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北野ふゆ子
  • 北野ふゆ子
  • 昔は、ゲームやマンガの二次創作をしておりました。現在は主にオリジナルネット小説を執筆しています。得意は「シリアス」「アクション」「サスペンス」です。



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押印師 ACT7-5
05

「………あれ」
気がつけば窓から指す陽光が薄くなり始め、書架が落とす影の濃度が強くなっていた。時計を見上げると、閉館一時間前を切っていた。気がつけば三時間も立ちっぱなしだったが、不思議と肉体的な疲労感はない。
 書架から離れてグレンの方を見やると、彼は縮刷版の棚の前に立ち両腕で本を抱えて読んでいた。席までの持ち運びが面倒くさくなったらしい。近づいて進行状況を確認すると、つい一週間前の最新版に到達していた。
(本当に読破してる…)
 驚くうちに視界の中でページが次々と捲られ、瞬時のうちに厚いハードカバーの背表紙にたどり着き、小さな溜息とともに閉じられてしまった。そして彼は何事も無かったかのように隣に立つイルトに向き直ってくる。こちらにも、特に疲労感は面持ちに伺えなかった。
「―君の用事は済んだかな?」
「え」
 先ほどまで戦史書の中に、輝かしい記録と共に幾度と名を躍らせていた人物とは思えぬほどに、目の前の人物はこの図書室の日常として溶け込んでいる。
「本当に三年分読んだのか…」
「まさか」
 半ば呆れた色が混在するイルトの言葉に言い訳するようにグレンは首を振った。
「流し読みだ。三年間の流れが分かればよかったから」
 とは言うが、やはりそこは知識量の差なのだろうと納得せざるを得なかった。
「銀行の窓口も、そろそろ閉まる時間だけど」
 イルトが壁の時計を見上げるとグレンは己の左手首に目をやりかけて「あ、そうか…」と時計をしていなかった事に気がつきイルトに倣って壁を振り向いた。庁舎には各行政窓口のほか、図書館や食堂、地域によっては娯楽施設を設けており、郵便や銀行窓口も常設されている。
「ホントに着の身着のままなんだな」
「迷惑な話だよ本当に。突然無一文になるのだから……」
 図書室を出て別館へと足を急がせる。渡り廊下はガラス管のようになっており美しく手入れされた中庭を眺める事ができるのだが、そこに一瞥もする事なくグレンは前方だけを向いていた。時計も所持していないような状態で村を出てどうするつもりなのだろうか。グレリオからセントラルまでの所要時間は、列車を乗り継いだとしても一日では済まされない。庁舎の銀行に行くからと、長が申し出た金銭補助を断っていたが、果たして三年間も放置された名義がそのまま残っているのかイルトは疑問に思う。
「銀行口座に限らず独身の軍人名義はね、一般よりも有効期限が倍近く長いんだ」
「そうなのか」
 深く考えなくとも長期遠征を伴う業態を考えれば納得が行った。
「例えば銀行口座の場合、名義人が戦死したとして、遺族からの申し出が無い限り有効期限まで口座と貯蓄金は保留のままとなり、有効期限が過ぎると銀行から国軍に確認の問い合わせが入る。そこで死亡が正式に確認された時点でようやく停止となる」
「その場合残った金はどうなるんだ?」
「国営銀行の場合、まず国軍総務局が遺族調査を行い、相続すべき遺族の存在や遺書が確認されなければ残金は全額国への寄付とされる。民間の場合もほぼ同様で、実費となる数割が銀行側に支払われ残りは国への寄付となる」
 入軍時の誓約書にその旨が明記されているという。本人作成と認められる遺書が無い場合、これが遺志確認書とみなされ民間にも効力が及ぶのだという。よく民間がそれを許したと思いたいところだが、「実費となる数割」という曖昧な表現にこもごも含まれていると気付いてイルトは無駄な質問を控える事とした。
「この規則、軍にとって実に好都合に出来ていてね」
「何故?」
「国営も民間も、口座開設の際に厳正な身元審査を行わない」
 偽造身分証明書で容易に軍人名義の口座を開設できてしまう。有効期限の長い口座は何かと裏金流通と保管に都合がよく、民間の違法商売用から個人財産の隠蔽用まで様々な使い勝手があるらしい。それをあえて泳がせるのが軍の手段だという。
「身元不明の金は簡単に『寄付金』になりやすいのだそうだよ。もっとも、私にとっても都合がいいシステムだったという訳だが」
「……という事はあんたも偽装口座を…?」
 恐る恐る尋ねてみると、想像通りの返答が戻ってくるのだった。
「本名の口座を動かして痕跡がついては困る時が多々…ね」
(英雄が偽装口座…)
 何と似つかわしくない単語の組み合わせだろうか。イルトが力なく首を振るとグレンは悪戯を叱られた子供のように目を細めて笑っていた。
 だがイルトとて、彼が軍から身分証明用写真のネガやポジフィルムを持ち出している事も、財産管理を分散させその手段の一つに違法偽装工作手段を用いている事も、全て「彼ら」がアリタスの社会で人知れず生を越えて在り続ける為に必要な事なのだと、理解はしていた。
「ここまで案内してくれてありがとう」
 廊下の先に銀行局窓口のサインが見え始めたところでグレンは足を止めてイルトを振り向いた。村へ戻る行商人との待ち合わせ時刻が近づいていた。
「あ……うん…この後はどうするんだ?」
 並んで足を止めたイルトは視線を廊下の時計に泳がせる。
「とりあえず今日は近場で宿を探して…それからは旅支度をしないと。」
 鞄どころか財布さえ無いんだからなと言われ、今度は
(英雄が一文無し……)
 とまた似つかわしくない単語の組み合わせを思いつきイルトはまた内心で溜息。
「お別れとする前に…、君に渡したいものがあるんだ。少しここで待っていてもらってもいいかな」
「え、いいけど…」
 悪いねと言い残しグレンは窓口へと大またに歩み寄り、手早く出された書類に何かを記入した後受け付けの係員に幾つかの指示を出していた。ニ、三度と頷いて係員の女性が一度デスクを離れて行き、そしてまた幾分としないうちに戻ってくる。何か白い物をグレンに手渡すと再びなにやら記入をもとめ、グレンもそれに応じる。そんな短いやりとりの後、「ありがとう」と言いながら踵を返し再びグレンがイルトの元に戻ってきた。
「これを君に。」
 差し出されたのは、白い長方形の封筒。
「これは?」
 少し厚みがあるが、紙幣束ではなさそうだ。
「君の父さんから預かっていたものだ。私と君が会った時に渡すつもりだった」
「父さんから俺に?」
 グレンの頷きを見てイルトは腰のポケットに差し入れていた手を引き抜いた。差し出される白封筒に視線を落とした瞬間、
「―れ?」
「っつ…」
 グレンの手から封筒が消えたと同時に強く押されたグレンの体が一歩後ろに傾いだ。
「なっ…!」
 僅かにある両者の間を風がすり抜け、それが外へと向かう廊下の先を駆け抜けていく少年の姿だと、咄嗟に反応を示したイルトの目は捉えていた。少年の手には、一瞬前にグレンの手中にあったはずの白い封筒が。
「テイダス!」
 遠ざかっていく背中にイルトは叫んだ。
「え…!?」
 少年の背中がイルトの声に反応を示して足を止めた。駆け出しかけた姿勢の肩越しに振り向いた面持ちはイルトより若干年少らしく幼さが目立っていた。
「イルト兄…」
 少年の口がかすかにイルトの名を漏らすが、呼び止める寸時の間もなく幼い影は再び背を向けて脱兎のごとく外へと駆け出していった。
「知り合いかい?」
 強く押されたらしいシャツの胸元を伸ばしながらグレンは少年が姿を消していった外へ続く廊下の先をのんびりと眺めている。
「今盗られた封筒、中身は!?」
 何を悠長な顔をしているんだと苛立ちさえ覚えてイルトはグレンに向き直った。
「小切手だったのだが」
「小切手?幾ら分の!?」
 グレンの口から出た金額にイルトは言葉を失くす。
「何でそんなとてつもない金額を…!冗談じゃない、取り戻す!」
 少年が走り去った方を追ってイルトも駆け出した。廊下を一本抜け、左に九十度曲がった先の出口を抜ける。庁舎北口玄関だ。道が三方に分かれており、その中心でイルトは足を止めて周囲を見渡す。
「く…」
 が、人影はもうどこにも無かった。
「あの少年、友達なのか?」
 後を追ってきたグレンも玄関口に下り立つ。
「見失った……」
 背後から近づいてくるグレンの足音を聞きながら、絶望的な声を漏らしてイルトは片手で頭を抱えるようにして俯いた。
 アリタスの刑法第二十七条に、窃盗金額に応じた刑罰基準が記されている。グレンが口にした金額、つまり少年が奪っていった金額は無期懲役もしくは銃殺刑に定められていた基準を犯していた。
「あいつは、よく盗みを繰り返す事でこの辺りでは有名なんだ。捕まった時にそんな金額の小切手を見つけられたら…」
「庁舎の警備課員ならともかく国軍警察局に捕まれば…確かにな」
 イルトの耳にグレンの独語が流れてくる。
 俯かせた頭を持ち上げてイルトが振り向くと、彼は下唇のすぐ下に指の背を当てて目を伏せていた。図書室でも見せていた面持ち。
「あの少年は孤児なのか?」
「初等教育学校にいた頃は…母親と二人暮しだと聞いた。だけど数年前急に学校に来なくなって…」
 次にあの少年の消息を耳にした時は、既にグレリオ・セントラル周辺で盗みを働くこそ泥としてだった。
「父親は?」
「軍人でほとんど家にいないって聞いた」
「彼が学校に来なくなったのは何年前だ?」
 一瞬考えてイルトは「五年前かな」と答えるが、何故そんな質問をされるのか分からず意図を求めてグレンの横顔を見やる。「だとすると」と自分自身に確認をとるように頷いてグレンは西へと伸びる歩道を指差した。
「ふむ…それなら、逃げるとしたらこっちだろうな。仲間がいるはずだ」
「え、え?」
 北玄関から伸びる三方の道。西の道はグレリオ・セントラルの中心部へと続いていた。この辺りで最も人が多く集まる場所である。
「だがその前に…正面玄関に戻ろう」
「何で…ちょっと!」
 一人で走り出したグレンの後を、イルトは困惑しながら追随する。もと来た廊下を辿り、図書室へと続く階段脇を通り過ぎて再び正面玄関ホールへとたどり着く。迷う事なくまっすぐにグレンの足は正面玄関の左側に向かった。そこには庁舎を中心として発展した街「グレリオ・セントラル」の市街地図が飾られている。
「北口から西に行くと、この街で最も人通りの多い街道に出るね」
 グレンの言葉に従い地図を見上げる。
「この地図で、宿が密集しているエリアはあるかな」
「ないと思う…観光地に向いてない田舎だし」
「では売春宿が集まる歓楽区域…なんて君が分かるわけないね」
「知るかよ!でも、高齢者の割合が他地域と比較して高いって習った事があるから…無いんじゃないか…な……」
 イルトの語尾が少しずつ小さくなっていった。「なるほど」と笑うグレンの声が耳に痛い。
「そうなると…―市場が展開される場所は?」
「露店通りと市場通りと二種類あるけど」
 言いながらイルトは地図の二箇所を指差した。
 市場通りは庁舎と契約した業者が並んでおり、平日休日問わず人が賑わう場所だ。一方の露店通りは旅の行商人や一般市民による出店が可能な通称「フリーマーケット通り」で主に休日に賑わうが平日でも催事がある日となれば市場通りより集客数がある。
「露店通りか…」
 イルトが指し示した箇所を自らも指で辿りながらグレンの視線は露店通りを中心に円を描いた。そして何らかの決断が下ったようで、
「露店通りだ、行こう。南から北へ進むんだ」
「え、何で」
「とりあえず行こう」
 玄関の外を指差すグレンは真顔だった。
 口調は柔らかいがその言葉の真意は絶対的な命令。
 理由をまったく汲み取る事ができないまま、イルトはまるで空気に引っ張られるような状態で先を行くグレンの後を追った。



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押印師 ACT7-6
06

 露店通りは人でごった返していた。
「何でこんなに人が…」
 とイルトが呟いた直後、
「今日はフリーマーケットデーだったのだそうだよ」
 賑わう露店通り南の入り口を見渡しながら、少し楽しそうにグレンは答えた。そんな彼の言葉も夕闇と共に帰宅時間が迫る露天通りの雑然とした音の渦に掻き消されそうになる。
 フリーマーケットデーと銘打たれた庁舎主催の催事では、露天通りの活性化を図りマーケットの来客者や出店者に菓子が振る舞われる。グレリオ・セントラルの主婦を中心に街の外からも人が集まってくる。
「どこでそんな情報を」
 自分で言いかけてイルトは正面玄関の掲示板だと、思い出した。玄関内に入る一歩手前に立てられた掲示板には催事の告知が張り出されている。庁舎にやって来た時にその前を通り過ぎる際、グレンが掲示板を一瞥したのを記憶の隅で覚えていた。
 まさかあの一瞬で掲示板にある全ての情報を脳裏に刻んでいたというのだろうか。
「で、テイダスがここに逃げ込んだと?」
「恐らくは」
 根拠を聞きたかったが長々と聴講している暇はなさそうだ。しかし南北に一キロにも及ぶ長い露天通り、しかもこの人波からどうやって小柄な少年を探せというのか。ひたすら真っ直ぐに続く人間の波濤を前にイルトは呆然としていた。
「店を一つ一つみていくんだ」
 北をまっすぐ指差してグレンが言う。
「店を?」
「これから言う条件に当てはまる店を見つけたら、私に教えてくれ。」
「な??」
「一つ」
 困惑するイルトの様子を無視してグレンは人差し指を立てながら話を続ける。これは腹を括るしかなかった。
「時間が経過しても腐らない物を扱っている」
 生鮮品や食物、植物などは当てはまらないという事だ。
「二つ、材料、素材がグレリオ・セントラル付近で容易に採取・栽培できるもの」
 石材、鉱物、木材だろう。
「三つ、店番が二人以上。四つ、左側の壁側で店の近くに裏道への曲がり角がある」
「はぁ」
「はい、探してごらん」
 他意がありすぎるほどの笑みで見送られる。
「……」
 一体、この四つの条件にどんな意味があるというのか。先程からこの男がとる行動と言葉の不可思議さはイルトをただ困惑させた。だが不思議と彼の声にはイルトを動かす絶対的な力がある。
「よしっ…」
 みてろよとばかりにイルトは一度グレンを振り返ると、人ごみの中に駆け出していった。無秩序に行き交う人波の障害物を軽い動きで避けながら、両端に並ぶ店のうち言われたように左側の壁に沿った店のみを一つ一つ見ていった。
 菓子、野菜、生花などの店がしばらく続き、次第に食物から雑貨品へと店の品揃えが移り変わっていく。
子供向けの木彫り人形が並ぶ店。
(人形の服生地がグレリオの物じゃないか)
 神話の神々を模った彫刻作品の店。
(…ここか?)
 足をとめて品物の一つを手に取る。使われている石の断面を見る。
(見た事無い断面だな…)
「珍しい模様だろ?レクスブルクで取れる石なんだ」
 中年の店主が自慢げに語りかけてくる。
(これも違うか)
 またしばらく歩く。アリタス国内の多くの街は、通りを格子状に敷く傾向にある。そして住所に極力数字を用いない。これには戦略的な意味があり、市街地にて敵の侵攻を受けた際に混乱を生じやすくするためだ。グレリオ・セントラルの街も同様で、南から北に伸びる露店通りを横にまたいで走る通りがいくつもあり、人波が無秩序にごった返す原因となっている。
 五つ目の交差点に差し掛かった時、イルトは四つ角の隅に開かれた露店に目を留めた。簡易な作りの天蓋が立てられ、その下に二人の中年から初老の男が店番をしていた。商品を見ると、粉が小分けに袋詰めにされており、手書きの値札が貼られている。
(肥料か。)
 イルトが毎日のように目にしていた、有機物が含まれたグレリオの鉱物を擂り潰して作られた肥料。幼い子供にだって作れる簡単なものでわざわざ売り物にする理由が無い。見ると、売り台の端には幾つかの野菜が置かれていた。
「この肥料、何か特別なのか?」
 店番の男に尋ねてみる。
「堆肥や他の有機物を混ぜてちょいと工夫が凝らしてあるんだ。普通のよりも育ちがいいよ」
 よどみない答えが戻ってきた。
「その野菜は?」
「この肥料を使って育てたものさ。うまいぜ」
 受け答えにも不自然さはなかった。
 軽く礼を言ってイルトは踵を返した。少し離れた所で待つグレンの元に駆け寄る。
「あの店かもしれない」
「生鮮品が置いてあるようだけど?」
 イルトの肩越しにグレンが四つ角の露店を見やる。
「同じ包装をされた商品を通りの入り口付近でも見た。野菜はあの店の商品じゃないと思うな」
 その答えに、グレンから満足そうな頷きが返って来た。
「満点だ」
 言いながらグレンはイルトの脇をすり抜けるようにして店に歩を進めていく。グレンを新たな客と見たか、店番が再び顔を上げた。
「この肥料はどこで作られた物なのですか?」
 社交辞令的な笑みを湛えてグレンが尋ねた。
「近くの村だよ。材料の石はどこででも採れるもんだけど、堆肥や他の有機物を混ぜてちょいと工夫が凝らしてあるんだ。普通のよりも育ちがいいよ」
 イルトに向けた説明とまったく同じ答えが戻ってくる。
「この野菜は?」
「この肥料を使って育てたものさ」
 これも同じ答え。だが、
「入り口のお店でも見たような気がするのですが」
 表情を変えずにそう尋ねたグレンの言葉に中年の店番の男が言葉を詰まらせた。
「この肥料を使ってくれてるって言うんで、商品を分けてもらったのさ」
 寸時の間の後に、少し後方に座っていた初老の店番の方が説明を加えた。
(なるほど。多少彼の方が頭が回るらしい。)
 そうと判明すれば、手段は単純だった。
 敵の脆弱点を突く。それだけだ。
 「なるほど、そうですか」と相槌をした後グレンは初老の男から視線を外して、再び中年の店番の方へ言葉を向けた。
「堆肥を混ぜているとの事ですが、どんな堆肥を使ったんですか?」
「え、その」
 また言葉がつまり気味になる。
「この辺りでよく使われる堆肥といえば…やはり牛ですか」
「そ、その通り。でもそれ以上は秘伝なんでね、言えねぇな」
 横から再び初老の男が説明を加えてきた。
「残念」と微笑みと共に肩を竦めたグレン。店番とのやりとりを一歩離れた所からただ眺めていたイルトの目に、グレンの横顔から笑みが滑り落ちていくのが見えた。
 グレリオセントラル周辺で酪農は行われていないのだ。
「お二人とも、この周辺に住まう人間ではありませんね?」
「な…」
 分かりやすいほどの反応が戻ってきた。明らかにグレンを警戒する動きで二人の店番は腰を浮かした。その態度が墓穴を掘った事を完全に彼らは失念しているようだ。ここは露店通り。グレリオ内外からも行商人が集う場所。それを指摘されたところで動揺する理由などないはずなのだ。
 ここまで分かりやすければ、遠まわしな戦略は無意味。最短距離を突く。グレンの持論だった。
「少年が私から奪った物をお返しいただきたいのです」
(うわ、いきなり言うか)
 慌ててイルトはグレンの側に駆け寄り、店番の二人に詰め寄った。
「テイダス、テイダスが近くにいるんだろ!?」
「何を言いやがる」
 激昂して男が立ち上がる。突然の怒声に周囲を歩く人々の視線が一斉に集まった。初老の男が「やめろ」と背後から中年の方を宥め抑えようとする。
「あの封筒、返して欲しい。警察局に捕まればテイダスが殺されるんだ!」
 イルトの言葉に二人の男達は一瞬顔を見合わせる。
「来るぞ」
 隣からグレンの呟き。ほぼ同時に「畜生!」と怒声が上がり突然目の前の天蓋が吹き飛んだ。
「うわっ」
 袋詰めの粉肥料が散乱する。周囲からも悲鳴があがる。石灰のような匂いに噎せて思わずイルトは腕で顔を覆った。白く濁る視界の中で薄く二人の人影が駆け出し、近くの四つ角を曲がっていくのが分かった。
「やはりな…いこう」
 言われて我に返りイルトは走り出した。露店通りのすぐ裏手は閑散とした住宅街が網目を作るように密集しており、薄暗い路地が続く。そこを抜けると郊外だった。
「こっちだ」
 とグレンが示すのは、男達が駆け出した方向とは反対だった。もはや「なんで」と毎回のように尋ねる事が無駄な労力に思えてきてイルトは大人しく従う事にした。
 すっかり日が落ちた上に建物が間隔無く密集しているため、裏通りは酷く暗かった。街灯が申し訳程度に立っているが、明かりが灯されていない。グレリオ・セントラルに慣れているイルトでさえ裏通りまでは足を伸ばした事がない。だが目前を走るグレンの足取りに迷いはなく、明確な目的地に向かっているように明確だった。
「この辺りかな」
 グレンの速度が緩んだ。たどり着いた先は、郊外へと続く寂れた裏門の前に設けられた小さな形ばかりのロータリーだった。人通りも車通りもなく、唯一中央にたっている街灯も長い間使われていないようで錆びきっている。その真下に、小さな影が三つあった。
 イルト達に気がつき振り向く。二人の少年と少女。その中には封筒を盗んだ少年も含まれていた。
「テイダス!」
「イルト兄…!」
 あの店番の男達だと思ったのだろうか、姿を現したイルトとグレンに子供達の眼差しに敵愾心が表出した。
「知ってる人?」
 少女がテイダスに訝しげに呟く。
「ほら来た」
 直後に別の方向から足音が響いてきた。グレンの言葉に振り返ると、さきほどの男達が別の細道から姿を現す。振り切れたと安堵していたのだろうか、グレンの姿をそこに見とめて窒息するかのように顔を引きつらせた。
「貴様ら何者だ!軍の人間か!?テイダス!お前が嵌めたのか…!」
「違う、関係ねぇよ!」
 向けられる猜疑の視線を振り切るようにテイダスは右手を苛立ちと共に振り降ろす。指先から暗闇に青く火花が走り曲線を描いてすぐに消えた。
「!?」
 瞠目するイルトの隣でグレンも若干の驚動を見せた。
「電気……雷の印か」
 グレンが呟く。確かに振り上げた少年の腕の動きに呼応するように一瞬姿を現したそれは、肌を振るわせるような痺れを伴う音を立てていた。
「印なんて持ってたのかお前……」
 眉を顰めるイルトの視線から逃げるようにテイダスは俯いた。
「押印だな」
 そうイルトの言葉を否定したのはグレン。
「押印?って確か違法なんだよな…?テイダスお前…っ」
 半ば泣きそうな目でグレンを見やった後イルトはテイダスに詰め寄る勢いで一歩足を踏み出す。
「何なんだ貴様は…!何でそこまで知ってやがる!」
「警察局の犬か。俺達を探ってたんだな!?」
 その言葉が正しかったのだろう、男達の激昂した声には明らかな焦燥が含まれていた。
「我々は民間人です。ここを突き止めたのは、ちょっとした情報整理と推測でしかありません」
 グレンの平坦な答えは暗に「分かりやすい小細工だ」と相手を嘲笑しているのと同義だった。
「理由とかどうだっていいだろ、とにかくテイダス、さっきのを返してくれ」
 男達とグレンの間にイルトは一歩前に踏み出し割って入った。ただ真っ直ぐに昔の友人を見つめる。若干幼いテイダスは瞳に敵愾心を宿したまま一歩後ろに引いた。
「頼むから…!じゃないと捕まったらお前が殺されるんだ!」
「それだけデカい金額だっていうならなおさら返せねぇな。でかしたぞテイダス」
 男が黒ずんだ笑みを浮かべてテイダスに近づいていく。イルトの言葉に丸い瞳を見開いていたテイダスが恐る恐る襟内から白い封筒を取り出した。
「テイダス、返すんだ!」
 少年に向けてイルトの右手が差し出される。テイダスはその手と、逆側から近づいてくる男とを交互に二度、三度と見やった。金が男の手に渡り少しでも使われてしまえば罪状は有効となる。
「テイダス!」
 イルトの足が地を蹴る。その動きに気付き左側の男が血相を急変させた。
「右だ!」
「は…っ!」
 背後からの声がイルトの意識をテイダスの右に向けさせた。赤い光を宿した少女の腕が低い位置から掬い上げられる動きを見せかけていた。
「こないでよ!」
 甲高い声と共に振り上げられた少女の細い腕から焔が放たれる。大口を開けた大蛇の如く広がりながら至近距離から襲い来る。イルトは無意識に右手を前方に振り上げた。
「っつ…!」
 視界が揺れる紅に包まれ、手の甲に一瞬感じた熱。無我夢中で振り払うと鼓膜を突き破るような破裂音と共に焔は消散した。
「な…」
「―え」
 零れ落ちそうな硝子球の瞳を見開く少女の声と、イルトのぼやけた声が重なった。封筒を手にしたままテイダスも、男達も動きを止める。
「メイリの焔が消された!」
「な、何だよこいつ…!」
 メイリと呼ばれた少女が負けん気の強い子供がするようにヒステリックに声を上げる。
(何だよって俺が聞きたいんだけどな…)
 印が刻まれた己の手と少女を見比べながらイルトは今自分が置かれている状況を必死に探っていた。
「こいつも印があるよ!」
 別の少年がイルトの手の平に気付き声を上げる。
「「も」ってお前ら一体…」
(もしかして今、とてつもなく危険な事に首をつっこんでいるのでは…)
 困惑してイルトは背後を振り返る。両腕を組んで神妙そうな面持ちのグレンがそこにいた。
「押印を施された子供が三人か…。申し訳ない、予測より大事(おおごと)みたいだ」
 組んでいた手を解いて喜劇役者がそうするようにグレンは片手で匙を投げた。口元には苦笑が浮かんでいる。
「…いまさらっ!」
 イルトの悪い予感はどうやらほぼ正解に等しい推測だったようだ。



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押印師ACT7-7
07

 パタンと手帳が小気味良い音をたてて閉じられた。
一通りの質問を終えてイリオン少尉が終わりを切り出し「分かりました」と手の平に収まりそうな手帳を軍服の胸ポケットに滑らせて席を立つ。一拍遅れてヴィルも立ち上がった。
「ご協力頂きありがとうございました」
「いいえ」
 イリオン少尉が向ける敬礼にヴィルは軽い会釈で応えた。先を促して自分も庵から踵を返す。三歩進んだところでアレック一等下士官の姿が無い事に気がつき振り返った。
「おい、何やってんだ」
 同じように気がついたイリオン少尉の呆れた声が横をすり抜けていった。二人の視界の中で、アレックは庵のベンチから身を乗り出して外を覗き込んでいる。
「あー、すみません、景色が綺麗だな~と思いまして」
 覆い塞がる木々の間から流れ込んでくる淀みの向こうを覗き込もうと身を乗り出している。
「水に落ちないように気をつけて下さい。ここの水は酸性が強い故、体によくありません」
 門番の男がアレックの背中に声を投げかける。
「酸性なんですか!でも水草がよく育ってますよね…すごい適応力だなぁ」
 最後は単なる独り言に変わっていた。
(この草の繊維で酸に強い素材が作れないかな)
 葉の一房でも持ち帰れば良い研究材料になるかもしれない。軍付属研究所に所属する知人の研究員を思い浮かべながらアレックは水草に手を伸ばした。
「あ、おい!」
 誰からともなく声が上がり、驚く間もなく、
「わ!!」
 アレックの小柄な体は庵の向こうへと消えた。直後に大きな水飛沫が上がる。最初に縁へ駆けつけたヴィルが水辺を覗き込むと、溜池の深みにはまってざぶざぶと水をかくアレックの姿が。
「どいつもこいつも…」
 口の中で小さな苦言を噛み潰しながら表情を変えずにヴィルは右手を振り上げて風を呼んだ。葦に爪先を取られていたアレックの体が重力に逆らい水面に浮上する。口の中に広がった酸と錆の味にアレックはひどく噎せていた。
「言われたそばから!」
 呆れと怒りと驚きが混在した声をあげてイリオン少尉が駆け寄る。「アホかお前は」と呟く言葉とは裏腹に甲斐甲斐しく間の抜けた部下の背を撫でている。
「く、くちのなかがヒリヒリひまふ…ぉぇ…」
 呂律の回らない口調で訴えるアレックは涙目でイリオン少尉に応えた。手にはしっかりと水草の束を掴んでいる。それに気がつきイリオン少尉は肩を落とした。
「…ったくなんだってシールズ大佐はこんな奴を…」
(シールズ大佐?)
 イリオンの独り言から聞き覚えのある名前を聞き取ってヴィルは平坦な面持ちの表層下で首をかしげた。
「これで口内を洗い流されよ」
 門番の男が持っていた水筒をアレックに差し出した。
「……着替えを用意させよう。それから体を洗い流せる場所へ」
 門番の男がヴィルの言葉に若干の驚きを瞳に写して一瞥してくる。当主としてヴィルは人道的にそう言わざるを得ない自分の立場を呪った。このまま彼らを追い返すのは逆に訝しがられる原因となろう。門番の男もそれを理解したようで何も言わずに視線だけでヴィルの指示を待つ。
(…以前もこんな事があった気がする)
 イリオン少尉に自分を重ねざるを得ない。ヴィルは数年前を思い出して如何ともし難い複雑な苛立ちを覚えた。
「沼竜谷へお連れしろ。そこで着替え等を用意してもらってくれ」
「沼竜谷……ですか…承知しました」
 致し方ない、といった面持ちで門番の男は頷いた。

 そんな金髪の当主の苦労を他所に、二人の少女と一匹は竜翼谷の散歩を楽しんでいた。足下が軽くなり、歩く事自体が楽しくて仕方がなかったのだ。
 しばらく歩き回るうち、エルリオはこの谷が三つの渓谷が連なって構成されている事を知る。
 今エルリオ達がいる場所は「天竜谷」と呼ばれるエリアで、巨大な逆三角を成す形で北西に「沼竜谷」、北東に「地竜谷」と呼ばれる巨大な渓谷が連なっている。この三つを総じて「竜翼谷(シュテラール・バレー)」と称するらしい。三つの谷は深い谷川と竜の澱により隔たれており、巨大な吊橋が数箇所と騎竜が渓谷間の交通手段となっているらしい。
「それぞれに谷には竜に選ばれる戦士達がいて、天竜谷は風、沼竜谷は水、地竜谷は大地を司る印を授かるんだよ」
 そう教えてくれたのは、天竜谷の下層で農耕を行っていた初老の女だった。野良仕事の休憩中、サイロを背もたれに寛いでいるところへエルリオが声をかけたのだ。外から来た少女達が珍しかったのか、まるで物語を聞かせてくれるように女は様々を語ってくれた。
(ヴィルさんもそうだけど、ここの人たちって無愛想な感じに見えて意外と世話やき好きなんだな)
 まるで巨大な塔のように聳える谷の絶壁、真上の遠い空を飛び交う竜の影、その裾に広がる農地は、灰色の岩壁に覆われた上層とは別世界のように緑と暖色に包まれていた。林を一つ越えると強酸性の沼地が広がっている事実も忘れそうなほどに牧歌的だ。
 日の光を浴びたサイロのブロック熱が背中に心地よい。隣ではミリアムが膝にキューを乗せた状態でうっとりと瞳を閉じていた。口元が笑っている。
「トマト、キャベツ、トウモロコシ、」
 膝の上でキューは先ほどからしきりに野菜の名前を口走っている。どうやら視界に入る農作物の名を挙げて記憶しているらしい。
「沼竜谷や地竜谷という所も、ここと同じような感じなの?」
 冷たいお茶をご馳走になる。セントラルでは味わった事のない風味がした。香草の一種だろうか、喉に涼やかな刺激を感じる。
「どうなのかしらね。ご当主様や戦士様達は谷を守護する為にひととこに集まっているって話だけど、私らは民はこうして長いこと同じ場所で暮らしているから他の谷の事はわからんのよ」
 地理的な理由で一部の人々を除いて、谷同士の交流がそう深く成されているようではないらしい。それと同様に外の世界との関係性も希薄そうだ。だとすると谷を出てセントラルで軍役までしたヴィルは相当のアウトローに属する事になるのだろうか。
「若いもんは別だよ。谷も越えるし、ちょっと前のご当主様のように他の街に行って学校にいったり仕事についたりするもんも少なくないね」
「そうなんだ、じゃあ若い人が減っちゃうから大変だね」
 年老いた女一人で管理するには広すぎる畑を眺めてエルリオは呟いた。
「畑、広いですしね」
 ミリアムも頷く。少女達の横顔に向けて女は目を細めた。
「そうでもないさ。それに、戻ってこない方が私らは嬉しいんだよ」
「え…」
 意外な言葉にエルリオとミリアムはサイロから背を離して振り向いた。女は茶を一口すすると畑の向こうに広がる林を見つめる。
「若いもん達が戻ってくる時ってのはたいてい、戦か大事(だいじ)がある時だからね」
「……あ…」
「十数年前まで大きな戦争があって、終わったと思ったら三年前の……」
 大戦が終結して十数年経った今もよく整備された騎竜舎、ヴィルを中心に組織化された竜騎士達、腕を磨き続ける職人達。上層で見られるその光景が思い出された。今は精霊狩りがシュトル地方を脅かしており、現に当主の身内が犠牲となっている事でその深刻さが窺える。その為に戦士達が呼び戻されているとヴィルは言っていた。女が語る「三年前」とはそのことを示しているのだろう。
「おや」
 沈みかけた空気を持ち上げるように、女は不意にエルリオ達を振り向いた。
「あれはジャスミンさんじゃないかね」
 女の視線が自分の背後を見通していると気付き振り向くと、小さなトマト畑を挟んだ向こう側に黒髪の人影が見えた。エルリオたちの視線に気付き、小さく微笑んで手を振ってくる。
「本当、気付きませんでした」
 ミリアムは目を丸くしているが、エルリオは最初から気付いていた。あらかたヴィルに自分達を監視するよう言付かっているのだろうと推測していたからだ。隣でミリアムがジャスミンに手を振り返す。エルリオは軽く会釈するにとどめた。
「お珍しい。今日はご当主様と一緒じゃないようだねぇ」
 ジャスミンに深々と会釈をむける女の言葉にミリアムが何か思いついたように口を開けた。
「という事は、いつもお二人は一緒なのですか?」
 この距離ではジャスミンに聞こえるはずはないのだが、そっと女に耳打ちして声を潜めている。プライバシーがどうのと言ってエルリオを嗜めた割には乗り気である。女の方も急に表情を変えて口元に指をあてて声を落とした。
「谷中じゃぁ二人で一つみたいな認識になっとるねぇ」
 こちらの様子に、畑の向こうでジャスミンが疑問符を頭上に浮かべて小首を傾げていた。そんな仕草が銃器をぶっ放していた女戦士ぶりとかけ離れていて可憐に見える。コンクリートで無感情に塗り固めたような顔してご当主も中々やるもんだとエルリオはまた内心で含み笑いを浮かべるのだった。
「はっ…」
 そしてふと我に返る。
(市場のおばちゃんたちとばかり話してたからだな私……)
 人の色恋話に花を咲かせる市場の女店主達に気に入られていたエルリオは、すっかりこの方面に敏感になっている事を最近ようやく自覚しつつあった。だが自分はともかく、意外であったのはミリアムの反応。
(―そういえば)
 自分でやらせておいて失念していたが、ミリアムが読み取ったであろうジャスミンの思念が何であったのかを、まだ聞いていなかった事に気がつく。影を落としていたあの時の横顔を思い浮かべ、それが与太話ではないであろう事は想像できた。
「あの、おば様」
 一瞬考えてミリアムは声調を戻して女に尋ねた。女は湯のみに唇を当てたまま視線でミリアムに応える。
「髪の毛の色って、谷によって違うのでしょうか?」
「ああ」と頷きが戻った。
「この谷はご当主様みたいな黄金の髪が多いけれど、沼竜谷は黒曜の髪、地竜谷は大地色の髪の子が生まれるって聞くよ。それだけど最近は谷同士の交わりが多くて不思議な色の子も多く見かけるようになったけどね」
 沼竜谷、と言葉を繰り返しミリアムは女から視線を外した。銀色の視線はキューの体を支えている手元を経由してサイロの向こう側へと向けられる。小さな畑を跨いだ小道の上、ジャスミンへと。
「ね、おばちゃん」
 手にしていた湯飲みを勢い良く地面に置かれた盆に戻すとエルリオは遠方に朧げに見える渓谷を示した。
「沼竜谷や地竜谷って私達もいけるかな?」
 ミリアムが女の方に傾けていた肩をエルリオの方に向けてくる。女は湯のみを盆に置くとサイロに片手をつきながらゆらりと立ち上がった。
「谷と谷を繋ぐつり橋なら、あっちの方へ行けばあるよ」
女が「沼竜谷はあっち」と北側を指差すと、遠くに佇むジャスミンも同じ方向を一瞥した。三人が何を話しているかに気がついたらしい。
「でも歩いていくと大変だよ」
 谷川を越えた後は渓谷同士を隔てる広大な湿地帯を再び越えなければならないという。
「大丈夫、おばちゃん、お茶をありがとう」
印を用いればミリアムを抱えても充分に越えられると単純計算で答えを導き出したエルリオは女に示された方向へと歩き出した。膝に乗せていたキューを抱いてミリアムも慌てて追随する。
「ちょっと、あなたたち」
 あぜ道を選んで駆け寄ってくる細長い影が追いついた。ジャスミンだ。
「どこへ行くの?」
 ヴィルとは異なる意味で感情を表出させない彼女だが、体の振動と共に左右に踊る束ねられた髪の毛が焦燥を表しているようにも見えた。
「他の谷も見てみようと思っています」
 無邪気にミリアムがジャスミンを見上げる。
「この方向につり橋があると聞いたので」
「あの…何か問題が…?」
 焦りは消えたが、気分が上向かない面持ちを遺したままジャスミンは「別に」と首を振った。エルリオが人の服を剥いで回る事を心配しているのかとも思えたが、そうではなさそうだ。
「どっちの谷へ?」
 俯き加減に深い息を吐き出したジャスミンが顔を上げると、もうそこには負の面影は見えず、畑の向こうで手を振っていたときの彼女がそこにいた。
「沼竜谷という方が近いみたい」
 言いながらエルリオは女が示した方向に指先を向けた。




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押印師 ACT7-8
08

 谷と谷を繋ぐつり橋は程なくして見つかった。長く伸びたあぜ道は突如奈落となり深く抉り取られたような谷底に陽光をうけて青色に光る川流が右から左へと走っていた。何者かの意思により断斬された線のように谷と谷とを分け隔てている。
 奈落の縁には塔とも呼べる背の高い柱が二本立てられ、その根元と鉄片から太く編みこまれたワイヤーが伸びている。足元は幅の広い木板が一定間隔で繋げられており両脇には手摺が子供の背の高さほどの位置に付けられている。
「これ…歩いて渡るのですか?」
「…だねぇ…」
 ぽっかりと大口を開けた奈落を目の前にミリアムの弱々しい声が聞こえた。正直なところエルリオにとってもこのつり橋に足を踏み出す事は、大いに躊躇われた。
「これだけワイヤーが太ければ落ちる事はほぼ無いよ」
 ポケットの中でキューが呟くが、谷の狭間を吹きぬける風に押され左右にゆれる橋の様子を見ていると安堵はできない。
「だからこそ安全なんだって。しなっているほうがバランスが―」
 橋の安全性について薀蓄が続くがエルリオの耳には入っていなかった。
「ま、もし落ちても印を使えば大丈夫か」
 無理な作り笑いで覚悟を決めるが、「あ」と名案を思いつく。
「最初から風の印を使って飛べばいいのよ、そうだよね!早く言ってよもう」
「………」
 大きな口を歪めるキューの顔が想像できそうだがあえて無視する事にして、「行こう」とミリアムには自分の横から両手を体に回させて組ませ、エルリオは左手を谷に向けて伸ばした。その手の甲へと右手を添えて短く呟くと印を発動させる。白い光の粒子が羽の形となってエルリオの背中に姿を現す。軽く膝を曲げて飛び上がるとそのまま少女達の体は奈落の上へと飛び上がっていった。
「!」
 ジャスミンが息を呑む様子が遠ざかる。落ちる、と思い咄嗟に右手を前方に伸ばしたが、重力の法則に逆らい放物線を描き中空に躍り出た少女達の様子に、動きを止めたまま瞠目した。
「あんな事もできるの…」
 導かれるようにつり橋に駆け寄ってジャスミンは姿を小さくしていく少女達の後姿を呆然と眺めていた。
「わぁ~っ!」
 柔らかい黒髪を風になびかせるミリアムは紅潮して声を上げた。眼下に広がる圧倒的な深さに飲み込まれそうな感覚が足下からこみ上げて来るが、それはエルリオの体に絡める腕に少し力を込めた事ですぐに消えていった。
「ちょっと高くあがてみようか」
 ミリアムの体が想像以上に軽かった事に驚きつつ、渓谷に区切られた三つの谷の整然とした様に感動していたエルリオだった。手にやどる印にもう少し、いつも以上に祈念を込めて上昇を試みる。
「-あ…やめたほうがいいかも、エル」
 吹き抜ける風の音に邪魔されながらポケットの中から呟きが聞こえた。
 それに気付く間もなく、
「なっ…」
 己にしがみ付くミリアムの腕が大げさに震える。
 ほぼ同時に頭上に大きな影が降り、体中の皮膚を痺れさせるような咆哮が轟いた。

 風と共に降り立ったモスグリーンと金髪の人影に、黒曜の髪の人々はその直前まで行っていた動きを止めて振り返った。竜の澱に面した沼竜谷の入り口はその名に相応しく湧水による池や人工的な溜池が地面に描かれた模様のように点在している。水に触れる空気が常に涼やかな気候を保っていた。この谷に棲む竜の為に、人々の手で施されたものだった。
「これはご当主様」
 槍は手にしていないが門番の男と同じ装束を纏った若い男が、ヴィルの姿を見止めて深礼を向けた。
「え、ご当主さま?」
「あれがご当主さまかー」
 水辺で遊んでいた子供達が甲高い声を上げて振り返る。外からの声を聞き軒先に姿を現す民間人と思わしき装束の人々。俄かに村落がざわめきに包まれた。誰もが遠巻きに当主の来訪をじっと窺っている。
「………?」
 ヴィルの背後の着地した飛竜の背中から飛び降りながらアレックは、ヴィルを向かえる空気に張りつめた琴線のような緊張感を感じた。ヴィルの姿を見とめる全ての民達はいずれも深く頭を垂れて彼を迎えており、そこには強い畏怖が漂っていた。歓迎ムードとは言い難い。
「今日はどのような…?」
 最初に声をかけてきた若い男がアレック達を値踏みするように一瞥する。「客人だ」と短く答えてヴィルは事情説明を続けた。
「済まないが、体を洗わせてやって欲しい。それから着替えも」
「もしかして…澱に落ちたので?」
 黒い瞳が濡れ鼠のアレックを再び見やり、そして小さく笑ったのが見えた。髪の色という決定的な外貌の違いはあれど、ふとした瞬間に見せる表情や雰囲気はやはり誰もがヴィルと共通点が多いと感じられる。
「しかしまた何故、ここへ」
 踵を返しかけて黒髪の男は再びヴィルを振り向いた。そう疑問に思うのは当然で、谷の入り口から物理的に最も近いのは天竜谷であり、沼竜谷は奥地にあたるからだ。
「事情は後で説明す―」
 少し小声になったヴィルの語尾を蹴り散らして、遠方から空気が震える咆哮が木霊した。
「!?」
「な…なんだ?」
 その場にいる全員が一斉に顔を上げて音の方へ振り返った。直後、今度は後方の至近距離からも「ギャァアアッ」と凄まじい獣の悲鳴が上がった。門番の男やアレックが騎乗してきたあと入り口付近に待たせていた若い騎竜だった。
「落ち着け、落ち着け」
 慌てて戦士達が駆け寄り竜の首や胴を撫でて宥めようと試みるが、長く太い首や尾を忙しなく暴れさせて興奮状態が収まらない。
「な、な??」
 最も大仰な様子を見せたのはアレックで、後方に立つイリオン少尉に再びしがみ付く。いい加減に慣れたか勝手にしがみ付かせたままイリオン少尉は周囲を見渡した。
「ご当主様、クロウさん、来て下さい!」
 奥まった道の向こうから十代頃の少年が駆けて来た。クロウとはヴィルを出迎えた黒髪の男の名だ。少年が指し示す方は渓谷が見渡せる小高い丘へと続く道。彼はその近辺に住む少年だった。そうと気付いて二人は同時に駆け出す。幾人かの戦士らも続いた。
(一体何が…)
 簡易的に岩壁のような坂に作られた段を軽い身のこなしで駆け上がり、ヴィルは高台を目指す。その間も遠方からはけたたましい複数の咆哮が響いてくる。怒りや乱心が混在した不安定な声。竜達のこんな声は滅多と耳にする事はないのだが。
(いや…この声はあの時と似ている)
 自問自答しながら最後の石段を跳び登った。
(三年前と)
 急激に視界が開き、人工的に削られた足場にたどり着く。そこからは渓谷により区切られた空間と、霞がかかった天竜谷が見渡せた。
「!」
 そこに見えたのは、谷と谷とを結ぶ吊橋の上空に竜達が円を描いて集まる様子だった。一様に何かに向かい威嚇の声を上げている。その中央にいるのは、
「あいつら…!」
 二人の少女の姿だった。

 何が起こっているのか、エルリオには瞬時に理解する事ができなかった。
 頭上に巨大な影が降ってきた次の瞬間には、気がつけば周囲と上空を竜達が覆い囲んでいたのである。太い首を擡げ、長く撓る尾を狂ったように振りかざし、血色の良い真っ赤な舌を見せて口を開けて一様に叫んでいる。
 シュテラリオンより幾分も小柄な若年の竜達であるはずが、至近距離からの羽ばたきは暴風のように二人の少女達を薙いでいく。
「な、なんで…?」
 理由が分からずエルリオは混乱する。しがみ付いてくるミリアムの手は震えていた。自分を落ち着ける意味も含めてエルリオはその体を支える腕に力を込めた。
「大変…!」
 吊橋付近でその様子を目にしたジャスミンはそのまま橋を駆け出した。ここからなら沼竜谷へ助けを求めた方が早い。
「エル、印だよ、きっと押印のせいだ!」
「え?」
 ポケットの中から叫ぶキューの言葉通りである可能性が高い。ふと思い出してみれば、たったさっき、エルリオはこの谷に訪れて初めて押印を使った。その直後にこの有様である。
 エルリオが使ったのは風の印の一種。
 この谷に住まう竜は風の化身。
(しまった…)
 迂闊、というより、軽はずみだったとエルリオは後悔した。最も原始に近い精霊の恩恵を受けた森羅万象の化身たちが住まう場所で、その力を人のエゴにより従わせようという技術を使うべきではなかったのであろう。
「とにかく、押印を消そう」
 足場となる吊橋に降りることをキューが促す。
「そのまま降りれば橋があるから」
 言葉に従いエルリオはミリアムを抱えて高度を落とそうと試みる。
「危ない!」
「わっ」
 だが足下から迫り昇ってきた竜の体当たりを受けそうになり寸でのところでかわした。完全に囲まれてしまった事に気がつく。
「怒ってるの?ごめんなさい。印を消すから、道を開けてほしいの」
 他に術がなく、エルリオは目の前にいる竜に向けて言葉を向けた。謝罪の言葉は本心からだった。だが少女二人を囲む竜達の興奮が収まる気配はなく、それどころか空に集まり来る竜の数が増えているように思えた。近寄ってはこないが、遠巻きの空にこちらの様子をうかがっている影も多く見られる。
「エルリオさん…」
 ずっと震えていたミリアムが弱々しく顔を上げた。
「違う…怒っているんじゃないです、竜たちは」
 悲痛そうな面持ちで空を覆う若い竜を見上げていた。
「怖がっているんです。とても恐れている」
「誰を?」
「エルリオさんを」
 というより、
「いえ、押印を」
「………どうしろって…」
 困惑したまま、ただ空を見上げるしか術が無い。だが徐々に息苦しさを感じるようにんりエルリオは焦りを覚えていた。
(あまり長くはもたない…)
 押印は使用者の体と心を蝕む。少女一人を抱えて長らく中空に留まっていたエルリオの体力は確実に削られ始めていた。ミリアムもエルリオの顔色に変化を感じ取っていた。一瞬、眩暈を感じてエルリオは目を閉じる。
「エルリオさん…」
 ほぼ同時に再び竜の一匹が甲高い声を上げた。
「きたきた!」
「きゃーっ!」
 ポケットからこれ以上無いほどに慌てた叫び声。続けてミリアムの声。
「え…!」
 我に返り無理やり目を開くと、頭上から急降下する巨大な鍵爪が目に入った。弱りかけたエルリオの状態を感じた竜が今を狩る好機と取ったのだ。
 涼しい風が吹きぬけた。
「あれは…!」
 橋を駆け抜けていたジャスミンが足を止めた。見覚えのある人影が竜の更に上空から降りてくるのが見えたのだ。
「下がれ!」
 モスグリーンがエルリオの視界に広がった。同時に強く体を押され、足下から吹き上げる凄まじい風を感じた。
「くっ…う」
 短くくぐもった声に瞠目すると、エルリオ達の前に躍り出たヴィルが右肩と右腕を盾に竜の鉤爪を受け止めた姿が目の前にあった。飛び出した人影が当主と知り僅かながら瞳に理性を取り戻した竜が一啼き声を上げる。ヴィルは空いている左手で風を起こすと竜の体をゆるりと押し戻した。
「ヴィルさん!」
「ヴィル様!」
 ミリアムの声と同時に足下からジャスミンの叫び声も響いた。




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押印師 ACT7-9
09

「驚かせた事を詫びる…鎮まってくれ。この娘らは誰も傷つけたりはしないから」
 酷く破れた布生地と共に右肩を左手で押さえながらヴィルは竜達に向き直った。乱れ飛んでいた嘶きが徐々に静まり、竜たちはヴィルの言葉に聞き入るように動きを止める。複数の羽音だけが重なって谷に響き始めた。
「……静かになった…」
「恐怖が収まりつつあります」
 安堵に溜息をつくエルリオとミリアム。ヴィルの横顔にも安寧が浮かびつつあった。だが元から白い顔色が少し蒼白になっている様にも見える。右腕から滴を成して谷底へと落ちていく血の軌跡を、エルリオは見た。
 緩慢に、風に震えながら落ちていく紅い滴が深い谷底を走る水に真っ直ぐと落ちていった。その時、限りなく深い水底から巨大な息吹が泡を吹かしたのを、上空にいるエルリオ達には聞こえる筈がなかった。
「っ!」
 気がついたのはヴィル。我に返り右肩を抑える己の左手を見る。手の平に付着した血液の量と、右手の指先にまで滴り落ちていた血の跡をみて舌打ちした。
「しまった」
 後悔の言葉が早いか否か、深い深い渓谷の底から低い破裂音がしたかと思うと、足下直下から逆さ瀑布のような水柱が上がった。
「冷た!」
「きゃっ!」
 もはや「飛沫」とは言いがたい量の水を辺り一帯に撒き散らしながら、水底から出現した瀑布から巨大な竜が姿を現した。その大きさは周囲を囲む竜達と比較して圧倒的に巨大な、竜王シュテラリオンと同等の体躯を有した巨大水竜だった。
「沼竜谷の王!」
 津波のように水を被った吊橋の上でジャスミンは呆然と空を見上げた。風の竜王シュテラリオンと異なる黒鱗の水竜、沼竜谷の王。
「だめ!」
 ミリアムが小さく悲鳴を上げる。
「え?」
 その理由は直後に知れた。
 天に伸び上がり姿を現した黒竜は中空で体を急旋回させると巨大な紅の口を開けてヴィルに襲いかかった。すかさず無事な左手で風を作り体を浮上させそれをかわすが、撓った動きに伴い間髪なく襲い来る巨大な尾がすぐ真横に迫っていた。
「!」
 空気を薙ぐ竜の尾の影が視界の端を過ぎり、ヴィルは瞬時後に襲い来る衝撃を覚悟した。
「やだっ!」
 反射的にエルリオは瞳を瞑る。「あ!」とミリアムの声が重なり、
「ヴィル!!」
 橋の手すりを有らんばかりの力で握り締めたジャスミンの叫び、
 そして凄まじい衝突音と咆哮が重なった。
『ギャアアオオオ』
 それが竜の悲鳴に変わりエルリオは顔を上げた。
「シュテラリオン!」
 叫んだヴィルの言葉通り、新たな巨大竜がそこにいた。腹に印を宿した風の竜王は、ヴィルに向けられていた黒竜の首に真横から喰らいついている。二匹の竜王は互いに巨体をぶつかり合わせ空中でのたうった。
「竜と竜が……なんで…?」
 エルリオは呆然とその光景に圧倒される。あの黒竜が何故当主たるヴィルに襲い掛かったのか、そして何故竜の住まう谷で竜同士が対峙しているのか。遠い脳裏で浮かんだ小さな疑問は体中を振るわせるほどの咆哮により全て掻き消える。
 黒竜は体を捻らせて尾を振りぬき、シュテラリオンはそれをかわし黒竜の首から口角を離した。大振りに翼をはためかせて互いに牽制し合う距離をとる。
「……」
「………」
 小さき人間達はただその様子を見つめるしかない。最も近距離にいたヴィルも、橋の上のジャスミンも、遠くから駆けつけていたクロウら沼竜谷の戦士らも、そして中空に留まったままのエルリオとミリアムも、ついでにポケットの中にいたキューも、ただ双眸に二つの王を映して動きを止めていた。
『グゥ…』
 口惜しげに小さく呻き、黒竜は首を返して体を逆方向に翻す。そして谷底へと急降下していくと再び巨大な水飛沫を上げながら渓谷の深き水底へと還っていった。
 谷中から全ての音が消えたように静まり返った中で、
「あれ…やっぱりホンモノなんですかね」
 ぽつりと最初に声を発したのはアレックだった。騒ぎに乗じてイリオン少尉も、渓谷間で繰り広げられた光景を高台から眺めていたのである。目の前の、さながら怪獣大戦争たる出来事を両者とも俄かには消化できずにいた。
 ―あるべき場所へ還れ。
 黒竜が消えていったのを見とめ、シュテラリオンは周囲に集まっていた若い竜達に首を向けた。それを受けて次々と翼を翻して竜達は去っていく。空と足下がひらけた。
「………良かった…」
 橋の上で消え行きそうな声が漏れる。危うく崩れてしまいそうな膝に何とか力を込めてジャスミンは手すりを頼りに体重を支えた。一方、空中では、
(頭が痛い…)
 安堵した途端にエルリオは再び酷い眩暈に襲われた。頭痛も引き起こしている。吊橋に降りたった途端その場に尻餅をつくように座り込んだ。ジャスミンが駆け寄る。
『相変わらず無茶をする』
 上空では、全ての竜達が飛び去ったのを見送った竜王が己の分身たる当主に首を擡げた。巨大な竜の瞳が目の前に迫り、紅く染まったヴィルの右半身を見た。その細身に長い首を巻きつけるように頬が摺り寄せられ、ヴィルは辛うじて動く右手を持ち上げて硬い鱗に覆われた竜王の目許に手の平を当てる。そして目を瞑り静かに深く息を吸い込んだ。
「あれは…何をしているの?」
 気だるさを押しのけてエルリオは竜王と当主のやり取りを見ていた。吊り橋の向こうから駆け寄ってきたクロウら黒髪の男達も。
「シュテラリオンが…ヴィル様に生命を分け与えているのよ」
 答えたのはジャスミン。見知らぬ少女二人を見やり訝しげだった黒髪の男達だが、ジャスミンの様子からエルリオ達が当主の客人なのだと理解する。
「命…を?」
 驚くエルリオの隣で「まあ」とミリアムがいつものように両手を口元に当てた。竜王に触れたヴィルの右手が仄かに光を帯びており、遠目にも右肩から腕にかけての怪我が薄れていくのが分かった。
「当主は竜王の分身、と言われているの」
 ジャスミンが続けて呟いた。
 傷が消え去っていくと共にヴィルの面持ちから苦悶が消えていく。光が消えうせるとゆっくりと双眸が開かれる。竜王の瞳が遠ざかっていった。長い首を上空に持ち上げて一つ大きく羽ばたくとヴィルの頭上を越えて行く。
『三年という年月は我らにとってあまりに短いようだ』
 人々が見上げる視線の中、竜王は大きく空に輪を描き旋回すると天竜谷の峰の向こうへと飛び去っていった。
「………」
 金髪の当主はしばしその方角を見つめて無言を保っていた。
「ご当主!」
 吊橋からクロウが上空に向かって声を上げる。我に返りヴィルが声のする足下を見やった。橋板に少女二人が座り込んでおり、傍らには部下達の姿もあった。
 風と共につり橋に降り立つと、自分より少し目線が下にあるジャスミンの見上げる視線とかち合った。
「……」
 名前を呼ばずに無言で真っ直ぐ見つめてくる時のジャスミンは、怒っているのだ。その更に下からヴィルを見上げて、揺れるつり橋の手すりを掴みエルリオは立ち上がった。
「あの…ごめんなさい、こんな風になるなんて私…」
 始めと変わらない無表情を保つヴィルの視線が少女達に向いた。そこから目を反らしエルリオは俯いて言葉を捜した。
 土地柄を考慮していなかった事、押印師として使用場所を弁えなかった事、様々に反省すべき点はある。だが最も言わなければならないことがあった。
「助けてくれてありがとうございます、ごめんなさい、怪我させてごめんなさい!」
 意を決してヴィルを正面に見つめ、そして頭を下げた。これは同時にジャスミンに対する謝罪でもある。
「私も、私もごめんなさい!」
 隣からミリアムがエルリオの腕をとって寄り添うように一緒になって体を二つに折ってくる。
 応えはすぐに戻ってこなかった。怖くて顔が上げられない。頭上で誰かが小さく笑うような声が聞こえたが、エルリオは固く目を瞑ったまま俯いていた。
「いや今のは…」
 そのうち、平坦な声と共に肩へ手を置かれた。
「俺の不注意だった。俺が、」
 小さな呼吸が挟まり、エルリオが顔を上げると肌の色と対照的な深い色を宿したヴィルの瞳とかちあった。
「俺の認識が浅はかだったからだ」
 言葉の真意が汲み取れずエルリオは困惑の色を浮かべた。周囲の人々はヴィルが言わんとしている事を理解しているようで、漂う空気は静かだ。強張って脈打っていた心臓が収まるのを感じてエルリオは恐る恐る切り出した。
「私、自覚が足りなかったんだ…いつも言われていたのに、押印師は精霊への感謝を忘れてはいけないって」
 平坦なヴィルの表情が「おや」、といった風の面立ちに変わる。
「なのに押印を便利な道具みたいに使っていた…。ここみたいに、純粋で原始に近い精霊が集う場所で押印を軽率に使うべきじゃないって気付けなくて」
 今は印が消えている左の手を右手できつく握り締めた。
「やはり親子だな」
「え…?」
 肩に置かれていたヴィルの手が、エルリオの頭に置かれた。徐にわしわしとかき回される。
「だが…そういう話をする前に、奴だ」
 手を止めたヴィルの視線を追ってみると、吊橋の向こう、沼竜谷へと向けられている。「奴?」とジャスミンが繰り返すとヴィルは不味い薬を飲んだように口元に苦笑を作った。
「奴をどうにかせねば」
 元上司で竜翼谷の当主に「奴」呼ばわりされているとは知る由も無く、アレックは沼竜谷の高台から視界を支配する渓谷の風景と、先ほどまで繰り広げられていた竜の戦いに圧倒されていた。背後のイリオン少尉からなにやら声がかかっているが、全く耳に入っていない。
(こんな場所があるんだなぁ)
 製図士としてこれまで上官の後をついて様々な地理的条件を有する場所へ出向いた経験が、いかにまだ浅瀬であったかを再認識させられる。人が足を踏み入れる事が全く想定されていない、神妖獣の為の手付かずの聖域。
(軍を展開できる場所が無いもんな。人間だけの地上部隊じゃこういう場所は攻略できない…)
 誰に問うでもない、脳裏で自問自答を繰り返しながら、
(竜騎士か……確かにすごい戦力だな~)
 国軍にとって如何にこうした特殊戦闘集団が貴重な存在か、思い知る。
 そういえば。
 風に揺れるつり橋の上に集まっている人影を眺めながらアレックは小さく呟いた。
(ここの竜騎士達と国軍ってどういう契約になってるんだろう)
 竜翼谷の竜騎士兵団が大戦時に国軍の空撃部隊として活躍したとの記録はあるが、正式所属部隊として常駐する立場ではない。
「アレック・シュタインウェイ一等下士官!」
「はい!」
 フルネームで怒鳴られてようやくアレックは背後に気がついた。
 恐る恐る振り返ると丘から下り始めたイリオン少尉が呆れた様子で腕を組んでいる姿がある。そこでようやく自分がここへ何をしに来たのかを思い出した。
 思い出した途端、体中の皮膚が痛み出す。
「痕が残ったらいやだなぁ」
 そんな泣き言を洩らしながらアレックはイリオン少尉の元へ駆け寄った。




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押印師ACT7-10
10

 軍の人間が沼竜谷に来ているという。
「なぜ谷の中へ入れたのですか?」
 ジャスミンの問いには若干の批難が含まれていたが、相手がアレックと知り抗議は納得と共に飲み込まれた。
「そんなに頭が切れる軍人なの?」
 エルリオの質問に、
「ある意味キレているとも言えるわね」
「天才と何やらは紙一重ってね」
「要するに皆さんその方がお苦手なのですね」
「お前に似てない事もないがな…」
 と上から順に、ジャスミンが答え、キューが余計な一言を挟み、ミリアムが微笑み、そしてヴィルがエルリオを見やって呟いた。
「ちょっと!それって私がキレてて馬鹿って事―」
 エルリオの抗議は空しくかわされた。反応を面白がって微笑むジャスミンの隣でヴィルは不動の無表情で話題を戻した。
「どうやらシールズという大佐がアレックを派遣してきたようだ。俺の記憶に間違いがなければシールズ大佐は諜報系統の人間だと思うのだが」
「諜報……?まさか指名手配の私達を探るためでしょうか?」
 笑みを湛えていたミリアムの表情が翳る。
 そう考えるのが妥当だが、それにしても手際が良すぎるとエルリオは思う。まずエルリオとミリアムの接点を見出す事が出来ないはずだ。だがもしや軍は「グレン」という人物を知っていて、そこから接点の可能性を計算したのかもしれない。だが例えそこが判明したとしても、こう容易に旅の行き先まで突き止められるとは思いにくい。
(列車事故が原因かな)
 ただの列車事故なら良かった。だがそこに精霊狩りが出現したとあれば事情は変わるだろう。しかしそうであったとしても、確率を数字にすればどれだけ低いのだろうか。
 そこに賭けて実際に人を送り込むシールズという名の佐官の判断力に、エルリオは忌々しさを覚えざるを得なかった。シールズが特殊なのか、軍がその指示を許可するほどに柔軟性を持っているからなのか。そこまでエルリオには分からなかった。
「大丈夫だ。これ以上余計なものを見られる前に引き取ってもらう」
 エルリオ達とジャスミンには天竜谷へ引き返すように指示を残し、ヴィルは沼竜谷へと戻っていった。
 元来た道を歩きながら、エルリオは吊り橋から一望できるパノラマを見渡した。空を埋め尽くすほどの巨大な二つの竜神の化身が戦っていた光景が夢だと思える程に、今は静謐な空気だけが風となって流れている。
「あの黒い竜、かなり大きかったけど特別な竜なの?」
「あれは沼竜谷の王よ。シュテラリオンは天竜谷の王。地竜谷にも同じように王たる竜がいるわ」
 三つの谷と、三つの竜王。
 ジャスミンの説明に「あれ?」とエルリオは足を止める。
 唯一この谷で人語を理解する竜だというヴィルの説明から、シュテラリオンが谷全体を司る竜の王だと解釈していたのだ。
 その疑問にジャスミンは「ええ」と否定を見せなかった。
「今はシュテラリオンが谷の王。もともと「シュテラリオン」は固有名詞ではなくて「谷の竜王」を意味する冠名。シュテラリオンは体に竜王の印を持ち、私達の言葉を理解し発する事ができる唯一の竜を示す名前なの」
 ヴィルに襲い掛かった沼竜の王。その王の首に喰らいついたシュテラリオン。一分の容赦もない強食の光景を思い出す。
 三谷の竜王が今も覇権を争い続けているという事だろうか。
「だから沼竜王はヴィル様を狙ったのよ。地竜谷の王も同じ。現竜王が選んだ当主の血の匂いを嗅ぎつければ、地の底に眠っていたって襲ってくるわ」
 水底に眠っていた沼竜の王が、たった一滴の血に猛り狂った時のように。
「それは…」
―三つの異なる民族が一つになっても、こうしていがみ合うことなく暮らしているのですね
 そう言った己の言葉の浅はかさをミリアムは悔いた。
 言葉にはせねども同様の感慨を抱いていたエルリオも、古史に縁深き地の精霊が生み出す深い業の前に言葉をなくすしかなかった。
(押印と余りに違いすぎる…)
 何度も印を付け替えてきた己の左手を眺め、そして父ワイヴァンも見たであろう渓谷の谷底を改めて覗き見る。遠方に連なる渓谷が無造作に置かれた苔むした岩に見える。遥か下方には、ペンで描いたような細い河流線。だが実際は巨大な竜が姿を潜ませるに十分過ぎる深さと川幅を持っている。
「大きくて深いんだ…」
 表に見えている物だけが世界の全てだと、勘違いし続けていたのかもしれない。
 エルリオの口からぽつりと漏れた言葉に隣でミリアムが宝石のような瞳を向ける。薄く色づいた小さな唇が何かを言いかけて動きかけるが、言葉を見つけられなくて口を噤んだ。
 ポケットの中ではただ、キューだけが無感慨にジャスミンの言葉を無機質な記録としてその体に刻んでいるだけだった。

「お怪我は大丈夫なんですか?」
 右肩をひょいと覗かれてヴィルは無意識に体を傾けて肩を隠した。そんな必要は無いのだが。アレックは気に留める様子もなく五体が無事な様子のヴィルに悪気の無い笑みを見せる。
 酸が染み込み変色して縮れてしまった軍服は処分し、アレックは谷の民が着用する装衣を身につけていた。体も洗い流して清清しい様子。
「申し訳ありませんでした、またご迷惑とお手数をおかけしてしまって」
 自覚はしているようだが恐らく一生治らないだろう。現にそう言いながらも珍しい装束が気に入ったのか、少し長い袖を引いたり襟元を触ったりと落ち着きが無く動きっぱなしだ。
「気にするな」
 ヴィルは小さく苦笑して応える。本音と異なる言葉だが、ヴィルはこの元部下に嫌悪を抱く事は出来なかった。「好奇心は何かをも殺す」、そんな言葉を体言化したようなアレックだが、本人に邪気が無い事は周囲にいる人間誰もが知っている事なのだ。
 敵に回したくない人間の類である。
「ここの谷は、面白いですね」
 谷の出口に向かい歩きながらアレックは差し込んでくる西日に目を細めた。
「面白い?」
 アレックの口から出た思いもよらない単語はヴィルの思考を一瞬、立ち止まらせた。そんな様子を知ってか知らぬかアレックは「はい!」と無邪気な返答を寄越してくる。
「人や竜の関係性が興味深いです。アリタス戦史にも残る竜騎士団の組織力、戦闘力ってどう生まれるものなのか」
 迂闊な反応を見せまいとヴィルは相槌を避けた。
「竜騎士と騎竜の関係を見ていると、契約を超越した信頼感を感じられます。人々の竜への接し方は神妖獣にたいする畏怖よりも、もっと生活に根付いた…例えが適切かもしれませんが犬に向ける愛情と似ている気がします」
 「犬」という単語はしばし「隷属」の意図で使われる場合があるが、本来は違う。使役による明確な主と従の関係にありながら種を越えた信頼と愛情による結びつきが存在する、その意味でアレックはあえて「犬」という単語を選んだ。
「でもあの大きな金の竜と、黒い竜は違うのですね。黒い竜は、中尉に明らかな殺意を抱いていました。でも金の竜は違うみたいで。金竜と黒竜の関係もよく分からなくて。捕食行動…ではないですよね。あの時他の竜たちは金の竜には従うようでしたが、でも黒竜に敵意を向けるでもなくただ様子を見ていただけで…」
 一人で話を進めていく途中で「あ、そうそう」と独語が挟まる。
「竜騎士団が編成される時は竜翼谷全体から人選されるのですか?」
「え」
 突然振り返られてヴィルは足を止めた。基本、当主の決定は絶対だ。十数年前の対帝国戦時に、中隊の動員を決定したのも当時の当主であったと記録にある。それを思い出したヴィルの思考を読んだかの様にアレックは続けて問いかけてくる。
「過去の帝国との戦闘の時みたいに国軍に軍事力提供をする場合の命令系統はどうなるんです?」
 アレックの瞳に探りを入れている気配はない。純粋な軍事馬鹿としての興味がそうさせているだけなのだとヴィルは感じていた。だからこそ、厄介なのだ。
「時と場合による」
 ケースバイケース。ヴィルは短く応える。これは実に便利な単語だ。「そこを詳しく!」や「たとえば」「具体的に」等と切り替えしが来た場合でも、持ち時間を理由に押し戻す事が可能である。
「おい、置いてくぞ!」
 だが今回は前方を歩くイリオン少尉に助けられた形となった。話し込むうちに牛歩となっていたアレックに苛立ちの声を上げたのだ。
「はい、すみません!」
 我に返った様子で威勢の良い返事をしてから、
「あの、レストム元中尉」
 アレックは谷からの出口付近にまつイリオン少尉へ駆け出しかけた足を止めて、振り返る。
「そんな呼び方があるか」と前方でイリオン少尉は本日十回目の溜息を吐いた。
 今度は何だとヴィルは無言でアレックの言葉を待っている。
「アリタスの国が危なくなったら、助けて下さいね!」
 久々に会った時に見せたのと同じ笑顔だった。
「-え?」
 何を言われるかと思いきや。
 唐突な不意打ちに、返答に窮したヴィルはただ腕を組んだままアレックの動向を見やるしかない。
「この地に息づく力の強さ…って表現したらいいのかな、とにかくここが、この国にとって大事な場所だって事が感じられました」
「………」
「こんな広大な谷の当主ってどれだけ大変な事なのか僕には想像もつきませんが、でも頑張ってくださいね」
 片手を子供のように大げさに振りながらアレックは先を歩くイリオン少尉に向けて踵を返した。一拍遅れてようやくヴィルも頷きを返す。
騒々しい客人はシュトルのセントラル方面に向けて姿を小さくしていった。しばらくヴィルはその背中を見送った。
「アリタスの危機…ですか。また何か起こるのでしょうか」
 共に珍客を見送っていた戦士の男がヴィルの背中に独言とも取れる問いを向けた。一呼吸分の間考えてから「どうだろうか」とアレックが去っていった方向を見つめたまま応える。
 十数年前の対帝国戦。
 当時の当主は何を思い、考え、決断を下したのか。
 完全に珍客の気配が消えたのを確認して、ヴィルは谷に向けて踵を返した。

「ま、結果的にお前のおかげで色々良い物が見れたんだから、感謝すべきなのかね」
「そうなんですか?」
 その頃、珍客達は谷の外れに待たせてあった軍用車に乗り込むところだった。ハンドルを握る軍曹が、服装が変わったアレックに気付く。経緯を説明するとひどく羨ましがった。
「巡回でこの付近までは来ても、谷の中まで見たことないんですよね」
 砂塵を上げながら道なき荒野を切り拓くジープ。軋むタイヤとエンジン音に対抗して三人の軍人は声を張り上げる。
「なんでもこの谷は印保持者の集まりだっていうじゃないですか。シュトル局にも何人かこの谷出身者の印保持者がいますけど、竜に騎乗しているのは見たことありません。竜も間近で見てみたいですよ」
 国軍内でも印を保持する者は少なく、即戦力は押印に頼っている部分が多い。軍曹の言葉通り、シュトル局には幾人かの谷出身の印保持者が所属しているが、それは竜騎士としてではない。
「凄かったですよ!」
 とアレックは後部座席から運転席の方へ身を乗り出す。「羨ましいな」と笑って軍曹は片手でハンドルを操りながら煙草を口にくわえた。
「だけど印保持者が一箇所に集まってるって知られるのも問題みたいで」
 精霊狩りの事だ。
「でもあれだけの戦闘力があるなら対応できそうですよね?」
 同じ光景を目にしてきたイリオン少尉に同意を求めてアレックは再び後部座席のシートに背中を戻した。少しずつ人工的な建造物が増え始めた景色を眺めながらイリオン少尉も軍服のポケットから煙草の箱を取り出した。
「谷はそうだろうが、弊害が問題なんだよな」
「弊害?」
「あぁ、そうですね」
 イリオン少尉の言葉を理解しているようで軍曹は火をつけた煙草を燻らせた。高速で過ぎ去る景色と共に煙が掻き消えていく。
「暴走者も急増していますね。この間も―」
「暴走車?」とアレック。
「車の方じゃないぞ」
「は、はい…」
 単語を思い浮かべてアレックは自らの記憶のノートをめくる。精霊狩りの話から「暴走者」の単語が出れば意味は一つしかない。
 三人の会話を乗せたジープはシュトル・セントラルに向けて爆走し続けていた。




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押印師ACT8-1
ACT8「運命の依り拠」

01

「イルトのぼっちゃん、遅いなあ…」
 約束の時刻になってもイルトが現われない。
 村とグレリオ・セントラルとを行き来する行商人の男、マクダムは、市街地へと続く門の傍らにとめた車の前で背伸びをした。
 門の前に敷かれたロータリーの中央に立つ時計塔を見る。定刻はとうに過ぎていた。街から村へと帰っていく人並みや車の列がロータリーを抜けて外へと流れて行くのを眺めながらマクダムは溜息をつく。
「何かあったんだろうか…長に示しがつかないぞ…困ったな…あれ?」
 弱音を吐き出したところで異変に気がついた。外からロータリーに向けて物々しい車が視界に飛び込んできた。ほぼ同時にロータリー側からは庁舎所属の警備局の制服を身につけた男達が駆け寄ってくる。
「国軍警察局…?」
 物々しい車は一台の軍用ジープだ。警備局の人間に導かれてロータリーの脇にジープが止まる。その間もなく扉が勢いよく開かれて国軍警察局の制服が一人、二人と降車してきた。運転席の人間は車に残っているようだ。
 出てきた二人は迎えに出た男達としばし言葉を交わすと、短く頷いた後に車のトランクを開けてライフルを取り出した。
「えぇ…!?」
 マクダムが絶句して瞠目する中でライフルを背中に担いだ二人の警察局兵は町の中心に向けて駆け出して行った。
「……まさか…イルトのぼっちゃんに何か…?」
 完全に陽が落ちようとしているロータリーの片隅で、「まさかね」と苦笑しながらマクダムは立ち尽くした。

「な、何やってんだ、さっさと殺せ!殺せ!」
 慌てふためいた命令が初老の男の口から叫ばれる。別の男の方がテイダスに向けて再び駆け出した。
「テイダ…」
 イルトも再び足を踏み出すが、メイリと呼ばれた少女が間に割って入った。
「このっ!」
 幼く甲高い声が吐き出され、同時に再び焔が繰り出された。
「恐れるな!」
「!」
 後方から声が上がる。グレンだった。額に熱を感じた直後にイルトは右手で顔を庇いながらも、今度は足を止めなかった。
(恐れるな…!)
 自分に言い聞かせ焔に突き進み右手を振り払う。
「きゃぁ!」
 少女の悲鳴と共に焔の緞帳が切り裂かれる。視界を占領していた紅が取り払われ、代わりに両手で顔を庇い後方に尻もちをつく少女の姿が目に入った。
「あ…」
「二人目の少年だ」
 また背後から声。少女の姿を目端に、声に従い反射的にテイダスの後方にいた少年に意識を向ける。警戒する姿勢をとった直後に少年の腕が鈍い光を発した。足元、ロータリーに敷き詰められたブロックが瓦解し石片となり浮かび上がる。
「うそっ!」
 石の雹が横殴りにイルトに襲い掛かる。右手の平に熱を感じ、本能に従い右腕を前方に振り上げた。手の平から指先にかけて真っ直ぐに棒状の光が一瞬生まれ、迫る石を全て払いのけて消えた。砂塵の向こうで少年が瞠目する様子が視界を過ぎり、
「止まれ!」
「っわ!」
 刺すような命令がイルトの足を縫い付けて動きを止め、直後、爪先数センチ先からブロック敷きの歩道を何かが突き破りイルトの鼻先を掠った。
「フィルの攻撃が読まれた!」
「いつもはこれで殺れるのに…」
 メイリの掠れた声と、フィルと呼ばれた少年の舌打ち。
 イルトの目の前に現われたそれは槍状に積み上げられた細かい石片。そのまま足を踏み出していれば串刺しとなっていた。
「………な…」
 それに気がついた途端、内臓を中心に体全体の体温が下がっていく感覚に襲われる。だが命を落としかけたというのに恐怖は中々湧かなかった。
「右から行くんだ」
 気を取り直す間もなく背中かから掛かっていた声が真横を通り過ぎた。
「え」
 言葉の意味を確かめる間もなく後方にいたグレンがブロックの石片を一つ手に取り、水平に手首を撓らせて前方に投げつける。
「ぐほっ」
 石はテイダスに手を伸ばしかけた男の顔に命中した。小切手をつかみかけていた指先が引っ込められ、男は顔を両手で覆い背中を丸めて呻く。その瞬間にイルトが右から、つまりテイダスの死角となる肩左後方から回り込み手を伸ばした。
「テイダス!」
「!」
 死角から肩を掴まれてテイダスは恐怖の混在した悲鳴に喉を引きつらせた。同時に、肩を掴んだ手を通じてイルトは凄まじい電流を感じた。
「うわっ!」
 たまらず体を翻して丸める。その動きにあわせて足元から空気が逆流し動きかけた少年達を遮る壁となった。三歩、四歩と転げるように後退するとグレンとぶつかった。
「イルト…!」
「いって~…なんだ今の…」
 右手が指先から肘にかけて痺れが残る。動かない腕を左手で押さえ込んだ。
「何よ、何よあいつら!どっからつれてきたのよジュドス!」
 メイリが癇癪と共に両手を乱暴に振る。動きに呼応して腕から焔の尾が筋を描いた。ジュドスと呼ばれた中年の方の男が「俺が知るか!」と背後の初老の男を見やる。
「レダン、どうすんだよ」
 レダンとは初老の男の名らしい。
「ここまで知られて顔も見られてるんだ、殺るしかないだろうが」
 ジュドスよりは冷静さを残した声でレダンはイルトとグレンに鋭い視線を向けた。
「った~…」
 押さえ込んだ右手からようやく痺れが抜けかける。イルトはぶつかって背中を預ける形になっていたグレンから体を離して立ち上がり振り返った。自然と、次の指示を仰いでいる自分がいる。
「……まずいな」
 返って来たのはそんな言葉で、余裕ともとれる無感慨を保ち続けていたグレンの面持ちに、苦渋が混在していた。
「どう、したんだ?」
 「まずい」状況である事は始めから重々に承知の事だが、念のために訊いてみる事にした。それには直接答えずグレンは短く溜息をつくとテイダスらに向き直った。
「君たち、本意で押印を宿しているのでないなら、一刻も早く外した方がいい」
 グレンの言葉に三人が三様の驚きを顔に表出させた。
「附憑がかなり進んでいる。暴走するのも時間の問題だ」
「暴走…って…?」
 「暴走」の言葉に表情を変えた子供達。その様子が只事でないと感じてイルトは問うた。グレンは子供達に目を向けたまま言葉を続けた。
「押印は精霊が作り出した自然の規則に反した、人間が無理やり作り出した技術で本来あってはならないものだ。無闇に使いすぎては精霊の怒りを引き起こして君たちの心も体も傷つける」
 グレンの単語の選び方が幼くなっている事にイルトは気がつく。易しい言葉を使って子供達の理解を掌握しようとしているのだ。
「押印を使い続けると、印が神経を支配し最後には印に附憑…意識を支配されてしまう場合があるんだ」
 それを、暴走という。
「子供がつけた場合、大人よりも印への適応率が高く、体の成長とともに大人よりも根深く印が体に浸透してしまう」
「うるさい!わたし達はそんな風にならない!」
 グレンの言葉を遮断してメイリが叫ぶ。両手を強く握り地団駄を踏むように片足を地面に打ち付けた。足下から焔の帯が伸び上がって消えた。
「印が感情の動きに呼応するようになっている。感情的でヒステリックになりやすいのも附憑が進行している証拠だ。貴方がたがこの子らの保護者であるなら、すぐに外してやるべきです」
 今度の言葉はジュドスとレダンに向けられた。
「保護者か…」
 だが答えは、別の方から別の声で戻ってくる。ロータリーを挟んで三方から向かい合う面々が声の方向に一斉に振り返った。
「ラースル!」
「ラースル…」
 複数人から声が上がる。
 グレリオ・セントラルの中心部方面からの小道から足音が響き始めた。ライトがなく、陽が沈んだ直後の月明かりも出ない、最も人の目を惑わす時間帯。足音の正体は見えないが、子供達や男らは声で分かったようだった。
「誰だ」と叫ぶのが定番なんだろうけれど、名乗られたところで知る由もないのでイルトは黙って様子を見ることに決めた。隣でグレンも挙動を見せずにただ声がした方を眺めているだけ。
 一方で男達や子供達は、安堵に若干の畏怖が混ざった面持ちで、近づいてくる足音を待つ。
「お前、軍人だな?」
 吹き抜けのように空が開いたロータリーの広場に、ようやく足音の正体が姿を現す。
「命令の下し方が様になっている。反射神経と勘もいい」
 声は低いが若かった。若干笑っているように語尾が軽く転がる。現われた人影は、黒を基調に全身をかためた長身が威圧的で、レダンやジュドスより明らかに格が上だと分かる気配を漂わせていた。
「市街戦指示に慣れているとすれば、大尉か…中佐以下の佐官経験があるってところか」
 ラースルと呼ばれた青年は重たいブーツの音を響かせてロータリーに徐々に近づきつつあった。黒く短い袖のシャツに、国軍の兵士が着用するものと似た黒いサファリスーツのトラウザに頑丈そうなブーツを着用していた。これでヘルメットと長銃でも担げば一見、本当に国軍の兵士のようにも見える。
「ただの民間人です」
 大嘘だが事実でもある言葉がグレンの口から無感慨に流れる。
「参考までに聞かせてもらいたいな」
 男が足を止めた。ちょうどロータリーを挟んで四角形を描く形の位置だ。
「『民間人』のお前らが何故テイダスの居場所を突き止め、押印の事まで?」
「答えてもいいけど、これで間違っていたら恥かしいね」
 男から視線を外してグレンがイルトを見やった。苦笑、というより照れている。
「俺に言われても……」
 だがここまでほぼ間違いは無かった。何かしらの計算違いがあったようだが、イルトが慣れないケンカで五体無事にいられるのも、全て彼の判断による命令のお陰である。
(ケンカっていうレベルじゃないよな…なんだろう、「戦闘」…??)
 グレリオの田舎町に住む自分にとって最も無縁と思われていた単語に今更ながら戸惑いを覚える。そういえば死にかけたのだと思い出して今頃恐怖が心臓から滲み出て来るように鼓動が早くなってきた。
「まず…」
 グレンが男に向き直る。
「テイダス少年が窃盗を働いていた場所で、組織的なものだと推測した。孤児が一人、または少人数で食いつなぐ為なら庁舎なんか狙わない。あれだけ市場が賑わっているならそこでスリなり窃盗を働くのが普通だし、安全だろう」
(なるほど)
 と思って直後にイルトは感心している場合かと己を戒める。対峙するラースルは口元に不敵な笑みを浮かべたまま表情を変えずに無言だった。
「後ろ盾か仲間が存在するなら現場付近のどこかに中継地点となる集合場所があるだろう。宿屋街や歓楽街が定石だがその両方ともないとすれば可能性が高いのは人込みにまぎれられる場所で裏通りに面している所。市場通りと露店通りが当てははまるが露天通りに絞った理由はグレリオセントラル内外の人間が集まるからだ。市場通りの方は登録制のために顔見知り同士が多い」
「それでか…」
 思わずイルトの独語が漏れる。
「庁舎警備局から国軍警察局へ届けが出る程であればグレリオセントラルに根を据えた生活を送っていないと推測した。カモフラージュの品は非生鮮物で尚且つ簡単に仕事現場付近で得られる物を使うだろう。野菜は用心の為としては良い手だったが、入り口付近の別の店と同じ包装が成されていたのが致命的な手抜きだった。肥料に牛の堆肥を混入していると言っていたが、グレリオセントラル周辺で牛による酪農は行われていない。店番が二人以上なのは、店番役のほかに監視と匿い役を担う人手が必要だからだ。あの店から集合場所を割り出したのは地図を見て見当がつく」
 長い台詞を言い終えた役者のように、グレンは言葉を止めて小さく溜息のような深呼吸をした。
 ラースルの表情は変わらないが、ジュドスとレダンの表情や反応からグレンの推理が全て当たっていただろう事が想像できた。
「地図を見ただけでどうやって見当が?」
 どこか楽しそうにラースルは尋ねる。
(短い時間の中でそんなにたくさんの判断をしていたのか…)
 イルトは思わずグレンを見やる。曖昧模糊とした脳裏の疑念が、鍵が合致したように収まった。
「今後の参考にされては困るのであまり言いたくないのですが…」
 苦笑と共にグレンは首を傾げる。
「露店通りから裏通りに出て郊外へ出る門道は全部で六つあった。しかしここは露店通りから三番目に近くしかもロータリーであるにも関わらず地図には名前が記されていなかった。庁舎に飾られた市民と外地人向けの案内地図は昨年改訂だと書いてありました。なのでここ数年滅多に使われない廃道だろうと思ったんです。それだけです」
「…………」
 経験の差なのか、地頭の差なのか、イルトに計る術はない。だがイルトを始めこの場にいる人間から反論や対応の余地を一切奪っているのは事実だった。一人、黒い男ラースルを除いて。
「参考にさせてもらおう…」
 口元がまだ笑っていた。
「テイダス、メイリ、フィル。こいつらに勝てる方法を教えてやる」
 グレンに向けていたラースルの視線が子供達に移動する。凝固していた時間が動き出して子供達の肩が揺れた。
「え、なになに、教えて!?」
 ラースルの言葉へ特に反応をみせたのはテイダスより若干幼いメイリとフィルだった。テイダスはイルトやグレンやラースルの間で戸惑いの視線を泳がせている。
「頭を狙え」
 言ってラースルの指先がイルトを通り越してグレンを指し示した。
「頭?」
「そうだ。ちょろちょろ動き回る手足を潰そうたって難しい。そういう時は、頭を先に潰すんだ。命令が無ければ、手足は動けないからな」
 メイリとフィル。ニつの幼い視線がグレンを向いた。無垢で純粋な殺気を有した白い目だった。
「……」
 イルトは言葉にできない不気味な恐怖を覚える。同時にラースルの言葉が暗に「お前は一人じゃなにもできない」と揶揄している事に気がつき腹が立ってくる。
「あれは士官学校で教わる基本中の基本だよ」
 なのに隣からは呑気な余談が投げかけられた。
「………へぇ…」
 普段は祈らない神にすがりたい気分だった。
 そして知らぬうちに腹立たしさが消えている事にも気付くのだった。





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押印師 ACT8-2
02

 テイダスの体の向こうで、ジュドスとレダンがラースルに促され街の外へと続く門の方へと逃げ去っていくのが見えた。
「やってみろ」
 それを見送ったラースルの短い命令と共に動き出したのはメイリだった。まさにエンジンが火を吹く様と同じ原理でメイリが地を蹴ると足下から焔が小さな風を起こして熱風が湧き上がりメイリの髪を吹き上げた。両腕に焔を纏わせ一直線にグレンを狙い、飛び出しながら右手を振り下げる。球体の焔が手の先から生み出された。
「またかよ…!」
 咄嗟にグレンの前に飛び出す。
「上かな」
 背後からの声がした直後、言葉通りに焔が急激に軌道を変えて直角に上昇し今度は鋭角に落ちてきた。イルトが動いた時には既にグレンは上方に気付き後方に二歩下がる最低限の動きでそれをかわしていた。
(次は…)
 先ほどのパターンが脳裏に甦り、イルトの視線はフィルを目端に映す。フィルの腕が僅かに上に行きかけたのを視にとらえた瞬間に、イルトはグレンの右腕をとり強く引いた。
「!」
 イルトに腕を引かれて右に体が傾いたとほぼ同時に頭上で瓦解音が轟いた。背後に建つ廃墟アパートビルの屋上が崩れ落ちる光景がそこにある。先ほどまで立っていた場所に麦袋大はあろうかというコンクリートの塊が次々と叩きつけられて砂塵を上げた。
「……イルト…」
 敵がこう来る事は九割がた予測していたが己の指示よりも速くイルトが行動に出た事に、グレンは驚いた。
(あれ…)
 一方でイルトも己の体に違和感を覚えていた。
 動体視力とそれに伴う身体能力が尋常ではないほどに飛躍している。元々が山育ちであり脚力と体力に自信がある方だったが、例えば秒針が僅かに動くか動かないか、そんな僅かな一瞬に視が状況をとらえ、頭が思考し、手と足が動く―この対応速度が自分の体ではないような気がする。
 結論が出る間もなく、
「やぁ!」
 砂煙を突き抜けメイリが飛び出した。
「!?」
 少女自身がフラッシュオーバーした焔と化しグレンに迫りくる。それと同時にイルトの耳はブロックが崩れる音を聞き、視は上空から無数の石片と共に踊りかかるフィルの影をとらえていた。
「っえ…」
 こめかみで火花が散ったその瞬間からそれは起こった。
 非日常的な現象。
 メイリの動きとフィルの動きが風に不安定に舞う木の葉のように緩慢なものに変化した。無造作に束ねられたメイリの髪が初秋の緩風に身を任せる稲穂のように揺れ、フィルの着用しているシャツの裾がまるで最下流の淀みの様に緩やかにはためき、傍らのグレンの動きも同様で、視線がメイリに向いているものの上空のフィルへの対応が遅れている事まで分かってしまう。
(何……?)
 それがスローモーションという現象であるのだと、この瞬間には理解する事ができなかった。今の自分がするべき第一の事はただ、敵からグレンの身と己を護る事。それしか頭になかった。
「くっ!」
 掴んでいたグレンの腕を左手に持ち替えて自分の背後に向けて強く引いた。瞬間、時の流れが元に戻った様に急激に速度を上げる。回転しかけた体ごとイルトは右手を逆方向に振りぬいた。
 手の平が輝く。
 白い光が湾曲した線を描き、襲い来る全ての物体を弾き返した。
「ぎゃっ!」
 詰まった悲鳴が上がる。メイリの小さな体が仰け反り吹き飛ばされ、無造作に積み上げられていた薄汚いビールケースに激突して崩れる。フィルの体も無数の砕け散った石の雹と共に後方に撥ね付けられて落ちた。腕を引かれバランスを崩したグレンはすぐ側に転がっているダストボックスに手をかけて立ち上がり、イルトの背中と、その周囲で起きた事を見渡した。
(もう印を使いこなしている…)
 軍役経験のない、つい先日まで田舎の一角で基礎教育を終えたばかりの少年の戦いぶりには見えなかった。
「あ…ご、ごめん…」
 コンクリートの地面に叩きつけられた年下の少年と少女の姿に、イルトは焦燥を表出させた。無意識に助け起こそうとして右手が前に出かかるが、置かれた状況に気がつき踏みとどまる。その様子をグレンは沈みこんだ色を宿した視で見つめていた。
「お前の友達は強いんだな」
 イルトの様子を腕組みした状態で眺めていたラースルがテイダスを向いて笑う。硬い地面に小さな体を投げ出したまま立ち上がれずに震える二つの影を、テイダスは呆然と青白んだ面持ちで見ていたがラースルの言葉に弾かれるように肩を震わせた。
「違う、友達じゃな…」
 首だけ振り返るといつの間に移動したのか、黒い長身がすぐ側にいた。背後から手が伸びてテイダスの手中にあった封筒を取り上げる。中から紙片を半分だけ覗かせるとそこに書かれた数字を読んでラースルは低い笑いを転がした。
「なるほど、これじゃ上訴もへったくれもなく銃殺刑だな」
「それを返せ!」
 怒鳴ると同時にイルトはラースルに向かい踏み出す。
「待…」
 グレンが言いかけると同時に動いたのはラースルだった。メイリが激突して崩れたビールケース、そこから辺りに散乱した古びたアルコールボトルを数本、爪先で器用に蹴り上げ手に取ると空中に放り投げた。
「な、なに…?」
 イルトは空中に弧を描く複数のボトルを目で追うが、ガチャリと不吉な金属音に振り返るとラースルの手には物々しい拳銃が握られているのが目に入った。
「銃…っ!」
 撃たれる。
 こちらを向く黒い銃口がイルトの神経に鋭い恐怖を突き立てる。だが直後には銃口がゆらりと上に向けられ、それがボトルを狙っているのだと気がついた。
 複数の銃声、
 硝子が悲鳴を上げる音、
 そして液体が飛び散る音が同時に薄闇の中に響く。姿を現しつつあった月が淡い光を地に注いでいた。
「くっ…」
 グレンの微かな声が漏れた。

「銃声…?」
 連続した銃声が街の中心部へとこだました。疎らに残った人々が足を止め、振り返り、そしてざわめき出す。街灯が点された長いストリートを流れる人影達、その流れの中に、二人の兵服姿の警察局員がいた。
「聞こえたか」
「ああ」
「どこからだ」
 周囲を岩盤の丘と山に囲まれた地形と高い建造物が点在している事から音が反響してしまい、容易く音の発生地を突き止めることができない。無闇に動かず足を止め、二人は町の地図を脳裏に浮かべながらあらゆる可能性を計算する。
 道行く人々が背中にライフルを担いだその物々しさに振り返っては小走りに遠ざかっていった。
「裏通りの方だな」
「ああ」
 常日頃の業務勘を頼りに、二人の武装警備局員は走り出した。

 鼻に饐える酸味が異臭となって爆発するように辺りを包み込む。
 ラースルに向けて駆け出した足を止めてイルトが振り向くと、砕け散った硝子の破片と共に赤い液体を全身に浴びたグレンの姿が目に入った。顔を庇った両腕にも赤く爛れたように夜目にも鮮やかな色が付着している。

 ―血

 と、一瞬思ったそれは酸化したワイン。
「テイダス」
 ラースルが短く命令を下した。無理やりに電気を流して動かしたガラクタ機械のようにぎこちない動きでテイダスの顔が上がる。
「っ!?」
 空気を弾く音にイルトが再び振り返ると、押印が発動したテイダスの腕が青白い電気に包まれていた。ボールを投げるようにテイダスは足を踏み出し下から右斜め上へと腕を振り上げると、電気の帯が鋭角線を描きイルトの脇を擦り抜け地面に落ちた。
「え…!」
 イルトが青白い軌跡を視で追うと、それは地に長い線を描く赤い液体へ着電した。
 電流の猛蛇は液体を伝い凄まじい速度でイルトの動体視力を振り切る。イルトが指先一本動かす間もなくグレンの全身を濡らす赤色が眩い火花に変わった。
「っうあ!」
 短い叫びと共にイルトの目の前でグレンの体が電流に包まれた。
 突如全身を襲う鋭い痛みと熱。内臓からこみ上げて来る嘔吐感を越えた苦痛と共にグレンは背を丸めた。
「グレン!」
 駆け寄る足音とイルトの声がすぐ近くで聞こえたかと思うと視界が暗闇に包まれ、同時に強く体が押されて足が地面から浮き上がる感覚がした。
「うわっ…!」
 右半身に痛みとコンクリートの冷たい感触がして左半身に重みを感じる。頭から布を被せられて横倒しに派手に吹っ飛んだと覚った。代わりに全身を襲う熱と痛みは引いていた。
「テイダスやめろ!」
 左半身に圧し掛かっていた重さが去り、暗闇の向こうでイルトの声。すぐ近くでまた空気が弾ける音が連続したが、痛みはなかった。
「っ…て…」
 呟きながら体を起こし、グレンは頭に被さった布を外した。コンクリート地に座り込んでいる目の前に、
「離せよ!」
 自分に向かい更に電流を宿した腕を振り上げたテイダスと、
「やめろっ!」
 その腕を掴み踏みとどまるイルトの姿があった。
 視線をふと地面にやると、細長い筋を描いていた赤い液体は電気によりコンクリートに焦げ付いており、先ほどまで自分が立っていた場所で完全に途切れていた。
 感電した自分をイルトの機転が救ったと分かる。
(少々手段が乱暴だが…)
 と手にした布が、イルトが身につけていた装束の上着だと知り苦笑した。
「テイダス!」
 再びイルトが鋭く叫ぶと共に右手の印が発光した。その瞬間だけイルトの腕に宿った凄まじい力がテイダスの腕を押し退ける。テイダスは空気の壁に弾かれて後方に飛んだ。地に手を突きながらも何とか体勢を整え体を上げると咄嗟に顔を庇った右腕に赤黒く擦り傷が残っていた。
「イルト兄…」
「…あ……」
 むしろイルト自身が苦しそうに眉根を顰め、テイダスの面持ちにも寂寥の混在した苦渋が浮かんでいる。
「大丈夫か、ごめん…」
 テイダスの細い腕についた面積の広い擦り傷がイルトのこめかみに突き刺す痛みをもたらす。それを振り切るように頭を二回振った。
「俺お前にケガさせたくないんだ、だけど、」
 背後のグレンを肩越しに一瞥し、
「この人を傷つける事もダメなんだ…」
 再びテイダスに戻した視線を俯かせた。
「………」
 イルトの背後で立ち上がりかけたグレンが瞠目するのがテイダスからも見えた。
「…何言ってるんだろうな俺……」
 頭の中心が四方八方に拡散しているようなむず痒さを憶えてイルトは右手でこめかみをかきむしる。
 一瞬、ロータリーに静寂が降り立った。
「―ん?」
「あ」
 グレンとラースルの声がほぼ同時に上がり、両者が顔を同じ方向に向けるタイミングも同じだった。
「ふん」
 先に動いたラースルは低く鋭い笑いを口元に残すと、封筒を無造作にトラウザの尻ポケットに押し込む。銃を腰に差し戻し、ジュドスとレダンが去った方向とは別の方角へと踵を返した。
「………」
 グレンはあえてそれを見過ごす事を選んだ。
 ラースル達が消えた事を背中で感じる気配で確認して、テイダスはイルトから更に歩を退いた。弱々しく体を起こしたメイリとフィルへと駆け出す。
「テイダ…ス」
 掠れた声と共にビールケースを押しのけてメイリが立ち上がる。イルトの姿を見とめると「ひっ」と喉を引きつらせ怯える。テイダスはメイリの腕をとり、細い体を支えてフィルの方へ歩み寄った。
(テイダス…)
 イルトの視界の中で、三人の子供達が互いに体を支えあいながらラースルが去っていった方向へと、最後までイルトとグレンに憎悪と恐怖を宿した視を向けたまま遠ざかり、そして闇へと消えていった。
「私達も逃げよう」
「え」
 余韻に浸る余地もなく、今度は逆にグレンに腕を掴まれてイルトは真逆の方向へと引っ張られた。理由を問うまでもなく中心街の方向から複数の重たい足音が響き始めた。
「誰か来る?」
「あの足音は警察局だ」
「げ」
 捕まっては補導どころではない。
 月光が差し込む方向から少しずつ影を伸ばして人影がロータリーに近づいてくる。グレンに引っ張らながらイルトの長身の影が建物に挟まれた狭い小道へと滑り込んでいった。入れ違いになる形で二人の警察局員がライフルを両手に構えロータリーに足を踏み入れた。
 散乱する石、崩れたブロック、ビールケース、砕け散ったガラス、焦げ付いた後と臭い。
「……何があったんだ?」
 若い警察局員が肩を竦めると、背中に隠れた銃器が重たい金属音を漏らした。
「静か過ぎる」
 ロータリーの有様とは裏腹に、周囲からは完全に人の気配が消えている。ただ月の青白い光だけが、惨事の痕だけを残したロータリーの様子を照らしていた。




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アンケート 中間発表(1)
6月から実施しております、「英雄の屍」アンケート、ご回答いただきました皆様本当にありがとうございます!
思いもよらない回答も見られて、とっても楽しく&嬉しく拝見しております。

1度回答した方でも、続きを読まれている内に気が変わられましたらぜひ何度でもご回答頂いてもOKですので、というよりむしろ大歓迎ですので、ぜひお気軽によろしくお願いします☆


「英雄の屍」アンケート
中間発表


Q☆好きなキャラクターは誰ですか?(複数回答可)

1位:エルリオ・グレンデール
2位:ミリアム・ファル・ライザ
2位:アイラス・ウェーバー大尉
2位:ジャスミン

その他(面白いご回答)
・ライアン准将の双子の護衛官
・市場のおばちゃん

影が薄くなりがちで反省する点が多いと思っていた主人公ですが(笑)、意外や意外に1位でした!って書いてる私がそんな事言ってちゃダメダメですよねぇ。
ミリアムは、「天然ぶりがいい」とのご意見をちらほら頂戴しました。天然キャラは書いていて楽しいので嬉しい事です。
アイラス大尉にこんなに票が集まった事にも驚きでした。冒頭でのエルリオとのちょっとしたやりとりが印象的だったのでしょうか。
「強い女キャラ」は憧れるので、ジャスミンが上位に入ったことは大変嬉しく思いました。
こうしてみると、上位に入っているのは女ばっかりですね。
今後とも頑張る女性達を生き生きと描けたら嬉しいです。


Q☆好きな・続きが楽しみなエピソードは?(複数回答可)
1位:エルリオ・ミリアム編
2位:シールズ大佐とその部下達編

その他(面白いご回答)
・ワイヴァンの過去話編
・グレンの過去話編

渋いオジサマが素敵 との声をちらほら頂くシールズ大佐と、人気投票でも上位に入ったアイラスが引っ張ってか、2位にシールズ大佐と愉快な仲間達編(違)が入りました。
過去話編につきましては、第二部以降で書いていく予定でおりましたので、ご期待に添えられたら嬉しいです。


Q☆その他ご意見・ご感想(任意)
面白かったご回答
・アリサの名前に関するエピソードが好きです
・いぶし銀のおじさまことシールズ大佐の出番が増えたらいいなぁ
・ランドの名台詞「今日も元気にテカッてんなぁ」は凄くつぼです!
・ミリアムがヴィルの心を読みジャスミンへの心をエミリオに話すシーン。にんまり笑うエミリオがかわいいし、ヴィルの気持ちも心に響きます

などなど。

ご回答いただきありがとうございます!
引き続き、よろしくお願いしますm(_ _)m
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