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北野ふゆ子
  • 北野ふゆ子
  • 昔は、ゲームやマンガの二次創作をしておりました。現在は主にオリジナルネット小説を執筆しています。得意は「シリアス」「アクション」「サスペンス」です。



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押印師 ACT8-3
03

「テイダスも封筒も、取り戻せなかった…」
 ロータリーからだいぶ離れた裏路地の一角で足を止めて、イルトがビル壁に背を預けた。
「あの分だと、テイダス少年だけ即逮捕という事はなさそうだ」
 背中を壁に預けて座り込むイルトの向かいの壁にグレンが凭れた。
「本当か!?」
 背中を壁に押し付けた反動で体を起こしてイルトがグレンに一歩詰め寄る。「ああ」と静かな答えが返ってきた。荒廃したビルの谷間から差し込む白い月光が細い小道を一直線に照らしている。非現実のように静かだった。
「ある程度、組織的に成熟しているように思える。戦後にありがちな孤児を集めて盗みを働かせている悪党程度のものではない」
 そう推測した要因は、押印の完成度とラースルという男。恐らく軍役経験があるとグレンは読んでいる。頭も良い。あの男ほどの人間が現場レベルで動いているとすれば人材層が厚いという事だろう。
 テイダスの命が繋がったと知りイルトは安堵するが、背景に存在する影とテイダスに刻まれた押印の存在は更に深刻な事実だと気付く。成長途中の幼い体に印を受けた子供達の戦いぶりを文字通り体感したイルトには、その押印がさながら奴隷の焼印に思える。
「一体何の組織…、テイダスは何に巻き込まれているんだ」
 イルトがそう疑問を抱くのは自然な流れだが、グレンは即答を控えた。思い当たる節が、グレンにはあったがあくまでも可能性でしかないそれは、空白の三年間により黒く塗りつぶされたままの不確定要素が多すぎた。
(一刻も早くセントラルに戻る必要がある、か…)
 グレンは内心で呟いた。
「どうしたらテイダスを連れ戻せるだろうか」
 月光の中でイルトの声がやけに明瞭な音となって耳に入ってくる。
「恐らく彼はもう、ここには戻らないだろう」
 テイダスを思う気持ちが痛いほどに伝わる懇願にも似た言葉に、グレンはただ首を横に振った。
「戻らない?グレリオに?」
「私が彼の管理者ならそうする。土地勘を活かして少々のリスクを犯してまでもグレリオ・セントラルに留まらせていたのだろうが、ここまで騒ぎになれば許容範囲を超えている。他の土地に移すか別の役割を与える事を考える」
「そんな」と疲労した声が月影に落ちた。イルトは再び体重を壁に預ける。
「俺がもっとしっかりしていれば良かったのに」
 悔いの言葉は、重くのしかかる月光に溶けるようにして消えていった。壁に背を預けた状態で腰を半分落として背中を丸めると、頭の上から無造作に布が被せられた。
「わ」
 本気で慌ててそれを掴み降ろしてから、それが自分の上着である事に気がついて「なんだよ」と苦笑を浮かべた。
「ありがとう。お陰で助かった」
 テイダスとの戦いの中で、グレンの体から電流を逃がすために使ったものだ。手に取ると所々に赤黒い焦げ痕が残っている。
「君はよく戦った」
 顔を上げると、白い光筋の中に立つグレンの影が長く小道の奥にまで延びていた。左半身は逆光のように濃い影が差しているが、それと対照的に右半身が白むほどに明るく照らされている。白いシャツを汚す赤黒色が鮮やかだ。
「あの子達を助けられなかったのは私の采配が至らなかったからだ」
 まだしとどに赤い液体が髪を伝い、グレンの顔を濡らしている。「勘が鈍ったかな」と呟き鬱陶しげに濡れた前髪をかきあげると、また余計に顔を汚す結果となりイルトは思わず笑いを落とした。
 軍事経験に乏しいイルトにさえ、あの状況で二人に突破口があるとは思えなかった。グレンの言葉はイルトを慰める目的のものであって事実ではない。ラースルが火器を携帯していたとあれば、イルトが三人の子供達を伏せたところで銃撃されたのは瓶ではなくてイルトとグレンだったであろう。むしろ苦戦を保っていた事でラースルに攻撃させる気を起こさせなかったのが正解だ。
 結果的に誰も殺す事なく窮地を越える事ができた現状が、最良の采配であったと思う。長々と話を引き伸ばしたのも、警察局の人間が駆けつけ、あの場から逃走する機会を得るまでの時間稼ぎだったのではないかと、今となっては思うほどだ。
 そうとは口にせず、
「まだ臭うぞ」
 とイルトは膝と背を伸ばした。グレンは苦々しい表情で目や口元まで垂れてくる水滴を何度も拭き取る。白く照らされた地面に飛び散った酢ワインが赤い斑点模様を描いていた。
「料理やケーキを被った経験はあるけれど、腐ったワインは初めてだ…酷いなこれは」
「料理やケーキ……」
「ちょっと気の強いお嬢様の機嫌を損ねてしまって、全身クリームまみれにされたんだ」
 思わずその光景を想像してしまい、イルトは腹からこみ上げて来る笑いを堪えられずに吹き出した。ワインまみれのグレンは苦笑しながらその様子を眺めている。ひとしきり笑ってイルトは月を見上げ、唐突に丸顔の行商人を思い浮かべた。
「あ、マクダムさん!」
 時計を確認するまでもなく、空に昇った月の姿から待ち合わせ時間がとうに過ぎている事が分かった。グレンも空を見上げて「あぁ」と息を吐いた。そして直後、月が照らし出す方を振り向く。
「!?」
 厚い革が石にぶつかる音が連続する。それが複数重なって少し離れた方向から響いてきた。よく耳を澄ますとそこに金属音も混ざっている。グレンは壁から離れるとイルトの肩に手を添えた。
「君は待ち合わせ場所に行きなさい」
「え、でも」
 同じく近づく足音に気がつきイルトも警戒を面持ちに表した。
「大丈夫、マクダムさんは必ず君をまだ待っている」
「そうかな…」
「保証するよ。彼は君を裏切らない」
「へ…?」
 足音が更に近づいてきてグレンは添えた手でイルトの肩を押して道の向こうへ向けた。
「これ以上待たせるのは良くない。ほら」
「いやそれよりあんたはどうするんだ」
「この格好のまま人の多い場所には戻れない」
 酸の臭いが残り、全身が赤く汚れている。この騒ぎの中でこの姿で人込みに姿を表しては通報される危険性が高すぎた。
「でも―」
「青少年の未来に補導歴の傷をつけたくないよ、私は」
「茶化すなって!」
 イルトの真摯な声を受け取りグレンも堅い面持ちに戻る。
「今国軍に目をつけられるのは私も困るんだ。計画と手順という物があるのでね」
「計画と手順?」
「同じ軍役復帰するにしろ、できるだけ好条件で戻りたいからさ」
 またグレンの面持ちに冗談めかした色が浮かんだ。イルトが抗議を返す前に、強引に振り向かされた背中を押される。
「盗られた小切手の弁償は明日以降改めて送金するから、受け取ってくれ」
「そういう問題じゃなく!」
「大事な問題なんだ。あれはライズが君の為にと―」
 言葉尻を蹴散らすようにすぐ背後の小道から遠回りする形で足音が確実に近づいているのが聞こえた。「こっちか」と声も聞こえてくる。音の方向を一瞥してグレンは逆方向に歩を進め出した。
「君はそっちから、少し遠回りをして町に戻りなさい。」
「ちょっと…!」
「先程の友達のことは、本当に君が気に病む事はない。知る必要もない。時間はかかるだろうが、私がどうにかするよう努めるから」
 テイダスの話にイルトが一瞬、動きを止めた。背中を押した手が離れ、肩越しに振り返ると強すぎる月光の中に飛び込んでいくように、グレンの姿が遠ざかるごとに白み始める。
「待・・・・!」
幻を追いかけるようにイルトは手を伸ばすが、
「楽しかったよ。君も気をつけて」
 最後にそう言い残して片手を上げた男の姿が、寸時後には光の中へと消えていってしまった。
「…………」
 取り残されたまま呆然とする間もなく、背後から近づく足音に我に返り、イルトは最後に指示された方角へと走り出した。


「イルトのぼっちゃんー!」
 待ち合わせ場所であった正門前のロータリーに向かうと、人の好い小太りの行商人がそこにいた。イルトの姿を見とめて、それまで寂しげにハの字に傾けていた眉を更に歪めて駆け寄ってきた。
「本当にまだ待ってたんだ…」
「え、なんですか」
「いや、すみません遅くなって」
 改めてロータリー中央の時計を見上げ、イルトは二時間以上もマクダムを待たせていた事を知る。途端に冷や汗が流れ出るのを感じた。
「戻ってこられて良かった良かった。先ほどから突然街が騒がしくなって警察局の車までやってくるしで何か事故にでも巻き込まれたのではないかと心配で心配で」
 句読点を挟まず一気に捲くし立てるマクダムの視線を追うと、ロータリーの端に止められた一台のジープが目に入った。
「あれが警察局の軍用ジープか」
「面倒な事に巻き込まれる前に帰りましょう、ぼっちゃん。お連れさんは無事に宿泊先を見つけられましたかね?」
「へ?あ、はい…まぁ」
 マクダムはグレンについてを聞かされていない。人の好い彼はグレンの「私は旅行者です」を素直に信じていたらしい。どこの世界に鞄一つ持たない、着の身着のまま旅行者がいるのか。
 案外と彼の事だから、マクダムの性格を読み取った上であのような嘘を選んだのかもしれない。マクダムは決してイルトを裏切らない―そう言った彼の言葉も、人の内面を読み取る人事的采配力の一端なのかもしれない。
(言葉の一つ一つにまんまと振り回されてた俺も…同じなのかな)
 人と車が忙しなくすれ違っていくロータリーの端。イルトが顔を上げると背の高い庁舎の影が最初に目に入った。天井の先端に取り付けられた鳳凰の風見鶏が、騒々しいグレリオ・セントラルの様子を静かに見下ろしている。風はなく、風見鶏はじっと動かない。
 石畳の街、布と木で作られた簡易天蓋が並ぶ列と、赤茶のブロック作りの古めかしい建築物の街は今、いつになく眩い月光に包まれて徐々に静寂の中へと落ちていくところだった。
 軍用ジープの方に目をやれば、ドライバー役らしき軍人の人影が車外に出て運転手席の扉に凭れていた。焦燥した様子はなく、静かに仲間の帰りを待っている。月光に照らされた横顔は、まだ若いようだが深く老練した落ち着きがある。腕の時計を一瞥して顔を上げて運転席の扉を開けると中からライフルを取り出して背負った。
 一定時間を経過した場合の行動が決められているのだろう。あのまま二人の警察局員がグレンを追えば恐らく、この運転手も追尾に合流する事になるのだろうか。または援護を呼ぶことに?
「どうしました、ぼっちゃん?」
「………あ」
 イルトが眺める中で運転手が再び時計を見つめ、そして顔を上げた。
 ロータリーから庁舎へと続くメインストリートの向こうから、二人の人影が駆け寄ってくるのが見えたのだ。
 運転手を含め三人で少し言葉を交わした後、戻ってきた二人のうち一人が車の窓から運転席に手と顔を突っ込むと何かを引き出した。無線マイクだ。だが距離があり会話の内容はここまで届かない。
(どうなってるんだ…、事件の事は)
 無線への会話が聞き取れずに苛立ちながらイルトはじっと男の口元を見つめた。
「―ぃ……、―ントラル局……軍曹…はい、一緒です」
(え…)
 突然、軽い耳鳴りと共に男の口の動きに合わせ、言葉がイルトの鼓膜に響いてきた。
「ええ。露店通りです。通報によると時刻は午後五時過ぎ頃」
「目撃者の証言によると、独楽鼠通りと楠木通りの交差点に開かれた露店で二人の店番と二人の男、計四人が何やら言い争っている内に突然天蓋が爆発し、四人は裏通りへと姿を消したそうです」
(聞こえる…)
「ぼっちゃん?」
 軍用ジープの方角に瞠目したまま動きを止めたイルトに、マクダムは太い首を傾げた。人間が作り出す街の喧騒に流されて、マクダムの目には軍用ジープの前でマイクに向かって喋る男の様子が、まるで無音声映像に見える。
「移動途中に銃声を聞きました。音がした方向、裏通りをくまなく調べましたところ、廃道となったロータリーに新しい、乱闘と思われる痕跡があり―ええ、ええ、後ほど写真を送りします。薬莢と弾が残っていないか調べたのですが見つかりませんでした。明日、夜が明けてから改めて調査する必要がありそうです」
(やっぱりあの場所はバレたんだな)
 隣でマクダムが一言、二言と話しかけてきた事は意識の隅が認識していたが、イルトはマイクの男に神経を集中させた。
「その後裏通りにて不審な痕跡を発見しまして」
 男の口からは、ロータリーから街の中心街に戻る方向とは逆の裏通りで、不審な赤い液体痕を発見したとの報告が流れた。グレンが被ったワインの事だろう。
「液体は酸を含んだ臭いがしました。血痕ではないようです。荒れたロータリーでも同じ痕跡を見ましたので、恐らくは重要な手がかりではないかと」
(…………まさかな…見つかってないよな)
 グレンと別れてマクダムの元に来るまでに、イルトは三十分近い時間を要した。言われた通りに土地勘を活かして遠回りをし、露天通りを避けてきた。この至近距離からでもあの警察局員二人がイルトの姿を不審としない様子を見ると、どうやら見つかる事なく逃げ切れたようではある。
 だがグレンは―?
「ですが、申し訳ありません、液体痕は途中で途切れていて。それ以上は追えませんでした」
 マイクに話しかける男の様子から、マイクの向こうにいる人間も、男本人からも焦燥感はさほど伝わってこない。彼の後ろに立つ仲間の警察局兵も運転手も、静かに男の言葉を聴いているだけで感情的な揺れが感じられなかった。つまらない窃盗犯らのケンカ程度に片付けられれば良いのだが。
「もうしばらく証言を取るためにグレリオ・セントラルに残ります。ですが、丁度この時刻は帰宅時間に当たるので、どれだけ新鮮なうちに情報が取れるかは…はい、はい」
男はしばしマイクに向けて口を動かした後、運転席にマイクを置き戻した。イルトは時計を見上げる。グレンと別れてからおよそ四十五分。
(これだけ時間があれば、)
 彼ならばきっと、既に安全な場所に身を置いているだろう。
(なのに)
 この胸騒ぎは何だ。
 何度もイルトの脳裏に黒い影が差し込んでは点滅している。
「ぼっちゃん?」
 三度、マクダムがイルトの面持ちを覗き込む。
「マクダムさん」
 今度はようやく反応が返り、「はいはい」とお人よしな商人は嬉しそうに目を細めた。
「本当にごめんなさい、もう少し待っていてもらえますか!」
「えぇ、え?」
 二人の警察局兵が再びライフルを背にグレリオ・セントラルの中心部へと小走りに駆け去っていったと同時にイルトも踵を返して駆け出した。ぼっちゃーん!と背後で情けない声が木霊したが、イルトは振り返らずに街の中心へ向かった。




ACT8-4⇒
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押印師ACT8-4
04

「さっきの大きな犬はどうしたんだ?」
 予想通りの人物からの声に、グレンは振り返りながら応えた。
「彼がそう、見えたんですか?」
「よく忠実に命令通りに動いていた」
 寂れた裏町エリアを抜けて、グレンは市場通りの裏手にいた。ここは日が暮れた後最も人通りが少なくなる場所だ。居住区からも離れており、特に今は人々や国軍警察局、庁舎警備局の目も露店通りに向いている事からその閑散振りは増している。
 三本の小道が合流する少し幅が広くなっている道端に立ち止まったグレンを、黒い人影が呼び止めた。
 ラースルだった。
「何故単独行動にでた?」
 中央に伸びる分離帯の上に足をかけたラースルに、グレンは無感慨な面持ちのまま僅かに首を傾げることで「何故」と問うた。
「お前が独りになったら俺がこう来る可能性が高い、それくらいの予測はしていたろう?」
 ラースルの言葉が正しい事は、微塵の狼狽も見せないグレンの様子から推測に容易だった。だが黒い影の男ラースルはあえてそれを問う。
「何故わたしを?」
「印保持者は元来、孤高な奴が多いものだ。それをああも懐柔するとは珍しいと思ってな」
「そういうものなのかな」
 皮肉をさほど気に留めない様子でグレンは肩をすくめながら小さく溜めていた息を吐いた。むしろ「大きな犬」というラースルの揶揄にグレンは内心で微かに苦笑を漏らしていた。電流から自分を救う為に飛び掛ってきた時のイルトを思い出して、遠い昔に灰色の巨大な飼い犬に飛び掛られた記憶が、脳裏の隅から顔を覗かせたからだ。
「お前達は妙な点が多すぎる」
 ラースルの長い影が分離帯からコンパス針のようにグレンの影に突き刺さるように伸びている。
「上下関係とも血縁でもなければ交友関係がありそうでもない」
 確かに奇妙な間柄と言えよう。グレンはただ黙ってラースルの影を眺めて低い声を聞いていた。
「それにお前は、そこらの生じっかな年功佐官より余程使えそうだ」
 年功なら確かに負けないのだが。苦笑を抑えてグレンは改めてラースルの両眼を見据えた。
「君は何故軍人を辞めてこういう事を?」
 ラースルはグレンの口調が変わったことに気付く。双方にとっても懐かしい、これは軍人同士のやりとりと同じだった。
 グレンは質問を続ける。
「あの子供達や男達、そして君はどういう人間なんだ。後ろに控えているものは何だ」
「答えると思うか?」
「思わないよ」
 グレンとのやり取りに、明確な敵対意思を見出してラースルは小さく首を振った。少し上がった口角には先程から変わらぬ冷ややかな微笑が宿っている。
「使い古した言い方だが、「仲間になるなら教えてやる」と言ったら?」
「よろしく、と言うと思うか?」
「思わないさ」
 児戯的なやり取りだが、どこか懐かしさを感じてグレンはラースルの返答に苦笑した。分離帯の僅かな段差から片足を離してラースルはグレンと向き合うと、胸元に差していたナイフの柄に指先をかけた。
 柄の形からそれが、軍でも使われるサバイバルナイフだと分かる。
「お前が何者かは知らないが、変に勘と頭が良い奴に探られても困る。下手に軍人を殺せばアシがつくんで手は出さない主義なのだが…お前はどうやら現役ではなさそうだしな」
 言い終わると同時にラースルの指が柄を弾く。まるで紙のようにナイフがホルダーから飛び出し僅かに宙に浮き、自然な動きで彼の黒手袋をした右手に収まった。
 軍人はよく暇を持て余した時に武器を手で遊ばせながらクセとしてこうした芸道的な動きを知らぬ間に身につける者が多い。ラースルの動きもそうした特徴に似ていた。
(あれをやろうとして手を切った奴がいたっけ)
 そんな事をぼんやり考えながらグレンは軽い動きを見せるナイフの切っ先を眺めていた。
 駆けつけた警察局を避けた事から、「元軍人」である事をある程度見抜かれるのは分かりきっていたが、軍に己とイルトの存在に気付かれる事を避ける方を、グレンは選んだ。
 だが同時に、この男が属している組織においてそれなりの地位にいるのなら、それを自分に置き換えたとして、自分のように詮索癖のありそうな人間を放っては置かないだろうという事もわかっていた。
 ましてや、イルトとテイダス少年というつながりがある以上、いずれその手はイルトにも伸びる。
 そうなる前に、手を打つ必要があった。
「ナイフという武器は、思いのほか頭を使うものだと知っているかい?」
 空いた両手の平をラースルに見せるような動きの後、グレンは右手でラースルのナイフを指し示した。
「何だと?」
 素手の相手から発せられた挑発的な言葉に、ラースルは違和感を覚えて目端を細める。
「本当にやっかいだな、お前は。」
 だがすぐにその意図を感じて鼻先で苦笑した。黒く細長いラースルの影が一層、強くなる月光に照らされて濃さを増している。
「俺がここで銃を使えないであろう事を計算していたんだな」
 銃声を発せば、まだ街中に残っているであろう警察局の人間や、騒ぎを聞き知っている町の人間に気付かれる。それに、
「君のその銃、少し変わっているようだね」
 ラースルの銃が薬莢と弾丸を残さない事も、グレンは気付いていた。
「瓶に発砲した時に、薬莢が落ちる音が聞こえなかった気がしたんだ。火薬の臭いも感じられなかった」
「………」
 ラースルの口端に宿っていた笑みが消える。目元に心底からグレンを疎ましがる感情が表れ始めていた。それを見とめて更にグレンは挑発を重ねる。
「二度、三度とも火薬反応がなく薬莢や弾丸が現場から見つからないとなれば…、きっと警察局は一連事件の関連性を疑うだろうね。今回に限らず…」
「…ああ」
 もう一度、指先でナイフを回してからラースルは手の平に強く柄を握り締めた。
「そうだろうな!」
 分離帯の段差を蹴り、長く伸びる影上を一直線にラースルが向かってくる。
(直線、右)
 己で己に指示を下すようにグレンはラースルの刃が繰り出すであろう軌跡を思い描く。刃はまず胸元を狙い直線的に突き出された後、右に薙いだ。それに反する最低限の動きでグレンは攻撃の第一波を避ける。
「っ…!」
 戦争のセオリーにもある「威力偵察」とした第一波をかわされる事は予測の範囲以内だ。ラースルは右に薙いだ動きから左腕の肘を振りぬいた。それもかわされるが続けて素早く右手のナイフを逆手に持ち替え首を狙う。
(首、目、また首)
 顔面中心に二度、三度と狙った攻撃から、機動力を削ぐ為に急所外を狙った攻撃も全てかわされ、ラースルは舌打ちし一度距離をとった。改めて目の前の標的を眺める。長身のラースルに比べ中肉中背、戦闘に特化した訓練を受けていそうでもなく、攻撃をかわす動きも決して素早くない。動体視力を活かし相手の動きを見ながら臨機応変に刃筋を変えてもいる。
(なのに何故攻撃が当たらない…?)
 手ごたえが全て空を切る感覚は苛立ちだけを蓄積させる。
―ナイフという武器は、思いのほか頭を使うものだと知っているか?
 陽炎のように脳裏にグレンの言葉が思い浮かんだ。
(まさか攻撃パターン全てを先読みしているだけだとでも…?)
 だが相手は素手。赤黒く汚れたシャツの胸元や腰周りを一瞥するが武器を隠し持っている様子はない。攻撃の要を担っていた犬もいない。グレンに攻撃手段は無いはずだ。
「ならば振り切るまで…!」
 相手が頭の回転のみで動いているというのなら、己は運動能力をもってそれを上回る動きをすればいい。
 ラースルは再び正面から向かう。急激に間合いを詰めながらグレンの両眼を見た。瞬時の間に茶色の視線がラースルの両手を巡ったのを見た。次の瞬間、ラースルは再び咄嗟に判断を変えてその場に深く沈みこんだ。視線をグレンの両眼から離さぬように。
「!」
 ラースルの動きに若干の驚きを目元に表した相手はだが、足元を狙ったラースルの長い足による蹴撃を後ろに飛ぶ事でバランスを崩しながらもかわしていた。
「くっ!」
 滑り込ませた足に素早く体重を移動させ体を回転させる。一瞬、グレンに背中を向けた直後、ラースルはすぐ背後に金属同士がぶつかる音を聞いた。
「?!」
 そこからラースルが肩越しにグレンを見やるまで、恐らく秒針が一歩動かぬうちの出来事だっただろう。振り向いたラースルの目の前が突如、白一色に覆われた。それが何かを確認せぬうちに至近距離から複数の何かが己に向かい風を切る音が耳に入ってくる。咄嗟にナイフを握った手を振り切ると目の前の白色は真っ二つに割れた。
 その瞬間、ラースルの視に飛び込んだのは、幕のように拓けた視界を突き抜けて複数の尖端が目の前に迫っている光景。
「何…っ!」
 本能的に体を横に倒し尖端を避ける。耳障りな金属音がブロック道路に乱雑な音を立てる。一度、二度と転がり受身を取りグレンの姿を探して一瞬、ラースルの視線が泳いだ。焦点が定まったその先に再び、金属の尖端が迫り来るのを見た。ほぼ無意識にラースルは体を傾けナイフを握っていない左手で腰から銃を引き抜く。
「野郎!」
 その左手が銃の引き金を引くのと、金属の尖端が左腕を引き裂いたのは同時の出来事だった。

 銃声が轟く。
「―え…!?」
 露店通りと市場通りの中間地点付近に来ていたイルトは、弾かれるように空を見上げた。
 同時刻、少し離れた庁舎付近で同じように銃声を耳にした国軍警察局員達も、鋭い木霊を残す空を見上げていた。
「やっぱり…!」
 背筋を落ちる汗に悪寒を感じながらイルトは銃声の方向に走り出した。



ACT8-5⇒
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押印師ACT8-5
05

「がっ…」
「っつ…!」
 どちらのものとも分からない二つの呻声がぶつかり合い、そして離れた。
 金属が固い物にぶつかる音を最後に、忙しなく動いていた音が止んだ。代わりに二人分の息遣いが交互に空気を這う。
 ようやく思考する間を与えられたラースルは左腕に走る熱を持った痛みに目をしかめて前方を見やった。ちょうど市場通りに抜けられる道の手前の歩道縁に腰掛けるように、グレンがラースルと同じように左腕を右手で押さえて座り込んでいる姿があった。
 感じた手ごたえ通り、銃が発した光弾は標的の左腕に当たっていた。
「一体…」
 そこから視線を自分の周囲に落とすと、
「……?」
 真っ二つに引き裂かれた厚手の白布が足元を覆い、その周辺に幾つもの金属の棒が散乱していた。その内の数本は石畳の縁をぬって地に突き刺さっていた。金属棒はいずれも鋭い尖端をもっていた。ラースルの左腕を抉った棒もすぐ傍に血で汚れて落ちている。
「―何だこれは」
 苦々しく呟きながらグレンの傍らに目をやりラースルは瞠目する。グレンのすぐ脇から西に伸びる道は、市場通りに抜けられる小道。それに気付きラースルはここが市場通りの裏手だと改めて気がつく。白い布と金属棒はいずれも市場通りに露店用の天蓋を張るための、庁舎が用意した備品。市場通りの裏手にボックスを設け、無造作に置かれていたものだった。
(まさか敢えてこの場所に俺を)
 引っ叩かれるような感覚と共に急に周囲が見え始める。ロータリーよりは道幅の狭い市場通りの端に背中合わせとなっている裏通り。三本の小道が合流しているために空間がフラスコ型になっている。ちょうど道幅が狭くなった位置にグレンがいて、その背後には市場通りの出展者用備品が無造作にいくつも置かれている。そして脇には、古びた蛇口が取り付けられた水のみ場、道脇に沿って排水溝が並んでいる。縁石側には消火栓と旧式の街灯と電柱も並んでいた。
「!?」
 焦りと共に忙しなく周囲を巡っていたラースルの視界の端で何かが動いた。反射的に意識がそちらに向く。銀色の物体が空中に放られていた。差し込む月光を受けて反射光を放ち、皓光がラースルの視界を瞬間的に白ませる。
―奴の罠だ
 本能がそう察してラースルは立ち上がりかける、だが、動かない。
「く!?」
 足元で乱雑に広がり絡まる天蓋用の厚手布の片側が一本の金属棒で地に縫いとめられ、もう片側は布に取り付けられている錘が片足に絡みつき、思いのほかに重量をもってラースルから動きを奪っていた。
 ガシャッ―
 硝子が割れる音が高々と響く。ラースルの意識がまた反射的にそちらに向けさせられた。それは、グレンによって放られた、市場通りの飾りつけ用備品である銀メッキのオーナメント。
 二重三重に反射神経と防衛本能の隙をつかれたラースルは、グレンに行動を起こさせる時間を与えてしまっていた。力任せに天蓋布を剥ぎ取り立ち上がりかけた時、ラースルの耳は凄まじい水の爆音を聞いた。
「なん―」
 何だ、と言葉にする前に大量の水が顔を始め全身を襲う。水は冷たさと威力を持っていた。壁を突き破るようにしてラースルは呼吸を奪われるほどの水流から逃げる。靴が漬かるまでに水浸しとなった縁石付近に着地しグレンの姿を追った。
 洪水の元は消火栓だった。栓が外され、大口を開けて気が違ったように水を吐き出している。グレンの姿はその更に右方向にある旧式の電柱にあった。
「―くっ」
 無事だった右手で何かを力任せに引きちぎる。
「小賢しいマネをっ!」
 この電柱は、祭事時に市場通りをオーナメントで装飾する際に用いられる送電源として旧式のものがそのまま使われているもの。ラースルが瞠目する中、グレンは電柱に取り付けられていたパネルから引きちぎった、先端の露出した黒いコードをラースルに向けて放った。水はグレンの足下で口を開ける排水溝に向かい面積を広げている。
 放ったコードが着水するのに充分、近い。
「まさか…!」
 ラースルには、地を這う水に向かい緩慢に落ちていくコードの先端の行方を見つめるだけの時間しか、与えられなかった。
「ぐああああっ!」
 低い男の叫び声が轟いた。
 人は火達磨になるともがき苦しみ、壊れた玩具のように支離滅裂に動き回る。だが凄まじい電流は全身の神経を侵し、体を内外から焼き尽くすまで激しい痙攣によって手足の動きを止めてしまうのだ。
 ラースルと共に水に浸った三叉路全体が青白い電流に包まれる。
「…………」
 唯一、乾いた縁石上に立ち目の前の光景を眺めていたグレンを、点滅する眩光が照らしている。消火栓の水は勢いを失いつつあるが尚も排水し続けていた。
「…?!」
 グレンの目端が眩しそうに細められ、訝しげな面持ちが驚動に変わった。
「ぐ…っぉおおああああ!」
 突然の咆哮。
「何…!」
 今度はグレンの口から困惑が滑り出る。弱まりかけた光の中心でラースルが足下に広がる天蓋布の端を掴み取るのが見えた。一歩、二歩、布を引きずり歩を進めたと思うと、
「あああ!」
 凄まじい咆哮と共に地を蹴り、グレンに向かいながら体全体で反動を生み出し、巨大な天蓋布を一振りした。
「っ!」
 布に含まれていた水が掃射火器の弾丸のように発射される。大粒の水弾丸が襲い掛かった。立っていられないほどの勢いと痛みに両腕で顔を庇いながらグレンは電柱に繋がるコードの端を咄嗟に引き抜いた。直後にラースルが投げつけた布がグレンの腕に絡み付く。
「うっ…!」
 錘によって腕にきつくからみついた布、その端からラースルの腕力に引っ張られてグレンの体は水が浸る三叉路の中に引きずられた。まともに倒れこんで水飛沫が上がる。電流は間一髪で止まっていた。腕を布に引っ張られたままグレンが顔を上げる。ラースルは体中から蒸発による白煙を上げながら丸めた背中で大きく荒い息をしていた。
(何て奴だ…)
 顔にかかる水を乱暴に拭いながらグレンは呆然とラースルを見上げた。これまでに出会ってきた部下の中でも、これほどまでの猛者は多くない。
(彼ほどの男をここまで掻き立てさせる存在とは何だ)
 少年の窃盗騒ぎから端を発した先にある物の存在はやはり、当初の推測より遥かに深く大きいと思わせられた。
 ラースルは意識が半分飛んでいるのか、不安定にゆらりと上半身が揺れている。執念だけで立っている、そんな風に見えた。
 ―俺は…
 見開かれているラースルの両目に、グレンは映っていなかった。混濁し浮き沈みを続ける意識はまず、水の中に立つ己の両足の存在をとらえる。
(―俺は…?)
 意識の深層でラースルは自問する。黒く膜に覆われていた視界が徐々に視野の広さを取り戻し始めた。次に己の手が見える。黒手袋は焼き千切れ、露出した肌の所々に煤のように焦げた火傷を負っていた。痛みの認識と共に意識が急激に浮上した。己が掴む布の先に繋がっているグレンの姿を見とめる。
「貴…様ぁ!」
 急沸した怒りの感情が爆発すると共にラースルの足が地を蹴り、手はナイフに伸びていた。
 危険を察知しグレンは立ち上がり身を引くが、ラースルは短く右手で掴んだ布を更に小脇に挟み、右に体を強く引いた。
「!」
 巻き込まれる形で布ごとグレンの体が更に前方に引きずられる。一瞬の内に、ラースルとグレンの距離が縮まり、この至近距離からラースルのナイフを完全に避けるだけの身体能力を、グレンは持ち合わせていなかった。ただラースルの元に引きずり込まれる勢いを利用し布を左に引くことで、ナイフの切っ先を急所から逸らす事が精一杯だった。
「ぅあぁ!」
 ナイフは心臓を避け、グレンの左肩に突き立った。脳を突きあがる痛みに失われそうになる意識に抗いながら、腕に絡みついた布を振り払った。急に布が緩み左にラースルの重心が落ちる。グレンはラースルの右側に滑り込むように水の中に倒れこんだ。
「くっ……う」
 水が非情なまでに冷たく感じた。身につけているもの全てが水を吸い込み、痛みと疲労と相まって体の重さが倍に感じられる。右肩と右腕だけで何とか半身を起こそうと試みるが、体が水に吸い付くように動かない。
「…っ」
 耳元で揺れる水音が、過去の記憶とシンクロする。こんな時にこそ、人の頭は眠らせていた記憶を引きずり出してくるものだ。長年の経験からグレンが覚った事象の一つである。
 イルトの父ライズが死んだ時も、自分はこうして全身を濡らして水辺に倒れていた。
 百数十年前、用水池に頭を突っ込まれて溺死させられかけた事もある。あれは死ぬほど苦しかった。
(水には良い記憶がないよな…)
 ナイフを肩に生やしたまま右手で抑えてグレンは立ち上がりかけるが、ラースルから数歩遠ざかったところで膝の力が抜けて再び水に膝をついて倒れこんだ。
「はぁ……はぁ…」
 確かな手ごたえを感じたラースルは、全身で懸命に呼吸を続けながらグレンの様子を見下ろしていた。そして後方に落ちている銃を拾い上げる。標的は、無事な右手で体を起こしてなんとか座り込む姿勢でラースルに向き直った。左肩のナイフを右手で引き抜くが、ナイフは力なく落ちて小さな水音が響いた。
「貴様…」
 改めてラースルは己の状態を確認した。顔や手を含め、空気に露出した肌は火傷を負い、全身から未だに焦げ付いた異臭が漂ってくる。爆発した怒りが今は沈静化しており、やけに冷静だった。同時に、目の前にいる相手の忌々しさを再確認する。
(素手の相手にこのザマか…)
 自嘲が込み上げて喉の奥から咳まじりの苦笑が漏れた。
 最速の状況判断、最小限の動き、そして最大限の戦場活用。初期状態における優位性など采配の振り方で如何にも引っくり返せるのだと、現状が雄弁に語っていた。
 だが、
(…負けた……)
 グレンは内心で唇を噛んだ。あれで倒せなければ、敵は確実に最終手段として銃器に手を伸ばすだろう。如何な采配を振るおうとも自分の置かれた状況は、ラースルの物理的有利さに敵う事はない。
 座り込んだままのグレンの様子からラースルも同様の事を感じ取っていた。銃に手を伸ばせば良いだけのこと。最初からそうすればよかったのだ。少なくとも「この戦闘」には勝利する。だがその屈辱的な過程と、結果がもたらす不利益は、ラースルに敗北感しか与えなかった。
「ロータリーで殺しておくべきだった」
 深く長く抉られた左手を無視してラースルは右手に銃を強く握りこんだ。グレンは動く様子を見せなかった。深く沈んだ色影を眉目に浮かべているのは、肉薄している死への覚悟か、それとも思案に足掻いているのか―ラースルには判断できない。だが今彼が直ちにしなければならない事は明確だった。
 目の前の男を撃ち殺して即座に逃走する。ここに死体を残すこともラースルに不都合しか与えないが、もはや彼にはそうする事しかマシな手段として残されていなかった。
「…こんな後味の悪さは初めてだ」
 苦々しい言葉と共に、指先をトリガーにかけ、ラースルは銃口を標的に向けた。標的、グレンは顔を僅かに俯かせ、濡れて水滴を落とし続ける乱れた前髪の奥から真っ直ぐにラースルを見上げていた。
「………貴様、どこかで…?」
 前髪による影がグレンの顔面上半分に影を作り出している。その面立ちに、ラースルは見覚えがあった気がして、トリガーを押し込む指先に一瞬の躊躇いを生じさせた―
 その瞬間だった。
「来るな!」
 グレンの口が短い「命令」を叫んだ。
 誰に?ラースルは咄嗟にグレンの両視の動きを見る。
 だが視線はラースルに向いたまま、否、ラースルの背中を通り越えた奥を見ているのだと気付く。
―背後か!
 するどい気配を遠くから感じて、ラースルは振り返る衝動を抑え目の前に向けてトリガーを引いた。



ACT8-6⇒
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押印師 ACT8-6
06

 走った。少しでも速く、早く。
「どこだ…どこから聞こえたんだ」
 油断すると靴底をとられて転びかねない石畳を踏み越えて、イルトは土地勘を頼りに市場通り脇を駆け抜けた。全ての店が閉まっている時間帯である事と、先程からの銃声騒ぎで、市場通りは昼間の盛況さからは別世界と思えるほどに閑散としていた。
 間違いでなければ、銃声は長く真っ直ぐに伸びた市場通りの端から聞こえたはず。果てしなく遠くに見える道の終わりを目指してイルトは走り続けた。
 何故?何のために?
「…………」
 前に進む足取りに迷いはなく、心はひたすら目的地にいるであろう「主人」の姿を求めていた。だが脳裏に疑問符が幾度と浮遊する。なぜ自分は今、あの得体の知れない男のために全力疾走しているのか。
 あの男が本当に英雄と謳われた人物で、歴史上に幾度と名を残した男だと、どこに明確な証があるというのか。村で見た数々の書類や写真、ドッグタグ、あれらが本物であると誰が証明できるのだ。父があの男に仕えた証もなければ、そもそも半ば強引に印を受け継がされた自分に、訳の分からない使命を遂行する義務が本当にあるのか。もし義務であるとするなら、何故彼は自分と別行動をとったのか。
(俺を逃がすため…なんて事はないよな?)
 現実的に考えれば幾らでも否定できる事ばかりだ。
「俺はただ踊らされているだけ―」
 何度もそう思ったはず。
 だがグレンが発する「命令」はやけに体に馴染んだ。矢継ぎ早に投げられる指示。耳は一言として聞き漏らす事なく、手足や視はそれを実行するための最適な動きを選んでいた。
 課題があり、指示が出され、実行し、成功という結果をもたらす。
 楽しいとさえ思った。
「命令されるのが楽しいって、俺は犬かー!」
 頭のむず痒さを振り払うためにイルトはさらに速度を上げた。
 イルトは自身で誤解しているが、命令「される事」が楽しいわけではない。自己分析が完結しないままイルトは確実に目的地に近づいていた。
「あああ!」
 獣の咆哮かとも思える声が響いてきた。
「―!?」
 立て続けに、何故か水飛沫が上がる音と、また別の叫び声も重なった。
 体を回転させて足を止め、奥まったエリアへと繋がる横道へと直角に方向を変えてイルトは再び走り出した。市場通りの末端から続く歩道を抜けるとそこは、フラスコ状に広まった三叉路。
「!」
 急に開けた視界、イルトの目に飛び込んできたのは、縁石上に座り込んだグレンの姿と、背中を見せている黒く大柄な人影。
(あいつ!)
 咄嗟に名前が出てこなかったが、どうでも良かった。
 男の右手に握られた銃の口が向けられている先は、グレン。
―撃つつもりか
 体の神経がそう理解した瞬間、言葉で思うよりも先にまず足が動いた。今あの男、ラースルがトリガーを引いたとしたら、この距離で間に合うはずがない。だがそんな計算よりもただ、イルトの気持ちは前へ前へと向いていた。
「来るな!」
 グレンの口が短い「命令」を叫んだが、それを聞くわけにはいかなかった。

 この夜、三度目の銃声が空に轟いた。

「………っ」
 訪れるはずの強烈な痛みを覚悟してグレンは固く目を閉じたが、それはいっこうにやってこなかった。
「…?」
 一方で、発砲した瞬間の奇妙な手ごたえにラースルは瞠目した。手ぶれが起きたものの確かに標的の部位を撃ち抜いたはずだったが、目の前のグレンから飛び散るはずの血が、見えない。
「ぬあ!」
 疑問を浮かべる間もなく、ラースルは背中に騒々しい声と衝撃を感じた。受身をとれず横に飛ばされてラースルは右半身から濡れた石畳の路上に滑り落ちる。
「く!」
 転がりながら即座に体を起こして立ち上がると、目の前にラースルが「犬」呼ばわりした人間が滑り込んできた。流れきっていない水が飛沫のシュプールを上げる。
「イルト…」
 座り込んだままその背中を見上げるグレンと、主人を護るべくその前に立ち塞がる「犬」。ロータリーで見た光景と同じだった。だが決定的に違うのが、
「お前、それ…」
 イルトの肩を染めている、「赤」。そして僅かに白煙を上げている傷。
 血だった。たった今受けたばかりの銃創。
 肩から血を流した「犬」が、射抜くような視線をラースルに向けている。
「な……一体…」
 ラースルは混乱した。
 確かに自分は、背中に衝撃を感じる前に、グレン向けて引き金を引いた。己の右手の平は確実に、銃が光弾を発する衝撃を感じた。背中から「犬」に体当たりされる形で横に転がったのはその後のはずだ。
「なのに何故お前に当たっているんだ!」
 一方でグレンは、
「発動してしまったのか……」
 若干の震えが混在した声を漏らして緩慢に立ち上がった。
「何がだよ……そんな事より、何なんだよこの有様は」
 痛みに顔をしかめて呟きながら、イルトは赤く染まった左肩を右手で強く抑えた。右手の平に血液の熱と不快な粘着感が広がる。握りつぶすようにして更に強く手の平に力を込めた。印が刻まれた手の平が白く発光する。
 呆然とするラースルと、愕然とするグレンとの間でイルトはただ左肩で暴れる猛烈な痛みを右手で抑え付けていた。
 だが―。
「…ん?」
 間の抜けた声と共に突如として痛みは消えた。
「あ、あれ?」
 右手から光が消えると同時に、痛みが消え、そしてまた手の平で感じていた血液の感触も、消えた。
「怪我…傷を見せてくれ」
 青白んだ面持ちで背後からグレンが歩み寄ってきた。
 恐る恐る左肩から右手を離すと、
「傷―、」
「治癒している…」
 その場にいる誰よりも驚愕を面持ちに表出させてイルトは、元通りになった己の左肩を眺めた。
 左腕を回してみる。痛くない。左肩を回してみる。痛くない。
「どうしちゃったんだ、俺の体」
 痛みが去った事にイルトは単純に喜びたかったが、振り向いた先にあるグレンの表情が徐々にこれまでに見たことのない類の感情に変わりつつある事に気がつく。
 それは、
「なんで怒って―」
 怒りだった。
「畜生!一体何が…」
 イルトの疑問を遮るようにラースルの低い罵声が吐き出された。唖然と苛立ちの葛藤が煮え繰り返る腸からせり上がり、喉を振るわせる。ラースルは再び銃を握った右手を前方に伸ばした。
「あ」
「撃たせるな!」
 イルトがそれに気がつくと同時にグレンの声。
 言われなくとも、と体が自然に動いた。左肩にあてていた右手をそのまま前方に振り抜き、同時に足が走り出していた。イルトの発した白光の鞭がラースルの右手首を弾き叩く。
「右からだ」
 ラースルの意識が一瞬、右手から落下していく銃に奪われた瞬間だった。声に導かれるままにイルトは僅かに軌道を変えて右横、つまりラースルの左腕の元に飛び込むように最後の一歩を跳んだ。そこはイルトから最も近い、ラースルの死角。
「叩き込め!」
 グレンのいつに無く鋭い命令がイルトの両手を動かした。祈るような形に組んだ両手を右から振り上げ、
「っぁあ!」
 勢いのままに死角からラースルの左半身に向けて叩き込んだ。
「ぐぁ!」
 確かな手ごたえと共にラースルの声、続けざまに背後から「ナイフに気をつけろ!」とグレンの声。イルトの左下、バランスを崩したラースルの体の下から落ちているナイフが見え隠れする。
 次の一瞬、銃を落としたラースルの右手がナイフを拾い上げ、傷を負った左手で受身をとり、縮こまるバネのように地に両足で降り立っていた。
(下から―!?)
 思う間もなくバネの如く伸び上がる黒い影が足元からせりあがる。
「げほっ」
 後ろからシャツを勢いよく引かれてイルトは奇妙な咽び声を漏らしながら、後方に仰け反った。ナイフの切っ先が胸元を掠って突き上がる、と同時にイルトの右肩と右頬を風が乱暴に撫で去り、背後から天蓋柱の金属棒が突き出された。
「っが!」
「!」
 短くくぐもったラースルの声と共にイルトの目の前に赤色が飛び散った。
頬に当たる生ぬるい感触。
今度はワインではなく、血。
目の前に迫っていたラースルの手からナイフが力なく落ちていった。
「―え」
 足元に落ちたはずのナイフの音が、やけに遠くに聞こえる。
 右肩越しにイルトが振り返ると、すぐ傍にグレンの顔があった。
 左手でイルトの背中を掴み、イルトの右背後から横に右足を踏み出し、右手で逆手に掴んだ金属棒をラースルに向けて突き出していた。
 土床に深く刺し込む目的で作られた鋭い尖端を持つ金属は今、グレンの右手によりラースルの胸元を刺し貫いている。
「なっ…!」
 想像を超えた出来事にただイルトが瞠目する中で、グレンの両眼は何も映していないかのような虚無の色をしていた。この男と出遭ってから見た中で、最も険しく、そして闇色を落とした面持ちだった。
「…っ」
 イルトは思わず顔を逸らして両目を固く瞑った。グレンは無感慨に右手を開く。ラースルの大柄な体は金属棒を生やしたままその場に崩れ落ちた。
その時に彼がどんな面持ちでいたのか―、イルトには見ることが出来なかった。
 近くにいたグレンの気配が動き、イルトは恐る恐る視界を開く。グレンが石畳に落ちている銃、そしてナイフを拾い上げている姿が目に入る。銃を拾い上げるときに、金属音が小さくぶつかり合う音がした。自宅の暖炉にある火掻き棒を重ねた時にたてる音と似ているとイルトは思ったが、当たり前だがそれとは全く別物だった。
 右手に銃、左手にナイフをおざなりに持ったままグレンはラースルに歩み寄った。
「こう、なる事も…計算済みだったのか」
 足元から、掠れた声が途切れつつ聞こえてくる。途絶えようとする生の流れを懸命に維持させようとするラースルの上半身は荒い呼吸に上下していた。だが彼の面持ちは既に苦悶を通り越し、むしろ静謐に沈みつつある。イルトからは、それを見下ろすグレンの表情を見ることが出来ない。
「君が私に殺意を向けた時点で、こうなるだろうとは思っていた」
 静かな声だけが聞こえてくる。
(なんだって?)
 イルトは目を細めた。
「いずれにしろ…俺が死ぬって事か」
 ラースルの言葉にグレンは首を横に振る。
「私に有利な状況さえ作り出せれば、聡い君なら深追いを止めて逃げ去るだろうと期待していた」
 だが出来なかった。
「君は、強すぎた」
「…………」
 短い無言を挟んでラースルが小さく鼻で哂った。
「お前を、追いかけたのが…、そもそもの間違いだったんだな…」
 言葉は後悔の意を紡いでいたが、死に行く男の声は平静だった。
「君のような人材とは違う形で出遭いたかった」
 これが、ラースルが聞いた最期の言葉だった。
「俺はごめんだ…」
 そしてこれが、彼が発した最期の言葉となる。
 上下していた胸郭の動きが徐々に動きを止め、口元から溢れ出ていた血液が止まった。
(し、し、死んだ…?)
 イルトはその様子を、一人の人間が生を失っていく過程を、たた茫漠たる面持ちで見つめていた。次に自分がとるべき行動、口にするべき言葉を全て失った状態で、目の前の光景を瞳に映すしかできない。
 そんな中で、グレンがラースルの亡骸の側に膝をついた。グレンの、全身を水に濡らし、左肩から腕全体にかけて酷く血に染まっている姿に、イルトは軽い眩暈を瞼の奥に感じた。すでに生理現象のように。
「グレ…」
「ん…?」
 駆け寄るイルトを振り向きながら、グレンは血溜まりとなった石畳とラースルの背中の間に手を差し入れ、何かを引き抜いた。
「あ」
 イルトからもそれが、真っ赤に染まった封筒だと分かる。完全に血でふやけたそれは今や、身元が割れる情報を記載した危険証拠物でしかない。封筒とラースルの武器を手に立ち上がり、グレンは周囲をあらかた見渡した。
 ラースルの口は塞げたが、証拠を残しすぎている。ふと、己の左腕に目をやり、撃たれた傷からかなりの血液を石畳に撒き散らしてしまった事に気がついて小さく舌打ちした。ゴボゴボと音をたてて排水溝が水を飲み込んでいる。いくらかは流れ去るであろうが、気休めだ。
(仕方ない……)
 だがすぐに小さな溜息と共に次の行動に移る。手にしていた銃に目をやり、手首を返してグリップの底を見る。「ふむ」と低く呟いて再び手首を戻し、通常の銃であれば安全装置がついている辺りを反対の手の腹で軽く叩くと同時にグリップを握る手の指を擦るように動かした。金属音をたててグリップから黒い物が滑り落ちて足元に転がった。それはひとまず無視してグレンは自分のシャツの裾を持ち上げて己が触れたグリップ部分を拭き始める。シャツは更に血で薄汚れるが、ワインの汚れと大差なかった。
(指紋を消しているのか…)
 真っ白になった頭の中に、やぶ蚊が飛ぶような曖昧さでイルトの脳裏に思考が復活しつつある。
 指紋を拭き取った後の銃をラースルの手に再び握らせて彼の指紋を付ける事も考えたが、
「どうせ発覚するのだからいいか…」
 と独語を漏らしながら、放り出されたラースルの右手から少し距離を置いた場所に銃を投げ捨てた。踵を返し、先ほど落とした何かを拾った後、呆然と立ち尽くすイルトに向き直った。
「行こう、そろそろ誰かやってきそうだ」
 彼の言葉は正しく、俄かに市場通りに面した街道の向こう側が騒がしくなりつつあった。
「………」
 イルトは混乱してばかりの頭を二度ほど振り、そしてようやく小さく頷く事だけできた。踵を返す前に、残った最後の勇気をもって目の前の光景を見渡す。
狭い三叉路の中心点に、まるで時計の長針のように横たわる男の亡骸の影。
網目状の雲に翳り始めた朧月の光と共に、闇に飲み込まれようとしていた。





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押印師ACT8-7
07

―集中復旧工事のため、深夜便の運転は休止とさせて頂きます―

「そんなぁああ」
 シュトル・セントラル駅のメイン掲示板に張られた紙には、赤い文字で非情な言葉が書かれていた。時刻はもう夜更け。アレックを駅まで送り届けた軍用ジープは既に去っていった後だった。
「聞いてないですよぉ…」
 無人となった駅の構内でアレックは呆然と天井を見上げていた。

 仕事を終えてシールズが席を立つと同時に内線が鳴った。
「俺は帰ったと伝えてくれ」
 呼び鈴を無視してクローゼットからコートを取り出す上司を尻目にアイラスは受話器を取る。
「アレック・シュタインウェイ一等下士官ですが、どうしま―」
 通話口に手を置いた状態でアイラスが振り向かない内に、「元気かね、シュタインウェイ下士官」と受話器がシールズに引っ手繰られる。その移動速度にランドが目を丸くした。
(アレックから?)
 壁際に二列に建てられた本棚の影から、アリサが顔を覗かせる。ファイルを両手に抱えたまま動きを止めてしばしシールズ大佐の会話に聞き耳を立てた。
「噂によると、今の奥さんも、仕事並みの粘着なしつこさで口説き落としたらしいぜ」
 シールズは良妻賢母を絵に描いたような妻を持つ事でも有名だ。既に実業家と婚約していた彼女をあらゆる手段を用いて口説き落とし、婚約を破棄させた略奪婚だという事にまで噂は膨らんでいるが、事実は誰にも分からない。
「『行動力』と表現してやれよ」
 書類の束をファイルに閉じながらアイラスは無感慨に呟く。真相を知らないので無闇なコメントを避ける事とした。
「夜行が運休か。一泊してくればいいじゃないか」
 列車強盗とヴィルに破壊された線路の集中復旧工事が行われるとの話だ。
「駅からタクシーでも拾ってシュトル局に…」
 『ゲスト室でも貸してもらえ、俺が連絡しておくから』と用意していた台詞を、シールズは咄嗟に飲み込んだ。
「いや、」
 もっと良案を思いついたのである。
「シュトル・セントラルだ」
 書類に向かっていたアイラスとランドが顔を上げた。
 シュトル・セントラルはその名の通り、シュトル地域で最も大きな市街地であり、国軍のシュトル局オフィスもこの街にあるが、宿泊や軍事施設を有する基地は市街地から北上した場所にある。
「ちょっと待てよ」と受話器を顎に挟んだ姿勢でシールズが机脇の小さな本棚に視線を移しかけると、
「はい、地図です」
 と机上に見開きにされた地図帳が置かれた。アリサである。地図はシュトル・セントラル駅を中央にその周辺五十キロ四方が含まれたエリアのページが開かれていた。会話の断片からアリサは的確な資料を判断し、最速で提示したのである。
「すまんな」
 短く礼を言ってシールズは受話器を片手に持ち直して椅子に腰を戻す。地図にざっと目を通し、シュトル・セントラルの街が駅から程遠くない場所にある事を確認する。
「どうせなら市街地の宿に泊まっとけ。半日ぐらい街を見物してから帰って来ても遅くないだろ。精霊狩りの列車強盗について街に何かしらの噂だの影響がないか見てきてくれ。夕方頃なら便があるんだろ?上には伝えとくから気にするな。旅費と宿泊費は経費で落としてやるから。な。じゃあな!泣くな!タクシーがなきゃ歩け!」
 と勢いよく電話が切られた。
 満足そうに片方の口角を上げた上司の表情にアイラスとランドは姿の見えないアレックに若干の同情を寄せるのであった。
(歩いて行ったらそれだけで一日終わっちゃうわよ)
 本棚の影に戻っていたアリサは、電話を切られて不安そうになっていると思われる幼なじみを思いやった。
「さて、今度こそ今日は帰るかな」
 電話を叩き切った後、シールズは揚々と立ち上がり伸びをした。
「お前達も今日は切り上げてもいいぞ。どうせ明日の夕方以降にならないと動きはなさそうだしな」
 地図を閉じて無造作に本棚に戻すと、アリサがそそくさと正しい位置に入れなおす。それを横目で眺めながらシールズは再びドアノブに手をかけた。「ウース」とランドの間延びした声と、「お疲れ様です」と抑揚のないアイラスの声が見送る。
「お疲れ様で…」
 遅れぬようにとアリサも本棚の間から顔を出すと、語尾を遮って電話のベルがけたたましく鳴った。
「……」
「……」
 室内の人間達はしばし動きをとめて、机の上で自己主張する電話機を眺めていた。
「はい、諜報部シールズ大佐執務室」
 先に動いたのはアイラスで、大股に机に歩み寄り受話器を掴み取った。簡単なやりとりの後、再びアイラスは受話器に手を置いてシールズに問う。
「キール大佐ですが、お帰りになったと伝えますか?」
「出よう」
 再び踵をかえしシールズは鞄を机の上に放り、アイラスから受話器を受け取った。
「シールズだ。ああ、ん?グレリオ・セントラル?そんな田舎町がどうか?」
 昨今ではあまり耳にしない珍しい地名にアイラスとランドは顔を見合わせた。グレリオといえばかつて五百年以上昔にアリタスの首都機能を担っていた、聖地。今は小さな田舎町に過ぎないはずの地域だった。岩だらけで農耕が期待できない地層域であり尚且つ、その岩も全く資源とならない不毛の土地。あまり知られてはいないがそこに住む人々は「岩隠の民」という別名も持っており、その名の通り岩陰にひっそりと身を隠すように慎ましく、そして静かな暮らしを好む地域性があるという。
「ほほ~。最近では田舎といえど物騒なんだな」
 手を机上についた姿勢で電話を受けていたシールズが、相槌をうちながら徐々に椅子に移動していき結局は再び腰を降ろしている。気を許した面持ちが徐々に緊張感を表出し始めている事に気がつきアイラスとランドは手元のファイルをテーブルに置いてシールズを見やった。
(……どうしたのかしら)
 部屋の空気が変質し始めた。アリサもそれに気付き肩を小さく竦めて本棚の影に身を隠してシールズの声に耳をそばだてる。
「隠蔽の可能性は?―だろう?」
 応えながらシールズは片手で背後のカーテンを開けた。初秋に差し掛かったこの季節、外はすっかり暗くなっていた。シールズの執務室からは小さな吹き抜けの中庭が見える。昼は正午に頂点へ登る太陽の光を吸収し、人工池に反射して眩いばかりなのだが、今はインクを零したような闇が中庭の底を塗りつぶしている。
「だがこの暗がりじゃ現場検証は難しいんじゃないか?へぇ。ふーん」
 妙だな、と呟いたのを最後にシールズは受話器を耳に当てたまま口を閉ざした。言葉を失くしているのではなく、空いた左手の指を机の上で落ち着きなく動かしながら受話器の向こうに細かい相槌を繰り返す。
「そりゃ印か押印かもしれないな。違法者同士の小競り合いじゃないか?」
 そこまで会話を耳にして、アイラスとランドは粗方の流れを汲み取る事ができた。
 軍の精霊印研究所にも顔が利くシールズに、キール大佐は度々相談を持ちかける事がある。違法の民間押印を悪用した犯罪は増加の一歩を辿っている事から、情報局の人間の大半は調査のために研究所と関わることが多いからだ。
 そもそも、元はキールの部下であったアイラスとランドがシールズを手伝う羽目になったのも、ここからだった。
 おそらく現状は、キール大佐が受け持つ案件に印が関わっている可能性がある事からシールズに相談を持ちかけた、というものだろう。
「いい機会だ。明日いつでもいい、執務室に来いよ。何人か研究員を紹介しよう」
 最後に「じゃあな」と短く締めくくってシールズは受話器を戻した。アレックの時とは違い、落ち着いている。
「キール大佐は、なんと?」
 受話器を置いてもすぐに席を立とうとしないシールズに、ランドが問う。
「ド田舎で殺人事件だそうだ」
 通常であれば各区支局にて処理されるのだが、ACC勤務のキールに回されたのには理由がある。
「現場に不審な点が多いのだと」
(ふむ?)
 本棚の影からアリサは再び耳をそばだてた。最近は何だか、物騒な話をよく聞いてしまう機会に恵まれている。
「どのように?」
「まだ十分な現場検証が行われていないのだが、被害者は男が一人、全身に重軽含めて火傷痕があるが致命傷は胸を金属棒で一突きされた傷によるものだそうだ」
「バーベキューですか」
 その場合は串に刺してから焼くという事をランドは失念していたが、誰もそれについて指摘しなかった。アイラスがいつもの様に冷たい視線を送ってきたのでランドもいつもの様に気にした様子を見せずにシールズの言葉の続きを待った。
「良い機会だ。明日キールが来たら共に研究局にいこう」
 のそりと椅子から立ち上がり、シールズ大佐は改めて外へのドアノブを手にした。
 今度はベルは鳴らなかった。


 軍部を包み込む闇よりも、夜の竜翼谷は暗い。
 極端に灯の少ない中層から下層にかけて、谷は夜の訪れと共に闇の水底に沈む。夜営陣を敷く上層の一部だけが蛍火のように灯りを点しており、そこだけ水面から顔を出しているように闇に浮かび上がっていた。
 蛍火の一つ、上層の隅に小さな携行ランプが赤々と燃えていた。その灯りの元で蹲っている影が伸びている。影の元はエルリオ。向かいにはミリアムが膝にキューを抱えて岩壁にもたれて座っている。
 エルリオはしゃがみ込んだ姿勢のまま木の枝で地面に模様と文字を描き続けていた。ミリアムは無言でそれを見つめている。
 ざりざりと、乾いた砂と土が削れて行く音が夜啼きする鳥の声のように不規則に長く、短く、音を立てている。
「違う、一本多いよ」
 ミリアムの膝の上でキューが呟く。
「あ」とエルリオはキューの声に従い、書き損じた模様を手の平で消すとその上から再び同じ模様を描く。
 ランプの炎がはぜる音がすぐ隣から弾ける。冷えた夜気に包まれる中で、頬にあたるランプの明かりがやけに温かく感じる。ミリアムが見つめる視界の中でエルリオはただ指先に握った木の枝にだけ意識を向けていた。
(………炎)
 頬の熱を感じてエルリオは傍らのランプを見やった。
 闇の中で小さな炎を見つめる。こんな光景が以前にもあった。
(そうだ、三年前…)
 崩れ落ちたアパートメントから逃げ出し、その後どう彷徨ったのかエルリオには記憶が無い。ただ覚えていたのは、誰もいない暗がりの中で時間が過ぎるのを待ち続けていた事だけは覚えている。
 夜明けが来る前にアパートメントの前に戻ってくると、建物は姿を消し、代わりにその周囲を取り囲む野次馬と兵達の姿があった。崩れたアパートの周辺には黄色と黒の縞模様のテープが張り巡らされており、消火しきれていない火が瓦礫の下で燻って赤々と街灯の無い街道に灯りを点していた。
 野次馬に紛れた小柄なエルリオに気に留める者は誰もおらず、煤に汚れたパジャマのまま立ち尽くしていた。
「どうしたんだ」
 背中に声が掛けられた。それが自分に向けられたものだと気付くのに少し時間が要った。
「あなたは…」
 肩を叩かれてようやく振り向くと、野次馬が群がる風景に溶け込むデザインのジャケットを羽織った男の姿があった。
 父親のエージェントをしていた男、何度か会った事がある。確か名前を
「サイクルだ」
 そう、確かそんな名前。
「この辺りで爆発事故があったと速報が入ってな。まさかと思って来てみればこの有様か」
「事故?」
 無の膜が張られて霞がかった頭に、この単語が強く引っかかった。
「ゼー…ワイヴァンが何かやらかしたのか?妙な実験してたとか」
「お父さん…は」
「奴の姿が見当たらないようだが」
「お父さん…」
 エルリオの鈍い反応に事情を感じ取ったようでサイクルは辺りに巡らせていた視線を止めてエルリオに落とした。そしてパジャマ一枚の小さな肩に手を置いて言った。

「薄着のままだと、」
「風邪をひくぞ。谷の夜は底冷えする。」

「え……」
 サイクルの言葉と重なって背後から声がかかり、エルリオは顔を上げる。
 目の前に見えるのは、焼け落ちたアパートではなく、キューを抱いたミリアム。
「?」
 エルリオと視が合い、首をかしげながら柔らかく微笑んできた。
 声の主は振り向かなくても分かる。そこにいるのはサイクルズではない。エルリオは肩越しに背後を見やった。
 谷の当主、ヴィル。
 ヴィルからは、揺れるランプの明かりの中に浮かび上がる地面の模様が見えた。
「うん、ありがとう」
 微笑んでから再びエルリオは手にしていた木の枝で乾土の上に文字や模様を描き始めた。ヴィルが辺りを見渡せば、ランプの明かりが届く範囲一面の地面はまるで遺跡画のように模様や文字で埋め尽くされていた。ところどころ子供大の足跡が交差している。
「これ、全部精霊の印。おさらいしてたの」
 ヴィルがそれを問う前にエルリオが答えを口にした。
「私、お父さんが死んでからしばらくは、ずっと生活の事ばかり考えてて」
 財産らしい財産は全て瓦礫と化したアパートメントと共に失われた。エージェントのサイクルを頼り、父親に成り代わって押印業が波に乗るまで彼に生活を世話してもらった。だからエルリオは、エージェントをほぼ彼一本に絞っている。
「その為の手段としてしか押印を見てなかったんだ」
 軽率な自分の行動を思い出してエルリオは唇を尖らせた。
「だって、精霊なんて見たことないもの」
 エルリオの、木の枝を動かす手が止まった。
 携行ランプの火が風に吹かれて消えかける。エルリオはランプを手にとって燻る火種に息を吹きかけた。ボッと極小さな爆発がしてランプの中の灯りに明るさが戻る。
「この火自身は精霊じゃないよね?火種と発火材があれば人間だって火が出せる。火は自然現象の一つでしかない。酸素と燃料によって生み出される」
 ランプから離した手に、指先で印を描く仕草を乗せる。いつも自分が押印している時の動き。
「こうして印を描いてちょっと精神統一すれば、火をおこせたり、空を飛べたりする。普通にマッチを擦って火を起こす感覚とどう違うのか、わかってなかった」
 現在の時点で一般的な押印技術は、刺青のように身体に文字通り印を「刻む」のが一般的だ。塗料による簡易的な物もあるが、汗と空気により色落ちしては使い物にならなくなるために、さほど使われる機会はない。軍の戦闘員が押印技術を学び自らに押印を施すケースもあるが、正確無比に印を描けなければ発動しないばかりか支障を来たす為に、何年もの訓練が必要となる。その上体質的資質の問題もある事から、数は少ない。簡易押印の難点を補う形でシールタトゥー形式の開発も研究されているが、そうやら印を描く過程も重要な要素であるらしく、成功した事例は無い。
 精霊の印研究局に勤務経験のあるヴィルには、エルリオの技術が如何に現時点の押印技術の中で、簡便さの面で突出しているかが分かる。
 技術的にというよりも、それは特異な資質、体質的な突出という印象だ。
「天啓印・使命印と押印の違いだって、体への宿し方と物理的に負担が有るか無いかぐらいしか区別がついてなかった」
 だけど―、とエルリオは木の枝を持ったまま立ち上がった。
「今は少し違うよ」
 深い夜空を、遠吠えを上げながら静かに飛び交う竜を見上げる。
「天啓印や使命印を受ける―精霊に選ばれるってどういう事なのか、それは少し分かった気がする」
 月光に反射する鱗がまるで流れ星のようだ。
「でも精霊って何なのか、精霊を束ねる精霊神ってどんな存在なのか、それはまだちょっと分からないや。多分これは誰だって、自分の目で見るまでは分からないんだと思う」
 精霊およびそれを束ねる精霊神への信仰は、アリタスのみならず大陸全土に広まっており、形式は様々あれど共通の信仰対象として有史以前よりこの世界の礎として認識されている。だが年若いエルリオには、「信仰する」という事の意味が分からない。自らの知識や経験を超えた、目にしたことのない存在に自分を委ねる事の意義が。
「言ってることが矛盾してるよね、ごめんね。押印師なんて結局、印や精霊について何もわかってない人間ばっかりなんだ」
 手にしている木の枝で何度も円をなぞる。
「俺も、」
 静かに話しを聴いていたヴィルが、静かに言葉を差し込んだ。
「当主として印を受け継いだからといって、悟っている訳ではない」
 エルリオやヴィルと向き合う形で壁に背をつけているミリアムから、ジャスミンの姿が目に入った。篝火に集う当主と少女達の輪を、少し離れた場所から見つめている。
「竜とは何か、竜王とは何か。本来は人とも獣とも住まう縄張りを違える神妖獣たる竜だが、何故この谷の竜は人と棲む道を選んだのか、竜王が人から当主を選ぶ理由は何か、三谷の竜は何故互いの血肉を求め合い覇権を争うのか、俺は何をするべきなのか」
 何も分かっていない、とランプに照らされるヴィルの無表情が呟くが、エルリオには彼の声に自嘲が含まれていると感じられた。
「分かるのは、谷の人間として谷を守らなければならない事だけだ」
「きっとそこに理由があるのだと思います」
 膝上にキューを抱いて静かにエルリオを見守っていたミリアムの声。「理由?」と尋ね返したのはヴィルだった。
「人に印が現われることとは、すなわち精霊や精霊神の意思がそこに宿っているということ。精霊はこの世を司る糸。人の運命は精霊の意思と共にあり、印が変化すると、人の運命も伴って変化する」
 意思には必ず「理由」や「原因」という裏付けがある。
「そして糸は必ず全て繋がっているのです」
「誰の言葉なんだ」
 語るミリアムの視線が遠くを見つめている事を感じて、ヴィルは問う。エルリオにも、ミリアムの追憶が見て取れた。少し恥じらいを含んだ微笑を浮かべて、ミリアムはキューを抱く腕にもう少しだけ力を込めた。
「グレン。私の、―保護者だった人です。また彼はこうも言いました。けれど人は自ら思う心と、考える頭を与えられている。それはつまり、人が、自分が望む事が何かを考える権利が与えられているという事だと」
「そうだ…」と何かを思いついたようでミリアムは岩壁から背を離してヴィルの面持ちを覗き込んだ。
「ヴィルさんは、ワイヴァン先生をご存知なのですよね。でしたら、グレンって人はご存知じゃないですか?」
「グレン?下の名は?」
「分からないんです…」
 萎むようなミリアムの返答にヴィルは両腕を組んで思案するように首をかしげた。それから、いつから気がついていたのか、背後にいるジャスミンを振り向いて「どうだ?」と声をかける。言葉を向けられてようやくジャスミンは篝火の前へと歩み寄った。
「グレンはワイヴァン先生とは友人関係だと聞いていたのですが、ご存知じゃないですか?」
「うーん…」
 身を乗り出すミリアムの懇願するような視線を受けて、ジャスミンは申し訳なさそうに小さく首を横に振った。
「グレンという名前は、アリタスではよくある名前だから…」
 隣でヴィルも同意の頷きを見せる。
「よくある名前…そうなのですか?すみません、私本当に物を知らなくて」
 人形の様な顔に悲しみを浮かべてミリアムは再び岩壁に背を預けた。薄闇の中のミリアムは篝火に照らされて輪郭がぼやけ、ますます作り物のような美しさを際立たせる。
「歴史上の著名人物、特に功名を残した軍人によく見られる名前なので、あやかって男の子に名付ける親が多いみたいよ」
「つい最近も、そんな名前の将軍がいたな」
 ジャスミンの言葉をヴィルが補足する。
「『零将軍』―だっけ?」
 ACCのロータリー市場で見た像と店主達の話を思い出して、エルリオも会話に混ざる。一人、ミリアムだけが「ゼロ??」と物珍しそうな目をしているので、ジャスミンが更に説明を加えた。
「本名はグレン・イーザー。彼が無敗の将である事からつけられた渾名が「零将軍」。軍役経験者で彼の名を知らない人間はいないわ」
 ミリアムの素性を知っているジャスミンは、「零将軍」の主な軍功が対帝国戦である事を言及しなかった。ヴィルも腕を組んだまま沈黙を保っている。エルリオが内心でミリアムの心境を思い恐る恐る横目で様子をうかがう。
「そんなに勇ましい名前だったのですかぁ」
 重ねた両手の指先で口元を隠して、ミリアムは嬉しそうに微笑んでいた。
「でも私のグレンは、静かなお部屋でよく本を読んでくれる人なんですよ。何だか名前とまったく正反対ですね」
 頬が朱に染まって見えるのは、ランプの灯りのせいだけではないようだ。
(ちょっと、今あの子「私の」って言った??)
 市場の女店主達から学んだ悪い癖がむくむくとエルリオの脳裏に盛り上がってくるのだった。



ACT8-8⇒
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押印師ACT8-8
08

(だめだめだめ!)
 心の中で首を横に振ってエルリオは息を飲み込んだ。
 グレンという人物の生死と行方が知れないという点でミリアムも、保護者である父親をなくしたエルリオと同じだ。
 拠り所を失くした計り知れない悲しみと不安を誰よりも共感できるのは自分であるはず。加えてミリアムは記憶も曖昧であり、しかも本人の意思とは全く関係なく置かされた立場により、敵国のど真ん中に独り放り出されて町を彷徨う事に―その苦しみはエルリオにも分からない。
 父親を亡くして募る不の感情、その矛先を一時的とはいえ、初めて出会ったあの日にミリアムへ向けてしまった過去の自分を、エルリオは恥じた。
(やっぱり何もかも軍のせいだ…―)
 今は父親の事だけではなく、ミリアムへの非道な仕打ちにも怒りを覚える。
 複雑に絡まった感情を丸めて飲み込む。手にしていた木の棒を逆手にもち、地面に突きたてた。乾いて脆くなった表面が崩れて小さな穴を開けた。砂塵は風に巻き込まれて足下を通り過ぎていく。
「―あ!」
 グレンつながりで重大な事を思い出してエルリオは思わず声を上げた。甲高く夜の谷に木霊した声に自分で驚いて両手で口を覆う。
「ちょっと、二人に見てもらいたいものがあるの」
 立ち上がり、一度ヴィルとジャスミンを振り向いたあとエルリオは靴の裏で砂の上に描かれている模様を次々と消し始めた。白く乾いた砂煙が、もうもうと夜の空気を漂っては消えていく。小さな砂嵐の様子を眺めながら、ヴィルとジャスミンはエルリオの行動を待った。
「キュー」
 ミリアムの膝の上からキューを拝借して自分の右肩に乗せ、語りかける。
「「あれ」を思い出して」
「あれ」の言葉にミリアムが顔を上げる。その様子にジャスミンとヴィルがお互いに顔を見合わせ、また視線をエルリオに戻した。
 エルリオは右肩に乗るキューに自分の左手を添えた。そっと目を閉じる。
(この二人なら…きっと大丈夫―)
 根拠はないが確かな感覚と共にエルリオは深呼吸をし、
「眠りに落ちた記憶よ、目覚め出でよ」
 長い吐息と共に静かに言葉を紡ぎだした。単語が一つ一つ音としてエルリオの口から唱えられるごとに、左手の中で白い縫いぐるみの背中が発光し始める。
 キューの体の中に縫い付けられた記憶の印が発動していた。
 淡い光がまるでランタンのように丸い光彩を描き辺りを仄かに照らすが、今度は空を飛び交う竜の様子に変化は見えなかった。
 木の棒を持ったエルリオの手がおもむろに、乾いた地面に巨大な線を描き始めた。体全体を使い、線を跨ぎながら、三人が見守る中、篝火に照らされてまるで舞いを踊るように緩やかに、エルリオは足元いっぱいに模様を描ききった。
「これ…は」
 円陣が複数重なる中央に、複雑な幾何学模様を有している、印。
 ミリアムのピルケースの中に眠っていた「鍵」だ。
「ふう」
 線を描ききったエルリオは深く息を吐き出しながら、キューから手を離して背伸びをした。
「何の模様なの?」
「…印か?」
「印、こんな複雑な?」
 ヴィルの背後にいたジャスミンが一歩踏み出して地面の印を覗き込む。
「見覚え、無い…かな?」
 木の枝を持った手を後ろで組んで描いた模様の側に立って、エルリオは二人の反応を下から窺う。特にヴィルは軍の研究局に所属していた経験もある事から、少しでも経験と記憶の端に引っかかるものないかと、期待を込める。
 ジャスミンは左右に歩を進めて幾度か角度を変えて、ヴィルはその場から動かず視線だけで、各々違う反応をもって印を観察している。
 ヴィルが首を横に振った。
「私にも、分からないわ…。これは、何の印なの?」
「そっかぁ…」
 ジャスミンの問いを受けてエルリオは、あらかじめ用意していた答えを出そうと口を開きかける。だが視界に映るミリアムの様子に異変が生じている事に気がついた。
「ミリアム?」
 エルリオが呼びかける先に立つミリアムは、地面に彫られるようにして描かれた足元一面の印を見つめていた。名前を呼ばれた事に気がついていない様子で、瞬きも忘れていた。
「どうしたの?」
 再び呼びかけてみる。周囲すべての音を聴覚が拾い忘れて、ミリアムの意識は視覚一点に集中しているようだった。
「-?」
 ヴィルとジャスミンも異変に気がつき、印に向けていた視線を篝火に照らされるミリアムを見た。三人の視線の中でミリアムはついと歩を前に進めた。爪先が印の端を踏む。そして次の一歩がまた印の線を踏む。五つ歩を進めたところ、印のちょうど中央でミリアムは足を止めた。
 両足を揃え、足元を見つめている。ネジを巻いてくれるのを待っているオルゴール人形のように。
(どうしちゃったの??)
 理由が全く分からず成り行きを見守っているうち、エルリオは地面に接した足の裏に微かな振動を感じ始めた。
「?」
 同じように足元を見やるヴィルとジャスミンの様子からも、振動がエルリオの気のせいではない事を証明している。
「地震、か?」
 微かな振動が次第にはっきりとした震動へと変わる。岩盤地帯国アリタスにおいて地震は皆無に近いほど稀な自然現象だ。
「この国で地震なんて……いえ、違う」
 ジャスミンがミリアムを指差す。地面に浅く刻まれた印がミリアムの足元を中心に白い噴煙を上げ始めていた。
「地震じゃ、ない?」
 呟いてエルリオはミリアムに駆け寄ろうと一歩足を踏み出すが、
「きゃっ!」
 爪先が印を踏んだ途端、全身に体当たりされたように空気の壁に突き飛ばされる。たまらずその場に尻餅をつくと、ジャスミンが駆け寄ってきてくれた。印の中央でミリアムは、足元に舞う粉塵の中、両側に垂らしていた両手を徐々に前方に持ち上げる。その動きはまるで、厳かな儀式に臨む巫女のよう。
「!?」
 収まらない震動音の中、微かな瓦解音を耳にしてヴィルは谷が見渡せる岩壁の端に駆け寄る。低空を飛んでいた竜達が不安そうに次々と高度を上げていく。暗がりだった下層に少しずつ明かりが灯り始める。
「何の音だったんだ」
 独語と共にヴィルは再びエルリオの元に戻る。
「今度は一体なんなんだ、これは」
 怒っている、というよりも呆れ半分でヴィルはエルリオに詰め寄った。
「ご、ごめんなさい…実は分からないんだ…だから二人にも見てもらうつもりで描いたら…。ミリアムがあんな反応をするのは初めてなの」
「なんだと?」
 今度はヴィルがミリアムに歩を進める。だが、印に足を踏み入れた時点で結果は同じだった。ミリアムが両手を前方に差し伸ばすと、足元に木の枝で描いただけの印が淡く光を持ち始めた。震動はまだ続いている。
「―う…」
 ミリアムに変化が表れる。儀式的に持ち上げた両手が崩され、糸が一本切れてしまった操り人形のように背中ががくんと折れ、両手が重力に従ってぶら下がった。瞠目する三人の前でしばらく穴から這い出した小動物のように丸くなったまま、ミリアムはしばし動かない。
「震動が…」
 心なしか、足元から感じる震動が弱くなっている気がする。
「は……」
 息を吐き出すと同時に言葉を漏らしたミリアムが再び急に顔を上げた。
「ミリ…」と呼びかけるエルリオの声を蹴散らして、
「消して!」
 と声が上がった。
「え?」
 それがミリアムの口から出された声だとすぐに認識する事ができなかった。
「印を消しなさい、早く!」
 苛立ちが加わって再びミリアムの口がエルリオ達に命令を放った。これまでにミリアムの口から聞いた事の無い、張りのある凛とした声だった。
「で、でも…」
 エルリオは戸惑う。印に近づく事さえできない状態なのに。
「下がっていろ」
 動いたのはヴィル。印の手前に立ち止まると右手を伸ばした。空気を掴むように強く握るとその拳をおもむろに左に移動させて、そこから拳を手刀の形に開きながら右へと水平に振りぬいた。
 印から発せられた風が地を削っていく。水辺に打ち寄せる白波のようにエルリオが描いた線が消されていき、ミリアムの足元、印の半分が消された状態で止まった。
それに伴い震動も止まり、光も消えうせた。
「……止まった…?」
 震動音が消えて、高い上空を交差する竜の遠い嘶きが鮮明に耳に入ってくるようになる。
「竜とは臆病な生き物なのね」
 風の余韻と共に少女の声がエルリオ達の元に流れてきた。
「いえ、繊細なのかしら?」
 ギャーギャーと啼く空を一瞥してミリアムは気だるそうに緩慢と背伸びをする。頭の上で組んだ腕を空に向けて、自らも視線を星空の竜に向けている。降ろした手をそのまま長い髪の毛に持っていき、柔らかな毛先を指先に絡ませてすく。
(違う……)
「誰…?」
 エルリオの口から自然と疑問が滑り落ちる。
 目の前にいる少女は、エルリオの知るミリアムではない。十四歳の少女に不釣合いな艶を含んだ仕草、指先に絡めた毛先を見る瞳の色も、エルリオの前でよく泣いていた少女とは違っていた。
 灰色に近い銀色の瞳がエルリオを向いた。髪の毛を玩んでいた両手を下ろしてミリアムは静かに歩みを進め始めた。
「人に尋ねる前に」
 花びらのような唇に今は、畏怖を与える笑みが浮かんでいる。
「あなたが名乗ってはどうなの?」
「え」
 三歩ほど離れた距離で足を止めたミリアムが両腕を組んでこちらを見つめて、というよりも「見下ろして」いる。身長はエルリオが若干勝っているにも関わらず、高い場所から物を言われているようだった。
(はあ!?)
 これまでのミリアムはどうしてしまったのか、あの地震は何であったのか、本来気に留めなければならない事を一瞬すべて放り出して、エルリオの頭の中で糸が切れる音が木霊した。
「あんたこそ、それが初対面の人間に対する態度なわけ!?」
 負けじと人差し指をミリアムに向けてエルリオは精一杯怒ってみせた。「初対面」という言葉が不思議と自然に口から出ていた。
 自信があったのだ。今ここにいるのは、ミリアムではないと。
「それに、何でいまさら私が名乗る必要があるの。出会って、二人で旅をして、もうだいぶ経つのに…」
 最後は声が徐々に掠れていった。別人であろうと確信している一方で、ミリアムと同じ姿をしている人間から完全に忘れ去られているのは寂しかった。
「旅……では聞きますが、ここはどこなの?」
 エルリオの怒りや寂寥を全て素通りさせてミリアムの姿をした人物は、ヴィル、ジャスミンに視線を巡らせ、そして己の背後も振り返り見渡し始めた。
(人の話を全然聞いてないじゃないっ!)
 私の気持ちを返せ、と内心で弱弱しくなりかけた自分の気持ちを踏み潰す。エルリオはどう言い返すべきか思案して唇を噛んだ。
「ここは竜翼谷、シュテラール・バレー。竜と人が住まう谷。俺は当地を取り締まるヴィル・レストムという者だ」
 エルリオの一歩手前からヴィルの声。
「差し支えないようであれば、貴女の御名を聞かせて貰えないだろうか」
 目の前の違和感に対してヴィルは適切な対応をしていると言えた。
「まあまあね。」
 エルリオからすれば高飛車の具現は、満足したように微笑み、組んでいた腕を解いて軽い会釈をヴィルに向けた。スカートの両端を小さく持ち上げるそれは、ミリアムも見せていたもの。
「私の名は―、そうね…リューシェ…リューシェよ」
 顔を上げた少女は己の胸元に手をあてた。
「分かっていると思うけれど、私は、ミリアムとは違うわ」
 ミリアムの姿で、リューシェと名乗った女はそう言った。
「違うけれど、同じでもある。」
 胸元にあてた右手に左手も重ね、そっと瞳を伏せてリューシェは微笑む。それは、先程までの女傑の笑みとは異なる、慈しみの色だった。
「そこのあなた」
 そう思う間もなく、また不敵な視線が急旋回してくる。思わずエルリオはぐっと息を止めた。
「私が名乗ったのだからあなたもお名乗りなさい。」
「エ、エルリオ……。エルリオ・グレンデール…」
 少々、素直に名乗るのが癪だが、妙にリューシェの物言いには引力があった。白を黒だと言いくるめそうな、そんな勢いと力があると思った。
「グレンデール?ではワイヴァン・グレンデールとあなたはどのような関係?」
「―ワイヴァンは、父、です」
 本当ならもっと驚くべきだったのであろうが、ミリアムがワイヴァンを知っているのならリューシェも知っている、そんな風に頭が勝手に租借していた。
「そう…あなたが娘…」
 伸ばした指先を顎にあててリューシェは言葉を一旦飲み込んだ。その仕草もミリアムと同じだった。エルリオから外した視線を足元にやり、ヴィルにより半分に消された印の残骸を見やる。
「では、グレン、といえば誰の事か分かるかしら?」
「……」
 またその名前。
 恐らくミリアムの言う「グレン」と同一人物を差しているのだろう。
 エルリオは首を横に振った。
「そう………」
 その応えに、リューシェの瞳が曇った。灰色の幕が下りたように何も写さなくなった視がエルリオに向いたまま動きを止めた。
「…?」
「どうしたのかしら?」
 訝しがるエルリオの背後からジャスミンが呟く。直後、突然膝が折れてミリアムの体はその場に座り込んだ。駆け寄り、だが恐々と横からエルリオは覗き込む。
「……あら」
 砂地を映して灰色だったミリアムの瞳に、スライドの写真が入れ替わるように生きた色が戻った。
「…あら?」
 同じ言葉を繰り返してミリアムが丸い瞳でエルリオを見上げた。そして三度目の「あら」を言いながら自分が半分消失した印の上に座り込んでいる事に気がつく。
「あ、ご、ごめんなさい、私ったら消してしまって!」
 慌ててミリアムが立ち上がろうとする前に、エルリオも少し線が残った印の上にしゃがみこんだ。
「ミリアム…?」
(だよね?)
 確認する目的で顔を覗き込んで名前を呼んでみると、「ごめんなさい、エルリオさん」とうろたえる声で返って来た。
「大丈夫よ、慌てなくても。消したのはヴィル様だから」
 ジャスミンのフォローに幾らか安堵して笑みを見せるミリアムは、確かにエルリオの知るミリアムだった。



ACT8-9⇒
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押印師ACT8-9
09

(ミリアムに戻った…)
 ミリアム「が」戻ったというべきか。
 いずれにしても構わない。エルリオは現状に安堵した。安堵してようやく、
(リューシェって誰だったんだろう)
 と思案すべき疑問が思い浮かぶ。ミリアムの反応を見るに、一連の出来事を本人は覚えていないようだ。
「『リューシェ』は愛称だね」
 呼応するようにミリアムの足元から声がした。キューだ。そういえばミリアムがリューシェに変わった頃あたりから姿が見えなかった。「初対面の人間の前には決して出ない」という約束を守っていたという事か。キューも同じように、これまでのミリアムから読み取ってきた口調、言葉や表情からリューシェが別人と判断したのだろう。
「愛称?」
「子どもの名前辞典 第三十五版 の三百二ページ目」
(そんな本があったんだ…)
 自宅に所蔵していた本を片っ端から記憶させていた為、時にエルリオにも把握していない記録をキューは持っている場合が多い。もしかしたら両親が自分の名前を一生懸命考えてくれていたのかもしれない、と胸が熱くなりそうなのをエルリオは堪えていた。
「ただ、これが「リウシアル」とうい名の愛称か、「リオネルシエラ」という名の愛称かで、だいぶ意味が変わってくる」
「どういう事?」
「「リウシアル」はアリタス、「リオネルシエラ」はライザ帝国よりの名前だから」
 名乗る直前に詰まらせた言葉をさりげなく流していた、リューシェの仕草が思い出された。巧みにぼやかされたのであるならば、有力な手がかりとは言えなかった。
「リュー…シェ?」
 キューの声に、ミリアムから反応があった。
「何故…エルリオさんがその名前を…?」
「えーっと…」
 困ったときに見せる顔で覗き込んでくるミリアムの視線から逃げて、エルリオはキューやヴィル、ジャスミン達に助けを求めるように瞳を泳がせた。咄嗟に、ミリアムに説明すべき言葉が見つからなかったからだ。
「その「リューシェ」って、だぁれ?」
 砂地の上に座り込む少女達の間にやってきたのはジャスミンだった。二人の少女達と輪を作る形で膝を曲げ、首を傾げて微笑みミリアムに顔を向ける事で自然と問いをエルリオから逃がした。
(助かった…)
 心の中でジャスミンに手を合わせて礼を言う。
「わ、分かりません…はっきりとは…」
 常に人の瞳を真っ直ぐに見つめてくるミリアムが、珍しく俯きながら不明瞭な声で口ごもる。
「…ずっと、グレンの心の中にいた人…で」
「心の中に?」
「恐らく、グレンがいちばん大切に想っている人…だと」
 ここで言う「心の中にいる人」は、さきほどのミリアムのような状態の事ではないようだ。言葉の通り、想い人の存在を読心したのだろう。軽く下唇を噛んで視線を斜めに落としているミリアムが、リューシェという名の存在に嫉妬しているのはエルリオの目にも明らかだった。
(―ミリアムはグレンて人の事が好き、って事なのかな……)
 だが娘が父親に向ける感情と、ミリアムが保護者代わりの人間に向ける感情の違いがエルリオには判別しえない。それでも自分の身近にいる唯一の拠り所、その尊さは理解できた。
 それにしても―
(あの高飛車女の事が好き……ねぇ…)
 今のミリアムと対極位置にいるようなリューシェを思い出して、いまいちグレンという人間について理解に苦しむとエルリオは首を傾げる。だがそんな事より重要なのは、「リューシェ」が誰であるのかだ。多重人格という単語は知っている。性格どころか仕草や顔つきまで変わるものらしい。だがミリアムの場合、一つの体の中に形成された二つの目の人格、それだけでは説明できないように思えた。
 ミリアムは明らかにあの印に反応し、リューシェが表出したのだから。
(でも何で?ピルケースから取り出した紙に書かれた印には何も…)
 出会った時の事を思い出す。ピルケースに入れて長い間持ち歩いていても異変が無かったのであれば、印自体に無条件に反応を見せるという事ではなさそうだ。何かしらの条件が合致したのだろう。
(条件……地面に描かれていたから?それともサイズ?場所?)
 足元で半分消えている印を見つめてエルリオは口を噤んで思案していた。
「あれ?」
 地面の印を見つめているうち、エルリオは落とした視界の中に違和感を見出した。
 砂の上に座り込むミリアムの白く細い足が目に入る。座り込み折り曲げる事で露出している脛、ミリアムが天啓印を宿している部位だった。
「ちょっと、ごめん」
 慌てて側の携行ランプを手繰り寄せてミリアムの脚に近づける。動きに合わせてキューも近寄ってきた。不思議そうな顔をするミリアムも、ランプに照らされた自分の脛をみて「あ…」と声を漏らした。
「どうしたんだ」
 少し離れた場所からヴィルの声。気を遣っているのか、近寄ってこようとしない。かわりにジャスミンが上から覗き込んできた。
 エルリオが照らす携行ランプの明かりの中で、ミリアムの白い脛が見える。そこに、拡散した赤紫の痕があった。怪我だろうかとジャスミンは目を凝らす。
「すりむいたの?」
 声をかけてみるが、明確な反応が戻ってこなかった。
「消えかけているね」
 数秒の間の後、帰ってきたのはキューの言葉だった。指摘通り、ミリアムの足にあった勾玉模様を描いていた印は色あせて、肌の色に沈み込もうとしている。もともと、ライザに受け継がれる古い印にしては模様が単純で曖昧であったと疑問に感じていたのだが、今はジャスミンの目にそう見えるように、まるで治癒しかけた傷のようだった。
「え…何故…」
 ミリアムは困惑の声を洩らす。心を読み取る力はむしろ増しているというのに。
(これもさっきの現象と関係しているの…?)
 年若いがエルリオは事実上、幼少の頃から父の側で十年数年間「印」に関わってきたが、これまでの経験において他例の無い事象がいま、立て続けに起きている。
「うーん………もうさっぱり…」
 文字通り頭を抱えてエルリオは首を振った。その時、
「ご当主、こちらでしたか」
 背後から男の声がかかった。一斉に振り返ると、そこには竜騎士の一人が。
「来て頂けますか、先ほどの地震の事で…」
「今いく」
 眉根を顰めて駆け出していくヴィル。その一方でミリアムは「じしん?」と首を傾げていたが、エルリオはその手を引いてジャスミンと共にヴィルの後を追った。
 幾つかの段差を越えて辿り付いた場所は、隣の谷へと繋がる大吊り橋が掛けられた絶壁の前。エルリオ達が昼間に見た場所とは違い、釣り橋手前が広場になっており高台の役割も果たしていた。障害物がなく谷全体がよく見渡せる。
 現われた当主の姿に人だかりが道を開けて割れる。中央に残った側近らしき男がヴィルを手招きする。男が示す先、釣り橋を見やった。
「橋が…」
 背後から覗き込むエルリオが夜目に目を凝らすと、口を開けた空間に対岸へと吊るされた橋が大きな弛みを生じさせているのが分かる。これでは渡れない。橋のワイヤーを巻きつける支柱に問題はない。ワイヤーが伸びきっている様子でもない。ただ、中空に伸びる吊橋だけが不自然に大きく弛んでいる。
「絶壁の断層を見てみるか」
 ヴィルは風を起こそうと右手を上げた。
「?」
 違和感はすぐに分かった。
 常ならば右手の動きに合わせ空気が渦を巻き、体中を風が纏うのだが、感覚が違った。まるで寝床から這い出てきたように重たく湿った風がずしりと圧し掛かってくる感覚。
「どうしたのですか?」
 とジャスミン。その横からエルリオとミリアムも、己の右手を不思議送に眺めるヴィルを覗き込んできた。
 まったく―、この娘らと出会ってからというもの、様々な事象に遭遇する。
「風が異常だ。これでは危なくて飛べない」
「騎竜の様子もおかしいのです。動きが重たい。風を上手く読めていないようです」
「シュテラリオン」
 部下の言葉に風を呼ぶ事を諦め、ヴィルは再び右手を空に向け、竜王の名を呼んだ。竜の王は、己が当主と決めた人間の声にのみ応える。ヴィルの声とほぼ同時に空気がざわめき、風となって渦を作り始めるが、やはりぎこちなく重たかった。そのうち、巨大で緩慢な翼音が空から降りてくる。
「どうしたんだ」
『風が迷走している』
 気だるげな言葉と共に巨大な竜影が舞い降りた。みるみる近づく巨体。その場に集っていた人々は水辺に滴が波紋を広げるようにその場から下がった。大きく空けられたヴィルの傍らに竜王はその巨体を収める。
『精霊の姿を見失い、風が己を失っているようだ』
「治るのか?」
『刻の経過と共に収まるだろう。一時的に力を失っているだけのこと』
「そうか…」
 ヴィルの安堵と共に周囲も表情を緩めていく。だがヴィルはすぐに面持ちを戻すとシュテラリオンを見上げた。
「地竜らは大丈夫だろうか?」
 地竜谷の竜達は大地と心身を通じ合わせ、時に土や岩に潜む。地竜谷の王は、底深き谷の大地の下に眠っているという。シュテラリオンは長い首を空に向けると暗闇が広がる夜の渓谷を見渡した。
『問題ないようだ。そのうちまた風が戻り地や水も落ち着くだろう』
 シュテラリオンの言葉の直後、穏やかな微風が人々の額を通り過ぎていった。
「風が戻りましたね」
「ああ」
 再びヴィルは右手を差し延ばし、風を呼んだ。生気のある風が渦を巻き、足下からも吹き上げる。確かに元に戻っていた。
「ランプを貸してくれ」
 携行ランプを手にしていたエルリオにヴィルの手が伸ばされる。
「は、はい」
 慌てて駆け寄ってランプを渡した。「またお前が何かやったのか」と言いたげな人々の視線が痛い。ヴィルは絶壁から飛び降り、釣り橋がかかる岸壁の断層の前に身を浮かせた。竜翼谷の切り立った岩山は、風が運んだ砂が集まり積もり、水が固める、これを天文学的年数を重ねて繰り返した結果そびえ立つ天然の塔となっている。そのために断層は滑らかな均等の横線を描いており、火山地帯に見られる物とは表情が異なっている。
 ランプを前方に翳しながらヴィルは少しずつ断層から距離をとる。夜目に目を凝らすと、徐々に慣れた目が光景をとらえだした。
(特に問題はなさそうだが…)
 滑らかな断層に変化はなかった。
「いかがですかー?」
 頭上からジャスミンの声。隣からエルリオとミリアムの顔も見えた。
「娘、一緒に来い」
 ヴィルが上空にそう呼びかける。呼ばれてエルリオは「え!」と目を丸くした。
「ど、どうやってそこに行けば?」
「押印を使えばいいだろう」
「でも…」
 昼間の出来事が鮮明に記憶に甦り、エルリオは肩を萎めた。ヴィルはすぐに心境を察した。
「竜達は学習する。今度は平気だ。」
「本当?」
 エルリオはすぐ側に身を置く竜王の巨大な瞳を一瞥する。長い首がゆらりともたげられてエルリオを見やった。たったこれだけの動きだがとてつもない迫力だ。遠くでは見ることができなかったが、鱗の一つ一つが鋼板のような鋭さと輝きをもっている事も分かる。
『ヴィルの言うとおりだ。』
 頭の中に直接響いてくるような低音が、人の声を発した。
『当主が自ら「危険がない」と宣誓したのだ。竜はその言葉を信じる他ない』
「信じる他…ない」
 人とも獣とも生地を別つ事を決めた、神と精霊に最も近い存在とされる神妖獣が、人間の言葉にこうも忠実に従う―、エルリオはその事実に改めて感嘆を憶えていた。
「じゃぁ…行って来る」
 おずおずと立ち上がり、「いってらっしゃい」と見送るミリアムに手を振られる中、エルリオは絶壁の縁に足をかけた。そのまま準備なしに飛び降りる。
「あっ」
 ジャスミンを始め周囲の人間が思わず声をあげる。落下しながらエルリオは自らに押印を発動させた。月光の粒子が羽の形をかたどり、エルリオの背中から生み出される。幾度かの羽ばたきと共に少女の体が曲線を描いて中空に浮かび上がった。軽いどよめきが上がる。
「何度見ても心臓に悪いわ…」
 ミリアムの隣でジャスミンが溜息を洩らしていた。
「断層を見てみろ」
 視線を断層に向けたままヴィルは高度を落とした。
「う、うん」
 エルリオもヴィルと共に、徐々に下方に向かいながら断面を上から眺めていった。
 断層は滑らかな線を描き、生地を重ねたケーキのようだ。それは最下に降りるまで変わることはなく、まるで人工のように整然としている。
「地層に地震の影響はなかったみたい?」
「どうやらそのようだ」
 落石の様子もない。最下に降り立ち、ついでに辺りを見渡す。空を見上げて、岩壁の尖端からしな垂れた弓の弦のようにぶらさがる吊橋を目で追い、エルリオは呟いた。
「動いたから橋が弛んだのかな…」
「動いた?」
 エルリオは両手の人差し指を立てて左右に離し、それぞれを対岸に設置された支柱に見立てる。
「あれだけ橋が緩んでるって事は、」
 言いながら、少しだけ左右の指の距離を縮めた。
「単純に考えてかなり距離が縮まったって事じゃないかな」
「この岩壁が移動したと?」
 「うん」と事も無げに頷くエルリオ。ヴィルは表情を変えずに頭上に聳え立つ岩壁を見上げた。確かに地層がずれて上部が弓なりに反れているのなら分かるが、岩壁は垂直を保っていた。
「まさかあの程度の震動で…」
 足下の土にも触れてみた。ここは上層と異なり土が湿っている。竜の澱の入り江が近くにあるからだ。もしやと思いヴィルは入り江に走る。エルリオも印を消して後に続いた。少しずつ足下の草が丈を増し、ヴィルの腰を越える頃、目の前に青い入り江が広がるようになる。
 入り江の中心では気泡を吐き出す音をたてて竜の澱が地下から湧き上がり、地竜谷とを遮る巨大な酸の河へと繋がっている。もしや今の地震でこの入り江が溢れているのではと危惧していたのだが、その様子はなかった。
「この辺りまでは影響がない…か」
 独言を呟いて踵を返そうとすると、
「ご当主」
 上から声がかかった。
 見上げると、騎竜が上空に姿を現しそこに騎乗していた男が一人、軽い身のこなしで目の前に着地する。ヴィルが手にしていたランプをかざすと、そこにはこげ茶の髪―若い地竜谷の竜騎士がいた。
「向こう岸から、ここに降りられるのが見えたものですから」
 男が一礼するのに応えてヴィルも頷く。エルリオも遠慮がちにヴィルの背後から会釈した。茶色い髪の竜騎士は特に訝しがる様子を見せずエルリオに視線をやり、そしてまたヴィルに戻した。
「地竜谷に何か変化や影響は?」
「いえ。震動音を微かに感じる事ができましたが、揺れはほとんどありませんでした。竜達も今は落ち着いています。我々にも特に影響は。」
「対岸の橋の支柱はどうだ、倒れているのか?」
「え、いいえ。ワイヤーにも異常はなく。」
 だが男にも橋の弛みが気になるようで、ちらりと黒い瞳が上空を一瞥していた。
「そう、か」
「ですが、こちらを」
 男は入り江を指差す。答えを口にする前に水辺に歩み寄り、腰を屈めて片手を竜の澱に浸した。
「…?」
 ヴィルは目を細める。
 竜の澱は谷の人間にも容赦なく酸の溶解力を発揮する。
 場所により酸の強さは異なるが、この河は元々三つの谷をそれぞれに隔絶させる為に流れているといわれ、太古の時代、澱は現在と比較にならないほどの強い酸性をもって人々の相互往来を拒絶していたという。小動物であれば溶けて骨だけになるのに一分とかからなかったという伝説も残っており、今もなお、長時間浸せば軽い炎症程度の火傷を負わせる威力をもっている。
 だが今、目の前の若い竜騎士は手袋はずした素手を水に浸して幾度と水辺を掻き混ぜるが、熱がる様子がないのだ。
「ご覧の通りです」
 水から手を出し、ヴィルに手の平を返して差しのばす。ここの水辺は外への入り口から伸びる澱に比べて原水に近いために酸が強いはず。
 なのに火傷らしき痕が一つとして残っていなかった。
「………」
 まさかと脳裏で呟きヴィルも水辺に歩み寄り、水中へと手を伸ばした。もどかしい思考を置き去りにして一気に手首まで浸す。
「水質が変わったのか…いつの間に」
 肌を焦がし皮膚が縮れていく感覚が無かった。温い真水のように、澱の源泉から酸が失われていた。倣ってエルリオも手を突っ込んでみる。
「普通の水だね」
 先に立ち上がったヴィルを見上げながら、エルリオも水から手を放して腰を上げる。濡れた手に鼻を近づけて軽く息を吸い込んでみるが、饐えた臭いもしない。さすがに口をつける気にはなれないが。
「前からこうなのか、ここの水は」
「いいえ」
 ヴィルの問いに男は短く答える。
 確かにヴィルも、澱に落下したアレックの有様を見ていた為に確実に本日の昼時までは酸性で合ったことを確認している。
「震動を感じて、我々数人が崖を降りたのですが、澱の下流付近を調べていた時に気がつきました。もしやと思いこうして源流を辿ってみたのですが…結果は同じだったようです」
 入り江は長く尾を描き、地竜谷の麓へと続いている。少なくともこの支流は完全に酸性が中和されていると考えても良かった。
「……」
 三人の間から言葉が途切れ、竜の嘶きと風音交じりの静寂が漂った。
「俺には全く訳が見出せないのだが」
 ヴィルには珍しい、大きい溜息と共にそんな言葉が湿った土へと吸い込まれていく。
 複雑な印、
 反応を見せたミリアムに、
 表出した第二の人格リューシェ、
 消えかけていたミリアムの脛の印、
 弛んだ吊橋、
 動きをとめた精霊、
 中和された竜の澱。
 様々な異変が重なりすぎている。
「ごめん……私も…ぜんぜん…」
 夜の闇が光と共に思考力も奪っていくようで、エルリオには何も整理ができずにいた。
 また沈黙が降りて、その数秒後、高い空に竜王が巨大な翼を空に広げたシルエットが広がる。羽ばたき音が木霊して、ヴィル達の頭上を一度旋回すると闇の中へと消えていった。
 谷はまた夜の静寂を取り戻そうとしていた。



ACT8-10⇒
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アンケート 中間発表(2)
最近、物語の展開に変化が表れたからか、
アンケートの結果にも急展開がありましたので
中間発表第二弾をば!

Q1 好きなキャラクターは誰ですか?(複数回答可)

第一位 グレン・イーザー
第二位 エルリオ・グレンデール
第三位 ミリアム&イルト


ここ数日で急にグレンに票が入り、このような中間結果になりました。
ちなみにこの結果は、投票回数(お一人の複数回答も一票と数える場合)で数えた場合です。
ユニーク数(投票人数)で数えた場合でも、エルリオとグレンが同率一位となっており、追い上げぶりがよくわかります。

この結果に伴い、質問2の「好きなエピソードはどれですか」でも「イルト・グレン編」が一位になっています。

確かに最近、アクションシーンでグレンとイルトがよく動いていたので、それが影響したのかなぁという事で、とても面白くアンケートの結果を拝見させて頂いております♪


とりあえず今回のアンケートフォームの使用期間が8月いっぱいまでなので、それまで引き続き、皆様のご投票をお待ちしておりますm(_ _)m
よろしくお願い致します。
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押印師 ACT8-10
10

「中和―毒を中和させるという治癒系統の高等印なら存在しているみたいだ」
 キューの出した回答にエルリオは首をかしげた。
「ちょっと…違う気がする」
 真夜中。
 眠りそびれたエルリオは、与えられた寝室からキューを伴い外に抜け出していた。東を向く高台の岩場に腰掛け、一連の事象から思いつくキーワードを次々とキューに問いかけてはその答えを聞く、そんな事を繰り返していた。
「酸が中和されるってどういう事なのかな」
「天変地異で水質が変わる事象は幾らでも例があるね。でも震動からわずか数分で酸が完全に中和された現象は知らないな」
 覚えさせた記憶量が足りないのか、一般常識的に異常事であるのか分かりかねるが、キューから関連性のある情報はこれまでのところ、引き出せていない。
「精霊の力が弱まった現象と、関連性があると思う?」
 ヴィルが言っていた風を呼び出した瞬間の違和感、竜王の言う風の迷走。効力が失われたという意味において、澱の現象と似ている気がしないでもない。

―それは、とても恐ろしい力を持った印で、軍には渡してはならないと私もグレンに言われました。軍部内の押印技術でそれが実用化されようものなら―世界はおしまいだと―

 ミリアムと出会った日に聞いた言葉が甦る。
「世界はおしまい…世界を破滅に導く…って事よねきっと」
 自らが連想した「破滅」という言葉から、何かしらの破壊力を持つ印」なのだと解釈していた。だが少し考えを変えてみる。
「中和―打ち消しあうこと、解消しあうこと、つまり「無」とすること?」
 無へと帰す破滅。
 あの印が持つ能力が例えば、あらゆる事象を無へと帰化させる力を持っているとしたら辻褄は合わないだろうか。
「でも、風はまた元に戻っているよ」
「そうなんだよね~」
 一瞬思いついた名案も、キューの言葉で簡単に覆されてしまう。腹いせに膝にのせた白い体を強く抱きしめて潰してやった。
「でも「澱」は酸性を失ったままなんだよね。あれも時間が経てばまた元に戻るのかしら。」
 それに、まだ不合点な事が多く残っている。
 なぜ大地は移動したのか。
 ミリアムがあの印にどう関わるのか。
 消え掛けた印は今回の件と関係しているのか。
 第二の人格リューシェとは。
「リューシェ…」
 本名次第ではライザの人間でも有り得るが、アリタスの人間の可能性も含んでいる愛称。
「それにしてもあの高慢ちきぶりは何なの」
 思い出すと湯が沸騰してくるように苛立たしさが膨れ上がってくる。谷の絶壁の頂上から見下ろされている気分だった。
「もー、普段のミリアムがミリアムなだけに余計に高飛車ぶりが腹たつ!」
「無礼ね」
「そう、無礼!…………」
 背中に投げかけられた言葉に、ほぼ反射的に思い切り同意してから、エルリオは脊髄を冷たい水が走っていくような感覚に襲われた。
「あ、あんた…」
 肩越しに振り返ると予測どおり、そこには熟睡していたはずのミリアムの姿があった。ただし、両腕を組んでエルリオを見下ろす姿は、明らかに別人格のリューシェ。寝巻きの上に、コートを羽織っていた。
「あんたに訊きたい事がたくさんあるんだけど」
 腰掛けていた岩から飛び降り、エルリオはリューシェと向き直った。威圧的な相手と対等にやり合うにはまず姿勢から、だ。だが強敵は「ふふん」と口元に鈴のような失笑と共にエルリオの気概を撥ね退けた。
「その前にその言葉遣いを直してくるのね」
「む…っ」
(腹たつぅうう!)
 ここで言葉を失っては相手の思うツボだと、エルリオは負けじと問いをぶつけた。
「あんた一体、誰?」
「名乗ったじゃないの。もう忘れたの?鶏以下の子ね、あなた」
「トリ…っ」
 怒鳴りつけたい気持ちを抑えてエルリオは、声のトーンをできるだけ落として質問を変えた。
「~~~……ミリアムとあんたは、「具体的に」どういう関係、なの?」
 また鶏呼ばわりされないよう、エルリオは先手を打つ。だがそれも、
「あなたに答える義務はないわ」
 と即答されてしまう。
「ある、あるの!」
 すかさず食いつくエルリオに、リューシェは大きな両瞳を僅かに瞠目させた。
「私、ミリアムから依頼を受けているの。その時にミリアムと約束した。「何でも協力する」って彼女は言った。だからその体の中にあんたがいる以上、「ミリアムとして」約束を守ってもらいます!だから私の質問にも答える義務があるの!」
 かなり強引な論法だが、エルリオにとってこれ以上ない切り札だった。
「……っふ」
 両腕を組んだ姿勢のままリューシェは顰めた瞳を更に細めて、呆れた風に苦笑する。
「それはつまり、ビジネスの関係にあるという事なのね?」
「え?」
「なら、契約書はあるの?」
 組んでいた手を腰にうつしてリューシェは首をかしげた。子どもがよくみせる仕草のそれではなく、高みから人を見下ろす時にする、僅かに顎を突き出した形だ。
「契約書なんて……無いよ…それにビジネスなんて…」
「なら、お話にならないわね。私どころか、この子にだってあなたに協力する義務なんてないわ」
「この子」と言う時にリューシェは右手を己の胸元に当てた。それはつまりミリアムを指している。
「…っ」
 エルリオは再び、己の脳裏で糸がぶつ切れる音を聞いた気がした。
「友達に契約書なんていらないじゃない!」
 発作的に、手にしていたキューをリューシェに投げつけていた。白くて丸いぬいぐるみは不規則に回って勢いを失い、弱々しくリューシェの手元に落ちていった。
「……」
 リューシェの手の中で、キューは静かだった。まだ「縫いぐるみ」の振りを続けているらしい。ミリアムの姿をした少女は静かな瞳で白い縫いぐるみを見下ろしている。指先で耳を引っ張ったり、大きく開いた口に指を入れて玩んでいる。そうしている内に、口元から「ふふ」と小さな笑みがこぼれた。
「そうね…」
 何故だかそれが嬉しそうに聞こえて、エルリオは怒りが空転する。
「私の事を話す前に、確認しなければならない事があるの」
 キューを抱き直してリューシェはエルリオを真っ直ぐに見つめた。これまでの高飛車を着飾った気配が消えている。だが凛とした声はそのままに、まっすぐ伸びた姿勢と体の奥底まで見据えてくるような視線は逆にエルリオに与える畏怖を増していた。
「な、なに…?」
 反論が許されない気がしてエルリオはリューシェの問いを待った。
「この子が気を許しているのなら、本当なのでしょう」
「…?」
「ワイヴァン・グレンデールがあなたのお父様だと言ったわね」
「そう…だけど」
 他人の口から父親の名前が出ると、何故だかエルリオは体がこわばった。
「でも、「グレン」と聞いて、誰の事かわからないのね?」
「うん……」
「地面に描かれたあの印、あれについても分からないのね?」
「うん…」
「あなたお父様から何も?」
―知らされていないのか?
 ヴィルも、そう言っていた。
 それに対してエルリオは、頷くしかできない。
 いつかのミリアムのように。
「そうなの」
 ミリアムの姿をしたリューシェは鸚鵡返しのように頷き返した。
「なら、私も…今は何も言えないわ」
と一歩ずつエルリオから踵を返し背中を向けた。
「待…どういう事!?」
 ずっと真実を得る為に動いてきた。否定を簡単に受け入れるわけにはいかない。自分と同じ小さな背中に手を伸ばして追いすがろうとする。
 なんで、
「何でみんな何も教えてくれないの」
 その言葉にリューシェが足を止めた。
「私も、ミリアムも、自分だけ何も知らなくて、私達が知らない事を隠している周りだけが勝手に動いて私達を引きずりまわしてる…人は、」
 息がつまり、エルリオは一度そこで言葉をきって呼吸を挟んだ。
「人は自ら思う心と、考える頭を与えられている。それはつまり、人が、自分が望む事が何かを考える権利が与えられているという事だ―」
 ミリアムから聞いた言葉を引用する。聞き覚えがあったようで、リューシェにも反応が見られた。肩越しに、僅かに首をこちらにもたげている。
「これ、グレンって人が言った言葉なんでしょう?それって知る権利、選ぶ権利があるって事じゃないの?」
「……少し違うわ」
 ミリアムの銀色の瞳が月光を受けてくすんだ輝きを放っていた。エルリオの視はそこから離れなくなる。
「確かに人は知る事も選ぶ事もできるわね。でも、それは自ら思い考える事で知り、その上で選ぶのよ。事実も選択肢も誰かから与えられるものではないわ。グレンの言葉はそういう意味よ」
「………でも…」
「あなたのお父様は、あなたに何も知らせないという選択肢を選んだのだわ。でもそれに従うかどうかはあなたの自由。だからこうして旅をしているのでしょう?もうあなたは自分で考え、選んでいる。知る事で事実を得ようという道を。」
 煌々と光のベールを谷に落とす月が、ミリアムのシルエットを薄闇の中に浮かび上がらせている。エルリオの足元から伸びる影が、差し伸ばされる手のようにミリアムに向かっている。
「糸はすべて繋がっているわ」
 リューシェの言葉が続く。これも、ミリアムから聞いた引用だった。
「私が目覚め、こうしてあなたと会話をしている事もきっと、糸の一部かもしれないわよ」
「繋がってる…本当に?」
 膝の横に添えたエルリオの両手は知らぬうちに固く握り締められていた。腕を通じて体中の神経と筋肉までこわばったように直立している様子にリューシェは苦笑を向け、そしてまた踵を返した方向に歩き出した。
「ごきげんよう。私は少し眠るわ」
 沈黙したままのエルリオを置いて、リューシェは両手にキューを抱えたまま、二人にあてがわれた寝宿へと歩いていった。ふわりふわりと、黒く染めた柔らかい髪が足取りと共に踊っているのが遠ざかる。
「……―あ」
 建物の影にミリアムの姿が消えるまで呆然と見送っていたエルリオだが、ふとキューを持っていかれた事に気がついて我に返った。
「アイツいつまで縫いぐるみのフリしてるのよ…」
 後を追ってエルリオも宿へと入る。リューシェが姿を消していった寝室へと足を踏み入れると、寝息が耳に入ってきた。エルリオが抜け出してきた時に見せていたのと同じ、あどけない寝顔でベッドに沈み込んでいるミリアムの姿がある。キューを抱き枕がわりに腕に収めて穏やかな寝息を奏でていた。もう今は、リューシェではない。
「…エル」
 白い腕の間から、助けを求めるような小さな声が聞こえてきたが、引き剥がしてミリアムを起こしてしまうのも気の毒に思えてエルリオはキューをそのままに自分もベッドによじ登った。
 ヴィルが用意してくれた部屋は、高台にたつ離れの一室だった。元々は見張り役の仮眠所とされていたのだが、しばらく特別に使わせてもらう事になった。西側は岩壁に面しているため、窓の外は灰色の景色だが、東側の窓からは谷が一望できる。緑と水色に覆われた地平が緩やかなカーブを描き、常に靄がかかって境界線を曖昧にしている。きっと朝になれば陽光を眺める事ができるのだろう。
「もう、このまま起きてようかな。」
 まだ仄暗い窓の外をベッドから眺めながら呟いた。
「日の出は五時半だよ」
 ミリアムの方からキューの声がする。壁の時計を見ると、まだ三時間以上ある。眠くはないが、ブランケットの上に大の字になった。
「ん…」
 開けた窓から入り込んだ小さな蚊が足下を飛びまわっている。脛のあたりに着地した感触がしてエルリオは上半身を起こし、「もうっ」と脛を叩く。蚊は再び窓から飛び立っていった。それを目で追っているうち、
「……印…」
 頭に曖昧模糊としたイメージが浮かび上がりエルリオはベッドの上を這ってミリアムの元に移動した。下の方からブランケットからはみ出ている脛を覗き込む。
 治癒しかけた痣のように、もう形をとどめていない印の残骸が、白く細い足に染みを作っていた。完全に消えてしまうのも時間の問題のように思える。
「もしかして…」
 思い立ってエルリオはベッドから飛び降りた。足下に置いてあった鞄からノートとペンを探り当てる。窓際に移動して、僅かな月明かりの下で白紙のページを開いた。
「確か、こう」
 初めて会ったあの日、ミリアムの脛にある印をスケッチさせてもらった事を思い出しながら、その時に描いた物を同じものをノートに描き出す。歴史ある帝国の皇族血族の人間が受け継ぐ印にしては、酷く抽象的であった印の模様。
「あの時すでに、印が薄れ掛けていたとしたら…それともこれは、押印…?押印が薄れてきたものなんじゃ」
 一般的に、印の力の大きさは、時間に比例する。高等印の多くが古来より存在する原始に近い印であり、また、低~中級印の多くは時間の経過と共に高等印から派生した物が多く、したがって力が分散されて威力も落ちる傾向にある。
 押印師が扱いやすいとされる低~中級の印は、単純な模様である場合が多いのだ。
 改めてノートを見つめる。勾玉に似た輪郭の上に、改めて太い線を重ねてみる。点と線で勾玉を描き分けてみると、二重円と三角の組み合わせにもなるし、長方形と円と三角形の組み合わせにもならないだろうか。思いつく限りのパターンをノートいっぱいに描き、エルリオはミリアムの両腕からキューを引っ張り出した。
「うーん…」
「―ほっ……と、こっちこっち」
 起こしてしまうかと思いきや、ミリアムは寝返りを打ち再び寝息を立て始める。安堵の溜息をする間も惜しんでキューを開いたノートの前に置いた。
「ここにある図形パターンに似た印って、何があったかな」
「最近人使いが荒いよ」
 ノートの上で動かしにくい体を移動させながらキューが呟く。
「私は何でもかんでも頭に入ってくるような天才じゃないの」
 頬を膨らませるエルリオの声を背に、キューがノートの上の図形をなめるようにプラスチックの目を這わせ始めた。
「これ、」
 僅か一秒で答えが出る。
「僕のと同じだ」
「え?」
 ノートから外された無機質の視線がエルリオを向く。エルリオは窓枠の隅まで転がっていたペンを拾ってキューに持たせた。ノートをめくり白紙ページを開くと、おもむろにキューは全身を駆使し、ペンで模様を描き始めた。
 二重円の下部に下方を向いた三角形が繋がっており、円の中は螺旋が、三角の中には縦波が描かれている。
「記憶を司る系列の印の中でも上位に位置する「記憶封解の印」。」
 キューの背中、内部に縫い付けられている印と同じものだった。
「どういうこと…」
 思わずノートを引ったくると、キューが膝の上へ転がり落ちてきた。エルリオはかまわず紙面に顔を近づけて、キューが描いた印を凝視した。徐々にノートを近づけて、焦点をぼやかすと、じんわりと水に濡れたように印の模様がぼやけて広がった。
「……んー…」
 ミリアムの足で拡散しつつある印の状態と同様に見えなくもないが、確証は持てなかった。第一、もしエルリオの推測が正しいのならば、何故彼女の足にそのような印があり、また押印であるなら誰の手によるものなのか、いつ付けられたものなのか、不明な点ばかりが浮かび上がる。
「キューの印はお父さんが着けたもの…だとするとミリアムの印がキューのものと同じなら、それもお父さんが…?」
 それならワイヴァンはいつミリアムに会ったのだろう。単純に考えて、同じアパートにいたのだから、その時だろう。それにしたって同じアパートにミリアムほどの美貌の子がいればエルリオとて気付かぬ筈はないのだが。
(でもミリアムは、押印されたなんて話は一言も―これはライザの血族に受け継がれるものだって言っていた。信じていた。)
「ミリアムが嘘をついていたの?」
 否。エルリオは自分の言葉に自分で首を横に振った。
 父親を亡くして独りで暮らすようになってから、エルリオは人の顔色を読むのが得意になっていた。ミリアムのような力がなくとも、目を見ていれば、その人間が真実を口にしているのか嘘を口にしているのか、何を含んでいるのか、大抵は読み取れた。特に押印にやってくる客は危険だった。命と財産を守るために必要な事だった処世術だ。
 だから、分かる。ミリアムが言葉と共に人に向ける視には、曇りが無い。
何も知らないからこそ、白いままの心。
「記憶封解の印…リブロの弟子、フーミの印…」
 ノートにキューが描いた記憶の印を、穴が開くほどに見つめる。リブロとは創世神話に登場する知を司る神の名で、アリタスでは幼い子に本をよく読むよう躾ける際によくその名を出す。記憶の操作に関わる精霊は全てこのリブロの弟子と神話で伝えられていた。フーミとはリブロの弟子の一人である記憶の精霊の一人。そのフーミを象徴するのが、記憶封解の印」と呼ばれる精霊印だ。
「『イタズラ賢者フーミ』」
 キューが呟いたのは、エルリオが所持していた童話の一冊。
知の神リブロの弟子、フーミは優秀だが少し変わっていて悪戯好き。人間界に降りては、物忘れを起こさせたり、記憶を取り替えたり、作り変えては困らせて楽しんでいる。特に狙われるのは、本や勉強を嫌って遊んでばかりの悪い子供で―、というもの。
思わず懐かしさにエルリオは笑みを零した。
がー、壁で仕切られたようにその笑みが止まった。
「物忘れを起こさせたり、記憶を作り変えたり、取り替える…」
 口走ってから、苦笑する。
「まさか…ね…そんな事が」
 突飛な思いつきが我ながら可笑しかった。だが一部で辻褄は合うのではないかと思う自分もいる。
 あまりに記憶が断片的すぎるミリアム、そしてもう一つの人格。二つの人格は互いに記憶を共有していない。
(あの印がリューシェを抑え込んでいたとしたら?)
 脛の印が消えかけた事に気付いた直後に表出したリューシェ。タイミングを考えれば、地震を起こしミリアムが不可解な反応をみせた「鍵」の印が脛の印の効力を弱めたと考えてもおかしくない。
「―そもそも「世界はおしまい」なんてレベルの印は一体どこから…」
 ミリアムが「グレン」という人間から託されたという謎の印。
 今エルリオの中にわだかまっている全ての謎に、この「グレン」という人間が関わっている。父は無く、リューシェが何も語らないとすれば、今はヴィル意外にエルリオにとって情報を得られる人間がこの「グレン」しか残っていない。だがその数少ない手がかりも、生死が分からないのだ。
謎が一つ解明すると、また次の謎が立ちふさがってくる。
「本当に全部…繋がってるの…?お父さん」
 ノートを閉じて、エルリオは窓の外を眺めた。
視界に入りきらない望遠の世界が広がっている。
 セントラルにいた頃、目の前に見えていたのは細く長い一本道だった。道の先は薄暗く、重たい闇がかかっていた。
 ミリアムとであった事で道幅が急に開けて、景色が広がった。
 そして今は、道は幾本もの枝にわかれ、更にあらぬ方向から伸びてくる別の道とも交わり、複雑に螺旋や十字や格子を描いている。
「教えてくれないと、ますます知りたくなるよね、キュー」
 膝の上のキューは無言でプラスチックの瞳をエルリオに向けていた。
「世界って、もっともっと広そう」
 幼い頃に歌った唱歌に、そんな歌詞があったけなと思いつつ、
 エルリオは急に押し寄せてきた眠気と共に、ミリアムの足下に重なるようにベッドに沈み込んだ。



ACT8-11⇒
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素敵なイタダキ物 fromミソラ様

いつも、とっても励まされるメッセージを下さるミソラさんより、素敵なイラストを頂戴しました!

「お遊びでつくったんで~」
「遊びすぎましたw」
と仰っていられましたが、なんとも素敵なお遊びです!









プレステのゲームソフト風、「英雄の屍」です!
表紙のエルリオとミリアム、私が思い描く旅の1ページという感じが凄く表現されていて、感動的でした!
それから、さりげなく裏表紙にいるのは、ヴィルとジャスミン!
なんかキャラクターの描き方がすごくオシャレです。
「へぇ、この二人ってこうなんだぁ」
と再発見した気持ち。
それから、何気なくゲーム画面や注意書きのところにミソラさん独特のお遊び要素が(笑)

開いた瞬間にびっくりな、素敵なプレゼントでした。
ミソラさんどうもありがとうございました!
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押印師ACT8-11
11

 区立の緑地公園は薬草園を有している為に夜間は門が閉まる。その為に夕方を過ぎると人通りが少なくなる場所の一つだった。
 グレリオに生まれ、グレリオで育ち、今もなおグレリオに住む少女ミソラは、既に閉じられた薬草園の内側から外の様子を伺った。
(まだあっちのほうで騒がしくやってる)
 格子柵の合間から小さな顔を覗かせて、不自然な人工灯が煌々とともる市場通りの方面を眺めていた。狭い街中で、夕方頃から露店通り付近で起こった騒ぎの噂はあっという間にミソラの耳にも届いた。警察局の人間まで出動する騒ぎになっているのだとか。陽がすっかり沈んだ今も、まだ事態に収束がついていないようだった。
(ま、私にはありがたい事なのだけど)
 お陰で人の目が騒ぎに向いており、無断で夜更けに薬草園に忍び込んでいたミソラには好都合だった。
 ドロボウをしているつもりはない。もともと、薬草園創設の礎を築いたのはミソラの曾祖父であったし、この薬草園で栽培されている新種の薬草もミソラの父親が開発したものである。それを国が勝手に管理し始めたのだから、ドロボウ呼ばわりされる謂われはない。
(とは言っても、やっぱり捕まりたくないじゃない?)
 世間体というものが邪魔をして、夜中に忍び込まざるをえないのが現状ではあるが。
 騒ぎが起きていようと起きてなかろうと、夜更けの公園通りは閑散としているもの。ミソラはいつものように人間の気配は無いとして、ミソラしか知らない柵の壊れた部分から潜り抜けて外へ出た。

 だがこの日は、北側の公園通りに、二つの人影があった。

 背後の足音が消えて、イルトは振り返る。
 無事な右手を壁に沿えてグレンが足を止めていた。俯く顔や全身は未だ滴を落とし続けるほどに濡れており、僅かに肩が震えているのが分かった。
 セントラルより北に位置するグレリオの初秋の夜は、濡れ鼠の人間から体温を奪うのに充分、冷えていた。
「さっきみたいに、俺が治せたらいいのにな…」
 撃たれた上に刺された左腕には、血止めの為にイルトの上着を裂いて作った布切れが固く結ばれていた。傷に触れてみたが、イルトでは治す事ができなかったのだ。
「印の系統が違うから…ね…」
 青白い笑みが返って来た。
 イルトの場合は自己再生能力であって、他に対して治癒力を発揮する物とは別だ。
「よく分からないけど」というイルトの呟きを横目に、グレンは周囲に視線を配った。市場通り方面が不自然に明るい。夜風に乗ってサイレンが二人のもとへも滑走してくる。
「もう、君は帰ったほうがいい」
「何いってんだ」
 イルトはその言葉を一蹴するが、グレンの面持ちは変わらなかった。
「戻るんだ」
「そんな状態の人間を残して行けないだろ」
「これ以上、一刻も私の側にいてはいけない」
「何だそれ。でも―」
「戻るんだ」
 押し問答に痺れを切らしてイルトは一歩踏み出す足で地を蹴った。
「命令ばっかしてないでたまには人の言う事もきけって!」
 声を荒げたイルトにグレンが向けた視は、驚きというよりも珍しい物を見たような表情を浮かばせていた。寸時、言葉を失くした後で苦笑して俯いた。
「君も言うようになったね」
「まあ…な」
 思わず激昂した自分に自分で驚いて、気恥ずかしさをごまかすように小声で「とにかく」と言葉を繋げた。
「一度、村に戻ろう。ちゃんと手当てしよう。それからでも遅くないだろ。そんな状態じゃ一晩もたないぞ。」
「…―君の印は…」
 グレンが壁に背を預けて崩れるようにその場に座り込む。イルトが駆け寄ろうとすると、右手がそれを遮った。
「私の側にいると次々と力を覚醒させていってしまう」
 右手でイルトが近づくのを遮ったまま、グレンは顔を上げた。
「私の想像を超える速度で…君は印に適応してきている」
 イルトの目にも、明らかに顔色が悪かった。
「先ほど、君は肩に怪我を負ったね」
 だがそれは、出血のせいだけではないようだった。
「あ、ああ」
 喉元を過ぎれば熱さを忘れるとはこの事で、人生で初めて負った銃創も、消えてしまえばまるで他人事みたいにイルトは感じていた。
「私は、君に、あの力だけは発動させて欲しくなかったんだ」
 だから、リスクを覚悟で遠ざけた。
「私にもっと力があれば…こうなる必然性もなかった…」
 静かに己の非を認めているが、口端を僅かに歪ませている。だが、
「いや素手で銃と対決って普通は無理だろ…」
 自分が駆けつけるまで生きていた方が不思議だ。イルトの言葉にグレンは「そうだね」と苦味の混在した笑みを洩らしたが、口端に乗っていた悔恨は消えていた。
「最後のあれは、本来ならば私が負うはずの怪我だった。」
 無我夢中だったその瞬間をイルトは脳裏に一枚一枚の写真として思い浮かべた。記憶に辛うじて残る音と光を時系列順に並べていくと、確かにラースルの発砲音は、自分が体当たりをした直前だったと思い出される。
「仕組みや理屈は私にも分からない、が…君の父親の時もそうだった。物理的条件を超越して君が、私の身代わりになってしまう」
「物理的条件を超越…か」
 繰り返しながらイルトは再び記憶を掘り起こす。グレンに向けられたラースルの銃口を目にした瞬間に感じていた、前へ前へと気持ちが進む感覚。
「確かにおかしいよな。一瞬だって銃口が俺の方を向く事はなかったのに」
 物理的条件、つまり距離や位置関係の超越。防人の印とは文字通り、あらゆる事象から守護対象を護るための力を持った印。
「私の側にさえいなければ、その恐ろしい力を使う必要がない。」
 グレンの説明に、イルトは内心で頷いていた。
 グレンには分からない防人の印の「仕組みや理屈」、それがイルトには分かる気がしている。側に、自分の視界にグレンが入っている事が発動条件ならば、防人の印は自分の感情に直結しているのだ。押印を施された子ども達の場合も、感情の起伏に呼応して力が漏れ出すようにして印が発動していた。その状態をグレンは侵食の進行だと指摘して危ぶんでいたが、天啓印や使命印も使用者への負担というペナルティーの有無という相違のみで仕組みは同じなのだ。恐らくは。
「でも…、だからといって俺を遠ざけてあんな博打みたいな事するなよ。後であんたが死んだと耳にしたら…気分が悪いだろ」
 自分が駆けつけなければ、どう考えても死んでいたのはグレンの方だった。彼のこれまでの説明が全て事実であるなら、また新たにこの世に生を受けることになるのであろうが、近いうちにアリタスが大戦の危機に陥るというのなら、更に穿たれる数十年の空白はこの国にとって致命的だという事だ。
 既に痛いほどに理解しているのだろう、グレンは反論の言葉を返してこない。壁に頭を凭れさせ、気だるそうに深い息を吐いた。
 国と一人の人間を天秤にかけなければならないジレンマを、イルトに理解する術はない。
「印は、確実に…変化している」
「……」
 グレンの息継ぎの回数が増えている。それに気付いてイルトは目を細めた。
「元々防人には常人ならざる再生能力が備わっているものだが…あんなのは君が初めてだ。ライズにも、その叔父だったファルクにも、その前も―代々の防人に、あれ程の力はなかった」
 グレンの声に、徐々に熱と速度が増し始めているのが感じられる。記憶が毒となり苦々しく口内に広がっているように、言葉が吐き出される。
「俺が初めて…?」
 改めてイルトは右手を見つめた。薄闇の中でも、手の平に描かれた線は自己主張するようにぼんやりと浮かび上がってくるように見えてくる。
「私の側に…というよりこの印の側にいるだけで、」
 グレンは右手で己の左胸を指し示す。
「防人の印は、刻一刻と変化しながら君を侵食する。これ以上何か起こる前に私は……君が望まない事態になる前に、離れて欲しいんだ」
「でも―」
 それなら何故、洗いざらいを自分に話したのか。国家機密とも言える己の出生や身分の事から、国の事、世界の事、印の事を―。
「君に何もかも話したのは、君の父親の遺言だったからだ。こうなって欲しいからじゃない」
「な……」
 イルトの疑問を読み取ったかのようにグレンが低く応えた。
 右手を力なく膝の上に落としたグレンは、全身を重力に預けるようにして壁に凭れている。イルトは傍らに片膝をつくと、濡れた髪に隠れたグレンの面持ちを覗き込む。青白かった頬に朱が燈っている。
(熱…?)
「俺がどうしたいか、というのが問題なら」
 イルトは少し背中を屈めて覗き込み、相手の視を真っ直ぐ見据えた。
「少なくとも俺は怪我人をこんなところに置いて行きたくない。その後の事はまた別の話なんだ」
 肩を貸そうとグレンの無事な右腕に手を伸ばす。濡れそぼった袖は夜気の為に冷え切っていた。布地が肌に張り付いている。
「それがどういう事なのか」
 弱々しく、その右腕がイルトの手を拒んだ。
「君は分かっていない…」
 イルトの耳にも聞こえるほどの深い呼吸を一つ洩らして、それきりグレンの言葉が途切れた。イルトの手を拒んだ右腕が落ちる。
「あ、……」
 思わず揺り起こそうと両手がグレンの両腕に触れ、その瞬間、右手に感じた生暖かい感触に驚いてイルトは手を止めた。右手で触れたのは、左腕に結ばれた布の上。暗がりで気付かなかったが、出血が幾重にも縒られた布に染み渡っていたのだ。
(村までもつのか…?)
 往路に要した時間を考えれば、日がすっかり落ちた復路の所要時間は軽く見積もっても三時間近く。それ以前に、意識の無い大の男一人背負って歩くのは目立ちすぎる。
「?」
 イルトの思案をかき消して、曲がり角の向こうから人の足音が近づいてきた。
(マズい…)
 緊張が走り体中の筋肉にアラートを発し始める。片膝をついた低い姿勢のままイルトは近づいてくる足音の方向に体の正面を向けた。よく聞くと足音は、軽くて小刻みだ。体重の軽い子どもか、そう感じた瞬間、テイダスやメイリ、フィルらを思い起こした。ラースルの死を嗅ぎつけた誰かが追って来ているのだろうかと、イルトは厳しい視線を曲がり角へ向けた。
「っきゃ!」
 駆けて来た足音が角を曲がった瞬間、高い悲鳴が転がってきた。その後に、何か重たい物が落ちる音。
「やだ、びっくりした…」
 言葉の割には冷静な独語が流れて、暗闇の中、現われた人影が落とした重たい何かを拾い上げているのが、イルトの夜目にも分かった。
(…女の子…?)
 声には出さず、イルトはただひたすら闇の人影を睨みつけた。
「ごめんなさい、大丈夫でした?」
 人影の言葉と共に、眩い光の輪がイルトの顔面を照らした。
「!」
 突然の人工的な光にイルトの視力が一瞬奪われる。それは懐中電灯の光。イルトは眩しくて片腕で目許を庇いながら光の向こうにいる人間を見やった。
「……………怪我人がいるのですか?」
 長い「間」の後、人影が問いかけてくる。
 ようやく光に慣れてきたイルトの目には、黒髪の少女の姿が映し出された。年はイルトと同年代というところ。黒髪を頭の後ろでまとめ、耳の隣でリボンのように黒髪が垂れて生き物のように揺れている。髪の色と対照的に、白いシャツに白いエプロン、白いパンツと、何故か全身を白色で統一させている。そのために、袖や裾や膝部分が土色に汚れているのが目だった。背中に不自然に膨らんだ鞄を担ぎ、懐中電灯をこちらにむけて目を丸くしている。黒目が多い瞳が一度イルトを見やった後、その背後のグレンに移っていた。イルトの背後を覗き込み、長身が作る長い影に隠れたグレンに懐中電灯の光を当てた。薬草園を囲む高い壁の一角に凭れて座り込み、動かない。左半身が酷く赤かった。
「その出血量ですと、銃創ですか?」
 冷静な声の後、少女は背後を肩越しに一度振り返った。まだサイレンの音を木霊させている、市場通りの方面へ。
(…気が付いてる……?)
 質問には答えずイルトは警戒心を面持ちに表出させた。片膝を地面につけた低い姿勢から、少女に厳しい視線をぶつける。少女の目にもその様子はまるで、主人を護り威嚇する忠実な―。
「そんな怖い顔しなくても、大丈夫です」
 手を顔の横に上げて、懐中電灯以外に何も持っていない事を示して少女はイルトに歩み寄る。
「私も、警察局に見つかりたくないので。」
 そのままイルトの真横をすり抜け、懐中電灯を地面に置いてグレンの前にしゃがみ込んだ。傷に手を伸ばしかけて、止めてイルトを振り返ってきた。
「この人に触りますよ、いいですか?」
「え?」
「だって、今にも噛み付いてきそうな顔でしたから」
「………」
 気がつけば低い位置から、威嚇するように前のめりになっていた。姿勢を正して、イルトは横をすり抜けていった少女の姿を目で追って振り返る。白い衣服の少女はグレンの肩をしばる布に指先で少し触れて、それから下から面持ちを覗き込んで額に触れた。
「貧血で体温が失われた上に濡れて更に体温が下がったのですね。意識を失ったのはそのせいでしょう。今は傷が熱を持ち始めています。これで更に風邪でも引かれたら、大変ですよ。弾は体内に残っているのですか?」
「弾―どう、なんだろう。多分、無いと思う」
 整然とした少女の言葉の羅列にイルトはただ頷いていた。
 ラースルの銃は普通の銃器と異なるとグレンは言っていたが、違いが分からなかった。
「弾が残っていないのであれば、私でも何とかなりそうです。残念ながら父はまだしばらく戻らないのです」
「え?」
「すぐ近くですので、さあ、行きましょう。」
「さあ、ってどこへ?」
「大丈夫です、小さいですが、れっきとした診療所です」
「診療所?」
 独りで進んでいく少女の話にイルトはついていくのが精一杯だった。白服の少女はいたって真面目な顔で、あまり表情を変えずに立ち上がり、市場通りとは反対方向を指差した。何が入っているのか、背負った鞄がもっさりと何かかさ張る音を立てている。涼やかな緑の香りがした。
「ええ、動物診療所です。」
「ど……」
「でも大丈夫」
「どう大丈夫…」
「父は小動物専門ですが、私は、人間の医者志望ですから」
「結局医者でもなんでもないじゃないか」
 冗談じゃない、とイルトは少女とグレンの間に腕をさし伸ばして拒否した。
「でも、頼れる所がないのですよね」
「………―」
 少女の言葉はイルトの図星をついていたが、
(だけどいくらなんでも)
 無免許の、しかも自分と年の変わらぬ少女に怪我人を任せることは出来ない。
「誤解しないでください。私に治せるだなんて自惚れていませんから。」
 イルトの考えに少女の言葉が重なる。逆に、信用してもいいと少しは思えたほどに、少女は真摯だった。
「こう考えてはどうでしょう。私はこの人に、安心して眠る事のできる場所、乾いた服、清潔な包帯と消毒薬、水を提供する事ができます。いかがですか?」
「………」
 イルトは、身動きどころか寝息一つたてないグレンを一瞥する。少女の言葉を信じて良いのか、イルトは迷っていた。淡々としていながらも、まっすぐな少女の言葉と視と声は、姉が淹れてくれる薬草茶のような、人に平静さを与える効力を持っている。
(……信じていいのか…?)
グレンと少女の間で揺れる視線の動きはそのまま、イルトの迷いを表していた。
 だが次の少女の言葉が、イルトを決断に導く事になる。
「私、ミソラといいます。憶えていませんか?イルト君」
「―何………?」
 ―イルト君
 学校を卒業してからもうどれくらい経つか。それ以来、イルトをそう呼ぶ人間はいなくなっていた。ミソラ自身に対して鮮明な記憶を引き出すことはできずにいるが、
耳から入るその呼称はひどく懐かしいものに感じられた。



ACT8-12⇒
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押印師ACT8-12
12

 国内の多くのアパートがそうであるように、ミソラに案内されたアパートも、鍵のかかった共通玄関を潜るとすぐに短い階段があり、踊り場の両側に各室のドアが向かい合っている造りだった。
 ミソラの自宅は一階にあり、プレートには苗字の他に何も書かれておらず、中に入ってみると診療所は広めの一室をそのまま使った、医療施設とも言えない作りになっていた。
 狭いが清潔感があり消毒薬の匂いに包まれている空間の隅に、折り目のついた白いシーツが掛けられた幅広の寝台が置かれている。
 その上に、ミソラの手を借りて何とか傷に障らぬようにしてグレンを横たえた。意識の無い人間の体は、とても重たく感じられる。それは単に質量の問題ではなく、体温と脈が生々しい「命の重さ」を感じさせるのだ。
「悪い…俺、君の事があまり記憶になくて」
 棚の中を何やら探るミソラの背中に、グレンの血で汚れた自分の腕を拭いながらイルトが恐る恐る声をかける。
「あまり、というより、まったく、ですよね」
 そう言って振り返ったミソラの手にはハサミが握られていて、イルトは思わず後ずさる。診療室には天井の中央につるされている小さなシャンデリアの他、可動台や机の上に小さな卓上灯が置かれており、可動台上の灯りがミソラを不気味に照らしていた。
「気にしないで下さい。私、学校では本当に目立たない子でしたし」
(学校が同じだったのか)
 いかに自分が覚えていないのかが露見してしまう。申し訳ない気持ちでイルトは肩を落とした。
「接点もありませんでしたし。イルト君は目立つ人でしたからね。だから私が覚えていただけです」
 言いながらハサミを手にしたミソラはグレンの左腕の袖を切り刻み始めた。驚き、何か言いかけたイルトを遮るように、ハサミを動かしながらミソラは言葉をつなげる。
「ああ、応急手当の時はこうするのが素早くて良いんです」
 言い終わらないうち左腕の袖があらかた取り除かれ、最後に残った包帯代わりに縛り付けられていた布に手を伸ばした。
「………っ」
 つんと鼻先に錆臭が漂う。額の奥で強烈な痛みが差し込んでイルトは反射的にミソラから顔を背けた。
「大丈夫ですか?男の人って、女よりも血が苦手って本当なのですね」
 滴が落ちるほどに血に染まった布をグレンの腕から外して屑籠に放り込む。屠った家畜の内臓を捨てた時と似た音が耳に飛び込んできた。
「いや…この場合はそれと少し違って…」
「?」
 イルトの様子に少女無免許医は不思議そう顔で振り返る。
「弾は残っていないようなので、応急処置と消毒をしますね」
 「よろしいですか?」と血まみれになった手を平然とした面持ちで洗いながら、イルトの了承を得るためにミソラが振り返る。
「応急処置?」
 振り返って、ミソラの衣服染み付いた面積の広い赤い斑点に目を顰める。
「傷が深くて広いので、応急的に縫っておかないと、血も止まりにくいですし治りが遅くなってしまいます」
「縫う?君が?」
 無免許に加えて、イルトと同年代となれば医学校にも未就学であろう。考えているうちにミソラは「はい」と答えながら既に道具棚から出した針と消毒薬の瓶を手にしていた。
「医者志望ってだけで…その、なんだ、実務経験は無いんだろう?」
「では、やめますか?」
 質問に直接は答えず、ミソラはピンセットで糸を針に通し始める。
「このまま放置しておくと、さすがに失血量が致死的となります。ここでは輸血もできません。」
「…………」
 こんな決断をどうして十八を迎えたばかりの医療知識の無い青年が下せようか。糸を通し終わった針を手に、ミソラはイルトの答えを待った。両者から言葉が消えて、空調の緩やかなファンの音が徐々に耳につくようになる。
 一定の細かいリズムを刻む音に、不協音が割り込んできた。ドアをノックする音が三度。
「?」
 顔を上げるイルト。ミソラが針を置いて玄関に向かう間もなく、訪問者が診療室に姿を現した。黒髪の小さな少女だった。
「ミソラ先生、こんばんは。―あ」
 少女は水色のワンピースを着ており、肩が露出する袖から伸びる細い手には白い包帯が巻かれていた。両手に紙袋を抱えてミソラの元に走り寄ると、部屋の隅にいるイルトに気がついて足を止める。
「ごめんなさい、患者…さん?」
 続いて診療台上の人影にも気がついて、申し訳なさそうに会釈をする。血に驚いた様子はなく、純粋に心配そうに両眉を下げていた。
「はい。ごめんなさいね。でも明日の午前中ならまたいつでも大丈夫ですよ」
 誰にでも敬語なのか、ミソラはイルトと接する時と変わらぬ態度で少女に言葉を向けている。「これね」と少女は手にしていた紙袋を傍らの机上に置く。
「父さんが、傷を治してくれたお礼にってミソラ先生に。これだけ渡せれば良かったから、ここにおいておくね。それから、大先生にもありがとうって。」
 包帯を巻いた腕を「バイバイ」と振って少女は忙しなく出て行った。小さな足音が遠ざかっていく余韻が残る。
「「先生」って、あの子の傷とか、君が治したのか」
 イルトは机の上に置かれた袋を一瞥する。店で品物を包む時に使われる、どこにでもある茶色の紙袋だった。
「治していません」
「え?」
「治したのはあくまでも、あの子の力。私はそのお手伝いをしただけです」
 そう答えて、ミソラは再び針を持つ。
 淡々とした調子で己の美学を口にした少女の姿が、急に大人びて見え始める。
「だから、今もそのお手伝いをさせてもらえないかと、思っているのです」
 ミソラの視がグレンを見やった。
 これだけの事で、首を縦に振りたいと思う自分はやはり、言葉に踊らされやすいだけの人間なのだろうか。
「………」
 一度、静かに瞳を閉じて、また開く。寝台上のグレンに目をやり、それからミソラを見つめた。
「何で君を覚えてなかったんだろう俺…ごめん」
「え…」
 真っ直ぐに見つめてくるイルトの視に、ミソラは気圧されるように顔を引いた。
「頼む、お願いします」
 イルトの言葉を受けてミソラはただ「はい」と短く答えた。


「大丈夫ですか?イルト君のほうが貧血起こしそうですけど」
 そんな軽い皮肉に、乾いた笑いが返って来た。
 応急処置を終えたミソラは赤く汚れた布をシンクで洗い流している。血は水で洗い流す事でほとんど色落ちするが、相当量を吸い込んでいたのだろう、幾度と揉み解し続けても、布からにじみ流れ出る赤色が止まらない。
「父は明後日もどります。それまでここに留まってくれても私は一向に構いません。ここに泊まるのが問題であれば、二日後に来ていただければそれでいいです」
 淡々と流れ出る水の中で布を揉みながら右に視線をやると、寝台の側に置いた椅子に座るイルトの横顔が見えた。神妙な顔つきで、連れの顔を眺めている。寝台の上にいる男は、変わらず寝息一つ立てず静かに眠り込んでいる。麻酔を使わなかったにも関わらず、目を覚ます様子がなかった。だが今は、衣服とシーツを取り替えて体を温め始めているため、肌に色味が戻ってきていた。
「あ…ありがとう、でもそこまでしてもらうのは―」
「私の患者さんですから、最後まで責任をとりたいのです」
 すっかり医師の顔になっている少女の言葉にイルトはただ頷いた。どうするのが一番良いのかを考えていると、
「そういえばイルト君、学校にいた頃に石で頭を切りましたよね」
 とミソラが話題を変えた。一晩ゆっくり考えろ、という意味のようだ。
「そうだっけ?」
 今度は赤く汚れきったエプロンを脱ぐと、ミソラはそれもシンクに突っ込んだ。
「はい」という短い返事が水音にかき消される。
「こめかみの辺りを切って、顔中血まみれにしてみんな驚いていましたけど、当のイルト君は平気な顔していて。」
「あ~…そんな事もあったっけ」
 友人との悪ふざけの結果、倒れこんだ場所に運悪く石があり、額からこめかみにかけてを切った。
「なのにずいぶんと今は血を怖がるから、少しおかしくて。」
 エプロンを揉みながらミソラは小さく口元だけで笑った。イルトは照れが混在した苦笑を漏らし、指先を昔の傷跡があるこめかみに当てた。
「何ていうか、今回は少し特殊なケースで…」
「…??」
 イルトの言葉には違和感が残るが、質問を重ねるのは野暮に思えてミソラは話題を変える事とした。
「イルト君、今はどうしてるんですか?」
「今?」
 学校を卒業してから何をしているのか、という意味だと気がつきイルトは「ん~」と言葉を濁した。
「別に…村で農作業の手伝いしたり、かな」
「農作業、ですか」
 エプロンを洗う手を止めてミソラがグレンを見やる。農作業をしていて何がどうなったら今の状況になるのか、不思議がっているのはイルトにも感じられた。
「えっと―この人については、その、色々あって…」
「良いですよ、無理に誤魔化そうとしなくても。事情は聞きませんから。」
 ミソラの言葉に苦笑いしつつ、イルトは視線を周囲に逃がした。
 改めて眺めてみると、動物診療所だと言っていたが表に看板一つ無く、表札にも記されていたのは苗字のみ。訪ねて来た少女の言う「大先生」は父親であろう。だが寝台や治療台は全て人間用のもので、動物を入れるためのケージ等も一切見当たらない。
「ここって…本当に動物診…」
「なんですか」
「いえ、なんでもナイデス」
 ぴしゃりと言われて辺りを見渡すのを止めると、本棚の隣に置かれた机上に目が留まった。机の足元には、ミソラが背負っていた膨らんだリュックが無造作に置いてあり、机の上には広げられたノート、分厚い本が数冊、先程まで誰かが勉強していたのか、筆記用具が無造作に置かれていた。
 そして何故か、ノートの上にはまだ新しい緑葉が数枚、散らばっている。
「それは、薬草です」
 イルトの視線に気がつき、ミソラが先に答えを出す。もちろん、薬草園から「拝借」してきた薬草だとは口にしなかったが。
「これも、独学、なのか?」
「これまでは、そうですね。でも私は正規の医師免許が欲しいです。」
「どこか受験するのか?」
「はい。士官学校に」
「士官学校?」
 机から振り返るとミソラは、洗い終わったエプロンとシーツを部屋の隅に干していた。
「はい。士官学校には専門技術訓練カリキュラムがあって、ちゃんと資格も取らせてもらえるんです」
「そうなのか」
 無意識にイルトの視線はグレンを一瞥していた。
「士官学校は国からもお金が出ていますから、設備も最新ですし、入学金、授業料も安かったりするのです」
「やっぱりそうなんだ」
 学校を卒業する際に一連の書類を貰ったが、目を通さないまま放置していた事を思い出す。机の上を見ると、イルトが持っている士官学校から届いた紋章入りの封筒と同じものがあった。
「ただ、修了後は一定期間の士官が義務付けられているのですが。」
 それでも、多くの卒業生は退役する事なく国軍に骨をうずめる者が多いという。
「士官学校……国軍か…」
「イルト君は、進学しないんですか?」
 イルトが封筒を気にしている事に気付いたようで、ミソラも机の前に歩み寄ってくる。ブックエンドと辞書の間に立ててあった封筒を手に取り、イルトの前に置く。
「成績良かったですよね。推薦一番乗りだって、みんなで騒いでいたのを憶えています」
「そういえばそうだった気もする…な」
 あの頃、推薦がとれたと教師がイルトに報告に来たとき、同級生達が当のイルトを置き去りにして騒いでいたのを思い出す。グレリオ一帯では最も大きい学園ではあったが、それでも田舎町の学校から士官学校入学生を輩出するという事は一大事だった、らしい。
「士官学校に少しは興味があったけど…、自分が何をするべきかよく分かっていなかったし、学びたい事がよくわからなかったんだ」
 当時のイルトにはその価値がよく分かっていなかった。
「少しもったいないですね」
「君は志望理由がはっきりしているんだな。父親の影響?」
 少し苦笑を見せながらイルトは室内を見渡した。今は姿が見えない、この診療所の主人。訪れる患者が「大先生」と呼んで慕っているようだ。それなのに、看板一つ立てず、「動物診療所」を名乗っている点がやはりどうにも気になるが。
「そのようなものです。イルト君のお父さんは国軍人さんだと聞きましたが?」
「だけど大戦以降はほとんど村に帰ってこないまま死んだから、正直、軍人としての父さんはよく憶えていないんだ」
「そう、ですか」
 ミソラの平坦な声の中に後悔の微粒子が漂った。
「でも最近、といっても本当に急になんだけど、この先の事について考る機会があって」
 封筒に描かれている国軍紋章を見つめる。三つの獣を抽象化したという、一言では形態を説明し辛い模様だ。国軍紋章の三獣とは、一つは権力の象徴たる獅子、一つは知の象徴たる梟、一つは力の象徴たる竜を言う。
「父さんの事、父さんのしてきた事について、自分が受け継ぐ事について―、と考えるうちに、グレリオについて、この国について、外の国について、自分の知らない所に広がる世界について…っていう風にどんどん考えが膨らんで…」
 イルトと向かい合う位置の椅子に腰掛けたミソラが、数度頷いていた。抽象的なイルトの言葉の中にある詳細をミソラが知る由もないが、
「分かる、気がします」
 枝葉が増えていくばかりの気持ちの膨張、その苦しさは理解できた。
「そういう物が、もしかしたら自分も見られるんじゃないかって。少なくとも、グレリオにい続けたら見られないものが多すぎる、というのは分かるんだけど」
 また無意識に、イルトの視はグレンを見やっていた。つられてミソラの視線もそれを追う。
「でも、それでいいのだと思います。」
「ん?」
 振り向いたイルトと、ミソラの視線がかち合った。
「最初から明確な目標を持っている必要はないのだと思います。イルト君が言う通り、人が知る事ができる量には限界があって、見ることができる世界にも限界がありますよね。」
だからこそ、まずは知ってみる事、見てみる事、その上で己の意思を確立させればいい。
「好機は自ら作り出す物とよく言いますが、私は与えられた好機を最大限に活用してみるのも大事だと思うのです。その好機はきっと、何かしらの意味があって、自分に与えられているのですから」
「与えられる意味…」
「そう、私は思います。」
 少女の淡々とした声や態度の中に通っている、熱くまっすぐな芯。それは、グレンにも感じていた、根底にある揺るぎ無い自信。今の自分には無いものだ。
「汚れたので、流してきますね」
 会話が途切れたところで、ミソラが席を立った。体を洗い流してくるという意味のようだ。部屋の隅干してあるシーツやエプロンは、嘘のように白くなっているが、露出していたミソラの腕には赤黒く血液がこびり付いていた。
「台所はそっち、お手洗いはこっちの奥ですので、ご自由にどうぞ」
 淡々と言い残してミソラは足早に浴室へと消えて行った。
「あ、ど、どうも」
 落ち着きなく声が上ずってしまい、イルトは無意味に視線を本棚に逃がした。
「くくっ…」
「!!」
 傍らの寝台から笑い声が漏れてきた。壊れた玩具のように振り返ったイルトは、寝台で眠っていたはずの人間が口元に手をあてて笑いを堪えているのを見た。
「あんたいつから…!」
「ついさきほど」
 会話のどの辺りから聞かれていたのだろうとイルトが訝しがる視線を寝台に向ける。グレンは小さく笑いながら、無事な右手で体を起こした。途中で僅かに顔をしかめたが、イルトの手を借りずに動かない左手を使わず巧く上半身を起こす事ができた。
「寝てた方が良い、と思うんだけど」
「左腕以外は何ともないよ」
「えーっと」
 ミソラに言われた事を一言ずつ思い出す。
「出血と濡れたせいで、体温が下がりすぎてたんだって言ってた」
 それを聞いてグレンは初めて、今自分が身につけている服が変わっている事に気がつく。くすんだ水色の、前開きのシャツだった。その下に肌着代わりだろうか、これも前開きの白いシャツが重ねて着せられていた。下半身を覆う白いシーツは二枚重ねられており、その上に更に黒と白の格子模様が目立つブランケットが掛けられていた。枕元を見ると、敷布の上にもブランケットが敷かれており、それらが自分の体温を上げるための処置だと気付く。
「彼女は中々の名医だ」
 包帯が巻かれた左腕を静かに撫でながら、グレンは左手の指を少しずつ動かしていた。神経がやられていない事を確かめているのだ。
「独学だって、言ってた」
「そのようだね」
 どうやら、治療が終了した辺りで既に意識があったらしい。イルトはその頃まで記憶を遡らせて、懸命にミソラとの会話を思い出していた。また笑われるネタとなる事を口走っていないだろうかと、変な汗が出そうになる。
「君は…」
 視線を左腕に向けたままのグレンから声が掛かった。
「うん?」
「士官学校に興味があるのかい?」
 声調と視線はそのままに、グレンの言葉が質問に繋がる。イルトはすぐには答えずに、視線を寝台からそらして、組んでいた足を解いた。反らした視界の隅で、グレンがこちらを向いたのが分かったが、イルトは視線を戻さなかった。
「朝になったら俺、村に戻る」
「それがいい」
 グレンは答えに満足したような頷きを見せたが、
「それで、二日後にまたここに戻る」
「え?」
 二度目の答えに、ちくりと、何か小さな痛みが体に刺さった時のようにグレンが目を細めた。
「聞いていたと思うけど、明後日に戻る彼女の父親にちゃんとした治療を受けて欲しいんだ。折角だから、ちゃんと治して欲しい。」
 グレンが「それなら君が戻って来る必要はない」と言うであろう事はイルトにも分かる。だからすかさず、口を開きかけたグレンよりも先にイルトは「まだ、」と滑り込んだ。
「どうなるか分からない。もう少しだけ考えたい。二日の内に結論を出す。村の皆や、それからあんたにも、ちゃんと話したいんだ。俺は話をする為に戻る。だからちゃんと聞いて欲しい」
 相槌がわりに呟いて、グレンもイルトから視線を外した。
「君は私に、その結論に対してどうして欲しい?」
「別に」
 短く答えたイルトが、グレンを一瞥した。
「後はあんた思うようにすればいい。俺も、俺が思うようにするから」
「そう、か」
「分かった」と了承が戻ってきた。グレンが安堵しているのか不満なのか、イルトに窺う事が出来ないが、声音は静かだと感じられた。
「…………あ」
 考え込むように目を伏せていたグレンが、唐突に顔を上げてイルトを振り返った。
「ところでマクダムさんはどうしたんだ?」
「え?―あ!」

 その頃話題のお人好し商人は、しくしく泣きながら町の入り口に止めた車の中で毛布を被って寝ていた。翌早朝に庁舎職員に駐車違反を咎められて起こされた時、彼は全身を寝違えて、数日間、商売に響いたとか響かなかったとか。
 それはいずれイルトがマクダム本人から直接聞くことになる。




ACT9「宿り木の選択」⇒
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ACT9:宿り木の選択

01

 世の中はなんて親切な人が多いのだろう!
 アレックはそんなすがすがしい気持ちと共に朝を迎えることが出来た。
 駅で途方に暮れていたアレックを見かねて駅職員がシュトル・セントラルへと車を飛ばしてくれたのである。おかげでアレックはホテルのベッドで眠る事ができたのだった。
 ちなみに途方にくれる数秒前、電話を叩ききった上司を内心で冷酷非道な鬼上官だと泣き言を零していた事は忘却の彼方に葬り去られている。
 アレックは翌朝、涼しげな水の音で目を覚ました。
 弾水性のある植物の繊維質を縫い合わせ、そこに水を流す事で空気を冷やす簡易な冷房装置が、シュトル・セントラルの居住空間には備わっている。これが存外、電動のクーラーと遜色なく涼しい。ただ、オフィスで用いるには水音が煩いために実用的ではないが、アレックにとっては逆に清々しい流水音が目覚めのBGMとなっている。
「良い天気だなあ」
 勢いよくカーテンを開けると、視界が白むほどに強い朝日が差し込んだ。それは光のせいだけではなく、白い建造物の壁や舗装の白砂を伴った白い世界がそうさせている。
 シュトル・セントラルは、乾いた石と砂の町だ。だが一方でこのシュトル・セントラルから車で一時間とかからない場所にある竜翼谷は、湿地と乾地が、狭範囲内に連立する峡谷の中に隣り合うように存在している。アレックにはそれが不思議でならない。
 何はともあれ、チェックアウトの時間が迫っている。急いで着替えをすまそうと鞄を広げたところで、昨日に谷で譲り受けた装束が目に止まった。
「スーツじゃ暑いだろうな…」
 通気性の良さそうな生地の手触りを指先で確かめる。国軍人たるもの、任務遂行中は諜報・隠密任務を除いて定められた制服着用が義務付けられている。イリオン少尉の軍用ジープに積まれていた予備のサファリスーツのジャケットは貰い受けていたが、それを今着用する気が起こらない。
「いいや」
 の一言で取捨選択を完了したアレックは、スーツを鞄の奥底に押し込んで、通気性の良さそうな装束を引っ張り出した。
「またのお越しをお待ちしております~」
 チェックアウトを済ませ宿屋の主人に見送られ、鞄を肩に担いだアレックは意気揚々と街の中心部に向けて歩き出した。
 石灰質を多く含んだ煉瓦や石畳が日の光を受けて眩い光を反射させるように、街全体が白く明るく輝いていた。空は青く、雲ひとつ無い空とはこの事で、青の中に四角に切り抜いたような建造物による白のシルエットとのコントラストが美しい。
 ここの人々の服装で特徴的なのが、刺繍が施されたケープやマント、リボンだ。セントラルでも見られるシャツやトラウザを身につける人々も増えているようだが、その上に彼らはこの地方独特の模様を縫い付けたケープを羽織ったり、腰にベルトがわりにストラップを巻きつけたり、女の子であればリボン、男の子であればバンドを頭に巻いている事で地域性を出している。
 アレックが身につけている服装もそれに近いもので、中に着ているシャツはセントラルでも購入できる白いシャツと変わりないが、その上に羽織った上着は薄いモスグリーン地に赤と濃緑と黒の交差模様の細い帯を肩から裾にかけて縫い付けてあるもので、更に腰を、黒字にオレンジと緑の交差模様が刺繍されている帯で縛る。袖や襟元の布地に余裕がある作りになっており、風が入りやすい。
「とはいえ…」
 人が多い場所、つまりは市か庁舎などの市街地の中央を構成する場所を求めて歩いていたものの、具体的に自分はここで何をするべきかアレックは考えた。とりあえず、列車事故の影響を窺うという意味でなら、この街が充分に不便な場所に位置しているという事は体感できた。
「そもそも、何でシュトル・セントラル駅がシュトル・セントラルの街からあんなに離れているんだか」
 しかも駅からシュトル・セントラルまでの交通手段がほとんどと言って良いほどに敷かれていないのだ。唯一、セントラルに支局を置く軍のバスによる定期便があるのだが、完全にシュトル・セントラル支局内の業務都合に沿っているためにアレックのような事態に陥ると、とんと役に立たない。
「市民から要望があればバス路線の一本ぐらい軍がすぐ作りそうなものだけどなぁ…」
 昨晩の悲しい思い出と同時によみがえったシールズ大佐の幻影を、アレックは急いで掻き消した。
「シュトルの局政官はなにやってんだよ、まったくー」
 局政官とは、軍の執政院が各地に据えている行政監察官の事であり、つまりは市長や区長といった肩書きの人間を差す。
 少し人通りが多くなったところでアレックは周囲を見渡した。セントラルに近付くほどに地域人種が様々に混在するが、ここを見渡す限りでは、時々見かける国軍シュトル局の巡回兵以外では、市民のほとんどがシュトル周辺の人間で構成されているようだ。シュトルの人々の多くが、アリタス国民に特徴的な肌色と比較して若干の褐色が浮かび上がった色をしている。髪の毛の色は金髪に近い茶褐色と臙脂色が多い。それと比較して、同じシュトル地区内に位置づけられている竜翼谷の人間とは特色が異なりすぎているのが面白い。
 シュトル地区は、各辺境地域の中で比較的セントラルと至近距離にありながら、未だに軍による再開発色が薄い地域の一つと言えた。局政官はシュトル土着の一勢力を担う部族の出であり、軍の支局も市街地の外れに、小隊と中隊を数個ずつのみを駐在させたごく小規模なものとなっている。軍の再開発の手が比較的入っていない地域の特徴はある程度パターン化されており、「独自の防衛能力」「独自の政治能力」を保持し、「内紛要素が希薄」な地域の場合、軍はその地における不足点を補う形の干渉に留まる。ただしそれは当然、国政の管轄下に属した上での話である。
「へ~、賑わってるんだ」
 天蓋が並ぶ通りに出くわして、アレックは感嘆の声を洩らした。市場通りとでも言おうか、真っ直ぐに伸びた幅広の道の両脇に並べられた品々は、白とベージュ色に包まれた世界に彩りを与えている。
 果物、野菜の他、鮮やかな色彩の織物や雑貨品も並ぶ。
「野菜や果物なんてどこで育ててるんだろう」
 乾いた街に相応しくない色とりどりの取り揃えにただ感心してアレックは露店の一つの前で足を止めていた。
「お兄さん、見かけない顔だけど、どこからきたんだね?」
 初老にさしかかった店番が気さくに声をかけてきた。振り返りざまに、果物を一つ放られてアレックは慌ててそれを受け止めた。瑞々しそうなプラムの実だった。
「やるよ、今日も暑いからね」
「わあ、ありがとうございます!」
 本心から嬉しそうなアレックに店主は満足そうに頷く。
「僕はセントラルから来たんです。」
 さっそく果物をかじりながらアレックは答えた。
「おや、じゃあそこのシュトル局の軍人さんかね」
「いいえ、セントラルから知り合いに会いにきていたんです。この服は貰いものなのですが、すごく気に入ってしまって」
 自分が「軍人」である事はぼかして答えたが、嘘はついていない。店主は別段と気にする様子もなく「ほほう、珍しい」と感心していた。
「その服、竜翼谷の装束だろう?俺も谷の人間なんだが、兄さんが見かけない顔だから少し気になってね。そうかそうか、谷の客人だったか」
 店主の自己紹介に、アレックは「おや」と思う。
「ご主人は、谷からやってきてここで商売してるんですか?」
「さすがに通いはできんからね。春から夏にかけては谷で作物作って、秋から冬にかけて、街に来てこうして商売させてもらうのさ」
「は~なるほど」
「粉物を作ってる連中は逆に、春から夏にかけて商売にやってくるのさ」
 瑞々しそうな品揃えを眺めてアレックは頷く。確かに谷の入り口から遠くに見えた濃緑地帯であれば、通常の農業や林業が行えそうだ。谷の人間による自給自足用のみではなく、組織的に商易が成り立っている事に感心する。
「結構、多いんですか?谷からここに来て商売されてる人って」
 食べかけのプラムを手にしたまま、アレックは通りを見渡してみる。午前中の市場は女性と年寄りを中心に賑わっており、子どもの姿もよく見られる。一見してアレックの目では、どの商人が谷の人間で、どれがそうでないのか、見分けがつかない。
「十数年前に戦争が終わってからしばらくは商売が盛んで、人の行き来が多かったのだが、最近はだいぶ減ってしまったなぁ」
 店主の声に若干の寂寥が漂う。アレックはまた軽く首をかしげた。
「そうだったんですか。それでも随分賑わっていますよね、すごいですね」
「谷の人間の行き来は減ったけど、代わりに最近は外からの商人が増えてね。むしろ全体的には増えてるんだ」
「あれ、そうなんですか」
 市場通りに来るまでにアレックが考えていた事が軽く覆される形となる。外部と太い繋がりを持たず、閉鎖的な地方市だと考えていた。
(交通網がないのにどっからきてんだろう?)
 不思議に思いながらもプラムをかじりながらアレックは、気さくな店主に別れを告げて市場巡りを続けた。
(移動民族でも通りかかってるのかな~)
 などと思いつつ市場の品揃えを見ていると、
「あ、すみません」
 背中が誰かにぶつかった。
 謝る為に振り返ろうとしたところで、背中の布地を強く掴まれて動きを止められた。前を向かされたままのアレックの背中に、何か硬い感触がした。
「…!」
「騒ぐなよ」
 耳元にささやかれた低い声と共に銃口。
 直感的に分かった。
 人の肩が触れ合うほどに込み合った通りの中央。背中いっぱいに銃口を向ける人間の気配が感じられる。周囲は気がついていないようで、人の流れが止まったり動いたりを続けている。
(でも、何で僕が?)
 恐怖よりも疑問が先に生まれた。
「そのまま左の方へ歩いていくんだ」
 低い声が命令する。
(うーん、強盗?まさか僕ご指名じゃないだろうし)
「いてっ」
 考えていると背中を銃口で小突かれた。ちょうど背骨に当たって小さな痛みが走る。とりあえず、声に従って歩き始める。
(僕ってそんなにスキだらけの旅行者に見えたのかなあ…)
 軍人として、多少プライドが傷つけられた気分になってアレックは溜息を洩らした。
「まっすぐ歩け」
 声は、市場に流れる人の流れに従った動きをアレックに求めている。どうやらこうして人波に紛れたままどこかへ連れ込もうという魂胆らしい。
(金目当てで旅行者を狙ってるってのなら、標的以外は無差別に殺したりしないよねきっと)
 そう思いついて直後、アレックは手にしていた食べかけのプラムを顔の横に持ってくると、思い切り握りつぶした。
「うっ!」
 酸を含んだ果汁がアレックの指の間から迸り、運良く背後の人間の目を晦ませた。しゃがみ込んで銃口から逃れ、アレックは背後の人影を突き飛ばすと人波に向けて走り出した。
「このヤロウ!」
 銃声が耳を掠っていった。流れ弾は道脇の天蓋の屋根に当たり、店主が声を上げて後ろに転がった。一斉に周囲からも悲鳴が上がる。
「ウソ、無差別っぽい??」
 思わず背後を振り返ると、男が一人、顔を乱暴に拭っている姿が見える。まともに目が合った。落ち窪んだ、鋭い視線が突き刺さってくる。小柄で痩せているが、蟷螂のように全身から鋭利な空気が滾っていた。
(逃げたら他の人に当たっちゃうよな)
 そう判断しアレックは腰に差していた軍の制式拳銃へ手を伸ばした。
 男が再びアレックに銃を向けるのと、アレックが銃を男に向けるのは同時の出来事だった。


 国軍シュトル局に勤務し、シュトル・セントラルの巡回任務にあたっている青年仕官がいた。彼の名はラファル。位は軍曹。竜翼谷の竜騎士隊出の青年だ。
 十三年前の大戦当時、彼は二十歳に満たない新米竜騎士であった。終戦後は国軍に仕官しシュトル局に勤務となり、谷からの召集がある日以外はこうしてシュトル・セントラルの巡回や警備を行っている。
 シュトル局勤務は彼の希望であり、三年前に精霊狩りが谷を襲って以来、彼は人が集まり易いシュトル・セントラルを自らの目で見張ることで谷への侵入者を防ぐ事を考えた。彼の他にもシュトル局には谷出身の仕官が数人いる。
 先日は駅付近で精霊狩りによる列車強盗が現われたという。終戦後は泰平が間延びしたかのように続いていたが、シュトル周辺はその限りではなかった。
「ラファルさん、休憩にしませんか。夜番でしたよね?」
 同僚が二人、中央道に沿って歩いていたラファルに声を掛けて来た。彼らはACC出身の士官学校出の仕官だ。ラファルより若いが、彼の功績については既知であり、位は同位ながら敬意を込めて接してくる。もっとも、ラファルが若い士官と同程度の位に甘んじているのは、谷との行き来にある程度融通が利くからである。
「そうするかな」
 背中のライフルを背負いなおしてラファルは空を見上げた。
 雲ひとつ無い青空。今日も、強い日差しがシュトルの街を白く輝かせている。
 日常の象徴であるはずの空模様に、この日、一発の銃声が木霊した。
「!?」
 同僚二人が弾かれるように振り向いた時には、すでにラファルは音の方向へと駆け出していた。顔を見合わせる人々の間をすり抜けて、ラファルは背中のライフルを手に構えて全力で駆け抜けた。音がした方向はだいたい推測できた。
「?」
 音の元に近づくうち、ラファルは表情を曇らせる。その場に留まる野次馬の数が増えているのだ。
(誰か死んだか…?)
 最悪の予感に突き動かされて野次馬を掻き分けると、人間と人間の隙間からその光景が見え始めた。
(谷の装束!)
 隙間から見え隠れしていたのは間違いなく、谷の人間がよく着用する衣服の模様と色だった。それを纏った若者と、シュトルの人間が着用する野良着を着た男が、銃を向け合って動きを止めていた。
 青年が手にしていた銃には見覚えがあった。
 軍の制式銃である。
(誰だあいつは)
 ラファルは疑問に思いながら、周囲にふと視線を巡らせた。
(えーっと、どうしようかなぁ僕)
 その時その青年は、銃を構えた姿勢のまま、呑気にそんな事を考えていた。
 谷の装束を着た青年、アレックの脳裏には先ほどから、不思議と恐怖よりも疑問符ばかりが浮かんでくる。パニックを起こさずにいられるのは、彼にとって幸運と言えた。
(こういう場合って、撃っちゃえばいいのかなぁ。でも撃ったら撃たれる?相手だって同じ事考えてるよねきっと。この人どうするつもりなんだろう)
 アレックが銃を向けている相手は、落ち窪んだ鋭い目を細めて、銃をこちらに向けたまま微動だにしない。焦っている様子は無く、尚更アレックはどうして良いか分からないでいる。
 この状態から既に数分が経過している。周囲にあつまる野次馬は増える一方で、余計に逃げられない状況になってきていた。
 そんな時、
「?」
 アレックの視の中で、男の口元が小さく笑ったのが見えた。
 背後に新たな殺気を感じた瞬間、
「危ない!」
 鋭い声が左側から飛んできたかと思うと、一際大きな銃声が至近距離から爆発した。
「わわっ!」
 思わず体を窄めてしゃがみ込む。野次馬の間から姿を現した国軍警察局の兵服を身につけた男が片手で発砲しながら駆け込んできた。アレックの真後ろで短い断末魔が炸裂し、足下に重たい音をたてて別の男が転がった。装いは一般市民だが、倒れた体の側にはナイフが落ちていた。
「あ、あのっうわあ」
 呆然とする間もなく男が左手でアレックにタックルを食らわしてきた。地面に転がったと同時に頭上を銃声がすり抜けていく。何か固い物に当たった音と共に、また周囲から悲鳴が複数上がった。
「どこの誰だかわからんが」
 アレックと共に地面に転がった男は立ち上がりざまに銃を前方に発砲した。「ぎゃっ」とカエルが潰れたような声と共に、アレックに銃を向けていた男が血を吹きながら空中に飛んだ。
「無闇にここでその装束を着るもんじゃない」
 一瞬で二人の強盗を撃ち殺した男、ラファルは、まだ周囲に銃を向けたまま立ち上がった。
「これ?ここで?あの…」
 銃を手にしたまま地面に座り込んだアレックは、呆然と男を見上げていた。だが、のんびりと座っても入られない事に気がつく。
「?」
 散り散りに逃げ去っていく野次馬達の間から、こちらに殺気を含んだ視線を向ける新たな人影に気がついたからだ。





ACT9-2⇒
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押印師ACT9-2
02

 エルリオが朝目覚めると、窓からまず見えたのは薄らいだ白色だった。霧が谷全体を包み込んでいるのだ。眠たい目を擦りながらベッドから這い出すと、すでに先に目を覚ましていたミリアムが、高台から下界の景色を眺めていた。朝靄に溶け込むように線の細い髪の毛が、朝露のように煌いている。
「おはようございます」
 微笑んでそう振り返るのは、いつものミリアムだった。
「お、おはよぉ」
 声が上ずったのは、無意識にリューシェの存在を怖がっていたのか、ミリアムの姿に見惚れていたからか。それでも懸命に普段を装ってエルリオは手を振って駆け寄った。昨晩の出来事は、もう少し頭が整理されてから話す事にしよう、と心に決めていた。
「見てください、エルリオさん」
 細い指先が指し示すのは、薄靄が掛かった空。だがよく目を凝らすと、薄い靄のヴェールの向こうには青空が広がっていた。靄が光を遮り、谷全体はまだ仄暗い。だが徐々に晴れつつあるヴェールの隙間から光が差し込み、無数のエンジェルラダーが高台に向けて降りてくる。
「すごい…」
「綺麗ですね~」
 高台に並んで立つ二人の少女は、朝を迎えた谷の中で、共に空を見上げていた。
「お目覚めですか」
 下から登ってきた足音と共に、二人に声が掛けられた。
「あ、おはようございまーす!」
 若い竜騎士の青年が岩段を駆け上がり、更に上へと登ろうという所だった。上の段には騎竜舎がある。当番なのだろうか、最初に上がってきた青年に続き、二人、三人と姿を現して会釈を残して上へとい駆け登って行った。
「お勤めご苦労さまでーす」
 向けられる会釈に小さくそう呟きながらエルリオも会釈を返した。
「爽やかな朝だな~」
 早朝は竜達もまだ目覚め時なのか、空を飛び交う影もなく、静かだった。
「竜って、意外とお寝坊さんなのですね」
「だね~」
 同じ事を考えていたらしいミリアムも、雲のない青空を見上げて竜の影を探していた。
 そんな時、
「ギャーーーーーー!」
 二人の会話を無視した激しい嘶きが真後ろから上がった。
「え?」
「な、なんですか?」
 振り向くと、正確にはエルリオ達が立つ階層の斜め上部、騎竜舎のある一段上の高台からだった。これは、竜の悲鳴。
「どうしたんだ!」
「ラファエラ!」
「鎮まれ、ラファエラ!」
 ギャーギャーと嘶きを続ける声に重なり、先程の青年達の声も聞こえてくる。「ラファエラ!」という青年の声の直後、羽ばたき音と木材が壊される音が重なり、手綱を掴んだ青年を引きずる形で一匹の騎竜が高台から姿を現した。今にも飛び立とうとしているところを、懸命に青年達が押さえつけようとしている。だが、
「ラファエラ!」
 一際強い羽ばたきで手綱を振り切ると、ラファエラと呼ばれた竜は高台から身を投げ、エルリオとミリアムの頭上を掠り、下界に向けて急降下していった。
「ど、どうしたんだろう?」
 猛烈な風に一瞬よろけるが、すかさずエルリオは高台から身を乗り出す。急降下した騎竜は直角に角度を立て直して緑が描く地平線に向けて猛烈な速度で飛び去ってしまった。
「逃げちゃった…んですか?」
 呆然とミリアムも乱れた髪の毛を指先で直しながら、姿を消した竜の軌跡を目で追っている。
「どうしたんだ!」
「今のは誰の騎竜だ!?」
 下層から慌てて駆け上ってくる人々。
「ラファエラが急に暴れて…」
 手綱を掴んでいたために地面を引きずられた青年が立ち上がりながら苦しげに言葉を吐き出す。
「ラファエラは、ラファルの竜だ」
 聞き覚えのある声が反対側の崖から上ってきた。
「ご当主!」
 騒ぎを聞きつけたヴィルだった。今はコートを着用しておらず、黒の上下のみという軽装だ。呆然と身を寄せ合っている二人の少女を見やり、
「まさかまたお前たちか?」
 とでも言いたそうな視線を向けてきたが、
「ち、違うよ、私達は「まだ」なにも!」
 言われる前にエルリオが首を振って精一杯の否定をする。「そうか」とあっさり信用してヴィルはその場にいる青年達を振り向く。
「アヴェル、ロデイ、ラファエラを追ってくれ。恐らくラファルの元に向かったんだろう。ラファルはシュトル・セントラルだ」
 アヴェル、ロデイと呼ばれた青年二人は「は!」と短く答えると、「アーユ!」「ユナー!」ほぼ同時に各々の愛竜の名を呼んだ。直後、別々の方向から翼が翻る音が降ってくる。アヴェルはその場から駆け出し、崖から跳躍したところに騎竜が下から滑り込む形で主人を乗せる。ロデイはその場で手を上げ、背後から急降下する騎竜の手綱を掴み、ぶら下がる形でそのまま空へと上がっていき、急上昇する浮力を利用して竜の背に跨る。
 そして二つの羽影は共に交差しながらシュトル・セントラルの方向へと飛び去っていった。
「わぁ~…」
「まぁ…」
 全てが二人の目の前で疾風の如く展開されていく。少女達は感嘆の溜息と共にただ様子を眺めていた。
「どうしたんだろうね」
「どうしたのでしょうね」
 と顔を見合わせていると、その場にいる人々になにやら指示を出していたヴィルが、片手を上げて風を呼んだ。そしてまたエルリオを一瞥すると、金髪の当主も、去っていった竜達を追う形で飛び去っていったのである。
「お前はおとなしくしていろよ」
 と、向けられた視線にはこめられていたようにエルリオには見えたが、
「私達も、行ってみようか」
 静かに従うエルリオであるはずもなく。
「はい!」
 ミリアムも悪い方向に感化されているようだ。

 
 散り散りになり遠巻きから様子を窺う野次馬達の向こうから、「ラファルさん!」と若い同僚達の声と足音が近づいてきた。
「待て!」
 叫んだラファルの声は一瞬遅く、視界に姿を現した同僚二人の左手側で人影が動いたかと思うと、突然、内臓に響き渡るような低い爆発音が破裂した。
「うわっ!」
「わああ!」
 反射的に目を閉じたアレックだが、ラファルの視は目の前の出来事を鮮明にとらえていた。駆けつけた同僚二人が手にしていた銃が、突如同時に暴発したのだ。二人は腕をかかえてその場に転がった。
「捨てろ!」
 ラファルは手にしていたライフルを投げ出し、背後のアレックからも銃をもぎ取るとそれも放り投げる。
「あ」
 とアレックの間の抜けた声が終わらないうちに、ライフルと国軍制式銃は石畳の上で爆発した。金属片が飛び散る。咄嗟に体を丸めて顔を庇った。
「ふん」
 劈く爆発音による耳鳴りの中、新しい声が鼻で笑ったのが聞こえた。
「勘の良い奴だ」
 度重なる爆発音により、野次馬達のほとんどが逃げ去り、賑やかだった往来が一転、色とりどりの商品達が閑散とした通りにとり残されたままとなった。
 その場に残ったのは、座り込んだアレック、その前に立つラファル、そして、シュトルの民が一般的に着用する砂色の野良着を着用し、頭と肩に刺繍入りの布を巻きつけ風に靡かせる出で立ちの男が正面に一人、右と左から一人ずつ、計三人。
 声を発したのは正面の男だった。肩にかけた布が顔の下半分までかかり、口元が見えない。また、頭に巻いた布が目深なために、顔全体に影がおりて面持ちが判断できない状態だ。
「貴様に用は無い。どいてな」
 正面の男がラファルに向けて右腕を上げた。その手には、この日照りに相応しくない厚手の手袋。訝しく思う間もなく、男が鋭く手を一振りすると、アレックとラファルの真後ろに立つ天蓋からも爆発が起こった。
「いっ!」
 爆発したのは天蓋を支えていた金属棒の両柱。支えを失い、厚布が粉々に飛び散った商品の残骸の上に落ちた。
 銃を暴発させ、天蓋の金属柱を爆発させた、力。
(金属を爆発させる力?そんな精霊の印があるのかな…)
 金属を意のままに変質させる事が可能な印の存在ならありそうなものだ。嫌な予感がしてアレックは付近に落ちているナイフを拾い上げて横に放った。その動きに男が反応すると同時にナイフが小さな炎に包まれた。
「…あれ?」
(今度は爆発じゃない)
 ナイフが炎に包まれたのは一瞬で、今は転がり落ちた地の上で燻っている。
「…おい、余所見するな」
 首を傾げるアレックにラファルは苦々しく呟いた。
「この人たち、なんなんですか、あの力は一体」
「精霊狩りだろう。あの男は恐らく押印持ちだ」
「ええ?」
 ラファルの言葉に驚きアレックは首を横に振った。
「僕、印なんて持ってませんよ!押印だってしたことないのに!」
「だから言ったろう」
 男達にも聞こえるように声を上げるが、あまり効果はないようだ。代わりに答えるかのように、ラファルが男達と対峙したまま忠告を繰り返す。
「ここでその服を着るもんじゃないと。それは谷の装束だろ」
「ああ、はい、昨日もらったんですが」
「精霊狩りに「殺してくれ」と言っているようなもんだ!」
 突如足下の石畳の間からいくつもの細い砂柱が突きあがる。ラファルは再びアレックの襟を掴んで引き倒して自分もその場から跳び、尖端を持った砂柱をかわす。が、次々とラファルが移動する足下を狙い砂が複数の鋭利な切っ先をもって突きあがる。天蓋に近づけばすかさず爆発が起こる。見渡せば辺り一面は砂に敷かれた石畳と一列に並ぶ天蓋。罠の中央に放り出されたも同然の状態だった。
「うわわ」
 慌ててアレックは先ほどの爆発で崩れたブロック塀の上に飛び乗る。それが砂を固めて作られたブロックである事をセントラル育ちのアレックは知らない。
「おい!」
「え」
 陥没音が足下から聞こえ、気がついた時には足下の瓦礫が砕け、砂となった瓦礫がアレックを中心に包み込むように上がった。二人目の男の、腕の動きに呼応し中空に上がる砂の飛沫はそのまま瞬間凝固し尖端をもってアレックの頭上に降り注ぎ始めた。
「!」
「ちっ!」
 瞬時に意を決し、ラファルは己の右手に念を込め刹那に振りぬいた。乾いた地を這っていた風の微粒子達が一斉に覚醒し、ラファルの命に従い風の扇となってアレックに襲い掛かる砂の凶器に横殴りにぶつかって行く。砂の針山は粉々に砕けて風と共に消散した。
「な…」
 僅かに驚動の声を上げた男達は風の操作主であるラファルを振り返る。
「お前も谷の人間か」
「しかも印保持者とは儲けモノだ」
 三人の男達は顔を見合わせて薄く笑い合う。
(谷の人間を狙う精霊狩り?)
 男達の会話とラファルの言葉を統合させて、アレックはようやく事態を飲み込めた。
「中尉酷いです…それが分かってて僕にこの服を…」
「何を言ってるんだお前は」
 独り勝手に落ち込むアレックを、ラファルを含む面々は脳裏に疑問符をめぐらせながら見ていた。
 ただ、イリオンから渡されたジャケットを着ずに規則違反を犯していた自分の過失をアレックは丸きり忘れている。ヴィルにしてみればあの装束は一時的に着用する事を見越しており、また深夜便の運休など知る由もなく、ましてや彼が軍部施設ではなく街中の民間宿に宿泊するなど想像だにしていないのだから、ほぼアレックの自業自得なわけである。
「まあいい。まずは印持ちの貴様からだな」
 三人目の男が一歩前に踏み出す。着衣の胸元に手を差し入れるとそこから銃を取り出した。銃口はラファルに向けられる。
「わわ」
 その光景にアレックが声を上げるが、ラファルは狼狽する様子を見せずにすかさず印を発動させる。男は間をあけずに発砲してきたが、足下を這う風に浮力を持たせてそれを避けた。二人目の男が再び砂の剣山を次々と出現させてラファルを追う。風塵を起こして砂を蹴散らし、断続的な発砲を不規則な動きでかわしながら低い姿勢から正面の男に向かった。金属が身近に無ければ―
「―ふ」
 ラファルの読みをあざ笑うかのように鼻腔で笑って男は、袖から指先に何かを滑り落とすと、指先を弾かせてラファルにそれを放った。
「え…?」
 中空で緩慢に弧を描くそれは、薬莢だった。強い陽光を受けて反射光を放つそれが、アレックの視にも届く。ラファルの目がそれを何であるかが確認される前に、小さな金属は目の前で爆発を起こした。
「くっ!」
 辛うじて目を護るために咄嗟に風を逸らして体を横に逃して石畳を転がるが、すかさず砂の槍罠が突き出してくる。それを避けた先で今度は三人目の男が銃を放ってくる。転がりざまに体勢を立て直すと頭上に今度は複数の薬莢。
「また…か!」
 正面の男が手首を捻る仕草を見せたと同時にラファルが風の幕を張る。直後、中空にあった小さな薬莢が凄まじい爆発を起こした。横に吹き抜けた風の幕が散弾銃のように飛び散る金属からラファルを保護する。
「ど、どうしよう、僕…」
 武器もなく、他に戦闘能力や実戦経験の無いアレックはただ、目の前の光景を追うのが精一杯だ。無闇に動けば標的にされてしまいかねない。少しでも自分を落ち着かせようと周囲を見渡すと、駆けつけた瞬間に爆発にやられた二人の若い国軍の士官が少し離れた場所に倒れているのが見えた。息はあるようだった。
(警察局の人なら…ライフルの他にまだ銃を持っているはず…だけど)
 何か自分に出来ないかと考えるが、銃を持ちなおしたところでまた爆破されるのがオチだ。ラファルが男達の攻撃から懸命に身をかわしながら反撃の機会を狙っている様子を見ている事しかできない。
 こうして冷静に見てみると、男達一人一人の動きは特筆して運動能力があるとは思えない。それぞれの攻撃には隙があるが、三人揃う事で攻撃に連続性が生じており、ラファルに反撃の機会を与えていないのだ。ラファルの体力が尽きるのは時間の問題だ。
(……薬莢?)
 男が投げた薬莢のうち、不発だったものがアレックの足元にも転がってきた。長さが三センチ、直径一センチ足らずの、空の薬莢だった。
(火薬がない?)
 手には触れずに遠目に眺めるが、落ちている薬莢の中は空洞で火薬が詰まれているなどの仕掛けがあるように見えなかった。全く意味が分からず首を傾げるが、
「あ~…」
 突然閃いてアレックは後ろを振り向いた。先程、男が爆破した天蓋の残骸が無残に転がっている。そこに転がっている、パイプ状の金属棒の残骸。そして、爆発せずに燃えただけのナイフ。
「もしかしてあの人達の使う精霊印って…」
 突破口の可能性を見出してアレックは再び周囲に視線をめぐらせた。そして、数歩離れた場所に置いてある、水瓶に気がつく。日照りの強いこの街に、数十メートルごとに設置してある打ち水用の瓶。並々と満たされた水面は、太陽光を浴びて輝いている。
 あの水で、まず砂を操る男の動きを止められるはず。
「間に合えっ」
 脳裏に浮かんだアリサの幻影に小さく祈りながら、アレックはその場から駆け出した。
「む…っ」
 いち早く気付いた三番目の男がアレックに銃口を向ける。
「やめろ!」
 断続する砂槍から逃れながらラファルが叫んだ。確認する暇はなかった。アレックは真っ直ぐ水瓶に向かう事だけを考える。バスッと乾いた音がして、すぐ背後を発砲音が通過していくのが感じられた。
「ちっ…下手くそが」
 弾を外した三番目の男に舌打ちしながら薬莢の男はアレックに最も近い天蓋のパイプに向けて右手を伸ばした。直後、また金属棒が爆発を起こし、直前までアレックがいた場所の近くにあった水瓶ごと周囲を破壊した。
「な…!」
「やった!」
 頭から前方に滑り込んで爆発を免れたアレックは、転がりながら歓喜の声を上げた。破壊された水瓶の中に収まっていた水は、爆破の衝撃と勢いで四方一面に水を撒き散らす。一帯の砂がスポンジのごとく水を吸い込み変色していった。
「ちっ…」
 砂を操っていた二番目の男は焦燥の声を漏らして腰から銃を手に取った。
「やっぱりそうなんだ」
 それを目にしたアレックは自分の推測が正しい可能性が高まり、水と水瓶の破片まみれになりながらも笑顔を零す。難しい問題を解いて誉められ、喜ぶ子供のように。
「でかした」
 即座にラファルはアレックの方に駆け出す。相手が通常武器に切り替えたとあれば、印保持者にとって脅威は半減したと同然。二方から発砲されるも軽い動きでラファルが作り出した風の幕が弾丸を全て弾き飛ばしてしまう。
「調子にのるなよ!」
 激昂を発して真ん中の男が動きを見せた。この気候に見合わない分厚い手袋をした右手で左腕を押さえると、一瞬、男の全身が赤黒い光を発してすぐ消えた。
「何…」
 答えが出るはずもなく、直後に男はラファルに向かい地を蹴る。十歩分の距離が息を吸い込む間もかからず二歩分に縮まり、
(速い!?)
 と思う隙を与えぬ間にラファルの顔面に向け厚手の手袋をした両手を互い違いに合わせた。
「空洞はだめです!」
 ラファルの背後でアレックが叫ぶ。
「え」
 言葉の意味を理解する前に、目の前に迫っていた男の両手が赤黒く発光し、
「ぐあ!」
 かつてない鋭く大きな爆発がラファルの目の前で炸裂した。



ACT9-3⇒
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素敵なイタダキ物 fromミソラ様
またまた、ミソラさんから素敵な贈り物を頂きました!

↓クリックして原寸大が見られます

gift0002-misorasan003.jpg



グレリオの段々畑から景色を見下ろすイルト、
そして何気にアムリです。

ミソラさんの絵はとても味があって、
眺めれば眺めるほど感慨深くなってまいります。

イルトがお気に入りという事で、
そんなキャラクターを書いてくださって感激しました!

いつもありがとうございますm(_ _)m
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押印師ACT9-3
03

「最近、良い天気が続くな」
 朝。ダイニングの窓から見える広い庭を眺めて、アリタス国軍大佐ジョシュ・シールズは言った。
「雨が降ってくれないので、お庭の水やりが大変なのよ」
 キッチンから、シールズが青年実業家から略奪したとの噂の愛妻がティーポットを運んでくる。言葉とは裏腹に、明るい日差しがうかがえる窓の外を見ながら楽しそうに答えた。
「何だか最近楽しそうなのね。お仕事が上手くいっているの?」
 愛妻アマリエ・シールズはティーカップにプラムフレーバーの紅茶を注ぎながら、夫の顔色を覗き込んだ。夫ジョシュ・シールズは庭で啼く犬の方を見やりながら、鼻腔をくすぐる紅茶に満足げに微笑んだ。
「そうでもないけどな。三年間も同じものを探し続けているのに、未だに見つからない給料ドロボウだから」
 それを聞いてアマリエは「ふふ」と小さな鈴のような笑みを喉に転がした。
「貴方と出会って結婚するまで、三年半、でしたわ」
 それはつまり、シールズがアマリエを口説き落とすのに要した年月だ。
「もうすぐ見つかるってことか?」
 夫は、窓に向けていた視線を愛妻に向ける。
「貴方の努力次第ね」
 アマリエは最後にまた微笑むと、ティーポットを持ってキッチンへと姿を消した。
 今日も、シールズ家の早朝は穏やかに過ぎていこうとしている。
 遠い砂と石の街では、紅茶の香りとは無縁な状況に陥っているというのに。


 気候に見合わない不審なほどに厚い手袋は、自らの手の平で爆発を生成する為の防備だった。頭に引っかかっていた疑問は解けたが、それを喜ぶ暇がアレックには与えられなかった。
 顔面の片側を抑えて倒れこみながらもラファルは右手で風を起こして男を牽制した。遠くから飛んでくる弾丸も風に弾かれる。
「どういう意味だ」
 顔の片側を抑えるラファルの左手の指の間から、赤い筋が漏れ出していた。
「か、顔、顔大丈夫ですか!?」
 逆にアレックの方が狼狽して声が裏返る。
「そんな事どうでもい―」
 風の壁が消えかける向こうで男が、今度は軽く拳に握った左手を前方に突き出した。手の平の内側が赤黒く光る。
「っち!」
 振り向きざまに風を起こしながらラファルはアレックの腕を引っつかんで後ろに転がる。至近距離で肌に響く爆発音が連続し、風壁と爆炎を突き破り男がラファルに肩から体当たりを食らわせてきた。そのまま馬乗りとなり、男の右手が再び赤黒く光を宿し始める。
「やめ―」
 咄嗟にアレックが飛びつこうと動きかけると同時に、後頭部に硬い感触。
(―!)
 三人目の男が銃を突きつけている。
 アレックの目に、ラファルに馬乗りになった男の口元が酷悪な笑みを浮かべたのが映った。
「待て!」
 別方向からの声と共に、ラファルに馬乗りになった男の周囲で複数の炸裂音が上がった。複数の弾丸が円を描いて着弾し、砂煙が上がる。
「!?」
 アレックの背後にいた男も吃驚し顔を上げると、市場通りの交差道から姿を現し、こちらに銃を向けている警察局員の姿があった。騒ぎを聞きつけたのだろう。
「銃はダメです!」
 アレックが叫ぶと、警察局員は慌てる様子をみせずに銃を前方に投げ捨てる。と同時に四方八方から瓦解音と共に水柱が上がった。
「な…?」
 驚く複数の声を掻き消す爆音を上げながら複数の水柱は突如に角度を不自然に変え、蛇のように上空からラファルやアレックごと男達を飲み込んだ。
「ごばっ」
 間の抜けた事に口を開けたままだったアレックは、奇妙な噎声を発しながら転がった。川を逆流するように必死で顔を上げると、顔を抑えてうつ伏せ状態から起き上がろうとするラファルが目に入った。
「だい、大丈夫ですか!?」
「援軍…か?」
 ラファルの言葉を受けてアレックが前方を見やるとそこに見知った顔を発見して叫んだ。
「少尉!」
「あ?」
 階級で呼ばれた人影は、騒ぎを聞きつけたシュトル局の警察局員ら数名の先頭に立っていた。いずれも男を警戒してか武器を手にしておらず、代わりに押印を所有していると思われる面々が「少尉」と呼ばれた人間の背後に控えている。水を操った者も、その中にいるのだろう。ちなみにどうやら先程の水は、他の場所にある瓶の水だったようだ。
 その一隊を指揮しているのは、昨晩アレックを駅に送り届けたイリオン少尉だった。
「なんでお前がここにいるんだ」
 アレックをアレックだと見とめたイリオン少尉の第一声は、当然の疑問から始まった。
「はぁ、まぁ、それは…」
 言葉を濁しているうち、水に襲われ近くに転がっていた男が身を起こした。
「捕縛するぞ」
 すかさずイリオンが背後に合図を配ると同時に、野良着の男に向かい走り出す。「は」とイリオンの背後にいた若い女性士官が肩にかけていた軍支給の水筒を手に取ると、それを前方に向けて高く投げつけた。
「伏せて!」
「ぎゅ」
 高い声が鋭く響いた。上からラファルに押さえられてアレックも濡れた石畳に潰れる。途端、頭上で破裂音と共に水飛沫が四散した。水筒に詰まった水が女性士官の押印に反応し膨張し、鋭利さをもって幾又のパルチザンと化し地上の獲物を狙う。
「くそっ!」
 水を含み、役に立たなくなった手袋を投げ捨て、男は素手同士を再び交互に重ね合わせて赤黒い発光を生み出した。中空に爆発が広がり、三人の男を狙った水のパルチザンの刃先を砕く。
「おいおい、素手でかよ」
 爛れた両手を抱えながら男は踵を返して走り出す。残りの二人も動きを見せた。砕け、頭上から豪雨のように降り注ぐ水飛沫を浴びながらイリオン少尉は手にしていた錘のついた捕縛ワイヤーを男の一人に向けて放った。
「っ!」
 ワイヤーは銃を構えかけた男の手首に巻きつく。イリオン少尉が強くワイヤーを引くと手から銃が落ちた。
「引け、逃げろ!」
 ワイヤーに捕まった状態で男が残りの二人に向けて叫ぶ。
「く…!」
「俺に構うな!」
 躊躇する二人に叱責を飛ばして男は自由な左手で顔を覆う布を剥ぎ取った。
 現れた素顔は、黒髪で痩せ型の、何ら特徴の無い男の顔。
ただ一つ、顔半分を覆うように描かれた、模様を除いて。
「顔に押印!?」
 アレックに肩を借りて立ち上がったラファルの言葉通り、砂を操っていた男の素顔は、その半分を押印で刻まれていた。
「やめろ、それ以上使うな!」
 三人目の男が叫ぶ。仲間の声を無視して男は左手を己の顔に当てると短い息と共に殺気を放った。
「少尉、ワイヤーを放せ!」
「!」
 反射的にラファルの声に弾かれて、イリオン少尉はファイヤーから手を振り放すと部下に「下がれ」と命令を上げながら後方に跳んだ。ほぼ同時に、瓦解音と共に足元の石畳が一斉に割れた。連鎖し、呼応するように通りの両端に立つ石造りのブロック塀や壁が粉砕した。
「え、何で…!」
 アレックはその光景に瞠目する。彼の計算では、この男が操る事のできる印の力では砂の物理的操作に留まるはずであり、現に先刻までは、水が含まれて変質しただけで砂を操る事が出来なくなっていた。
 足を止められたイリオン達から踵を返し男達は駆け出す。
「逃がすか!」
 アレックの手を振り切りラファルが最も近くにいた男、銃を爆発させた男、に向かい、地を蹴る。
「追え!」
 イリオン少尉の声と共に四方から、建造物の屋根上から、いつの間にか包囲を固めていた国軍警察局員の面々が姿を現す。
「逃げろ!」
 顔に砂の押印を持った男が再び足を止め振り返る。顔面の半分を覆う押印が光り、通りの石畳に蛇のように新しい亀裂が走り、砕けた石畳と砂が瓦解して隆起した。両脇の家屋の屋根も崩れ落ちる。
「うわっ!」
「頭上注意!」
 男の押印が再び光、無数の石片が中空と四方から弾丸のように降り注ぎ始める。ラファルは空に向けて風を起こし、イリオンの背後に控えている押印所持者の士官たちも襲い来る石と砂の弾丸を、水を操り押し流す。だがここは砂と石の街、男の押印が発する命令に従い無数の砂と石達はその身を砕き、鋭い破片となり止め処なく凶器と化して周囲に襲いかかる。
「きゃー!」
「わああ!」
 防ぎきれなかった石は容赦なく国軍人達を切り裂いていく。市場通りの中心部は完全に大地の破壊により瓦礫と砂と化している。踊り狂う砂が嵐となり、その中央にいるアレックとラファルは両手で頭を庇いながら懸命に目を開けた。
「押印でこれほどの力……」
 舌打ちしたラファルの目は、砂の男の様子をとらえる。
「が……ぐ…」
 嵐の中心で姿が見え隠れする男は両手で顔面を押さえて背中を丸めていた。凄まじい音の合間に呻き声が漏れ出してくる。
「…おい、もうやめろ!」
 脳裏に浮かび上がる凶悪な不安にラファルは嵐の中心に叫んだ。一方で残った二人の男達も、砂嵐の向こうから何かを叫んでいるのが窺えた。
「これ以上は―」
 更に言いかけたラファルの声は、
「ああああああああああ!」
 男の絶叫と共に地の底からせりあがる震動と瓦解音で完全に掻き消えた。

 前方に見え始めていたシュトル・セントラルの街影、その中心に突如として巨大な砂色の柱が突き上がった。
「砂…か?」
 これまで目にした事のない光景にヴィルは目端を細めた。
「大丈夫だ、落ち着け」
 騎竜が悲鳴をあげて首を振る。優しく後ろから撫でてやる事で落ち着かせ、騎竜アーユに騎乗するアヴェルは更にセントラルに向けてスピードを上げさせた。
「明らかに自然現象ではありませんよね」
 前方を飛ぶヴィルに確認を求めると、「だろうな」と声が戻る。
 その更に前方を飛ぶラファエラはそのまま、巨大な砂柱に向かって急降下を始めた。そこに、ラファエラの主、ラファルがいるのだ。
「俺はまっすぐラファエラを追う。アヴェルは東から、ロデルは西から回り込んでくれ」
肩越しに振り返る当主の命に二人は「了解!」と応える。頷き返したヴィルは「いくぞ」と言い残し、ラファエラを追ってセントラルに向かい急降下していった。
 二人の竜騎士はお互いに顔を見合わせ、そして頷き、左右に分かれていった。二つの影が巨大な円を描くように旋回する。
 その様子を低空から見上げていたのは、エルリオとミリアム。姿を隠すために彼らの死角となる斜め下方の位置を保ちながら飛翔の印を用いて低空を進んできた。
「何だか大変な事になっているようですが…」
 横からしがみ付くミリアムの言葉通り、エルリオの目にも遠くに見える石と砂の街に異変が起きている事は充分に分かった。だが、近づく事への危険よりも、そこで起きている事象解明への好奇心が勝っている。エルリオはヴィルの影を見失わないように、押印に力を込めて速度を上げた。
「!」
 天を突き破ろうかという程に高く聳えた砂柱が、急に上昇の勢いを失うと中空で扇を広げたように膨張する。渦を巻き、竜巻と化した砂は中空で螺旋を描いて円を描きだす。地面から吸い上げられる大量の砂と石が竜巻に寄り集まり、厚みを増していくそれは、徐々に姿を象り始めた。
「な、何あれ…生き物?」
 見上げるエルリオの目に、空いっぱいに広がる砂色の巨大な蛇が現われる。蛇のように思えた長大な胴を持つそれは、前足を有しており、蜥蜴といった方が相応しい。
「ななななな何ですかあれ!」
 砂嵐に吹き飛ばされながらもアレックは辛うじて残った塀の残骸にしがみ付きながら、空を覆う砂蜥蜴を見上げた。
「なんてことを…!」
 ラファルは、出血を続ける顔に手を添えるのも忘れて、呆然と空を見詰めていた。対照的に、部下達に命令を叫んでいたイリオン少尉が舌打ちしながら言葉を吐き出す。
「あいつ、暴走しやがった!」
(―暴走?)
 聞き覚えのある言葉にアレックは目を見開く。
 暴走。押印を制御しきれなくなった人間が起こす事象。暴走の様相は様々だが、この場合は最も手が付けられない状態―力を放出したところで拠り所を失った精霊が迷走し、見境なく暴走する―それだった。
「これが、「暴走」…」
 自分の力が及ばない出来事の最たる具現を目の前に、アレックは文字通り動く事ができずにいる。
「水よ!」
 再び、少し遠方から水柱が複数本上がる。それぞれが水飛沫の尾を引きながら砂蜥蜴を取り巻くが、口を開けて旋回する巨体に飲み込まれて消失した。
「効かない…!」
「無理だ、あの程度では!」
 ラファルは固く唇を噛む。己が持つ旋風の印でも、あの砂の暴走に太刀打ちは不可能だ。
「軍曹!そこから離れるんだ!」
 砂塗れになりながらのイリオン少尉の声がラファルにも飛ぶ。
 周囲を見渡せば、男の姿は砂に飲まれて見えなくなっていた。中空を旋回していた砂蜥蜴は、足元に屯している人間達の姿を目に留める。
「目が合った…気がします…」
 アレックが引きつる笑みを浮かべると、
「悪い冗談を…っ!」
 空から急降下してくる砂蜥蜴の姿がそこにあった。ラファルはアレックの襟を乱暴に掴んで滑り込むように跳ぶ。
「ぶわっ!」
 地面に激突した砂蜥蜴の顔面が砕け、大量の砂が辺り一面に流れ散る。そしてすぐさま再び胴体に寄り集まり、砕けた顔面が再生されて口を開けた。
「下がれ!」
「っわ…」
 激しく体を押されてアレックは後方に転がった。まだ名前も聞いていなかったラファル目がけて砂蜥蜴が襲い掛かる光景に、
「そんな…!」
 そう叫ぶしか出来なかった。
―キュイイイイイイイイイッ
「!」
 瞬時、死を覚悟したラファルの耳に滑り込んできたのは死神の嬌声ではなく、頭上から降り立つ愛竜の鳴声だった。
「ラファエラ?!」
 体が自然に動いていた。空に向かい手を伸ばすと、ラファエラの首から垂れる手綱がラファルの掌に収まった。力強く握ると同時に凄まじい力で上空に体が引き上げられる。砂蜥蜴の首がラファルの足下を掠っていった。
「竜!」
「竜だ!」
 国軍兵達が顔を上げ、次々と声があがる。覚束ない足取りで何とかイリオン少尉の元にたどり着いたアレックも、竜と共に空に舞ったラファルの姿を目で追っていた。砂蜥蜴の意識を引き付け、高く上昇する。浮力を利用して体を回転させ、ラファルは愛竜ラファエラの背に跨った。
「ラファエラ…」
 名前を呼ばれ、背中から顔を撫でられ、ラファエラは満足そうに一声啼いて中空で旋回し蜥蜴の首をかわした。
「キュウウウ!」
 ラファエラは体を捩りながら翼を撓らせて風を呼ぶ。呼応してラファルの印が発動し、風が扇形となり砂蜥蜴の脳天を割る。
「―ダメだ」
 手ごたえはすぐに空回りとしてラファルに感じられた。一度は飛散した砂が再び寄り集まり蜥蜴を模りつつある。蜥蜴の造詣は所詮、砂の集合体に過ぎないのだ。崩したところで時間稼ぎにしかならない。
「キュッ!」
 ラファエラの小さな悲鳴とほぼ同時に、町の東西から更に二箇所から砂柱が上がる。
 目の前で再生しかかっている砂蜥蜴の向こうに、上がった砂柱の尾が揺らめき、それぞれが意思を持っているかのように地上に襲いかかる。民家が集まる一帯からも砂煙が上がっていた。
「セントラルを潰す気なのか…!」
顔半分を濡らす血を乱暴に拭いながら思案するラファルの頭上から、
「ラファル」
「!?」
 聞き覚えのある声がかかった。振り向くと、金色の髪の長身がある。ヴィルだった。
「ご当主!何故―」
 言いかけたラファルの言葉と重なり、背後から更に二つの竜の鳴声が交差していった。見ると、東と西の二方向から新たに現れた騎竜の影が暴れ狂う砂の尾へと突入していく。
「竜が増えた…すごいや!」
「感心してる場合かお前は」
 国軍の軍服を着用しているラファルとは異なる、新たに現れた谷の装束を着込んだ二人の竜騎士の姿に、アレックのみならずイリオン少尉率いる一隊の面々も驚嘆の声を漏らしている。
「あれは?」
「アヴェルとロデイだ。ラファエラが突然暴れて谷を飛び出した。それを追ってきたのだ」
 説明が終わらぬうち、遠方の砂柱がそれぞれ崩れ去るのが見えた。ヴィルは右手を頭上に翳して風を呼ぶと、足元で蠢く砂蜥蜴の首に向けて真上から風の斧を振り落とす。真っ二つに砂柱が割れて砂が広範囲に拡散する。
「ラファル、この首は任せた。暫く時間を稼いでくれ」
「了解しました」
 ラファルの頷きを受けてヴィルは地上に向かう。この砂嵐を引き起こした元凶の姿を探す。市場通りの中央と目見で判断し、その付近に着地する。イリオン少尉の姿を見つけるとその背中に駆け寄った。
「あ、あなたは竜翼谷の…」
「頭と尾の動きは我々が食い止めましょう。民間人を避難させて下さい」
 ヴィルの提案に頷いてイリオン少尉が背後に二言、三言の命令を発すると、部下達は一斉に動き出す。よく統率されていた。
「暴走を止める方法は」
「元凶を止めねばならないのだと思います」
「やっぱりなあ…」
 男の姿は既に砂に飲み込まれ、竜巻の寝床と化している。竜巻は周辺を瓦解させ砂と石を飲み込んでは放射を繰り返して市場通りを中心に街を削って進む。近づく事も容易ではない。
「少尉も、ここを離れた方がいい。精霊の暴走は、我々に任せてもらえないだろうか」
「しかし…」
「我々が起因している事です。責任を取らねばなりません」
 ヴィルの静かな視線を受けて、イリオン少尉は二拍ほどの呼吸の後に頷いた。
「………」
 去っていくイリオン達の足音を背中で聞きながら、離れた場所で暴れ狂う竜巻の根元を、ヴィルは凝視した。
(あの中心に人間が……?)
 嵐の中心部に飲み込まれて体が無事であるとは考え難かった。
「あ、あの……レストム元中尉…」
 振り向いたところで、瓦礫の影から遠慮がちにこちらを見つめているアレックに気がついた。
「何故お前がここに…」
 イリオン少尉と全く同じ言葉を向けられて、アレックは肩を竦める。怒られるかと覚悟を決めた子供のような視をする彼に、だがヴィルはもはや言及を諦めていた。彼が身につけていた谷の装束で、粗方の原因は想像に容易だ。
「あの…ごめんなさい、僕、迂闊でした」
「俺が言い訳を聞いても仕方がないだろう。離れていろ」
「す、すみません。僕、谷の人に間違われて襲われたんです。暴走してしまった人の他に、火の印を持つ人、通常武器を扱う人が三人いました」
 アレック達の頭上でまた竜の嘶きが響いた。
「僕、押印とかよくわかりませんけど、でもあの人たちの力はそんな大した力じゃなかったはずなんです」
「大した事ないはずが、暴走するとコレになるのか」
 辟易した面持ちでヴィルは頭上を見上げる。
「本当です。現にあの砂の人は砂に水が染み込んで変質しただけで操れなくなっていたし、爆発を起こした人だって、火力自体は大した事なくて単に、空洞を利用して小さな火花を起こす事で爆発を起こしていただけだと思うんです、エクスプロード弾と似た原理で―」
「結構な応用力だね、それは」
 また別の嫌な声が聞こえてきた。
「お前…!」
 今度は思わず必要以上に驚きを声に乗せてヴィルが振り返ると、半壊した建造物の屋根から飛び降りてきたエルリオの姿が飛び込んできた。その背中におぶられる形でミリアムも側にいた。
 谷の装束を身につけているアレックが、少女達にとって軍人だと認識されていないのは明白だった。
 街を一つ破壊しようという一大事を目の前にしながらも、トラブルメーカーが三人勢ぞろいしている光景はそれ以上の難問としてヴィルには映っていたのである。





ACT9-4⇒
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押印師ACT9-4
04
 
「あら、おかえりなさい」
 一晩ぶりに戻ってきた弟を、姉は呑気な声で出迎えた。いつもの様に、裏庭で彼女が育てているベリーの木からジャムを作る分の実を採取して戻ってきたところと、鉢合わせたのだ。
「おや、一晩どうしていたのだね、不良じゃの」
 その後ろから、野良着の祖父も姿を現す。この村では自給自足が基本であり、とはいえ長には使役人がついているものの、彼は好んでこうしている。イルトを出迎えた長は、叱る様子も驚く様子もなく、学校から戻った孫を出迎えたかのような素振りだ。共に裏庭に出ていた数人の使役人も、「ぼっちゃんお早うございます」と手に農具を持って笑顔でイルトを出迎えた。
「長、いまどき一晩留守にしたからって『不良』はお古いですよ」
「そうかのう」
 などと無駄話に笑いながら、使役人たちは先に台所方面へと消えていった。
「た、だいま…」
 自分を迎えた、日常から切り取ったような光景に拍子抜けさせられながらも、イルトはどこかで安堵していた。
「どうしたの、肩?」
 アムリが肩に指先を伸ばしてくる。そこは、印が発動して銃創を受けた場所だ。傷は完全に癒えているが、シャツの肩が綻んでいた。出かけた時に着ていたはずの上着もない。
「あ、これ、は…その」
 思わず肩を手で押さえて誤魔化し笑いと共に後ずさりしてしまうが、その必要は無いのだと気付く。使役人達が先に屋敷の奥に完全に姿を消したのを確認して、「それより」とイルトは祖父とアムリに向き直った。
「後で、大事な話があるんだけど…」
「え…?」
 表情を変えまいとしている姉の肩が強張るのが、イルトからも分かった。一方で、今は「祖父」の顔となっている長は、相変わらず白い眉毛と髭に隠れて面持ちが窺えない。
「まずは、着替えて食事にしたらどうかね?」
 手にしていた野菜の入った籠を満足げに持ち上げながらの長が、イルトを階上に促す。階上は、イルトの個室がある方向だ。
「そうする」
 言われてから急に空腹を自覚する。思い返してみれば、激しい「運動」をしたにも関わらず、ほぼ一日食事をしていなかった。それに、服のあちこちに破れ痕や汚れが残っている。
 足早に階上へと駆けて行く孫息子の背中を見上げて、長は聞こえない溜息を洩らした。
「ライズの時と同じだの」
「……」
 更にその後ろからアムリが、年々小さくなっていくように思える祖父の背中を見つめていた。

 部屋に戻るなりイルトは本棚に駆け寄った。
「えーっと…確かここに」
 記憶を頼りに検討をつけて、本棚に所狭しと並べられている本を引っ張り出した。床に盛大な音をたてて本が散らばり、山になっていく。その中から、大判の地図帳に挟んである封筒を見つけた。
 ミソラの部屋にあった物と同じ、三獣の紋章が印刷された、大判の茶封筒だ。
「………」
 それを拾い上げる。
 意気揚々とした教師に手渡された時には全く感じなかった、重く厚い手触りが指先から伝わる。
 封さえ切っていないそれを机の上に置き、ペーパーナイフを取り出す。左手で封筒を押さえ、右手で慎重に隙間からナイフを差し込んで、一呼吸と共に一気に開封した。
 中からは、複数の冊子、束なった書類が真新しい状態で出てくる。その中で最初に目にとまったのは、黒く塗りつぶされた表紙に、三獣が金色で箔押しされている小冊子だ。手に取ると、「アリタス国軍仕官養成教育大学校歴」のタイトル。要するに、士官学校の学校案内だ。
 表紙を開くとまず、現在の総統フューリーの写真。そしてどこから撮影したのか、ACCと士官学校校舎の俯瞰写真が載っている。
 ACCはイルトにとって、足を踏み入れたことの無い未知の世界だ。アリタス古典形式と呼ばれる様式で統一され整然と並ぶ建造物、都市計画に基づいた統一感のある街並み。どれもグレリオ周辺にはない光景だ。
 ページを捲っていくと、それからしばらく長々とカリキュラム紹介が続いた。ミソラが言っていた専門技術資格取得に関する項目もあり、その中には医師免許も含まれていた。
 更にページを捲っていくと、五分の一程のページ数を割いて、国軍の紹介をしている。士官学校では希望と適正に沿ったカリキュラムを個々人ごとに組まれ、卒業後は細分化した適正データの元、適所への配属が決定されるという。入軍時は士官学校卒のキャリア組も一兵卒と同じ扱いの下士官から始まり、経験と能力に応じて尉官、佐官へと位が上がっていく。士官学校卒のキャリア組には最低限、少尉までの昇格が確約されている。その最低ラインにどれだけ早くたどり着けるのか、そしてどれだけ更に上へと上れるのか。本当の出世と生存競争はそこから始まるのだ。
 冊子には、部署紹介(一部抜粋)と共に第一線に立つ幾人かの仕官のプロフィールが掲載されていた。といっても、氏名と卒業時の専攻科と現在の所属部署と一、二行程度に簡略化した戦績紹介のみであるが。
 顔写真は掲載していないが、いずれも、マスコミ露出係と思われる、マスメディアで名前や顔を目にした事のある名前が並んでいる。また、現在は既に没している過去の功労者達の名も、別枠で掲載されていた。ここまで来ると、「史実の人」である。
「…………あった」
 現役仕官の中に、イルトは彼の名前を見つけた。
 冊子は毎年改定されている。グレンが退役したと言っていたのは十年以上前であるはずだが、こうして現役扱いで名前を出されているのは何か国軍側に意図があっての事だろうか。
 そんな事を考えながら、イルトはグレンの項目を読む。
「司令部、管区司令室、西方管区、グレン・イーザー。中将。史学専攻。主な戦歴、ブレスト峰防衛戦、アスタユ遺跡平原防衛戦、ベノア鉱地区奪回戦にて総指揮を執る―、え、史学専攻??」
 居並ぶ現役司令部の面々が揃って「情報戦略専攻」である中、さりげない「史学」の二文字は酷く目立った。
「何で史学……「趣味だから」とか言わないよなまさか、いや言いそうだ」
 奇妙な予感と共にイルトは更にページを捲る。歴代の戦功者達の名前が並ぶ中にも、彼の別名を見つけた。彼が持つ六つの名の中で恐らく二番目に著名であろうグレンビル・アルベールの名があった。
「地学専攻…か…」
 こちらはまだ理解できるがカリキュラムを見る限り、史学専攻は最も戦略策案業務から遠い学科の一つに見えてしまう。もっとも彼の場合、基礎どころか応用も既に修得済みなのであろうから問題無いのかもしれない。
「頭の良い奴は何考えてるか分かんねえな」
 毒づきながら最後までページを捲り終えて、イルトは冊子を閉じた。

 その頃、何を考えているか分からないと思われている本人は、同じ冊子を診療室の机の前で手にしていた。
「傷は痛みませんか」
 横から声をかけられて、顔を向ける。薬局に買出しに行っていたミソラが戻って来たところだった。
「申し訳ない、ちょっと拝借していました」
「いいえ。あなたに見られて困る物はありませんから」
 言われて、グレンは机の周囲に目をやる。自分以外にも見られて困る物も特に無さそうではあるが、もしやと思い、それを口にしてみる。
「誰かに進学を、反対されているのかな?」
 図星だったようで、診療室代わりのリビングに足を踏み入れかけたミソラの瞳に、一重の緊張が過ぎ去った。だがそれは一瞬の事で、「ええ、まあ」と短く応えたミソラの黒目がちの瞳は、常どおりの色に戻っている。
「でも私、絶対に合格する自信があります」
 彼女なら可能だろう。グレンはそう思ったが、そこは口にしなかった。
「その自信は大切だね」
「でも、それはあくまでも受験の話ですけど。」
 思わぬ誉め言葉に、ミソラは手にしている袋を可動台に置いてわざとグレンに背を向けた。
「その後の事は分かりません。学校について行けるのかも、免許がとれるのかも。ここで多少成績がよくたって、セントラルに行けば山ほど私よりも優秀な人がいるでしょうから」
「そういう慎重さと謙虚さも大切だよ」
「………」
 思わず買ってきた薬を袋から出す手の動きが不自然になり、取り落とした瓶が袋の中で衝突音を連続させた。
 誉められる事に慣れていない子どもは、嬉しい気持ちを表に出すことが苦手なようだ。だが背中は実に雄弁で、グレンはそっぽを向く小さな少女の背中に微笑む。
「あなたは、イルト君とご兄弟なのですか?」
 手を動かしながらミソラが尋ねてくる。
「似ているかな、私と彼は」
 それが照れを隠す目的なのだとグレンには分かっていたので、あえて視線を手元の冊子に落として静かに応えた。
「いいえ、全く」
「はは、そうだろうね」
 ページを静かに捲りながら、グレンが口の中で小さく笑うとミソラが瓶を片手に振り向いた。
「私、イルト君が羨ましいんです」
「……羨ましい?」
 ページをめくる指が止まり、グレンは再び冊子から顔を上げた。
「学校にいた頃のイルト君は、頭が良くて、運動もできたし、明るくていつも大勢の中心にいて」
 冊子を手の中で開いたままでグレンはミソラの言葉を聞いていた。少女は表情の変わらない黒目がちの瞳を手元の薬瓶に落としている。
「適切な言葉が思い浮かばないのですが、祝福されている人だなって、いつも思っていました」
「祝福…か…」
 祝福されている人。
 霞みの無い山間の空に昇る太陽のような輝きが似合う、本来の田舎育ちの青年に相応しい言葉。だが今はこれ以上無い皮肉にも聞こえる。グレンの相貌に瞬時たゆたう影に気がつき、ミソラは思わず包帯が巻かれた腕を見た。傷が痛むのかと思ったが、そうではないようだ。
「私は今の自分は嫌いじゃないです。それに、私とイルト君は別の人間だから、イルト君みたいに、大勢に祝福されなくてもいい。でも、一人だけでいいから、私が選んだ道を祝福して見送ってくれたらって思って…、だから羨ましいんです」
 その一人が、今この場にいない、診療所の主である事に気付くのは容易だった。
「……君は」
 グレンは冊子を静かに閉じると机の上に置いた。
「何故、その話を私に?」
 窓から差し込む朝日の中、穏やかな両眼がミソラを向く。
「あなたとイルト君が、似ていたから、です」
 ミソラが両手で何の気なしに弄っていた薬瓶。その蓋を開けながらそう語る、表情に乏しい黒目がちの瞳に、グレンは初めて微笑みが生まれるのを見た。
「父が戻る前に、もう一度消毒をします」
 蓋が開くと同時に真新しい消毒薬の鼻腔をつく芳香が漂った。瓶を可動台に置いてミソラは乾きたてのガーゼをピンセットで器用に折りたたみ始める。
「逆に彼は、君が羨ましいのだと思うよ」
 慣れた手つきで左腕の包帯を片手で外すグレンは、視線を包帯に向けたまま言った。
「私が、ですか」
 外されていく白い布筋を見つめていたミソラの瞳が、グレンの横顔に向いた。窓から差し込む光は徐々に明るさを増していく。少し眩しそうな横顔を、ミソラは見つめた。
「君みたいにしっかりした同年代の子を見て、感じるものがあったみたいだ」
「しっかり、していますか、私」
 傷口が現われるに従い、包帯も汚れ始めてくる。出血はほぼ止まっていたが、当然の事ながら傷口はまだ生々しさを残していた。ミソラは表情を変えずにそれをしばらく眺めると、消毒薬を染み込ませたガーゼで傷口の周辺を拭き取り始めた。
「真っ直ぐと芯の通った心、決断、そして自信。私も見習いたいぐらいだよ」
「………」
 危うく手元が狂いそうになって、ミソラはグレンから目をそらして手元に集中して俯いた。それは同時に、赤面したところを見られたくなかったからでもある。
 それをきっかけに言葉が途切れた。軽い酔いを誘う消毒薬の香りだけがしばし、その空気の中で自己主張し続けていた。


 イルトが室内に足を踏み入れると、十八年間イルトの父親代わりだった祖父は、書斎の植木の手入れをして背をこちらに向けていた。
 応接室にもなる一階の書斎は、窓際に黒く大きな文机が置かれ、その両側は厚い本棚に囲まれており、部屋の中央には表面を加工した石造りのテーブルと一人がけソファが四脚置いてある。
「じ……」
 「爺(じじ)」と呼びかけて、イルトは「長」と改めた。緩慢とした動きで祖父が振り返る。
「話を聞いてほ…聞いてくだ…―お話ししたい事があります」
 だいぶぎこちないイルトの言葉に長は、深く皺に刻まれた顔を苦笑の形に動かした。
「そこにお座り」
 自覚しているようで、イルトは複雑な面持ちを浮かべて進められた席についた。手にしていた封筒を、テーブルに置く。三獣の紋章が印刷された茶封筒だ。
「俺―」
 頭の中で何度も反芻していた言葉を、イルトは祖父を目の前に再び脳裏で繰り返す。だがそれが声となって出てこない。三度ほど小さな深呼吸をした後で、意を決したように開封済みの封筒から冊子を取り出す。
「仕官学校に進学したい―です」
「仕官学校とな―」
「わ、分かって―ます、学校卒業して半年間、何もしないで村でぶらぶらしてて、今頃急に何いってるんだって思われるって事は」
 何か反論を返される前にとにかく思いを口にしたい、その勢いでイルトは無理やり祖父の言葉を遮った。
「でも俺は、本気です。士官学校で勉強がしたい」
 膝の上で硬く握られた両手の拳が、我ながら若干震えているのが分かる。情けないと思いつつもイルトはまっすぐに祖父の目を見つめた。白い髭に覆われた口元では、その面持ちを伺いしる事はできないが、とにかく目を逸らさぬよう、必死だった。
「あの人に、何か言われたの?」
 背後から声。振り向かなくとも主は分かった。唯一の姉。母親を早くに亡くしてから、母代わりに自分の面倒を見てくれた、姉だ。横をすり抜けていく気配の後、長とイルトの間で三角形を描く位置に自分で椅子を引っ張ってきて、腰掛けてくる。
 「あの人」とはグレンの事だろう。イルトは首を横に振った。
「これを渡されたけど、他に何も言われていない」
 言いながらイルトは再び封筒に手を伸ばし、中からビニールの小さな包みを取り出した。それを封筒の横に置き、覆いかぶさるビニールを一枚一枚開いていった。首をかしげたアムリの面持ちが、次第に中身が姿を現すにつれて変わっていくのが分かった。
 中にあったのは、血に塗れた封筒が一枚。
「な、なに?これ…」
 水に濡れた為に縮み、血で汚れて全体的に変色してしまっている封筒を見て、アムリは小さく息を引きつらせた。祖父は黙って見下ろしている。
 その封筒は、グレンがラースルの亡骸から取り上げたものを、そのまま持ってきたものだ。イルトの手が、乾ききっていない封筒を開ける。指先に水混じりの血液が付着したが、構わず続けた。中から、これも真っ赤に変色してしまった小切手を引き抜く。辛うじて金額や名義が確認できる程度には無事だった。
「父さんが、あの人に預けていたものだって」
  受取人指定 イルト・グレリオ・サイファ
  支払人名  ライズ・グレリオ・サイファ
 紙には、高額を現す数字と共に、そう書かれていた。
「これを、学費に充てたいんだ」
 驚く姉と、静かな祖父を前に、イルトの手の震えは止まっていた。
「グレン殿がこれをライズから預かっていた…と」
 小切手を手に取り繁々と眺める祖父。その隣からアムリが恐る恐る覗き込んでいる。
「嘘じゃない。あの人に何か言われたわけでもない。むしろ俺を遠ざけようとした。俺が進学したいと思ったのは俺自身の判断で―」
「でもあの人が関係しているのでしょう?」
 アムリがイルトに向き直る。少し声量が上がっていた。
「どう考えたって変よ。急に現われた得体の知れない人に影響されて、それで進学なんて大事な事決めちゃうなんて」
(我ながら今でもそう思うんだけど…)
 内心で苦笑してイルトはアムリの言葉を聞いていた。
「グレリオ・セントラルで何があったの?」
 帰宅した弟の血と泥で汚れた服を見た時、思わず声を上げそうになったのを堪えてアムリは、抱えていた果物籠を落とさないように指先に力を入れていた。いつものように、彼が学校から戻ったところを出迎えるのと同じようにする事で、アムリ自身も平静を保ちたかったのだ。
「えっと…読んで走って刺されて撃たれて殴って刺して…」
「「ええ?」」
「あ、いや…」
 声を揃えて驚かれてイルトは思わず肩を縮めた。
 一息はさんで、イルトは改めて二人に向き合う。
「どう言えばいいのかな…本当に短時間のうちに色々あって。もっと知りたくなったんだ。グレリオの外で起こっている事を」
 見るもの、聞いたこと、全てが好奇心を刺激した。人が一人、命を落とす瞬間を目の当たりにした時も含め、全てがこれまでのイルトが存在した世界の外での出来事だった。
 学校にいた頃、地学教師の話を夢中で聞いていた頃を思い出した。
 事象の理を示す数式や物理の授業は毎日が発見だった。
 なのに何故、卒業間際の自分はその興奮を全て忘れ去っていたのだろうか。
「今はもっと、話を聞きたい。見てみたい。勉強がしたいって、強く思う」
 今になって湧き上がる思いに見合う言葉を見つけられず空転するようで、イルトは口惜しそうに軽く下唇を噛む。
「ふむ」と手にしていた紙をテーブルに戻して、祖父の顔で長はゆっくりと言葉を向けてきた。
「士官学校に入るという事は、どういう事か分かっているのかね」
 いずれ国軍に士官するという事だ。イルトは頷いた。
 アムリが批難を浮かべた瞳で長を見やるが、何も言わなかった。
「国軍に士官するという事が、どういう事か分かっているのかね」
―それがどういう事か、君は分かっていない
 祖父の声に重なって唐突に、昨晩のグレンの言葉が思い浮かんだ。
「―分かってる。よく」
 射抜くようなイルトの瞳は、目の前の祖父と姉を通り抜け、時に不敵な言葉を吐く男の幻影へと向いていた。




ACT9-5⇒
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いつもありがとうございます
「英雄の屍」を読んでくださっている皆様へ

北野は自分のサイトにアクセス解析を導入しています。
1日に1回、さらっとその日1日のアクセスを眺めます。
眺めながら、そこから「英雄の屍」を読んでくださっている皆さんの姿を想像して、毎日感謝しておりますm(_ _)m


恐らく時々、更新がないかチェックにして来てくださる方がいらっしゃったり、
小説登録サイトから飛んできて、じっくり全話みて下さった方がいらっしゃったり、
何度も読み返してくださっているのか、下手したら北野よりアクセス数が多い方がいらっしゃったり(笑)
一日数話ずつ読んで、最終的には全部読んでくださった方がいらっしゃったり、


アクセス解析結果は数字の羅列でしかありませんが、
画面の向こうにいる皆さんの姿が見えてくるような感じがしております。


キモい事言ってたらすみません!Σ(゚д゚ ;)


結局何が言いたいかと言いますと、
いつも皆さんありがとうございますm(_ _)m という事でした。

姿はお互いに見えませんが、北野はいつも画面とネットワークの向こうにいる皆様の事を考えながら、時には「サイトにたくさん来てくれているあの人のためにも!」などと思いながら、励まされつつ、楽しんでサイトを更新しております。

不安定な天候が続きますが、皆様お体に気をつけてお過ごしくださいませ。




北野ふゆ子

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