞き取れないが、高低が混在した人間のものと分かる声が飛び交う。
「……っ!」
 足下に転がる母子の骸から視を逸らして周囲を見やると、火の粉混じりの熱風が鼻先を通り抜けていく。空は紅に染まり、人影のシルエットがいくつも赤黒い陽炎の中に揺らめいていた。
「な、な、何…?」
 すぐ脇を、複数の人影が走り抜けていく。口々に何かを叫んでいたが、それも聞き取る事が出来なかった。そのうち、頭上から爆音とも咆哮とも言いがたい轟音が木霊しはじめる。
「きゃっ!」
 全身に突然、冷たい感触が襲い掛かった。心臓が悲鳴を上げそうになり、思わず両目を固く閉じる。耳元に聞こえてくる轟音。
(な…に?)
 瞳を開けると、そこは激しくうねる波間だった。
「え…水…!?」
 黒い、生き物のようにのたうつ水。辛い塩水の味覚が意識に染み込んで来た。
 海だ。
 記憶のどこかで憶えていた、海。だがそれは、ミリアムの記憶にある穏やかな波打ち際ではなく、不規則に四方八方で波が暴れまわる光景、嵐だった。
「ゎあっ…!」
 目の前に覆いかぶさってくる大波。再び身を縮めて目を瞑る。そしてまた、耳元では別の音が走り去っていった。目を開けると、
『きゃああ!』
 自分のものではない叫び声と同時に、目の前で赤い炎柱が上がった。目を開ける直前、瞼の向こうに感じられた複数の人影が、その瞬間、全て吹き飛んだ。
「いやあ!」
 今度は確かに、自分の叫び声。空は夕焼けのように赤く染まり、地は草の根一本残らぬほどに焼き尽くされた焦土。どこからとも定まらぬ方向から聞こえてくる、人の叫び声、爆発音、そして銃声。
「な…何…これは…」
 幻のはずの熱波が、肌に焦げ付くように熱い。逃げなければ。だが、足が動かない。
『来るぞ!』
「―え」
 すぐ側で別の叫び声。今度ははっきりと言葉を聞き取れた。振り返る間もなく、至近距離で炎が上がった。悲鳴を上げながら目を閉じる。すると、また音と感覚が消え去る。
(重たい…とても重たいわ……)
 僅かに手の先だけを潜り込ませている状態なのに、あまりに生々しく大量の記憶が流し込まれてくる。ミリアムがこれまでに読んで来た人間の心の中で、比較にならない「嵩」を持っていた。
(抜け出さなきゃ…!)
 再び訪れた無音も、新たに生まれた音の洪水によってかき消される。今度は硬い床を踏みしめる複数の足音、人の怒声が行き交い、そして変わらず遠方から響いてくる銃声。
(駄目…目を覚まして…覚まして!)
 光景が変わるたびに生々しさが増していく。逆にミリアムの方が、紋章の奥に引きずり込まれそうになっていた。己の呼吸と脈を意識することで、体が生きている現実世界に意識を戻す事ができるはず。ミリアムは頭を抱え込んで固く目を閉じた。
『私が、指揮官だ』
「―!」
 たくさんの声や音の中から、ミリアムの心臓に突き刺さる声がした。
(この声…)
 瞑っていた瞳を開き、無我夢中で振り返った。
 先ほどの焦土とはうって変わり、そこは室内だった。無機質で殺伐とした石造りの建造物のようだ。その中に複数の人影。いずれも同じ色と形を身に纏っている。見覚えはないが、はっきりと「軍服」だと分かった。
(どれ…どの人が今の声の…)
 見渡すうちに、目に映る光景が溶け出す。
「待って…今のはまさか…!」
 ミリアムが手を伸ばす先で、全てが崩れ落ちる砂壁のように消え去る。代わりに現れたのは、再び焦土の光景。室内にいた人影たちと同じ服装が、忙しなく動いている。空は赤黒く、紫が混在していた。
「ぃ……」
 足元の焦土に転がる、多くの人間。見慣れぬ民族装束を纏っている。いずれも動かなかった。男が大半なようだが、老人や女、子供の姿も見えた。
『降伏しろ!』
『抵抗する者は射殺するぞ!』
 少し離れた場所から人影達が、こちらに向かって叫んでいる。
「こ、こうふく?…?」
 地面に座り込んだままの状態で、ミリアムは混乱する頭で必死に周囲を見渡す。黒煙にまかれて定かではないが、すぐ背後や横に、生者の気配が感じられた。
「これは一体…」
 戦争。ミリアムにとってその未知なる単語が、即座に思い浮かばなかった。崩れた建造物の残骸を生やした焦土の中央で、前にも後ろにも動けずにミリアムは身を縮めるしかなかった。
(もう嫌…!)
 焦る気持ちに重なり、
『捕虜の生命は保証する!』
 また、あの声が聞こえた。
「あ……!」
 顔を上げると同時に頭上と耳元を、銃声と爆発音が通り過ぎていった。目の前に黒煙のカーテンが引かれる。ミリアムは、感覚だけを頼りに、声がしたと思われる方向へ意識を進ませた。
「絶対…あの声は…」
 背後から強烈な閃光が走った。その場に身を竦めると同時に、目の前で炸裂して黒煙の緞帳が吹き飛ぶ。小さな悲鳴を上げながらもミリアムが立ち上がると、視界が開けた。
 遠くに見えていた軍服の人影が、いつの間にか少しだけ近づいていた。破壊された建造物の中でも比較的形が残っているものの前に、軍用だろうか、車が数台止められている。その周囲を取り囲む人影、後ろを振り向けば、同じほどの距離に別の人影達。対峙する二つの人種。ミリアムはその丁度中央にいた。
「え?え?」
 前後に視線をやって状況を確認しようとするが、
『戯言を!』
 という背後からの怒声と共に、複数の閃光が頭上を掠める。閃光の一波は軍服集団の中心に向けて迸る。聞き取れない声と共に人影が動き、軍服集団の正面からも閃光が放たれた。相殺された二つの光。破裂音が残した余韻が、空気を振るわせる。相変わらず、幻とは思えぬ現実味を帯びていた。
『………どうしても……のか』
 また、あの声が途切れ途切れに聞こえてくる。耳鳴りに邪魔されて、完全には聞き取れなかった。
「!」
 軍服の人影達の間から、別の人影が姿を現す。同じ軍服ながら、砂煙に霞んだ光の中でも、風にひるがえる長衣の様子は目立った。
『我々は』
 長衣の人物は、ミリアムに向けて―正確には彼女より更に背後へ―整然たる声を発する。
『民族浄化を望んではいない』
 浪々と発せられる言葉が何を意味しているのか、最早ミリアムにとってそれは何も意義の無い事だった。ただ意識は、その聞き覚えのある声の持ち主の姿だけを、追っていた。数いる軍服の人影の中心に立つ、声の主。顔を確認する事ができない。それどころか、砂と煙で翳む空気の中で、はためく長衣のシルエットでしか姿を認識する事ができずにいる。
『降伏などと…!』
 背後から再び、鋭い声。ミリアムの左右、真横を走りすぎていく気配。正面に向けて若い男や、中には子供に見える幼い影までもが飛び出していった。
「だめです!」
 背後と、
「やめてください!」
 そして前方にも向かってミリアムは叫ぶ。が、その声が届くはずもない。
 長衣の影が、後ろに一歩引くと同時に片腕を前方に振った。
「やめて!」
『撃て!』
 ミリアムの叫びを掻き消して、命令と同時に目の前が白く輝いた。

「うそ!!」

 自分の叫び声でミリアムは我に返った。
「はっ……ぁ…」
 体の中心に全ての血液が逆流していくよう。吸い込んだまま止まってしまった息を、無理やり吐き出した。不規則に心臓が脈打ち、うるさいほどに鼓動を打ち鳴らして脳髄に呼びかけてくる。鼓動はそのまま頭痛となって、強烈な不快感を全身に巡らせていた。
(戻って…来られた…)
 真っ白な視界が色を取り戻すと、そこにあるのは、自分の両手。そして、その下に置かれた、ジャスミンの手。
「ジャ…スミンさ…!」
 視線を上げると同時に、目の前の影が揺れた。再び紙袋と荷物が足下に散らばる。片膝をついていたジャスミンの体が、横に揺らいで倒れていく。咄嗟に手を伸ばして肩と腕を掴んだが、
「きゃっ」
 支えられずにミリアムは共に地面に倒れこんだ。
「だれ…か……」
 磁石で吸い付けられたように、胸から下が地面に張り付いたまま動かない。少し湿った土が露出した岩肌が、冷たい。両腕で上半身を起こして、匍匐する形で、ミリアムは懸命に意識を支えていた。だが喉から助けを呼ぶ声を絞り出そうとしても、空転する呼吸が喉の中でひゅうひゅうと乾いた音をたてるだけ。
 安堵感と疲労感に全身が押しつぶされて、ミリアムの意識はジャスミンの傍らに堕ちていった。上半身を支えていた両腕が、支えを失ってがくりと折れる。
 だが、体が完全に地に落ちる直後、ミリアムの細い腕に再び力が宿った。
「―痛…っ」
 壁にしがみ付く小さな動物のように、乱れた髪の下から伸びた手が土を掴む。感触を確かめながら、右手、左手がたてられて上半身が起き上がり、右膝、左膝をついて四つん這いになる。一呼吸の後、枝垂れた柳のように揺れながらも、ミリアムは両足で立ち上がった。
「ふう」
 両手で顔にかかる長い髪を梳いて、無造作に顔の後ろに流す。現われた瞳は、強い光を帯びた、別人格の色。
「ヴェロニカ……ねえ…」
 手足の土汚れを払い落としながら、周囲を見渡した。前後に人通りは勿論のこと、家屋の影も見えない。疲労しながらも満足げな笑みを唇に浮かべて、ミリアムの姿をしたリューシェはジャスミンの傍らに腰を屈めた。右手を、意識の無い横顔に添える。
「あなたのお陰で、大事な手掛かりが得られたわ」
 当然ながら反応の無い相手に微笑んで、リューシェは再び立ち上がる。
「あの二人、そろそろ終わったかしら」
 もと来た道の方面を振り返った少女の独語が、風穴から通り抜けた風に乗って消えていった。




ACT9-12⇒
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設定・用語紹介
※随時追加していきます
※07.01.03「レクティカ」「防人」「聖地の心臓」「キルマイト鉱石」「呼子の印」「グレリオ」を追加。

英雄の屍 設定・用語紹介

【あ~お】
≪アリタス≫
 ジスノラン大陸の真中央に位置する小国家。周囲四方を列強国に囲まれているが防衛の為に五百年前より軍事国家として立憲。防衛に適した地理的条件を活かした防衛線を構築し外部からの侵攻を妨げ続ける事で国が存続している。
 「総統」を頂点に国軍が政治も掌握しており、国軍内の政治機能の中枢は執政院と呼ばれる集団。国のポリシーは「才能の飼い殺しは最大の無駄遣い」として徹底した適材適所教育制度を敷き、国軍内も実力重視・適材配所を徹底させている。

≪アリタス・セントラル・シティ(ACC)≫
 アリタスの首都。約五百年前、首都的役割を担っていた聖地グレリオから首都機能を移転させて出来た、軍事国家アリタスとしての首都。グレリオよりも南に位置している。軍や政治機関の中枢となっている。全ての交通網が交わるACC駅がある。

≪ヴェロニカ民≫
 アリタスにおいて、工芸、工業分野において高い技術力を持ち、自決し独自の文化脈を築き上げてきた民。だが内紛で逆賊として国軍に粛清される。民族浄化を免れた末裔達は、離散と旧姓名を捨てる事を条件に、再び市民権を与えられる。内紛終結からの数十年、ヴェロニカ末裔の監視と戸籍管理を続けた国軍は、三世目に入った時点でヴェロニカに対する全ての監視体制を解除。そこからようやく事実上、彼らは完全なる「アリタス国民」となった。それから更に、約百五十年経過した現在、ヴェロニカの末裔達の現況を知る者は、いない。
 グレンはこのヴェロニカを表す太陽の紋章が施された鍵を、所持している。昔、商人に売りつけられた品物だというが…。
 また、この民族はジャスミンにも少なからず関係しているようだ。


【か~こ】
<<キルギストック>>
 ストック地方と呼ばれるアリタス北東部地域の中にある町の一つであり、他に「ストック」の名を持つ町は周辺に三つ存在する。キルギストックは緑と花が豊かな植物の街で、東西二箇所に巨大な植物園を有する自然公園が設けられている。街の通りを歩いていると、やたらと花屋が軒を連ねているのが目立つ。アリタス全国各地にも植物を出荷しており、栽培を産業化する事で街の経済は潤されている。薬草マニアには美味しい事この上ない楽園らしい。
 街の保安を旧家レイブリック家が担っている。

<<キルマイト鉱石>>
 美しい輝きを放つ、この世で最も硬い鉱物。あらゆる工業技術を駆使しても、傷一つ付ける事ができない。唯一、グレリオの長老一族が受け継ぐ「呼子の印」と呼ばれる精霊印の持ち主だけが、この石を変質させる事ができる。

<<グレリオ>>
 アリタスの中心部に位置する、山間部の小さな村。軍事国家となる前は、中立地帯「聖地グレリオ」であった。村の中心部に「聖地の心臓」と呼ばれる巨大な精霊印を有しており、村全体で護り続けている。イルトを始めとする歴代「防人」の出身地。グレンの出身地でもある。


【さ~そ】
<<防人・防人の印>>
 古来は聖地グレリオの「聖地の心臓」を守護する役職の人間を指し、「防人」には「防人の印」と呼ばれる精霊印が与えられた。徐々にその形が変わり、現在の「防人」はサイファ家の人間一名にのみ受け継がれるようになっている。この印を受け継ぐと、驚異的な運動神経、身体能力、自己再生力の他、あらゆる危険から守護対象を身を呈して護るための能力が備わるようになる。

≪執政院≫
 アリタス国政策中枢機関。別名「元老院」。アリタスの国主「総統」が決議の妥結権と執行権を持っている。

≪シュトル地方≫
 アリタス国内の地方名。広大な乾燥地帯を有する。シュトル北部には竜と人が共に住まう村落、「竜翼谷(シュテラール・バレー)」がある。最近「精霊狩り」と呼ばれる犯罪が横行している。

<<聖地の心臓>>
 旧聖地グレリオの中心にある、巨大な精霊印。「キルマイト」と呼ばれるこの世で最も硬い鉱石に守られて、グレリオの長宅の地下に眠っている。軍事国家となりACCが政治中枢となるまでは、聖地グレリオが中立地帯としての役割を担っており、この巨大な精霊印が玉座の代わりを為していたと言われている。

≪セントラル≫
 一般的に「セントラル」というと首都ACC(アリタス・セントラル・シティ)を指すが、「グレリオ・セントラル」「シュトル・セントラル」という風に各地の中心を担う地区や町を呼ぶ時にも使われる。

<<ソラリス>>
 被押印者の苦痛を和らげる強力な鎮痛薬。国軍医務官ソラリス・クリューガーが原料となる薬草の栽培と調合に成功し、その名が付けられた。軍部内で厳重管理をしていたが、民間に漏れ出して暴走者を頻出させている。


【た~と】
≪ディノサス共和国≫
 アリタスの北東に位置する大国の一つ。寡頭的共和制を敷いており、一部の特別階級の華族が国政を支配している。その一部がライザと繋がりがあるという噂もあるが定かではない。実際、アリタス・ライザ民政連合軍と帝国間の大戦時、ディノサスに動きはなかったという。その静けさが逆に不気味とされている。

【は~ほ】
≪ハート・オブ・アリタス≫
 ACC(アリタス・セントラル・シティ)の中央に設けられた、巨大ロータリー全体を指す。ロータリーの中央には巨大な噴水があり、噴水の中央には郊外からも尖端が見えるという巨大な塔が立っている。その周囲をいくつもの歴史上の英雄像が取り囲んでいる。アリタス名所の一つ。


【や~よ】
<<呼子の印>>
 旧聖地グレリオ時代から、グレリオの長が受け継いできた「天啓印」。唯一キルマイト鉱石を変質させる事ができる印。「呼子の印」という名の由来は、不明。


【ら~ろ】
≪ライザ帝国⇒ライザ民政国≫
 ジスノラン大陸の北西部に国領を広げる、アリタスに隣接した古国列強の一つ。数千年にわたり皇帝を頂点とする絶対君主制を敷いてきたが、民主化を求めクーデターを起こしアリタスの軍事援助を得た「民政派」により皇帝一族は滅亡に追いやられる。終戦後は国内制定の為に動きが大人しいが…?

<<レクティカ>>
 いくつもの専門大学校や膨大な蔵書数を誇る図書館、基調な学芸品を保有している美術館や博物館などを有する、「知的財産の街」とも称される、学匠の街(アカデミック・タウン)。アリタスには、ACCを中心に五芒星を描くように五つ、こうした「アカデミック・タウン」と呼ばれる学芸都市が存在した。レクティカそのうちの一つ。レクティカ大学校は、士官学校と並んで受験希望者が多いとされる高学の園。実学拠りな士官学校と対象的に、学問色が濃いのが特徴。


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押印師ACT9-12
12

 そしてまた、一夜が明ける。
 朝。イルトは再び、お人よしで厄年の商人と共にグレリオ・セントラルに向かった。
 助手席には乗らず、彼はあえて荷台に腰掛けた。しばらく見ることが出来なくなるであろう景色を全身で感じたかったからという、ちょっとした感傷からだった。十八年間当たり前のように見続けてきた、これからもずっと続くと思っていた景色が、次々と流れ去っていく。
 別れは、とても淡白なものだった。
 それはイルトが望んでいたもので、祖父も、姉も、そして友人達も、分かっていたようだった。
「また遊びに来いよ」
「おう。じゃな」
 最後に村の幼なじみと交わした言葉も、
「じゃ、いってくる」
「いってらっしゃい」
 最後に姉や祖父と交わした言葉も、
 毎日かわしていたのと変わらないやりとりと、全く同じだった。
 だからグレリオ・セントラルに到着した時も、
「ではぼっちゃん、何時にお帰りですか?」
 とマクダムは、一昨日と全く同じ言葉をかけてきた。
「うーん」
 最低限の荷物を詰め込んだ鞄を背負いながら、イルトはマクダムを振り返る。
「ありがとう。帰りは大丈夫。自分で、戻ります」
「そうですかぁ」
 頷くマクダムは、やはり寂しそうに目を細めていた。
「では、お気をつけて」
 最後もやはり、常と変わらない言葉で手を振ってくる。「うん」と応えてイルトはマクダムに背を向けた。これが本当の意味で、故郷との決別となる。背中を見送り続けるマクダムの気配が感じられたが、イルトは振り返らなかった。
 最初の角を曲がるまで、背中や髪の毛を後ろから引かれるような感覚と戦った。だが一歩角を踏み出すと、嘘のように背中から圧し掛かっていた空気の錘が消え去る。
「…………」
 思わず、荷物を落としたのかという錯覚に、イルトはその場で振り向く。自分を見送る人影もなければ、懐かしい風景も無い。後ろを振り返る必要はない、前だけに進めばいいのだと自らに言い聞かせた。
 急に軽くなった足取りで、イルトは薬草園方面に向かう。街が迷宮のように広く複雑に感じられた、一昨日の夜。だが朝靄が晴れた朝方のグレリオ・セントラルは、清廉な空気に包まれている。公園に沿った通りに出ると、視界を占める緑の面積が広くなる。中には既に色づき始めたせっかちな樹木もあり、北のグレリオ・セントラルは初秋の冷たい空気の中で朝を迎えていた。
 公園通りに沿って二回目に角を折れた時、イルトは頭上に気配を感じて足を止めた。
「ん?」
 気が狂った鐘のような音をたてて、それはイルトの正面に落下した。近所迷惑な音に顔をしかめて音の正体を見ると、それは病院などでよくみかける、銀色の容器。
「おいおい」
 薄くて大きいものではないが、頭に当たれば相当だ。見上げると、立ち並ぶアパートの一室の窓が開け放たれていた。数メートル前に、ミソラのアパート玄関がある。このアパートは奇数階ごとに部屋番号が振られており、一室が二階構造になっている。位置を考えるに、この物質がミソラの自宅兼診療所のどこからか降って来たものと推測される。
 金属容器を手にしたまま呆然としていると、今度は階上から階下に向かって床を踏み鳴らす音が降りてきた。何だと思う間もなく玄関が乱暴に開かれ、初老の男が噛み付きそうな面持ちで飛び出してきた。
「………」
 思わず道を譲ってしまうほどの迫力。苦虫を噛み潰した面持ちの男はイルトを一瞥するが、そのままどこかへ去っていってしまった。
 呆然と見送っていると、
「あ、おはよう、頭に当たらなかったかい?」
 頭上から声。再び見上げると、窓から見知った顔が覗き込んできた。
 グレンだった。
「……朝から何やってんだ…」
 呟いていると、再び玄関が開いて今度は黒髪の少女が顔を出した。ミソラだ。
「どうぞ」
 事も無げにそう手招きされる。
「どうぞって、今の人は…?」
 男が去っていった方を指差すが、ミソラは「父です。いいんです、放っておけば。どうぞ」とそっけない。二の句を継げないままイルトは玄関内へ足を踏み入れた。
 両者の説明によると。朝から父と娘が口論となり、仲裁しようとグレンが間に入ったまでは良かったが、完全に興奮状態となった父親の手が手近にあった容器に伸びて投げつけた結果、空気を入れ替えるために開いていた窓から飛び出し、イルトの目の前に落下…という事だったらしい。
「朝から血の気が多い父娘なんだな…」
「本気で当てようと思って投げたわけじゃないんだよ」
 ミソラの代わりにフォローに入るグレンの腕を、イルトは一瞥する。清潔な包帯が乱れ無く巻かれている。体調も回復しているようだった。
「という事は、今のがここの「先生」だったわけだよな」
「ええ、まあ」
 若干乱れた室内を片しながら、ミソラが応える。二階のこの部屋は彼女の自室らしく、部屋の隅には簡易なベッド、そして本が積み重なった机と本棚が置かれていた。ほとんど飾り気の無い中で唯一、壁に掛けられたドライフラワーの輪だけが、彩りを放っている。
「色々ありがとう…な。あの先生にもお礼が言いたいんだけど」
「……」
「……」
 床に散らばった本を拾い上げるミソラと、窓際にいたグレンから、小さな驚きを乗せた沈黙が同時に向けられる。
「な、何だよ…」
 意味もなく焦りを感じてイルトは言葉を詰まらせた。
「何故イルト君がお礼を言うのですか?」
「え」
 言われてみればその通りなのだが。
「一応、治療を頼んだのは俺だし……?」
 何故か返答がしどろもどろになる。
「なるほど、そうですね」
 淡白な返答と共に、拾い上げた本を無造作に机の上に積み重ねてから、ミソラはドアへ踵を返した。
「私、下で朝食の準備をしていますので」
 イルトの返事を待たず、軽い足音を残して階下へ降りていった。
 二人で話をする時間と場所を提供してやる、という意図なのだ。
 足音が完全に消えるまで、室内にしばし沈黙が降りる。右肩に背負っていた荷物を降ろして、イルトは鞄から大判の封筒を一つ、取り出した。
「これ」
 それを、窓際にいるグレンに差し出した。
「………」
 印刷された紋章に見覚えがあるのだろう。伸ばした指先に一瞬、躊躇いが生まれたが、封筒はグレンの手に収められた。
 乾いた紙の音が、やけに大きく耳についた。

 階下で湯を沸かしながら、ミソラは俯いていた。スプーンの先から茶葉が、ポットの中へ滑り落ちていく様をぼんやりと眺めている。
 今朝も父親と喧嘩をした。
 昨晩、父親が突如の帰宅を果たしたせいで、ミソラの密かな計画が全て明るみに出てしまった。隠れて受験勉強をし、いずれ家を出てACCに行こうと考えていた。だから失敗は許されないのだ。
 士官学校の受験時期は、推薦であっても明確に定められていない。半年に一回、定期的に試験が行われており、受験者は時期を柔軟に選択する事が可能だ。失敗の許されないミソラにとって、準備期間を設けられるこの受験システムは有り難かった。
 経済的不安もあるが、これまで密かに貯めてきた資金がある。知人の飲食店を手伝い、薬草を家庭向けに調合して薬にして、露店通りで売った。全て父親に知らせる事なく続けてきた事だった。
「……何を話しているのかしら」
 気になって、天井を見上げてみる。当然の事だが、話し声など聞こえてこない。古ぼけた染みが見えるだけ。朝食の準備を終えたところで様子を見に行ってみよう。そう思いなおして、ミソラは天井からオーブンへと視線を移した。火を入れる前のオーブンの中には、三人分のキッシュが入っている。
「………ふん。どうせすぐに戻ってくるんだから」
 少し癪だが、父親の分となる四個目を放り込んで、ミソラはオーブンの扉を閉めた。

 イルトに手渡された封筒の中身は案の定、国軍士官学校に関する書類一式だった。半年間放置されていた割には、きれいな状態だ。赤く汚れた小切手も入れられている。それらに一通り目を通してから、グレンは再び封筒をイルトに戻した。
「というわけで、受験することにした」
 受け取りながら、イルトは言う。
「ちゃんと、許可はとってきた。家を飛び出してきたわけじゃない」
「そうか」
 静かな返事の中に、微量の苦笑が混在している。問い質そうとしていた事を先回りで答えられたからだろう。
「だから俺、あんたについて行く。嫌だと言われても」
「私に選択肢はないのか?」
 窓枠に背中を預けたまま、グレンが初めて応える。声は静かだった。そこから内心を読み取ることはできないが、あえて意地の悪い難癖をつけているように、イルトには聞こえる。外から差し込む朝陽が逆光となって、表情を窺うことも難しい。
「言っただろ。俺は好きなようにするから、あんたも好きなようにすればいいって」
 イルトは封筒を受け取ったままの手を、グレンに向けて振った。
「あ、言っておくけど、合格する自信はある。俺、こう見えても優等生だったんだ。ついていくイコールあんたのコネに頼ろうなんて腹じゃないからな!」
 それはまるで、宣戦布告だ。優等生の言う台詞ではない。イルトは大真面目なつもりだが、最後の言葉を受けてグレンの神妙だった面持ちが崩れつつある。
「分かっているよ」
 語尾から苦笑が零れていた。
(明らかに笑ってるな……こいつ)
 急に背骨に走り出したむず痒さを、イルトは歯軋りして飲み込んだ。一息改めて、真顔でグレンに向き直る。
「俺は大真面目だ。父さんとあんたがどういう出会い方をしたか知らないけど、でも今の俺は、昔の父さんと同じ事を考えていると思う」
「………」
 逆光の中、初めてグレンに反応らしい反応が見られた。
 窓枠から背を離して、視線を俯かせる。前防人である父親を話題に出された事が効いているのだろうか。
「………………」
 少し長い沈黙の後、「同じことを繰り返すが」と独語のようなグレンの言葉が静謐の底から浮上してきた。
「私についてくるという事がどういう事なのか、本当に分かっているのか」
 イルトにとって、予測がついていた問いだ。
「―分かってる」
 真正面から答えた。あえて即答しなかったのは、覚悟の重さを示したかったから。
「後悔しないと、言い切れるのか」
「それは分からない」
 これには即答した。すぐさま、グレンから訝しげに細められた視線が戻ってくるが、イルトは気にしなかった。
「この先どうなるのか、俺にはわからないし、あんたにだって分からないだろ。父さんや叔父さん、その前も…確かに防人は命を落としたかもしれない。だけど、俺はまだ生きている。だからこの先の事は何も言えない」
 言うべきではない。グレンが重ねてきた過去の嵩は、イルトのそれと比較対象にならない。だが今この瞬間から先の時間は、両者に同じ条件で訪れるのだから。
「………」
「だろ?」とあまりにあっけらかんとした答えが返ってきて、グレンは言葉を失っていた。それから、浅く長い溜息が一つ、沈黙した両者の間に流れる。
「遠まわしに言うと言い訳のようだから、この際正直に言うけど」
 先に沈黙を破ったのはイルトで、封筒を無造作に小脇に抱えながら、改めて正面からグレンを見据えた。
「俺にはまだ分からない事が多くて…グレンについても納得いかない部分も多い。だから、もっと知りたい」
 無意識なのであろうが、呼称が「あんた」から名前に変わっている。加えて言葉を選ばないストレートな表現。だがそれを真正面から受けるグレンの、イルトを見やる面持ちは揺れない。
「グレンがこの先に見るもの、聞くものを、俺も見たいし聞きたい。その為に危険が伴うというのなら―」
 一瞬、単語を捜してイルトの言葉が止まる。だが気取る必要もなく、思いついたままにイルトは最後の言葉を口にした。
「俺が護る。逆に、俺がいるからできる事だってあるはずだろ?足手まといには絶対にならない」
「随分と、頼もしいな」
 グレンからは相変わらず、苦笑混じりの応えが戻る。だがそれは、あまりに直線的な態度に気圧されての事なのだと、イルトの方は気付かなかった。
(やれやれ………)
 心の内で首を横に振って、グレンは一度イルトから視線を外した。
 言葉の選択は稚拙だが、その分むき出しの感受性が刺々しいほどに感じられる。彼の意思は理解できた。だからこそ理屈が分からない。彼の自分に対する第一印象は最悪だったはずだ。自分の都合で彼を利用し、怒らせ、悲しませ、苦しませた。なのに何故この期に及んで尚も彼は、自分に従おうとするのか。
「気持ちはよく分かった」
 返事と共に、それまでグレンの面持ちに宿っていた柔の色の一切が消え落ちた。
「私の右腕は、生半可なポジションではないぞ」
 少し低い位置からまっすぐ突き刺さる視線と共に、グレンの重く静謐な言葉が手向けられる。
 覚悟の程を最終確認しているそれは、遠まわしな了承を意味していた。
「それって……」
 一拍遅れてそれに気が付きイルトは一瞬、安堵と喜悦が混在した笑みを表出させ、そしてすぐに唇を固く結んで頷いた。
 だがその直後、彼は戸惑いに暮れる事となる。
「おい、ちょっと!」
 俯き、瞳を伏せたグレンの頬が濡れている事に気がついたのだ。
「な!どどどどどうして泣くんだよ!」
 それは明らかに、涙だった。
「……誰が?」
 イルトの盛大な狼狽を見て初めて気がついたのか、グレンは訝しげに己の頬に手の平を当てた。濡れた手を見て「ああ…私か」とまるで他人事のように呟く。そこに更に、止まらない涙が一滴、二滴と落ちた。
 自分が涙を流していると認識した途端、不思議と無性に感情が染み出してくる。瞳と唇を硬く結んで、グレンは溢流しそうになる涙と感情を懸命に押さえ込んだ。これが喜びなのか、悲愴なのか、悔恨なのか、己が分からない。
「えと…俺…が悪いのか…?」
 常に淡白な余裕に上塗りされていたグレンが見せた、「怒り」に続く新たな感情表出。直前までの威勢をすっかり削がれたイルトは、所在なく顔を青くしていた。
「ん?」
 それに気が付き、グレンは再び顔を上げる。顔は濡れていたが、面持ちには平常が戻っていた。
「単なる生理現象だから気にしな―」
「あんたはナメクジみたいに無意味に目から体液ながす癖があるのかよ!」
「………ナメクジ…」
 あんまりな比喩にグレンは本気で落ち込んだようで、恨めしそうに呟く。
「―何してるんですか」
 背後から白んだ声。弾かれるようにイルトが振り向くと、部屋の入り口にミソラが立っていた。イルトに、乾いた眼差しを向けている。
「え!ちょ、ちがうんだ、これは…!」
 糸が解れた操り人形さながら、イルトは全身で精一杯の否定を表す。だが自覚しているかしていないか、台詞がまるで不倫が明るみに出てしまった男のようになっていて、いっそう不審さを煽っただけに終わっている。
「何故わたしに言い訳しようとするんですか」
 結果、ミソラからは更に冷たい声が戻ってきた。
「それもそう、だよな…」
「朝食できてますのでよろしければどうぞ」と言い残して彼女は再び踵を返した。通常と変わらない敬語が、逆に恐怖だ。
「……何で怒ってるんだよ……」
 イルトは呆然と去っていく背中を見送るほか無い。ゆっくりとした足取りが階段を下りていく音が、冷淡な嘲笑に聞こえてくる。
 そして背後からは、諸悪の根源が懸命に笑いを堪えている気配も感じられるのだった。




ACT9-13⇒
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押印師ACT9-13
13

「先生、戻られないね」
 朝食が済み、片付けられたテーブルの上にはこの部屋の主である「大先生」分の料理皿が置かれている。かけられたラップの内側は、湯気による細かい水滴が膜を張っていた。玄関方向に視線を向けたグレンの独語が、薬草茶を用意しているミソラの元に届く。
「いつもこうです。お気になさらないで下さい」
 カップから立ち上る湯気が、室内に清んだ香りを運ぶ。姉のアムリが得意とする薬草茶とは香りが違うなと、イルトは何の気なしに思った。
「出発前に、諸々のお礼やご挨拶していきたいんだが」
「必要ありませんから。お金もいりません」
「そういう訳にはいかない。君にも先生にもとても丁寧な対応をして頂いた。いわば命の恩人であるし」
 グレンは包帯を巻かれた腕に手を添える。炎症もなく、痛みもほとんど治まっている。治療中は、神経が傷つけられる事もなく、痛みも少なかった。
「忘れたんですか?父は小動物専門。私もまだ無免許。お金なんて受け取れないんです」
 茶を注ぎ終わったポットをテーブルの中央に置いて、ミソラも席についた。一昨日にイルトが口走った言葉を気にしている、という様子でもなく、本心からのポリシーなのだろう。
 だがグレンからは、ミソラの言う「小動物専門」とは単に公に所持している免許の有無だけ問題であるように思えた。現に「小動物診療所」と名乗っていながらここには、小動物用設備が一つも見当たらず、この二日間で一匹も小動物が持ち込まれていないのだから。
「それよりお二人とも」とミソラの声が続く。音に少し、戸惑いが含まれていた。
「ここを出たら、ACCに行くのですか?」
「……」
「最終的にはね」
 イルトが言いよどみ掛ける隣で、グレンからすんなりと答えが出される。答えを渋る方が逆に相手を訝しがらせると、瞬時の判断だった。
「すみません、私さっき少しお話を聞いてしまって。イルト君、本当に士官学校を受験するのですか?」
「ああ、一昨日決めたんだ」
 ミソラに警戒心を抱く必要などないと気がついて、イルトの面持ちは元同級生に戻っている。
「ずいぶん急ですね。イルト君らしいですけど」
「そこは自覚してる」
 カップを手にしながら照れ笑いを浮かべるイルトの前に、ミソラはスプーンのついたシュガーボックスを置いた。
「やりたい事って、決断する事や実現する事が大事なのであって、いつ見つけるかはそんなに大事な事じゃないと思いますよ」
 淡々と語りながらミソラはカップに口をつけた。淹れてたの茶は熱く、三回息を吹きかける。
「先生みたいな事言うよな、ミソラって。感心するよ」
「……」
 カップに口をつけたまま、ミソラは目を丸くする。イルトはまた無意識に呼称を「君」から名前に変えていた。本人は全く気がついておらず、呑気に笑っている。
「学校では何を勉強したいんですか?」
「地学や理学、だな」
 ここから二人の会話は、士官学校カリキュラムの話へ移り、次第に初等教育学校での昔話へと変わっていく。イルトが頭に浮かんだ思い出を次々と口にして、ミソラがそれに対して頷き、そして時々短い言葉を発する―という二人のやりとりを、グレンは静かに見守っていた。人との「対話」を心から楽しんでいるイルトを見て、
(この分なら士官学校でも上手くやっていけるだろうな)
 と思い始めている己に、グレンは内心で苦笑した。元々イルトは人好きのする人間で、尚且つ彼自身も根底に人見知りをしない人懐こい性質を持っている。頭も良く物怖じしない性格は集団生活に向いていそうだ。精霊の印や自分の存在を抜きにしても、彼は出世するタイプだろう。現在も軍に残留し、将官に昇格した友人と雰囲気が似ていた。
 彼のようなタイプなら、士官学校に入る事で逆に自分の手を離れていくかもしれない。持ち前の好奇心を活かし自分で、己が見たい世界を選ぶだろう。グレンはそう期待する事で同行を納得していた。
「こんな風に、誰かと長いおしゃべりするのって久しぶり」
 会話の合間に、ふとミソラが独語を零した。伏せられた両目がはにかみの色を燈していた。
「また士官学校でも、こんな風に話せるといいな」
「……え…」
 刹那、ミソラの面持ちに微量の戸惑いが浮かんですぐに消えたのを、グレンは見た。イルトは父娘喧嘩の事情を知る由もない。悪気が無いと分かっているので、ミソラは小さな笑みで頷いた。
「そうですね」
 心からそう思ったミソラの本音だ。
 卒業してから初めて会話を交わした同級生二人は、テーブルを挟んだ位置でお互いに微笑みあうのだった。
 だが、
「人の娘に余計な事を吹き込んだのはお前らか」
 そんな両者の間に存在していた穏やかな空気を蹴破る声の主が、まさに今、帰宅を果たしていたのである。
「お、とうさん!」
 いつの間に帰ってきたのか、診療所の主が玄関から繋がるリビングの入り口に立っていた。カップを倒さんばかりの勢いで、ミソラが椅子から立ち上がる。
「お父さん?あ、じゃあ先生か」
 対照的に、呑気な顔をして振り向いたのはイルト。グレンは表情を変えなかったが、カップを置いて静かに立ち上がった。
「もう用事が無いならさっさと帰ってくれ。これ以上おかしな入れ知恵する前にな」
 苦々しく吐き出して、大先生は書斎となっている部屋へ向かう。途中、背中を向けたまま足を止めた。
「受験の件だが、辞退の連絡をいれておいたからな」
「そんな…!」
 悲鳴に近い引きつったミソラの声と共に、今度は指先が当たってカップがテーブルの上を転がった。椅子が倒れるのを無視してミソラは父親の背中に詰め寄る。
「酷いです!何の権利があってそんな勝手な事をするんですか…っ」
「うるさい!勝手なことをしているのはお前だろうが!」
「いっ…!」
 振り返ると共に、父親の手がミソラの頬を直撃した。
「あ…!」
 慌てたのはイルトで、咄嗟に立ち上がり、よろけたミソラに駆け寄った。だが支えられる前に自らの足で態勢を立て直したミソラは、頬を押さえたまま父親に向き直る。
「お父さんはいつもそう…いつもどこかに行ってしまって、私の話を聞こうともしてくれないじゃないですか!」
「お前が医者になどと、そんなおぞましい話は聞く耳もたん!」
 父娘の罵りあいを前に、イルトは困惑するしかない。肩越しにグレンを見やると、彼はやはり表情を変えずに両者のやりとりを観察している。口を挟まないのは意図があるからだろうか。
「何故ですか……私、自信があります、絶対に受かってみせます」
「学費に回してやれる金なんぞ無い!」
 言い捨てようとする父親の背中に、ミソラは更に詰め寄った。
「お金だって、このために準備してきたんです、奨学金制度だってあります、お父さんには迷惑かけません」
「いいえ」と言葉を挟んで別の言葉でミソラは一気にまくし立てる。
「ここを出たらもうお父さんには関係のないことですから!」
「何だと…」
(うわ、こりゃ効いたな)
 決定的な一言だった。傍から見て、父親の面持ちからみるみる血の気が失われていくのが、イルトにさえ感じられた。いつ父親の手や物が飛んでくるか、気が気でない。そんな爆発寸前の父親を前にしても、ミソラはまっすぐな視線を微動だにさせなかった。
「お前ごとき田舎の小娘一人が…」
 体を背けていた父親が、勢いよくミソラを振り向く。厚い胸板が大きく息を吸い込み、これまでに無い怒号が轟いた。
「セントラルに行ったところで何ができるというんだ!」
「一人じゃないもの!」
 それでも引かず、間髪空けずにミソラの精一杯の声が続く。叫びながらミソラは傍らにいたイルトの手を引き、続いてすぐ後ろにいるグレンの右手を取った。
「え?」
「ん?」
 男たちが状況を判断する前に、
「この人たちと一緒にいくの!」
 近所迷惑な父娘による売り言葉に買い言葉が炸裂した。
「何…え?!」
「いつの間にそんな話に!」
 イルトは当然ながら、さすがにグレンも驚きを隠せないようで、軽い狼狽が見て取れた。そんな事はミソラにとってどうでもよく、二人の男を両手に抱えた状態で父親を威嚇している。
「き……」
 真っ赤だった父親の顔が、真っ青に変色している。完全に不意を突かれたようで、両手を震わせて棒立ちになっていた。大きな口元から、言葉にならない声が漏れ出し、
「貴様らああああああ!!!」
 噴火と共に、両者の間に置かれたテーブルが宙を舞った。
「あぶねっ!」
 父親がひっくり返したテーブルは天井にまで達し、シャンデリアが破壊される。落ちてくる硝子笠や電球をイルトが軽い動きで振り払った。テーブルは重厚な音をたてて部屋の隅へと転がっていく。
「先生が治療した怪我人がここにいるんだぞ!」
「むむ」
 思わず口走ったイルトの言葉に、父親こと「先生」は次の動きを止める。その隙にグレンはミソラの袖とイルトの襟首を掴んで、玄関に向かった。
「とりあえず、外に出よう。な」
 硬直したままの大先生を残して玄関の外に出る。すっかり昇りきった太陽が眩しい。アパートの中からは、物と物がぶつかりあう音が聞こえて来る。大先生が腹癒せのため家具に八つ当たりしているようだ。
「どうするんだよ。鞄とか中に置いたままだし」
 ようやく襟首が解放され、イルトは首をさする。
「少し待とう」
 騒音が聞こえてくる壁の向こうに苦笑するグレン。速攻沸騰型は、鎮静化も早いものだ。余計な言葉をかけず、一人で考える時間を与える方が良い。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
 先ほどまで見せていた父娘喧嘩の白熱ぶりはどこへやら。極めて平坦で無感情な面持ちと、低い呟きによる謝罪がミソラの口から流れて来た。
「なんだってあんな猛烈に反対してくるんだ、あの親父先生は」
 イルトの問いに返答はなかった。神妙に俯くミソラは、座り込んだ膝の上で固く両手を握っている。
「本人の了承なしに受験資格は取り消されない。だから安心しなさい」
 ミソラの不安を読み取ったグレンの言葉が、ミソラの顔を上げさせた。
「………ですよね?」
 だが声はまだ底辺を這っている。あんな稚拙な嘘に縋ってまで、自分の夢を潰そうと必死な父親の姿が悲しかったのだ。
 いつの間にか、室内からの音が消えている。グレンは二人を残して再び玄関の向こうへと入って行った。
「あとは大人同士に任せよう」
 立ち上がりかけたミソラを制してイルトも道縁に腰掛けた。彼なら何とかしてくれるだろうと思ったが口にはせず、隣に座るミソラと共に時間の経過を待つ。
「物をぶつけられて、傷が開かないといいのですが…」
 ぼそりと呟かれたミソラの独語に、イルトは思わず背後を振り返るが、
「まあ…避けるだろ」
 と再び前方に向き直り、道の向こう側に広がる公園の緑を眺め始めた。
 十八歳。グレリオでは成人とされる年齢の二人は、家出してきた子供のように青空の下で所在を無くしていた。

 ひっくり返ったテーブル。落ちたシャンデリア。全て倒れた椅子。転がる食器。それらの中央に胡坐をかき、こちらに丸めた背中を向ける大先生の姿がある。
「分かってんだよ。あんなのは売り言葉に買い言葉だってな」
 グレンがリビングに足を踏み入れる一歩手前で、背中を向けたままの大先生の独りごちた声がした。興奮している様子もなく、完全に沈静化している。もとい、初めからある程度は冷静だったのだろう。
「でも、合格してみせるという彼女の言葉は真剣です。私も、彼女なら可能だと思います」
「当たり前だ。俺の娘だ。合格するに決まっとる」
 背中を向けたまま動かない大先生から、数歩離れた場所でグレンは足を止めた。
「俺の娘なら首席卒業くらい軽いもんだ」
 相変わらず苦々しい声音だが、娘自慢に溢れた大先生の言葉。グレンは大先生から見えない位置で微笑する。
「なぜあそこまで反対なさるのですか?差し出がましい事を申しますが、経済的な問題であれば、彼女の言う通り奨学制度もありますし、問題ないと思いますが……」
 他人の、しかも初対面さながらの人間の家庭事情に踏み込むのは、野暮やお節介というより失礼極まりないと自覚している。だが命を助けられた恩が、この父娘を身近に感じさせていた。
「腐っても医者だ。金くらい、ある」
 腹の辺りをまさぐり、大先生は何かを取り出すとそれを床に放った。紺色の袋だ。閉じられた巾着の口が結ばれ、二重に折り畳まれている。床に落ちた際の音と重量感で、袋の中身が貨幣や紙幣束である事がわかった。長い年月をかけて染み付いた乾いた匂いがする。それは例えば、貸し金庫の中のような密閉された空気の匂い。
 家を飛び出して出かけた先はもしや―
「だけど、娘に俺の二の舞を踏ませたくないんだ」
「二の舞?」
「掴みかけた夢を、いや、確実に得られたはずの望んでいた未来を捨てなきゃならん辛さが、どれだけのものか」
 断絶された言葉の先は「お前に分かるか」と問うている。
 宿命。グレンにはそんな単語が思い浮かんだ。ミソラが医師免許を取得できたとしても、医者の道を閉ざさねばならない日が来るという事だろうか。さすがにその理由まで問いただす事はできない。
「……それでも」
 己が積み重ねてきた永い過去の中に錘として存在する、それと類似した感情を思い出す。グレンは大先生の背中に言葉を繋いだ。
「その瞬間まで、その人が積み重ねてきた時間と経験は、かけがえの無い物になり得るはずです」
 例え途絶えさせざるを得ない希望でも、人はそれまでの記憶を心の支柱にしその後に続く永い時間を生きていくことができる。
 大先生の背中が僅かに動いた。ブリキ玩具のように、ぎこちない動きで首だけグレンを振り返った。
「……ミソラの奴め、昔から厄介な拾い物ばかりしてきやがる」
 複雑に絡まった大先生の心内を表すような散らかった室内は、しばらくの無言に包まれた。
「そこの袋、ミソラに渡してくれ」
 大先生は再びグレンから視線を反らし、背中を丸めた。グレンとの間に転がっている紺色の袋が寂しそうに誰かの手を待っている。
「先生の手から渡された方が、ミソラさんは喜ばれると思いますが」
 声に微笑みを乗せて、グレンは床に転がる袋を一瞥した。グレンの答えを受けて、大先生の背中が苛立たしげに揺れた。
「それはできん。絶対に許されんのだ」
 条件がそろっていながら、父親の立場で娘の進学を許可する事ができない。人間の数だけ事情が存在し、如何な博識家も達観者も知り得るものではない。当然ながらグレンも同じであり、大先生の言葉を受けて僅かに目端を細めた。
「馬鹿娘が勝手に出て行ったっていうなら話は別だ。不可抗力だからな」
「先生」
 背中を向けたまま、大先生は立ち上がる。散らばっていた皿の破片が重なる音と共に、奥の部屋へと去っていこうとする背中を、グレンは呼び止めた。
「彼女は、たった一人に祝福されればそれで良いと言っていました」
 大先生の足が止まる。グレンは二歩前に進み、床に落ちた袋を拾い上げた。
「これが、それだと思っていいのですね」
「………」
 何かを言いよどみ、だがそれを飲み込んだまま大先生は無言で奥へと姿を消していった。

「お隣の父娘喧嘩、今日は一段と酷かったなあ」
 大先生とミソラの隣室には、初老の夫婦が住んでいる。癇癪持ちの父親と、頑固な娘はよく騒音を伴う喧嘩をする。だが一度も隣近所からクレームが出ていないのは、この老夫婦が我慢しているお陰なのであるが、当の本人達は気付いていない。
「そうですねえ」
 亭主の言葉を受けて、夫人はパンにバターを塗りながら頷いた。二階の窓から何気なく外を見やると、
「おや」
 階下の玄関先、路上の縁に座り込む二つの人影が見えた。隣の娘ミソラと、見慣れない若い青年。二人で並んで、置き忘れられた人形のようだ。夫人の視線を追って、亭主も窓の外を覗く。
「隣の子はボーイフレンドかのう」
「道理で喧嘩が酷かったわけですねえ」
 夫婦の憶測は大きく外れているが、大先生が机を放り投げた瞬間に限ればその心境は、遠からずといって良いだろう。
 バターが塗りかけのパンを片手に、夫婦は窓の下を眺め続ける。そのうち、玄関からもう一人、若い男が現われた。座り込んでいた二人がほぼ同時に立ち上がり、男を交えた三人でなにやら言い合っている。会話までは聞こえないが、男が何か袋のようなものをミソラに手渡しているのが見える。手渡しながら男が何かを言い、ミソラは受け取った袋を手にしたまま微動だにせず、それを聞いている。そして突然、せきを切ったように玄関の中に駆け込んでいった。
「おやおや。どうしたのかしら」
 また一暴れ来るかと予測して老夫婦は肩を竦めたが、
 結局その日、嵐は二度と起こらなかったのである。






ACT9-14⇒
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押印師ACT9-14
14

「ジャスミンさん!」
「どうしたんだ…」

 女の子の声と、「彼」の声が遠ざかっていく。大丈夫だと答えたかったが、瞼が鉛のように重くて開かない。指先一本すら動かない体は、どんどん意識の沼に沈み込んでいく。そのうち、何も聞こえなくなり、周囲は完全な闇となった。

 そして私は眠りに落ち、
 久しぶりに、昔の夢を見た。

 訓練校を経て初めて実戦部隊に配属された日のことが、アルバムの一ページ目から捲ったように蘇る。あれは、成人を間近に控えた十代後半の頃。
「ヴィル・レストム。中尉だ」
「彼」。初めての上司は、陽光に溶け行ってしまいそうな金髪と、色素の薄い肌色をしていた。同世代の女子の中で高身長だった自分よりも頭一つ分大きい。細長い針葉樹のような隊長だと、思った。
「ジャスミン・フェロウズです」
 見惚れかけていた自分に喝を入れる為に、少し大げさに敬礼したのを、憶えている。
 あの頃、国内は終戦を迎えて間もなく、帝国との戦いの記憶が未だ色濃く残っていた。反戦活動家の扇動による国内の小競り合いも多く、また終戦間際の混乱に乗じた小悪党による犯罪も多発。警察局だけでは捌けなくなっていた。だが本軍は他国を警戒して国境を固めているために人員を割けず、士官学生や訓練校を卒業したばかりの新人が実戦に投入される機会が多かったのだ。
 ヴィル・レストムと初めて出会ったのは、セントラルの一角で起こった過激思想グループ制圧戦でのこと。シュトル地方にあるシュテラール・バレーと呼ばれる、竜と人とが棲まう谷の出身者で、体に旋風の印と呼ばれる精霊の印を宿していた。竜騎兵軍所属経験を評価され、士官学校出でもないのにいきなり小隊長クラスの少尉の位を与えられ、幾つかの戦績を上げて中尉に昇格したという。
 それを、軍が谷の竜騎兵軍とのコネクション維持の為の政治的人事采配だと陰口する者もいたが、吹聴に無関心な彼は誰よりも働いていたし、よく動いて隊を纏めていた。故郷の竜騎兵軍において彼は一兵卒に過ぎないと言っていたが、その頃から何かを予感させる雰囲気を持っていたように思う。
「詳しいな」
 銃器の扱いに精通していた自分に、彼はよく声をかけてくるようになった。その際かけてくる言葉は必ず、二言以下。しかも「詳しいな」「教えてくれ」「どうしたんだ」「おい」の四種類、またはその応用だけだ。
「好きなんです。こういうの」
 答える自分の言葉も、三言以下。あとは、二人して黙々と武器をいじる自分の手元を無言で眺めているだけ。傍から見たら可笑しな光景だっただろう。
 それから、幾つかの小さな戦闘において、よく彼が率いる部隊と一緒になった。私の働きを気に入ってくれたようで、指名数も多くなり、いつしか私は必ず彼の後ろに控えるようになっていた。自分で望んだことでもあったから、そんな日々がずっと続いてくれる事を願っていた。

 彼と出会って少し経った頃。
 成人となる二十歳の誕生日を迎えた夜明け、私はあの夢を見ることになる。

『やめて……許して!』
 夢にしてはやけにはっきりと、鼓膜にこびりついた女性らしき声。目を開くと、目の前を走り抜けていく人影があった。若い女性だ。見覚えのある装束に身を包み、足元を見れば裸足で、襤褸布に包んだ子供を抱えている。
 女性はこちらの存在に気付くと、細い手を伸ばしてきた。助けようとして手を伸ばすと、悲鳴にならない声と共に突然女性の腕が大きく震えた。肉を突き抜ける音がして直後、生暖かい液体が飛び散った。私の両眼は、女性の背中を抱いた子供ごと突き抜ける一本の槍を映していた。
 実戦の中で人が命を落とす光景を目にすることは珍しい事ではない。だが今目の前で起こっている出来事は私に大きな衝撃を与えた。柄にも無く叫び出しそうになり、だが同時に槍の持ち主が近くにいると察知して、逃げなければという本能も働く。
 一体、ここはどこの戦場か。
 走りながら周囲を見渡す。焦土と化した大地の所々に生えている、灰色の遺跡の残骸に見覚えがあった。アリタスのものではない装束を身にまとった人々が逃げ惑い、叫び、それを追う多数の人影達、そして悲鳴と血。
 国軍に入隊して数年の間に目にしてきた、幾つもの戦場。この光景は、そのうちのどれにも当てはまらない。戦争経験のない私は、入隊前に戦場を見たことが無い。
 だけど、これは確かに「私の」記憶。
「くっ」
 足先を泥濘にとられて、私は前のめりに転んだ。咄嗟に受身を取ろうと両手を前方に突き出すと、手の平が触れたのは地面ではなくて冷たい水だった。
「!?」
 全身がざぶりと水に浸かった。何かと理解する前に、口いっぱいに潮の味が広がって咽た。咽て口を開けると更に水が入り込み、更に苦しくなる。上下左右に揺れる水、海水に体が揉まれて、浮き上がろうともがくが沈んでいくばかり。目に映るのは、星一つとない暗い夜空。黒い荒波が次々と折り重なってついには全てが闇となり―


「はっ……!」



 目を覚ますと、視界がとらえたのは天井の木目だった。

「………は………はっ…」
 空気を求めて肺が不自然に上下した。陸に打ち上げられた憐れな魚のように、ジャスミンは乾いた唇を動かす。
「…………変…な、夢…?」
 呟きながら体を起こした。板敷きの寝床に横たわる下半身に、ブランケットがかけられている。額や首は大量の汗で濡れており、不快だった。辺りを見渡せば、毎日見ている自分の寝床の光景。起こした上半身の胸元を見下ろすと、昨日着ていたシャツのままだった。
(昨日…?昨日って、いつの昨日?)
 夢の中で更に夢を見ていた。奇妙な感覚に、頭の中の時間軸が狂ってしまった。
(今は……)
 壁にかかったカレンダーを見る。目を擦って年号を確かめた。今は今。今のジャスミンは、十代の新米兵卒ではない。退役した「彼」を追って自らも谷の住人となった、黒髪の女戦士。
「私、何をしていたっけ?」
 カレンダーの横にある時計をみて、気がつく。背後の窓からは淡い光が差し込み、時計は七時を差している。つまり朝だ。だが、何故、服のまま寝ていたのか。
 二人の少女達が谷を去るというので、その準備として買出しをするために、ミリアムと共に行動していた。小型のナイフを持っていないというので、刃物職人の工房に向かおうと提案した。
「……それから?」
 そこから先が全く思い出せなかった。
(何故だろう…。二人で、どんな会話をしていた…?)
―ここから急に涼しく感じますね
―天然の冷房みたいなものだもの
 前方を歩くミリアムが、風穴を珍しがっていたのを思い出す。その背中に声をかけて、振り返ったあどけない面持ちに、問いかけた。
―ここを出た後は、二人でどこに行くつもりなの?
 何か、大切な事を言おうとして。
「っ!そうだった」
 寝床から跳ね起きて、ジャスミンは外に出た。
「ジャスミン」
 陽光の下に飛び出したところで、頭上から声がかかった。振り向くと、様子を見に来たのだろうか、ヴィルの姿があった。一筋の風と共にジャスミンの目の前に降り立つ。
「なんとも、なさそうだな」
 顔と全身を一瞥した後、いつものように抑揚の無い声と顔でヴィルは言う。これは暗に「大丈夫か」と尋ねているのだと、ジャスミンには分かっていた。
「なんとも、ないです」
 頷いて答えた後、「それより」と尋ね返す。
「あの子たちは、どうしたんですか?まさかもう、谷を出たのですか?」
「いや、お前が目覚めるのを待ってからにすると」
(よかった…)
 心から安堵してジャスミンは大きく息を吐いた。目が覚めてから、ずっと呼吸を忘れていたかのように、長い息だった。
「すみません、ちょっと、あの子たちのところに行って来ます。あ、その前にナイフもらってこなくちゃ」
 半ば呆然としているヴィルをよそに、ジャスミンは慌しく一旦部屋に戻ると、上着を羽織って再び飛び出した。
「………おかしな奴だ」
 首をかしげながらも、走る元気があるなら大丈夫そうだと安堵してヴィルもその場から歩き出した。

 竜翼谷の早朝は、毎日表情が違う。
 薄い靄のヴェールに包まれた昨日と正反対に、今朝は染み一つない突き抜けた青色が視界の半分を占領していた。
 あえて寝坊するつもりが、エルリオは日の出と同時に目を覚ましてしまった。寝台から窓の外を眺めて、黄金色だった空が次第に青色に変わっていく様をずっと見つめていたのである。
(昨日、何かあったんだろうな…)
 隣、ミリアムの寝台を一瞥して、エルリオは思う。同じく早朝から目を覚ましていたミリアムは、散歩に行って来ると言って寝所を抜け出したまま未だ戻らない。昨日から、極端に口数が減っていた。
 ジャスミンが倒れたと谷の人間に助けを求めたのは、ミリアムだった。
 完全に意識を失くしていたが、ジャスミンに外傷は無く、顔色や呼吸に異常はない。ただ深い眠りに落ちている状態だったという。エルリオ達は、せめて彼女が目覚めるまでと出立を延期する事に決めた。
 そんな理由からエルリオは、ぽっかりと穴が空いた時間を思案に費やしていた。膝の上に、キューを乗せて。
 この場所に、自分と同じように訪れていた父親を思い返す。
(父さんも、またここに来たいと思ってたかな)
 共にセントラル付近に暮らしていた頃、ワイヴァンは時々家を空けていた。名目は「仕事」だと聞かされていたが、ヴィルからの話でそれがリハルト・デイムという男の行方を追うためだったのだと知った。
 とはいえ、家を空けた日数は、長くてせいぜい一週間、頻度は月に二度、三度程度で、エルリオの記憶の中に孤独感はほぼ残っていない。軍人を親に持つ学友の場合、父親が月年単位で家を空けるのが常と聞いていたから、自分は恵まれているという認識だったのだ。
(という事は、あまり遠出してないって事だよね、きっと)
 市民の長距離高速移動手段は限られており、列車を乗り継いで往復一週間以内でたどり着ける範囲はそう広くない。子供をセントラルに残している条件下で、行方をくらませた人間の捜索活動がどこまで行えるだろうか。
(協力者が必ずいるはず)
 ヴィルの口からきいた、ワイヴァンと共に谷にやってきたレネスという名の男。当時のワイヴァンと年恰好が似ていたとなれば、軍役時代に知り合った人間、つまり軍人である可能性が高いかもしれない。
(どちらを探す方が、近道なのかな…)
 リハルトを追えば、ヴィルにきつく叱られた「精霊狩り」を追う結果となるかもしれない。一方のレネスを探れば、国軍に近づく事となるかもしれない。いずれにしろ、虎穴だ。
(それならやっぱり初志貫徹、直感を信じろってやつかしら)
 ミリアムが預かった、謎の印を解明するという当初の目的を遂行させるべきなのかもしれない。その道が、精霊狩り側に転ぶのか、国軍側に転ぶのか、またはまったく新しい道へと続いているのか、今の時点では全く分からない。三つの選択肢の中で、最も宛てが無い道だ。社会事象ともなっている精霊狩りを追う方が、手掛かりは多いように思えるが、危険度は最も高い。
(うーん……)
 窓枠に肘をたてて頭を抱えていると、
「ただいまもどりました」
 と幻影が現れたかのように、音もなくミリアムが寝所に入ってきた。
「お、おかえり。どこに行ってたの?」
「少し周囲をお散歩しに」
 寝台に腰掛けて、足をぶらぶらさせながらミリアムは答える。
「誰かに、会った?」
 エルリオの質問に、少し間を置いて「はい。ヴィルさんに」と返す。
「ふうん、ジャスミンさんはどうだったって?」
「ジャスミンさんは―」
 言いかけたミリアムの言葉が止まり、同時に寝所の外側から足音が近づいてきた。
「エルリオ、ミリアム、いるかしら?」
 と、何事もなかったかのように当のジャスミンが姿を現した。
「ジャスミンさん!」
 弾かれるように窓から体を離してエルリオはベッドから飛び降りた。ミリアムも、緩慢とした動きながら顔を上げて、ジャスミンに歩み寄る。
「昨日は買い物の途中にごめんなさいね、記憶も飛んでしまってよく憶えていないのよ…」
 我ながら納得が行かないようで、ジャスミンは何度も首を傾げた。
「もう、大丈夫なのですか?」
 ミリアムはジャスミンの顔色を窺いながら、手の平を合わせた両手を口元に添えて、困ったような瞳を下から覗かせている。
「本当に、もうお元気なのですね?」
 余程心配なのだろうか、何度も念を押していた。
「私もびっくりしちゃった。ジャスミンさんて丈夫そうなのに」
 隣でエルリオも、下からジャスミンの顔色を覗き込む。言葉に全く悪気はない。「もう何とも無いわ」と答えながらジャスミンは懐から小さな包みを二つ取り出した。
「風邪も滅多に引かないのよ」
 苦笑と共に呟きながら、一つずつの包みをエルリオ、ミリアムのそれぞれに差し出す。小さな二つの手が受け取るのを見届けて、ジャスミンは微笑んだ。二人が促されて包みを開けてみると、小さなナイフが一丁ずつ。鞘と柄に、小さな絵柄が彫られていた。
「これ、もらっておいたわ」
「「わあ!ありがとう!」ございます!」
 声を揃えて見上げてくる少女達の姿は、巣の中に並んで高い声で鳴く雛鳥を連想させる。谷で過ごした僅か数日の間にも、ジャスミンの目からこの二人はお互いに似てきていると感じられた。エルリオには、ミリアムの持つ柔和さ。ミリアムには、エルリオが持っている明朗さを、それぞれに与え合っているように思える。
 若干の羨望が、ジャスミンの胸中に浮かんだ。かつて自分も幼い少女だった頃、常に共に行動し、よく身を寄せ合って笑いあっていた友人達がいた。だが成人した頃から、周囲から身を隔絶させるようになった自分がいる。原因は、分かりきっていた。
「……」
 無邪気に喜ぶ少女達を前に、ジャスミンは左胸下に添えていた右手を握り締めた。
「ジャスミンさん?」
 淋しそうな黒い瞳に気がつき、エルリオはナイフの鞘をいじる手を止めた。連鎖してミリアムも、灰色の瞳をジャスミンに向けた。
「あのね、二人とも」
 見上げてくる、曇りの無い四つの瞳。ジャスミンはその視線に高さを合わせる為に、その場に膝を曲げた。
―ここを出た後は、二人でどこに行くつもりなの?
 この問いかけの後に、話そうと思っていた事を。
「相談があるのだけど―」
「騎竜はいつでも出せるが、出立はいつにするんだ?」
 ジャスミンの語尾と重なって、ヴィルが宿所にやってきた。少し慌てた様子でジャスミンは言葉を飲み込み、膝を伸ばした。エルリオ達は、彼に駅付近まで送り届けてもらう手筈となっていたのだ。運行本数が少ないためダイヤを逃したら大変だからだ。
「まだニ時間ぐらいあるんだよね」
 ジャスミンの様子を気にしつつも、ポケットに突っ込んであった時刻表を広げてエルリオは時間を確認する。
「なら出発は一時間後だな」
 騎竜の飛行速度とエルリオ達の歩行速度、そして距離から単純計算してヴィルが出発時刻を導き出す。「はーい」と少女達の声が揃って返事を寄越した。
「あの、ヴィル様」
 その後ろから、控えめに、だが凛とした声がヴィルにかけられる。
三人の瞳が同時に、壁を背にして立つジャスミンを向く。直線的な黒い視線が、強い覚悟を宿していた。
「私、この子達と共に行こうと思います」
 引き締まった口元から発せられた言葉は、エルリオの耳に馴染むまでに時間を必要とした。
「ん、え?」
 ぐるぐる回る思考の結果、エルリオの口から出た言葉は、そんな間の抜けた声だった。




ACT9-15⇒
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トップ画像ギャラリー
これまでトップページを飾ってきた画像を並べてみました。


第一代目

top01-garalley.jpg

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 色的に結構好きな画像でした。



第二代目

top02-garalley.jpg

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 二人の兵士は、旅行先のヨーロッパで隠し撮りしたものです。



第三代目

top03-garalley.jpg

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 一気に雰囲気が地味になってしまいました。今だからぶっちゃけますが、竜に見立てたのは、イグアナでした。



第四代目

top04-garalley.jpg

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 こういう色の少ない世界は結構好きです。中々気に入っております。写真の海は、先日旅行にいってきたときに撮影したものです。


第五代目
top05-garalley.jpg

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 物語冒頭の、燃え盛るアパートメントと、エルリオをイメージしました。この、火事のシーンを作るために、家にあったフリー素材集から十数種類の火事画像を集めてきたり…。
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アンケート結果発表
8月27日をもちまして、アンケートを締め切らせて頂きました。
こんな辺境ブログ小説サイトなのにご投票頂きました皆様、ありがとうございましたm(_ _)m

結果は以下の通りとなりました。
少数回答は「その他」で纏めさせて頂きました。



というわけで、キャラクター別投票では、

めでたくエルリオが一位となりました。

実を言うと、私的には結構意外でした。
書けば書くほど、後から生まれてくるキャラクターの方が濃くなっていきどんどんエルリオの影が薄くなってしまってると危惧していたからです。

エルリオを好きになって下さり、本当にありがとうございます(涙)

というわけで、エルリオをメインの番外編を……と思ったら、
第二問目の投票結果が少し面白い事になっていたので、こちらもご紹介させて頂こうと思います。



イルト・グレン編がそこそこの差で一位でした。

キャラクター別では、グレンが健闘したとはいえ、エルリオ・ミリアムの両者が上位に入っていたのですが、エピソード別となると、イルト・グレン編の方が上。

不思議。
なかなか興味深い結果でした。
参考になります、ありがとうございました('◇')ゞ

というわけで、
キャラクター別投票一位のエルリオと、
エピソード別一位のイルト・グレン編に登場する人物を使って、
何か番外編を考えてみようと思います。

三ヶ月近くアンケートを放置しておりましたが…
皆様、暖かいご投票とコメントを本当にありがとうございましたm(_ _)m


あ、しかもちょうどこの記事が、100記事目!
何故だかめでたい気分です。


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押印師ACT9-15
15

 整理しきれない思考が言葉となって漏れ出した状態で、エルリオは下方向からジャスミンを見上げた。一方で、黒い視線を受け止めているヴィルの面持ちは、眉根一つ動かない。無感慨な表面が瓦解される事はなかった。
「ずっと、こういう機会を待っていました」
 静かに言葉を続けてから、ジャスミンはエルリオとミリアムに歩み寄るとその場に屈んだ。少女達に目線を合わせる。
「いい戦力になると思うわ、私。どう?悪い話じゃないと思うの」
「あの…えっと…」
 エルリオには、断る理由が思いつかなかったが、ヴィルにどう意見を求めて良いのか分からない。動揺そのままに視線をジャスミンの黒い瞳と、ヴィルの緑の瞳とを行き来させた。目端に映るミリアムは、不気味なほどに落ち着いている。
「だめ?」
 ジャスミンは僅かに首を傾げて、エルリオの横顔を覗き込んできた。すぐ近くまで遊びに行かないかと誘われているような錯覚に陥る。
「だめなんて事はないけど…でも…ヴィルさん…は、…いいの?」
 面持ちに変化の無いヴィルが気になった。エルリオが答えを求めて視線をヴィルに向けると、ジャスミンも腰を上げて姿勢を正してヴィルに向き直った。
「俺に、お前の行動を制限する権利はない」
 それが、ヴィルのジャスミンへの答え。軍から離れた時点で、上司と部下という関係はとうに消えているのだから。エルリオ達の頭上で交わる、ヴィルとジャスミンの視線。ヴィルの声からは、心の揺れが微塵も感じられなかった。
(え、それだけ?)
 淡白なヴィルの返答を耳にして、エルリオは憮然たる面持ちでヴィルに抗議の視線を投げる。
「だが、負い目あっての事ならば、許さない」
 続くヴィルの言葉へ、ジャスミンは首を横に振った。
(負い目?)
 言葉の意味をすぐには汲み取れず、エルリオは内心で首を傾げる。
「ずっと考えていた事です」
 ジャスミンの表情は、明るい。
(ジャスミンさん……)
 寝所の外から吹き込んでくる朝の風に乗って、水と緑の匂いが部屋に染み渡り、振り向いたエルリオの目の前にどこまでも広がる大地と青い水の幻を浮かばせた。
(……?)
 思わず、目を擦った。瞬きを数回繰り返して強く瞑った瞳を再び開くと、そこに映る景色は板張りの寝所。見上げた先に、黒髪の凛とした横顔と、その対線上に金髪の暗然とも靄然ともとれる面持ちがある。
「なら、俺が引き止める理由はないな」
 無愛想な面に凝固されていたヴィルの目元と口元に、柔婉の気が浮上する。エルリオやミリアムに向けた微笑みとも違う、恐らくジャスミンにしか向けられない感情。
(うーん、この場に私達がいなかったらキスぐらいいっても良い場面カモ)
 すぐ頭上で交わされるやり取りに、エルリオは頬の上気を感じていた。
「どうしてあなたはすぐに、そういう下世話な事を考えるのかしら」
 それまで無言だったミリアムから、小声の冷笑が横顔に降りかかる。
「ちょ…っとまさか」
 この喋り方は……
「……リュー…シェ……?」
 五臓六腑から反発心がむくむくと湧き上がらせるその声に、エルリオの直感が働いた。振り向くと予測通り、隣で落ち着いた顔色をしていたミリアムの瞳に、リューシェの涼やかな光が宿っているのが見える。形の良い顎を軽くしゃくり上げて哂っていた。
「あらあら」
「またか」
 頭上から、ヴィルとジャスミンの溜息と驚き混じりの声がする。
「あああんたこそ、勝手に人の心読まないでよね、どっちが下世話よ!」
「その締りの無い顔を見ていれば分かるわよ」
「…………」
 まんまとリューシェに墓穴を掘らされた事に気がつき、エルリオは歯軋りした。
「あ…」
 頭上からの小さな苦笑に気がついて見上げると、ヴィルとジャスミンの力の抜けた視線があった。
「違う、違うからね!そんな事考えてないからね!」
「?」
「何をだ」
 目を丸くするジャスミンの反応とヴィルのもっともな疑問は、またもやエルリオが墓穴を掘った事を表している。
「~~~~」
 エルリオはひたすら、両手両膝を地面についてしまいたい気分を堪えていた。羞恥心と怒りを両手で捏ね回し、噛み砕いて飲み込みながら精一杯の恨めしい目でリューシェを睨むしかない。
「だいたいあんた、急に入れ替わったりして一体なに…」
「昨日からよ」
「昨日??」
 エルリオのみならず、頭上の二人からも驚きが降ってくる。
 リューシェの返答はエルリオの予測を越えており、ヴィルさえも陰陽が少ない面持ちに若干の驚動を乗せていた。
「皆さん、大変です!ジャスミンさんが…っ!」
 突然、リューシェは両手を祈るような形で組み、泣き崩れそうな顔と声でエルリオに縋る。これは昨日、ミリアムが血相を変えて助けを求めてきた時の台詞と仕草そのもの。
「そ…の時から…?」
「そうだったのか」
 エルリオの記憶にも、ヴィルの記憶にも、リューシェが見せたそれは合致している。
「そう、あれはわたくし」
 リューシェは冷笑と共に勝ち誇った笑みを浮かべている。我ながらの名演技に満足しているのだろう。
「あなたもうちょっと人間観察力を養った方がいいわね。旅先で人に騙されるのがオチだわ」
 形の良い指揮棒のような指先が、エルリオの鼻面に突きつけられてくる。
(ムカツク……!)
 五臓六腑から「頭をしばいてやりたい!」という衝動が湧き出るが、エルリオはなんとか堪えていた。あくまでも彼女は「ミリアム」なのだから。それに、見抜けなかった自分にも、腹が立った。
「ミリアムはどうしたの?昨日何かあったの?」
 ジャスミンが倒れた事に関連しているのか、という疑問がすぐに浮かんだ。少し不自然なほどにミリアムは、彼女と二人きりになる事を望んでいた。リューシェはミリアムの両頬に両手をあてて顔を近づけ、小声で答えた。
「加減を知らずに力を使いすぎて、神経が焼ききれたのよ。休めるためには深い眠りが必要だわ。その間私が出てきているだけの話」
 毅然とした態度ながらも、間近で見るミリアムの体は肌から色が失われているように白い。深層に眠るミリアム自身の意識が負った疲労が、隠れきれずに表出しているのだろうか。
「力を使った…?どうして、いつ?」
 エルリオは思わず背後を振り返りかけたが、
(……ジャスミンさんに使ったってこと…?)
 なんとか思いとどまる。
 まさかこの後に及んで「恋の話」を探り出すため…
 一瞬そんな事を考えていると、まるで見透かされたようにリューシェから、
「違うわよお馬鹿さん」
 と、更に五度ほど下がった冷笑が降って来た。
「だよね…」
 不自然に苦笑して、エルリオはヴィルを一瞥した。彼は胸の前で腕を組んだ姿勢でリューシェを見つめている。
「いいこと?」
 顔をエルリオの方に向け、リューシェは片手でジャスミンを指し示した。
「彼女の同行を許可なさい。私は賛成よ。あなたにとっても、この子にとっても、それから私にとっても、それが最善。わかって?」
「…でも」
 エルリオが言いよどんでいると、涼しいリューシェの眉目が一瞬、苦しそうに歪められた。頭痛をやり過ごしているように、固く瞳を閉じて俯く。砂嵐が通り過ぎるのを待つ小動物のようだ。そして突然、目を見開いて顔を上げると、両腿あたりに添えていた小さな拳を、苛立たしげに縦に振り始める。
「もう!勝手なことばっかり言うのやめてください!」
 精一杯の怒声を上げた後「…あら」と小さく呟いたリューシェの瞳が、エルリオを向いた。途端、形の良い眉が泣き出しそうに下がる。
「エルリオさぁん…」
 名前を呼びながらエルリオの手を握り、ふるふると子犬のように首を振った。
「私、私は、反対ですからね!」
「えっと…」
「私たちの、ううん、私のせいで、お二人が離ればなれになるなんて…」
 拾ってくれと懇願する動物のように、真っ直ぐと見つめてくる灰色の丸く大きな瞳。弱々しく震えていながらも、隠れた強さを感じられる声。
「え、今はミリアム……?」
 しがみ付いてくる少女は間違いなくミリアムに戻っているようだが、エルリオは確信しきれずにいた。
「そうです!私―…」
 次の言葉を出しかけたミリアムの口が開いたまま、音をなくして止まった。必死に縋ってくる少女の面持ちが、カーテンを引いたように温度を失くしていく。
「お黙りなさい」
 今度は低く呟きながら、ミリアムは握り締めていたエルリオの手をおざなりに放した。
「へ?」
 その場から歩き出し、呆然と見ているエルリオ、ヴィル、ジャスミンが描く輪から数歩抜け出したところで足を止める。
「自分で仕掛けた事でしょう?」
「でも……まさかあんな風になるなんて…」
 叱咤するように右手で空気をなぎ払う仕草をし、直後には小さく肩を窄める。背を向けていても、前者がリューシェであり、後者はまた、ミリアムの声に戻っているのが聞き取れた。いずれも同一の少女の口が発した声ながら、全く別ものに感じられるほど口調も声の張りも癖も異なっている。
「グレンに会いたくないの!?」
 また声が厳しくなる。それに同じ声が「会いたいに決まってます…」と弱々しく呼応する。
「ダメです、もう!頭がおかしくなりそう!」
 再び突然エルリオを振り返って、ミリアムはその場にしゃがみ込んで頭を抱えた。細い背中が丸まって、玩具の鞠のようだ。
「……見ているこっちもおかしくなりそうだけどね」
 呟きながらエルリオは丸まっているミリアムに歩み寄る。背後からぽつりと「そうね…」というジャスミンの溜息も聞こえた。
「交代だったはずの二人分の意識が、同時に頭の中に存在しているみたいだね」
 これまで無言だった相棒が、初めて小さな呟きをエルリオのポケットの中で零した。
 折り曲げた膝小僧に額をつけて、隠しこんだ嗚咽に肩を揺らすミリアム。その隣にエルリオが同じようにしゃがんで、包み込むように右肩へ腕を回した。顔を近づけて、下から覗き込み小声で大丈夫かと囁く。
「私の頭の中に、別の人がいるんです……」
 応えながらも大粒の涙をこぼす様子から、今は彼女がミリアムの状態なのだと分かる。
「昨日からずっと、私の体を動かして、勝手なことばっかりするんです…」
「力も弁えずに大胆なことをするからよ。でも誉めてあげるわ」
 また声調が変わる。
「あなたに誉められても嬉しくありません!」
 そしてまたミリアムに戻る。
 高速紙芝居のように表情が次々と入れ替わるミリアムを見ていると、巧みな一人芝居を見ているようだ。
「体力消耗しそうだね、それ」
 呆れを通り越してエルリオが感心して呟くが、反してミリアムは悲愴感に押しつぶされそうな顔でエルリオの首にしがみ付いてきた。
「もういやですー」
「うーん、ボクらじゃどうしようもできないしねえ」
 ポケットの中から余計な一言が転がる。
「じゃあ昨日から頭の中で共存してたんだ」
 言いながら、しゃがみ込むエルリオの視線がふとミリアムの足下に向く。細い脛を隠した靴下に手を伸ばし、指先で引っ掛けて降ろした。前回目にした時よりも、さらに曖昧な痣となって消えかけている印がそこにある。注意深く凝視しないと判別できないまでに薄くなっていた。
「もう、消えるのも時間の問題みたいだ」
 キューがエルリオを代弁して呟く。印の消失と共に表出が顕著になっているリューシェの人格。やはりライザ皇族継承の印と思っていたこれは、リューシェの人格を抑制するものだったと考えても良いようだ。
「大丈夫?もう落ち着いたの?」
 現況の異変さのあまり、話しかけるタイミングをずっと失っていたジャスミンが、座り込む少女二人の頭上に声を落とす。見上げると、腰を屈めたジャスミンの黒髪が目の前で柳のように垂れて揺れていた。
 今のミリアムの表情は、「ミリアム」のままで定着している。だが体の中に宿るもう一人の自分、またはまったく別の人格という違和感に、形の良い瞳が陰鬱な色を浮かべていた。
「―ジャスミンさん…本当に、いいのですか?」
 両膝を抱えたミリアムの、灰色の視線がジャスミンを見上げた。
「ヴィルさんと離れても、いいのですか?」
 当の金髪の当主は、始めから変化の少ない面持ちのまま、背後に控えるように立っている。そちらを振り向く事なく、「大丈夫よ」とジャスミンは微笑と共に答えた。
「永遠のお別れになるわけじゃないわ」
「そんなこと…未来のことなんてわからないです」
 ワンピースの胸元を、掻き毟るように握り締める。止まった筈の涙が再び、ミリアムの大きな瞳から落ち始めた。
「ずっと一緒だと思って、それが当たり前だと思っていたのに急に姿を消してしまったり…身近にいた人が亡くなったり、未来はいつも考えられない事ばかり起きてしまうでしょう…?」
「そうね」
 ジャスミンは短い答えと共に頷く。
 ミリアムの言葉は、エルリオの耳にも重たく響いた。
 学校に通っていた頃のエルリオにとって、時間の流れは「当たり前」の連続だった。だが父親の死と共に一変したその瞬間から今この時まで、目の前で起こる出来事全てが、昔の「当たり前」の中にいた自分には想像もつかない未来ばかりが重なっている。だから彼女の不安が、よく分かった。
「でも、私は必ずここに戻る。だってやりたい事があるのだも。そう思っていれば、未来にも過去にも、負けやしない」
 屈めていた背筋を伸ばしながら、ジャスミンはエルリオとミリアムの手を片方ずつ引いた。細い腕からは思いもよらない力で軽々と体を引き揚げられ、土の上にしゃがみ込んでいた少女二人は立ち上がる。
「そのやりたい事って、私達と一緒に行けば叶えられるの?」
 体を持ち上げられた浮遊感に、父親に遊んでもらった時の懐かしさを覚えながら、エルリオは問う。ジャスミンからは頷きが戻ってきた。
「それに、私にもあなた達の願い事を叶えるお手伝いができると思うわ」
「え?」
「私がいれば、精霊狩りも、少しは怖くなくなるし。ね」
「精霊狩り…」
 無邪気に顔を綻ばせるエルリオ、それと対照的に、「ちょっと待て!」と驚動したのはヴィルだった。また怒られる、とエルリオは反射的にジャスミンの背後に隠れるように肩を竦める。
「お前まで何を言い出すんだ」
 組んでいた腕を解いて歩み寄るヴィルへ、長い黒髪が向き直る。黒曜石の両眼は、冷静だった。
「精霊狩りは谷にとって、いずれ打倒さねばならない存在。でも貴方には、谷と竜騎兵軍を再興させるお役目があります。だからこうして、谷を離れ、外から奴らを探る事のできる立場の人間が必要だと思うのです。今のままでは、鼬ごっこでしょう?大丈夫です。奴らの恐ろしさは、私も十分に身をもって知っています。愚かな真似は決してしません」
 ジャスミンがヴィルと出会ってからこれまでに口にした、最も長い台詞だったように思う。動揺もなく静謐な己の言葉と声に、ジャスミンは満足していた。
「……本当だな」
「はい」
 また頭上で交わる二人の視線の間で、エルリオとミリアムは肩を寄せ合って並んだまま上目で様子を窺っていた。
(そっか。やっぱりヴィルさんのために…)
 谷の為、捕らわれたヴィルの妹の為、ヴィルの為。ジャスミンの願いの先には全て精霊狩りが関わっている。
 エルリオは納得し頷くが、ミリアムは二人からふいと視線を反らして俯き、口の中で小さく何かを呟き始めた。視線は何をとらえているでもない。その様子がエルリオに奇妙な印象を与えたが、ミリアムの中に共存するもう一人分の存在を思い出す。表出しないだけで、リューシェが頭の中でミリアムに語りかけ続けているのだろうか。
(うーん)
 改めて、これから旅を共にする二人を眺めて、エルリオは思わず唸った。
 片や、ぶつぶつ一人で呟く二重人格の美少女。
 そして片や、怒ると銃を乱射する女傑。
 ついでに、しゃべる縫いぐるみが一匹。
(すごい旅人ご一行サマになってしまった……)
 完全に自分を棚に上げて、エルリオは大きな溜息をつくのであった。

 そして結局エルリオは、ジャスミンの旅支度のために出発を更に一日遅らせる事を決めたのである。





ACT10-1⇒
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押印師ACT10-1
ACT10 廻る逢瀬


01

 巨大なデスクの向こう側でシールズが始末書に目を通している間、アレックは無言で身を縮めていた。
(あ~あ、蛇の前に差し出されたカエルみたいになっちゃって)
 今日もシールズ大佐の執務室で資料整理を任されているアリサは、影でアレックの様子を眺めていた。
「ふ……」
 十五分ほどの沈黙の後、シールズの口から漏れた声にアレックは大げさすぎるほど肩をびくつかせた。執務机に腰掛けて仕事を続けていたランドとアイラスがペンを動かす手を止めた。
「……ふはははははははははははは」
 溜息のように吐き出された声が、徐々に盛大な笑い声へとクレッシェンドしていく。左の手にしていた紙の束を、右手の甲で何度も叩きながら三十六歳の大佐は意図が読み取りにくい笑い声を上げ続けた。
「大佐、楽しそうだな」
「………」
 ペンの尻を指で振りながらランドが呟く。アイラスは視線を一瞥させてそれに応えて、また改めて上司を観察した。
 見守る部下達とアレックの前で、シールズはいい加減に疲れたか軽い咳と共に笑いを止めて、書類の束をデスクに置いた。
「ランド、誉めてやろう」
「は?」
 突然に話を振られて、ランドは不意を突かれる。不敵に笑う上司の視線が真っ直ぐランドを向いていた。
「シュトル・セントラルにお姫様達らしき人物がいたそうだ」
「マジっすか」
 安っぽいコメディのように、ランドは指先からペンを落とした。机上を転がる乾いた音が、静まり返った室内に虚しく響く。対面に座るアイラスは唖然とした顔で「へえ…」と感心したような声を漏らしている。
「お姫様?ですか?」
 状況を飲み込めていないアレックは目を丸くする。
「なんだお前。交付された手配書ぐらい目を通しておけよ」
「す、すみません」
 シールズに注意され、再びアレックは肩を窄めた。
(まったくもう)
 すかさず資料棚付近にいたアリサは、見開きにしたファイルをシールズに差し出した。軍部内に周知されている手配書ファイルだ。開かれたページには、隣り合ったファイルポケットにそれぞれ、幼い少女の手配書が挟まれている。
「おお、これこれ」とファイルを受け取り、シールズはそれをアレックの前に立てかけて見せる。
「あ、この子ですこの子」
 ファイルの中に描かれている美しい少女の似顔絵を指差して、アレックは声を上げた。砂漠の町で見かけた、あの娘だった。アレックは始末書という名の報告書の中に、「エルリオ」と「ミリアム」とお互いを呼び合っていた少女達がいた事実を書き記していたのである。エルリオについては、精霊の暴走を止めた謎の人物としての追記もある。
「綺麗な子だったなぁ……って、え、指名手配人だったんですか!」
 今頃になり大きな獲物を取り逃していた事実に気がつく。
「も、もも申し訳ありません!」
 椅子から立ち上がって深々と頭を下げる。アリサは閉じたファイルをシールズから受け取りながら、アレックが少し気の毒に思えて溜息をついた。
「いや、構わんさ。はじめからそのつもりでお前を派遣したわけではないしな。シュトル局の連中も、それどころじゃなかったろうし」
 シールズは特に気に留めている様子もなく、笑っている。彼の言うとおり、アレックは正式に指名手配人捕縛を任命されていた訳ではないのだから。
「だけどお前がここまで馬鹿やって掻き回さなければ、お姫さん達と遭遇する事もなかったわけだ。お手柄だぞ」
「えへ、ありがとうございます」
 照れ笑いを浮かべながら素直に喜んでいるアレックは、さりげなく「馬鹿」呼ばわりされている事に全く気がついていない。その場にいるアレック以外の人間は、「おめでたい奴だ」と内心で溜息をついていた。
「―ちょっと待ってください、という事は…」
 緩んでいたアレックの表情が、紐を引っ張ったように真顔に張り詰めた。二人の小さな指名手配人が、ヴィル・レストムと共に姿を現し親しそうに言葉を交わしていたのを思い出したからだ。
「レストム元中尉は……」
「竜翼谷当主、ヴィル・レストムは「黒」だってことだな」
「あ……そんな、でも」
 自分の行動が、元上司に容疑をかけてしまっていた―その事実がアレックに大きな動揺を与えた。アレックは椅子から腰を浮かした姿勢で、両手が挙動不審に宙を彷徨っている。
「いや、「黒」はちょっと誤解があったな」
 すぐにシールズは訂正する。
「別に彼がこの二人と何を企んでいるでもなし。どう考えても竜翼谷とこの両者の関係性は偶然の賜物としか思えんだろ。まあ匿ったのは事実なのだろうが、容疑というわけでもない」
 それを聞いてアレックの面持ちが、分かりやすいほどに和らぐ。シールズは苦笑してアレックの報告書を再び手に取った。
「安心しろ。国軍が彼をどうしようって事はないだろう。それ以前に俺は、この事を上に報告する気はない」
「え」と声を引っくり返したアレックの背後で、アイラスとランドも「おや」と小さな反応を見せていた。
「それは、嬉しいですけど…」
「何故ですか?」
 アレックの途切れかけた語尾を、アイラスが補う。シールズが手にした報告書はアリサに手渡され、速やかにファイルされる。
「竜騎兵軍を敵に回したくないからな。国にとって戦力欠減は痛手だ」
 大佐の椅子のウィールが軋んだ音を立てた。後で庶務課に油を差してもらう必要があるなと、アリサはファイルを棚に仕舞いながら思う。
「大戦時に国軍と軍事提携を承諾した当時の当主は既に故人で、今の若い当主に世代交代してからまだ三年しか経っていない。谷は精霊狩りに甚大な被害を受けた。諸々の建て直しを計っているこんな時に、軍からいらん問題を持ちかけられたら、心象悪いだろ」
 シュトル局の人員を増やしているのも、竜翼谷への機嫌取りも兼ねているらしい。谷やシュトル・セントラルで目の当たりにした様々な光景を思い出して、アレックは瞳を伏せる。
「それになあ~…」
 シールズは立ち上がり、空になったマグを手にしてデスクの右側の壁にあるカップボードに歩み寄る。横付けされた台にコーヒーメーカーが置いてあり、シールズは無造作に黒い液体をマグに注ぎ始めた。
「正直、今の国軍の基軸は大戦時と比べて脆弱だ。戦後から十三年は、長いようで短い。うちとて建て直しが必要なんだ。そんな時に、みすみす自ずと戦力を削ぐような真似だけは、どうしても避けたいはず」
 だからこそ三年もの間、軍はシールズに任務遂行の時間と予算を与えている。死亡の確証が無い限り、姿を消した「彼」を追い続けるのはシールズの使命だった。そして今は、唯一の手がかりであるミリアムを連れ戻す、それが彼に与えられた希でもある。
 軍に身柄を拘束されてから逃亡するまでの三年間、亡国の姫君は一度として口を割らなかった。むしろ彼女は何も知らないのが正解なのだろう、というのが三年かけて見出した軍の見解だ。如何な尋問でも口を割る事ができず、食事に自白を促す薬剤を混入する手荒な真似までした。それでも少女の口が真実を語る事はなかったのだから。
(だが、お姫さんは逃げ出した……何かしらの「目的」や「理由」のために)
 彼女は自ら「手がかり」の存在を知らしめた事になる。
 それが、「鍵」と呼ばれる謎の存在だった。
「大佐」
(シェファルトが死んだのは惜しかったな…、しかしよく二人して隠し通してたもんだ)
「大佐!」
「なんだ―っあっちぃ!」
 名前を叫ばれて我に返ると同時に、白湯気を上げる黒い液体がマグから溢れてシールズの左手を焼いた。左手が離したマグは台の上に転がり、熱液体で満たされたポットを持っていた右手も、持ち手を放してしまっていた。
「失礼」
 短い前置きと共に、アイラスは机の上に立てかけられた辞書を右手で引っ手繰った。椅子から立ち上がりざまに体を左に半周捻り、右手を振りぬく。
 高速で飛来する辞書はアレックの左側を通過し、シールズの右手から離れたポットに直撃した。
「なんだ?」
 とシールズが言い終わる頃には、辞書はポッドを巻き添えにして壁にぶつかり床に落ちていた。当然の如くガラスで出来たポッドは複数の破片と化し、黒い液体が窓下の壁に大きな汚れ華を描いていた。驚いて直後にシールズは無事な右手で己の体を撫でる。どこも濡れていなかった。あやうく大量の熱湯を体に浴びるところだったのだ。
「強引だがグッジョブ。君、濡らしたタオルと雑巾とか持ってきてくれる?」
 アイラスに短い拍手を送った後ランドはアリサに指示を送りながら、机上にあったグラスを手に取り立ち上がった。
「はい!」とアリサの返事。
「薬を貰って来ます」
 アイラスはそのまま踵を返してアリサと共に部屋を出て行った。
「悪い悪い。考え事に夢中になってた」
 シールズは赤くなった左手をハンカチで拭いている。
「最近多いすね」
 大きな氷とアイスコーヒーが入ったグラスを手に、ランドは中庭に面した窓に向かう。軍服のポケットから引っ張り出したハンカチをグラスの口に被せ、窓をあけて外に出す。
「何やってんだ」
 訝しげに眺める上司の前で、窓の外に出したグラスがひっくり返される。コーヒーはハンカチから染み出して下に零れ、氷だけが残る。それを包んで結び簡易な氷嚢として、ランドはシールズに手渡した。
「飲みかけだろ?きたねえな」
 文句を言いつつ、シールズは受け取った氷を左手に乗せた。脈動に合わせて痛んでいた皮膚に、心地よく冷気が染み渡る。呆れながらもこの際、有り難かった。
「まだ一口も飲んでませんて。近くの給湯室の氷、たったさっき俺が最後の使っちまったんで、多分残ってないと思うんですよね」
「……それでか」
 ランドの言葉通り、直後に、
「すみません、氷がありませんでした!」
 と水で濡らしたタオルを持ってアリサが駆け込んでくるのだった。

「陽動作戦に出るいい機会かもしれないな」
 火傷の手当てを終えて一段落ついたところで、シールズはぽつりと呟いた。
「仕掛けるという事ですか」
 アイラスが相槌を返す。
「例えば?」
 今度はランドが尋ねた。
「……考え中だ」
 少し不機嫌そうなシールズの即答が戻って来る。
「正攻法的に谷に人を派遣する訳にはいかんし……かといってスタインウェイが士官だと相手に知られたからには向こうもさっさと姿を消すだろうし…となると各局に……」
 自分の名前が出たところでアレックは、バツが悪そうに唇を窄める。
 またマグカップを持ったまま深い思考に沈みかけている上司を見て、アイラスとランドの部下二人組みは身構える。
「またご自分の世界に入ってらっしゃるな」
「お前今度はアレ投げてみろよ」
 小声のランドが指差す先は、ブロンズエンブレムがはめ込まれた盾。昔、シールズが何かしらの武勲を挙げた時に贈られた物なのだという自慢を聞いた事があった。詳細は忘れたが。
「人に提案する前に手本を示したらどうだ」
 部下のやり取りと重なって、背後から扉をノックする音が響いた。
「シールズ。入るぞ」
 聞きなれた声がシールズの思考を引き上げる。許可を待たずに開かれたドアの向こうから、本日も完全無欠のほつれ毛ゼロオールバック大佐が姿を現した。
「お、キールか。そういえば約束していたな」
 キールに向けて敬礼する部下達の間を抜けて、シールズは同僚に歩み寄った。
「何だ、邪魔だったか?」
 キール大佐は少々不本意そうに眉を顰めたが、コーヒーに汚れた壁とシールズの手をみて何となく事情を察した。
「いや、丁度良かった」
 昨晩の電話で、精霊の印研究局に連れて行くと約束していた事を思い出す。それに、獲物が押印師と天啓印持ちとあれば、研究員らに話を聞くことでヒントが得られるかもしれない。
「お前らも来い」
 シールズは、アイラスとランドの両部下のほか、アレックとアリサにも手招きする。「良いのか?」と目線で訝しがるキールに、
「何事も経験だしな」
 とシールズは付け加える。
「すごい、私はじめて」と喜ぶアリサが隣を見ると、満面の笑みを浮かべている幼なじみの姿がそこに。
「…………」
 ちょっと嫌な予感がするアリサであった。




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