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北野ふゆ子
  • 北野ふゆ子
  • 昔は、ゲームやマンガの二次創作をしておりました。現在は主にオリジナルネット小説を執筆しています。得意は「シリアス」「アクション」「サスペンス」です。



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押印師ACT6-6
06

 シュテラリオンが消えた方向を見つめるヴィルの視に常と違う色が宿っている事に気付いたジャスミンが横からさりげなく覗き込むと、ふいと彼の視線が逃げた。
 遠吠えが遠ざかる。竜王シュテラリオンが去った後、空が急に開けたような錯覚に陥る。若いシュテラール達も姿を消していた。湿地の水面は落ち着きを取り戻し、辺りにまた静寂が降りる。
「お兄さんを選んだって…どういう事なの?」
 竜達が飛び去って行くのを見送っていたエルリオが振り返りざまに問いを投げかける。言いながらヴィルの面持ちに疲労の色が薄く現れている事に気がついた。
「…この印の事だ」
 ヴィルの手袋をした片手が持ち上げられる。向けられている甲に恐らくは印が刻まれているのだろう。
「この谷の人間はその役割に応じてシュテラリオンから印を授かる。」
「授かる…??」
 ミリアムの目には、エルリオの表情が変わっていくのがよく見えた。ピルケースの中身を見た時のエルリオと、似ていた。幼い子供が新しい興味やおもちゃに目を輝かせる、そんな風に。
「あの竜の王様から?もらうって、どうやって?選ぶ・選ばれる基準ってあるの?という事はあの竜は精霊ってこと?」
「…………」
 矢継ぎ早に質問を浴びせられてヴィルは気抜けしたようにため息を吐き出してから、踵を返した。谷の方に向けて歩き出す。
「天啓印や使命印の「授印条件」という言葉は聞いた事があるか?」
「ん…言葉だけなら。押印技術では使わない言葉なのだけどね」
 押印以外の印が体に表出する場合の条件、という意味で使われている言葉だ。
 押印は押印技術を持つ人間から受けるしか体に宿す方法は存在しない。ただしこれは人により方法は異なり、刺青技術を応用している者が多く、古来は奴隷などに焼印による押印も行われていた場合もあった。
 一方の天啓印や使命印の受け方は様々あり、血筋により特定の印を受け継ぐ場合や、生物の突然変異のように血縁などの脈略なく印が体に現われる場合もある。
「そしてもう一つが、俺たち谷の人間がシュテラリオンから授かった印のように、特定のものが特定の対象に印を与える、受け継がせる場合。これは血筋に拠る場合とそうでない場合もあるらしい。個対個、または個対多の間における、契約のような関係だと思えば良いだろう。専門用語では「不動印種」と呼んで分類するらしいが」
「へぇ…詳しいんだね」
「軍では精霊印研究局付けの尉官という事になっていたからな」
 軍の研究対象は押印一本やりという訳でもないらしい…―とエルリオは一人内心に納得を収める。
「という事は、谷にはお兄さんの他にも印を持つ人たちが大勢いるの?」
「ああ。最も多いのは谷の戦士役が授かる「旋風の印」だろうな」
 風の印の中で、中位にあたる。エルリオが扱える風の印より一段上のものだった。
「ふーん。でも竜王さまの言葉には、お兄さんが特別だって言っていたように聞こえたのだけど」
 「お兄さん」という呼称に若干の違和感を覚えるのか、ヴィルは唇を擦り合わせるようにして口元を歪めるがそれは一瞬の事で、涼しい色を宿した瞳は峰を向いたままだ。
「特別か…」
 コツっと音がしてヴィルの足が止まった。
「ん…?」
 少女達はモスグリーンの背中を見つめる。半歩後ろでジャスミンも足を止めた。
「谷の王シュテラリオンは、谷の人間の中から一人を選んで谷の当主とする。」
「当主?」
「当主に選ばれた人間には「竜王の印」と呼ばれる印が授けられる」
「竜王の印…」
 森羅万象司る原始的な精霊印の一つである。海を荒らし、山をも削ると伝承されていた。
「その印を授かる人は毎回たった一人なの?」
「ああ」
「それが、さっき使っていた印…なの?」
「ああ」
「ふーん…「選んだ」ってそういう事か~」
 「特別」の理由は判明したが、谷では栄誉の証であろう筈の当主の証を授かった当の本人からは不本意な空気が醸し出されている点が不鮮明だった。
「古来より谷の当主は竜王の印と同時に谷を守護し統率する役目を授かる。遠い昔は谷の周囲に存在する脅威に対抗するために」
 しかし、軍事国家として立憲してからの五百年、アリタスは大きく変わった。
 軍事国家アリタスの歴代総統は国内紛争の弾圧を徹底してきた。特に初代から五代目にかけて、つまり軍事国家としてのアリタス誕生からの約百年、国軍は総統をピラミッドの頂点としあらゆる国内勢力の平定を進め、アリタス国内の基礎体力作りに尽力した。
 その結果、かつて乾いた大地シュトル周辺に存在していた三つの勢力は、統一戦争を経てシュテラール・バレーの名の下に統一されたという。
「古典神話で読んだことあるよ。大昔この辺りには、天に棲む竜の谷と、地に棲む竜の谷と、沼に棲む竜の谷との三つの大渓谷が存在していたって」
 とエルリオ。学園の図書館で目にした事のあった豪華装丁版の神話シリーズだったと記憶している。ところどころカラー印刷された挿絵の美しさが印象に残っている。谷の竜を描いた章では、まさにシュテラリオンのような巨大竜が描かれていた。ヴィルがここまで詳細を語るのも、隠蔽の必要もない史実として記されている事柄だからだ。
「元々各谷の当主は、残る二つの谷の脅威から己の谷を守護するために印を受け継いでいた。しかし谷が統一されてからその形式は変化している。」
 谷が歴史的意義の下に平定されて久しい。
「…じゃぁ昨今の当主様って何が仕事なわけ?」
 全く邪気の無いエルリオの様子を肩越しに一瞥してヴィルは「羨ましい性格の娘だ」とジャスミンに洩らしたとか洩らさなかったとか。
 あえてヴィルが軍役した理由がそこにあるのだろうか。しかし現に彼は谷に身を戻している。彼が谷に戻った理由を考えた。妹と呼んでいたメロウの存在が第一に思い浮かんだが、
「退役して谷に戻ったのは、何か責務ができたから?当主としての何か」
 さすがにそれを口にするのが少し躊躇われて、別の質問をする事で遠まわしに問うた。
 木板を進む足音が再び、ヴィルの苦笑と共に響いてきた。湿地に敷かれた長い蛇線の木板の橋をようやく半分ほど渡り終えたところ。
「―いや」
 霞かかっていた向こう岸の様子が陽炎のように薄らと前方に見え始めていた。僅かに動く人影が複数見受けられる。
「谷に戻るまで俺は、谷にとって大勢の戦士役の一人にあたる旋風の印保持者だった。竜王の印を受けたのは谷に戻ってからだ」
「あ…そうなんだ」
 思っていたよりも最近の事だな。
 何の気なしに応えた後、モスグリーンの背中に冷たい影が差し込んだ気配を感じ、エルリオは次の言葉を飲み込んだ。
「谷に戻った理由はバスクスだ。シュトル周辺に谷の人間を組織的に狙った精霊狩りが続出するようになったと、アリタス中に散っていた印保持者達に帰郷が布告された」
「なるほど…」
 シュトル周辺は精霊狩りにとって絶好の「狩場」という事だったのだろうか。いわゆる「群れ」を襲うだけの組織力である事がうかがえる。となると妹が被害者の一人であり、彼女を取り戻すために谷に戻ったのだろうか。
「あの……とても失礼な事だと承知で…おうかがいしたい事があります」
 静寂を保ったまま後方についていたミリアムから、ぽつりと呟きのような言葉が漂ってきた。前方を歩く三人分の視線が一斉に振り向くと、小さな肩が怯えた風に動く。
「ヴィルさんが…その印を授かったのは……」
 ここで言葉が途切れる。喉元で躊躇が邪魔をしているのだろう。
「いいから」とヴィルが短く促した。
「妹さんを…精霊狩りから救う為なのでしょうか」
 エルリオはミリアムの意図を読み取れず、じっと彼女の横顔を見詰めていた。ヴィルの顔色に変化はない。ミリアムの質問に対して二度首を横に振った。
「印を受ける側に選択権は無い。誰にどの印を与えるかは全てシュテラリオンの選定によるものだから」
 答えるヴィルの声に揺れはない。
「あ…すみません、そういう意味ではなくて…えっと…」
 白い小さな指先で唇をニ、三度触れながらミリアムは賢明に言葉を捜す。
「例えば…もうお気づきかと思うのですが…私も印保持者です。生まれたときに既にあったと聞いたので、天啓印です。血脈によって受け継がれる物のようです」
「そのようだな」
 印保持者は印保持者の気配を知るという。
 出会った時から、あるいはその前から、エルリオには気付くことの無い何かをこの両者は互いに感じ取っていたのだろう。
「これも…人に聞いた話なのですが…、私の血脈が受け継ぐ印は同じ形をしているにも関わらず、持っている力の内容が少しずつ異なっていたようなのです」
 ミリアムを遺してライザ皇族が整粛された今となっては確かめようがないが。
「………」
 ここでジャスミンの瞳に若干の反応が浮かぶ。瞳だけでヴィルを見やり、そしてまたミリアムを見やった。
「私、父も母も知りませんが、両親を知る者から聞いた話によれば、私が持つ印と母が持つ印は形が同じであるにも関わらず、その内容は違っていたと。その人物にとって最も必要になるであろう力を宿すのだと」
「……あまり耳にしない事例だな」
 ミリアムが言う「両親を知る者」はシェファルトの事だろうか。それとも供に暮らしていたという後見人のグレンという人物の事だろうか。後で尋ねてみようと、エルリオは質問を胸に仕舞った。
「それで私、ずっと考えていました。精霊神が人間に与える天啓印や使命印には…、精霊神の意思によって与えられている物なら、そこに何かの意味があるはずなのだろうと。それで…―」
「訊きたい事は分かった」
 言葉を変えて問い直そうとしたミリアムの弱弱しい語尾にヴィルの短い返答が重なる。ミリアムの意図が分かりかねているエルリオはしげしげと両者の間で視線を泳がせた。
「だがシュテラリオンは、メロウを救う目的で俺に印を授けたのではない」
「………そう、ですか…」と俯いたミリアムの瞳は曇っていた。
「でも」
 と何か思いついたように再び白い顔が上げられる。
「きっと『意味』の一つだとは思うんです。」
「違うな」
 短く切り捨てられる。エルリオはヴィルの返答に違和感を覚えた。精霊狩りという外部の敵から谷を守護するのが当主の役割なら、ミリアムの言葉を否定する謂れは無い筈だ。
「むしろ、逆だ」
「逆?」
 ヴィルの語尾に影がかかる。傍らに立つジャスミンは面持ちに影を敷いて主の様子を窺っていた。
「俺がこの印を受け継いだ為に…」
 低く呟かれるヴィルの言葉。
「妹は精霊狩りの…奴の手に堕ちた。」
「……」
 意識と行動を封じられ、印保持者を探知する「羅針盤」として生かされていた妹。エルリオやミリアムと年の変わらない少女だった。
「それどころか俺は…あまりに多くの者を失いすぎた…」
 ―案ずるな。我はお前を選んだのだから
 大いなる翼を持つ竜王、シュテラリオンの言葉を思い出す。
(選んだって、そういう事……)
 遠い上空を飛び交う若い竜達の影を見つめながらエルリオは意識の中でシュテラリオンの言葉を反芻した。
 印にこめられた精霊神の「意思」。
 それは「押印」には有り得ない要素。
 そこに本当に明確な意味があるとすれば、シュテラリオンがヴィルに印を与えた理由、ミリアムの持つ印の能力の意味とは何なのか―。
 エルリオには計りきれなかった。
 ―……さま!
「………っえ…」
 突如頬にしびれるような感覚を感じてミリアムは顔を上げた。
 前方には、ヴィル。
触れれば凄まじい力で弾かれそうな、空気に触れるヴィルの肌の表面から電気が立ち昇っているような近寄りがたい気配が一瞬現われて、すぐに消えた。その気配と同時に脳を劈くように少女の声が金切り音のごとく、ミリアムの思考を通り過ぎる。
(今のは……何…?)
 痛みを感じた頬に指先を当てる。じんわりと汗が浮かんでいた。
 ―…れは押印技術を…
 ―兄さま!
 ―解放せよ
「………」
 また声が通り過ぎた。
 瞬きも忘れてヴィルの背中を凝視する。また、そこから先ほどの気配が、抑え切れぬ怒りのごとくにじみ出ては消えてを繰り返していた。
(これは……ヴィルさんが今考えている事、思い出している事…?)
 体に触れなければ読み取ることが不可能なはずの思考が、何故だか脳裏に流れてくる。それは断片的なもので酷く不鮮明だが、抑え込もうとして漏れ出してくるヴィルの感情の波と共にミリアムに触れてくるのだ。
「もしかしたら私……」
「どうしたの?」
 ミリアムの異変に気がつきエルリオが声をかけるが、驚愕に見開かれた瞳はヴィルの背中から離れない。視線を追ってエルリオがヴィルに目を向けると、
「………ヴィルさん」
 一歩後方に引いていたミリアムがエルリオの脇をすり抜けた。黒く染めた柔らかく長い髪の毛が綿菓子のように空気にふわりと漂い過ぎて行く。「え」と思う間もなくミリアムはヴィルの元に小走りで駆け寄り、あと一歩、手を伸ばせば触れられる距離まで詰め寄った。
 ミリアムはじっとヴィルを見上げる。
―……めろ!
 ―…行くな、もうだめだ!
 ―お前でなければならない…
 ―…を与えよう
 雑音のように次々と不鮮明な音が、映像が脳裏に飛び込んできた。
「…どうした?」
 突き刺ささんばかりに真っ直ぐと見つめてくるミリアムにヴィルは若干の戸惑いを声に含ませた。それと同時に彼の内面から漏れていた怒りの気配が急激に引いていくのが感じられる。引いていく波のようにヴィルから読み取れる記憶も消え去ろうとしていた。
「待って……消えちゃう…」
 思わず手を差し伸べる。
「一体何が…」
 ヴィルが訝しげに目を細め、少女の差し伸べる手をとった瞬間だった。
「!」
 ―あの力は
 ―印の気配が
 ―押い…―
 ―印…兵器――
 ―シュテラリオンが
 ―契約を
 次々と流れ込む記憶の洪水。舞い降りる巨大な竜、掲げられる槍の波、印、血、伸ばした手、指先、爆発―
 その中に一瞬、唯一ミリアムが知る「何か」が過ぎった。
「あ………」
「やめろ!!」
 靴底が木板を激しく打ち付ける音が響いた。同時に白光が爆発した。
「ミリアム!」
「ヴィル様…っ」
 音と幻影が途切れた。
 エルリオとジャスミンの目前で、ヴィルはミリアムから腕を振り解くと弾かれるように数歩後ろにバランスを崩しながら後退する。ミリアムはその場にぺたんと尻餅をつくとそのまま背中から木板の上に転がった。危うく水辺に落ちかけてエルリオが咄嗟に袖を引く。
「今…何をした……」
 こめかみを押さえて大きく呼吸をするヴィル。重点の定まらない体を支えようと手を伸ばしかけるジャスミンを制してヴィルは前に歩を進めた。
(ヴィルさんの思考を読んだ…)
 ミリアムの体を支えながらエルリオは不自然な汗を浮かべるヴィルの面持ちを見上げた。谷に来るまでにミリアムが内密にヴィルの思考を読み取った時と異なりすぎている。彼の様子はまさに変化の印を打ち破られた時の自分と、同じ反応だった。意識の深遠に異質なるものが侵入してくる、あの違和感と不快感と恐怖を、エルリオは忘れていない。
「ごめんなさい……そんなつもりでは…」
険しい面持ちを見せるヴィルに、木板に座り込んだミリアムは一瞬その白い顔に恐怖を浮かべたが、下唇を噛んで見上げる視線を向ける。ヴィルの足が止まった。ミリアムに触れた自分の手を見る。
「俺が触れたからか……」
 こめかみをおさえていたヴィルの手が不快な汗を拭う。重たい頭痛は消えていたが、まだ夢うつつを彷徨っているように足下の感覚が軽かった。
「何か見たんだな?」
「…………」
恐る恐る首を数回縦に振るミリアム。胸元に添えて組んだ両手が小刻みに震えていた。
「それが、帝国の一族に継承される印の力なのか?」
「え…っ」
 エルリオが腰を浮かせて構え、ポケットの中からキューが顔を覗かせ、ミリアムは肩を大きく震わせた。
「指名手配書を見た事があるの」
 ヴィルの背後からジャスミンが静かに答える。目許は穏やかだった。
「…知っていて、私達を谷に入れる事を許してくれたの?」
 警戒を表す低い体制からエルリオはジャスミンを見上げる。
「いずれであったとしても…こうなっている事には変わりは無かったと思うわ」
 どういう事だ、とでも言いたそうにヴィルがジャスミンを振り向いた。黒髪の女部下は微笑んで頷きを返す。視線でエルリオを示すと、
「ヴィル様、指名手配書にあった名前は「エルリオ・グレンデール」。」
 短く言い放つ。
「この子、やはり押印師グレンデールの娘と思われます」
「な…」
 エルリオが驚愕の声をあげる一方で、
「………シュテラリオンの言葉は本当のようだな」
 ヴィル・レストムの声は平坦だった。
 そして傍らのミリアムは、
「…………」
口元に片手の指先を添えてヴィルを見上げていた。





ACT6-7⇒
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押印師ACT6-7
07

 確かに自分の足で歩いてきたはずなのだが、
 あれからどう歩いたのか、
 どんな言葉を交わしたのか、
 どんな風景を見たのか記憶になく、
 気がついたらイルトは村の館、応接に用いる部屋の中央に置かれたソファに背を預けて座っていた。
 霧中を彷徨っていたような、頭の中が晴れない感覚のまま、それでも今目の前に移る景色はやけに鮮明に見えた。今まで気付かなかった壁の染みや、些細な壁の向こう側の音も耳が捕らえている。
「………」
 指を動かす。握りこんで手のひらを指先で撫でてみるが、違和感がない。
 手のひらを返してみて、初めて目に飛び込んでくる印。イルトはそれをしげしげと見つめた。
(どういう仕組みなんだろうな)
 と些細な事を考え出す。
 手のひらに「刻まれている」印。だからといって本当に傷となって刻まれているのでもなく、火傷のように肌に焦げ付いているのでもなく。ためしに指先で擦ってみる。服にもこすり付けてみる。当然ながら、消える様子はない。
(防人の…)
 口元で呟くと、突如記憶が数時間前に飛んだ。

―それは防人の印だ、イルト
 長の声。

 空間を見渡せる場所に立つ長の声が耳に心地よく響く。
「防人の…」
 イルトは砂の中心に腰を下ろしたままだった。
「遠き昔はこのグレリオの地を守護する防人が力を授かると同時に受け継ぐ印。元来は聖地の番人をするための印だった」
 杖を握る長の手が壁と天井を指し示した。薄い暗がりで気付かなかったが、壁一面に壁画が描かれ、天井には天上絵が描かれている。いずれも長い年月による風化が刻み付けた絵画を曇らせていたが、古の聖地グレリオの歴史を物語っているのだと理解するには十分に鮮明だった。
 壁画の始まりは長が立っている入り口付近のすぐ左後方にある。塔のように巨大な寺院と思われる建造物が描かれていた。寺院の壁には小さな模様が描かれている。その前に仁王立ちになる若者がいる。片手に身の丈より長い棒を携えていた。忍び寄る災いを防人の印が与えた力で退け、聖地に身を潜める弱気者達より感謝されている姿。
 塔の周辺は羽を生やした精霊と思われる神々の姿が描かれており、グレリオの様子を天上より見守っている。
 連続絵巻のように物語が続く壁画の最後は、壁の中央にあった。ちょうどグレンが立つ位置から右後方にある。塔の姿はなく、祠となった寺院跡、ちょうど今のグレリオに似た風景が描かれている。祠の上下左右を四角く覆う複雑な模様が描かれており、それが先ほどキルマイト鉱脈で見た巨大な印であると知る。その上に一人の若者が立ち、片手を前方にかざしている。防人の男はその指先を見上げて、変わらず身の丈より高い棒を手に祠の前に仁王立ちになっていた。
「……でも今は…」
 グレリオが「聖地」の冠詞を失くしてから幾百年もの時が過ぎている。かつては聖地に数十、数百といたといわれている「防人」の役職も、今の時代においてその存在は目にした事がなかった。
「数百年の時間を経て、防人の印は変化を遂げた。」
「印が変化する…?」
「現存する防人は一人だ。」
 この地が番人組織を必要としなくなったからなのだろうか。
 呟かれたアムリの問いに直接は答えず、長は小さな頷きをもって言葉を繋いだ。
「ライズは…お前達の父は防人の印を使命印として叔父にあたる人間から授かった」
 使命印。この世に生を受けた瞬間から印を授かる天啓印とは異なり、年を重ねてから印を授かる・印が体に現われるケースを示す。
「精霊印を受け継ぐ……姉さんが受け継いだ印のように?」
「防人の印も不動印種なのだよ。ただ呼び子の印は天啓印だ。」
 学術的分類上、印は様々な分類法によりその種類が分類される。
宿り方の種類による分類の呼称が「天啓」「使命」「押印」である事は既述である。
その威力・内容により分類される呼称、これが最も多く、事実上数えるのが困難なもの。
 そしてもう一つ。「陽動印種」と「不動印種」という分類だ。これは宿り主の継承に関する分類を示す。
 陽動は継承の概念がなく、印が宿り主をきめる基準は定められていない。印保持者を輩出していない家系や集団の中に突如として印保持者が現われる場合。反して不動は一定の血筋や役割を担う同一属性の者に印を継承・遺伝させていく性質を持つ印が分類される。
「俺は父さんからこれをこの場で引き継いだって事か………」
「ライズは」
 長が深い息をつくイルトの元に歩み寄る。粉々に砕け散った像の残骸の元に立ち止まり、砂となったそれを見つめた。
「ようやく、お前に印を継承して『只人』に戻れたのだ」
「……え……―」
 イルトは踏みしめていた砂から思わず足を離して身を翻す。まだ覚束ない足取りでバランスを失いかけるがなんとか持ちこたえた。
「私は…―」
 グレンの声が遠慮がちに入ってくる。暗黙に了解が通っているように長はそのまま口を噤む。イルトは自然に視線を声の方に向けた。
「だますような形で君をここに連れてきて悪いと思っている」
「………」
 言葉にはせず、振り向き視線を真っ直ぐ向ける事でその意味を詰問する。
「只人に戻らねば彼の魂は永らくこの墓苑に漂う事になる。こうしなければ、彼を安らかに眠らせてやることが出来なかったんだ。」
 何か言いかけたイルトを制したのは長。
「急ではありましたが…、後継者として全てを語るに好機と存じますぞ」
 再び長の言葉が空気を支配する。
「旧き防人は禁示と罪を犯して只人に戻り、新しき防人はその罪から旧きを滅し印を引き継ぐ。それが防人の印の継承条件なのだよ。防人が只人に戻り天に帰す為には自ら罪を犯すしか方法がないのだ。それを断罪し印を引き継ぐ者がいなければ。」
「俺が父さんを断罪した?」
 イルトは足元を見る。
足の下には砕けた像…―
「父さんが犯した「罪」って…?」
 禁示。振り下ろされる刃。その下にいる男に向けて。無意識に叫んだ言葉。
―滅びよ
「まさか」
 砂を見つめて動かなかったイルトの顔が徐々に上げられ、長を見た。
 理解したい、理解したくない、葛藤が濁りとなってすがるようなイルトの両目に浮かぶ。
「お前はもう分かっているのではないのかね、その印がお前に与えた役割を。墓苑に入る前に何を見たのだ。ライズは何を、お前に見せたのだ?」
 長の静かな言葉にイルトは振り向かなかった。足下に広がる砂がどこからか吹き差して来る風に乗り次第に風化していく様子を見つめている。答えを迷うイルトの言葉を待ち、辺りにしばしの静寂が降りた。
 墓苑に入る前に見えたもの。
 そのうち、ぽつりぽつりと言葉が紡ぎだされる。
「きっと全て父さんの記憶だったんだな」
 自分の声と共に心臓の音がやけに大きく鼓膜にまで響いてくる。
「見えた幻は三つ。どれも深緑地の軍服を着た男が出てきた」
 写真で見たことある、深緑地に黒縁取りが施されたアリタス国軍の高級仕官制式服だった。この国の子供や若者なら、一度は憧れる対象だ。
「一度目と二度目はよく見えなかったけど、三度目ははっきりこの人だと分かった」
 言って、イルトは顔をグレンに向けた。
「死にかけたあんたを目の前にした時…腹が立って仕方なかった」
 「え?」と小さく洩らしたアムリの声。横方向から神妙な面持ちでイルトを見つめているのが分かった。グレンは静かにイルトの様子を見つめている。頬に出来た切り傷から流れる血が頬から顎にかけてを汚しているが、拭き取ろうとする素振りは見せなかった。
「さっきも、危ない、と思った瞬間に激しい怒りを感じた…気がついたら像は粉々だった」
「あれがお前の力なのだよ、イルト」
 防人の印がもたらした新しい力。長に促され、イルトは己の手の平を見つめる。アムリが持つ印とは少し違うが、似ていた。卵のような楕円上を一本の太い線が縦断している。卵の中央には人間の体内を思わせるような、複雑な線の交差がいくつも描かれていた。
「ライズが禁示の刃を彼に向けた。それが防人の「罪」だ。イルト、お前が発したあの力こそ証」
「―証?」
「本来、防人の印は守護すべきものの為、またはそのものが許した場合以外にその力を発揮する事はできない」
「守護すべきものの為…?」
「一喝のもとに防人像を破壊し得たのが何よりの証だ」
 空気に穴が空けられようかという勢いでイルトは目を丸くして長とグレンを交互に見やった。印が刻まれた右手でわなわなとグレンを指差す。
「ちょっと待ってくれよ、防人は聖地の番人なんだろ?それじゃまるで俺がこの人を……なんでこんな怪しい人の事」
「お前は…ことごとく失敬だの」
 呆れて長は杖先で地を叩く。その姿が可笑しかったらしく、アムリが隣で指先を口元にあてて小さな苦笑を堪えている。
「っはは」
 ついにはグレンが声に出して笑い出す始末。顎先にまで達していた血が揺れて水滴となって地面に落ちた。
「………っ」
 それが視界に入ってイルトはこめかみに痛みを感じて目を細める。何故だろう。この男の血を見ていると頭痛がする。笑えなかった。
「確かライズにも昔まったく同じ事を言われましたよ」
 逆にグレンに宥められて長は溜息をつく。
「順をおって説明せねばな」
 そして一つ息を飲み込むと、再び杖で壁を指し示した。
「お前達に見せた、キルマイトの下に守られたあの巨大な印があるだろう。」
 杖の先が指し示すのは、最後の部分に描かれた、巨大な印。
「あれは「聖地の心臓」と呼ばれている」
 その名が示す通りグレリオの中心に息づく、巨大な精霊の拠所。
 王など統治者を持たぬ聖地の聖地たる中庸と秩序を保つべく玉座の代わりに据えられた印とも説されている。
 地の理を成し、生ける者を産み出し、秩序を維持する。
 印が破壊されれば精霊は姿を消し、国は大いなる災いと混乱に蝕まれ破滅の途につくだろう。
 そう伝えられた民達は印を護り続けてきた。
「玉座の代わり…でも今は…」
 アムリが呟いた言葉の通り、アリタスの軍事国家有史以来、首都機能は現在のACCに移され国軍の長たる総統を国の統治者と定め、国が玉座を持つようになって久しい。
 それでも「聖地の心臓」は、墓苑の壁画が示す通り成長と変化を続けていた。印を守護する役目を担う呼子の印も、聖地の番人とされる防人の印も存在し続けている。
 印が有り続ける限り、そこには必ず精霊の「意思」が存在するのだ。
「それってどういう……」
 途方もない方向に話が及ぼうとしているのではないかと、
 イルトは吐き出しかけた溜息を飲み込んだ。






ACT6-8⇒
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押印師ACT6-8
08

 昔。
それは古の時と呼ばれ。
 創世神により大地に降ろされた五人の王は、其々の大陸へと分かち降り立った。
 中央に静座するジスノラン大陸へと降り立ちし初代ジスノラン覇王は、大陸の秩序を維持生成するために精霊達を生み出した。精霊達は大陸の各地に各々の地を定め、拠り床として印を刻み付け己が根を下ろした。
 ここまでは古典神話による伝承である。
 何千年前という古の時代、グレリオの地を拠り宿とした精霊が刻み付けた最も原始的な印の一つ。大地に根付き、生脈を伸ばし、民を産んだ。これはグレリオ神典による伝承の一編。
「玉座の代わりを成す印なんて…」
 アムリが溜息をつく。
 アムリやイルトが知る限りの「精霊の印」とは、火水土風などの自然元素を司りその力を具現するものや、野の生物を司りその特性を得られるものや、技術匠達が鉄や木や刃といった物質から力を得ることで特殊技巧を得…といった世に生けるものに与えられた「恩恵」を示すものであって、理の礎を支配するべきものという認識はなかったのである。
「なら、何故アリタスの国が、王座を護る役目に値する国軍や執政院が、聖地の心臓を管理しないのです?印があり続けるのなら、国にとって意義があるという事ですよね…?」
 アムリの問いに長は「簡単なことだ」と続ける。
「あの印を物理的に護る事ができるのは呼び子の印と防人の印だけだからだのう。」
 公の管轄下に置かれるより潜めし旧聖地に眠らせておく。軍事国家アリタス初代総統の勅命から現在まで継げられて来た国律の一つだ。
「現在でも軍でそれを知るのは…代々の総統閣下以下、僅かな人間に留まっているはずです」
 グレンが補足を挟むと長がゆるりと頷いた。
「ここまでは、分かったかね?」
「「でも」」
 頷きの後に、姉弟の声が重なって挟み込まれた。イルトが目配せしアムリに言葉を譲る。
「その…」
 躊躇いがちなアムリの視線がニ、三度グレンの方を窺い見るように泳ぐ。その視線に気付いているようだが、グレンは沈黙を続ける事でアムリに先を促した。
「グレンさんと、聖地の心臓の関係が分からないのですが…」
「同じ事を言おうかと」とイルト。
「何故イルトの…代々の防人のお役目が聖地の番人から、彼をお護りする事に変わったのでしょうか」
 足下の砂がいつの間にかそのほとんどが風と共に消え去っていた。石畳の隙間に僅かに残った粒だけが、薄闇の中にわずかにどこからから差し込む光をうけて鈍く輝いている。それを見つめながらグレンは短い呼吸を挟んで答えを口にした。
「アリタスが今の形になる約五百年前までは…あの壁画にある通り。防人は聖地の番人組織として外の敵から聖地の心臓を護っていた。聖地を聖地たらしめるために。その頃は国家間の規模ではなく大陸中で内乱が続いていた時代で、アリタスも内紛が激しかったからね。救済の地たる中庸地帯が必要だった。」
 衣擦れの音と共にグレンの左腕が上がる。突き出された人差し指が壁の防人画を示す。
「そしてアリタスは軍事国家の歴史へと入る。国は総統を統治者に据え、首都機能を現在のACCへと移転させた。同時に聖地グレリオは自ら聖地の冠名を棄却した。初代総統は国内の平定を徹底させ内紛を厳しく弾圧。国軍の基盤強化を進めた。―何故アリタスが軍事国家としての道を選んだのかは…分かるかな?」
 姉弟は素直に首を横に振った。
「それは後で説明しようか」とグレンは小さな笑みと共に頷く。壁画を示していた指を緩慢に、だが滑らかな動きで右に移動させた。
「ここが約五百年前だ」
 グレリオが聖地の名を捨てた頃。
 防人と弱き民が所狭しと描かれていた初期と異なり、体の大きな防人が一人。そして民に至っては寺院らしき建造物の周辺に半分以下の人数が散らばって描かれるようになっている。寺院の中に納まる形で巫女が描かれている。これが呼び子の印を持つ者だろうか。壁に描かれている印は、初期と比較して少々大きくしるされていた。
「役目を失った防人は数を減らして行き、呼子の印保持者と同様、一名のみに継承されるようになった。そして、ここ」
 そしてまた右回りにグレンの指先が移動した。
「これは約三百五十年ほど前」
 指し示しているのは、壁画の後尾部分。祠へと姿を変えた寺院の上に、新たな人物が描かれている。印に背中を向けて仁王立ちしていた防人が体の向きを変えてその人物を見上げる構図に変わっていた。
「ここに新しく描かれている人物がいるだろう」
 グレンの足が壁画に向けて歩を進めた。壁のすぐ前に立つ。こうして見ると壁画の巨大さが改めて実感できた。小さく思えた祠の部分が、グレンの肩幅とほぼ同じである事が分かる。誘われるようにイルトも壁に近づいた。
「もっと近づいて、よく見てご覧」
 親が幼子を呼ぶように、または教師が学生を呼ぶように、グレンの手がイルト達を呼んだ。自然な動きでその手が祠の上部に刻まれた人物を指差した。砂埃を指先軽く払う。
 祠の上に立ち、外に向かい指差している人物が彫られていた。
「……」
 指先が示す壁画に視線をやると視界の中に赤い筋が、グレンの頬を汚す血が否が応にも入ってくる。頭痛がする。見なければいいと意識がせり上がるにつれ意思に反して鮮やかにそれが網膜に焼きつく。
「ここに―」
 そこまで言いかけてグレンはイルトの意識を捕らえている物に初めて気がつき、手のひらでおざなりに頬を拭った。赤の面積が増えて余計に頬を汚しただけに終わったが、露見した傷口は薄かった。慌ててアムリが白い袖口に指先を絡ませてそれをハンカチ代わりにグレンの頬に当てる。
「汚れますから」と驚いて顔を引きかけるが、すでに赤く汚れたアムリの袖口といつの間にか血が滴り赤く汚れてしまった自分の胸元にも気がつき素直に彼女の手に従う事にした。
 あらかた血が拭き取られるにつれてイルトは頭痛が引いていくのを感じた。神経を突き刺す錆鉄の匂いも遠ざかり安堵する。
「ここに刻まれている人物をよく見てみると、」
改めてグレンが指差す壁画へ視を送った。
「壁画に描かれた他の人間と見比べて、この人物だけ異なる部分があるのが分かるかな」
 答えはすぐに導き出せた。四肢を持ち、衣服を着用し、瞳を持ち、口を持ち。外観は「人間」そのものを描いている。だがこの人物だけ、糸を引いた靄か蜘蛛の巣ような模様が体に纏わりついている描写だけ、他の人物画と異なっていた。
螺旋を描く線の先をたどると、それは祠の中の「聖地の心臓」へと続いていた。
「聖地の心臓から靄みたいな物が出ているのですか?」
 隣でアムリが呟く。確かにそうも見えた。だがイルトの目には、
「いや、つながっているんじゃ…?」と映った。
 指先で壁画に触れてみる。表面が僅かずつ風化のために砂に汚れており、それを指先で更に擦り落としてみる。指先にも感じられる壁画の窪みはその人物の体の中心で螺旋を描き、そこから線を辿ると祠に描かれた聖地の心臓へと繋がっていた。
 答えを確かめるべく首だけ振り返ると、グレンの横顔がそこにあった。
「そう。繋がっている」
真っ直ぐ壁画を見つめる瞳には、深い虚無が降りていた。
「この人物は、三百五十年前グレリオに生まれた。数字と図形を眺めているのを人より少し好むだけの凡庸な男だった。」
「…?」
 まるで見知っているかのように語られる口調とその語感の刺々しさにイルトは目を細めた。忌々しさを含む声には憎しみさえ感じられる。
「それがどういう因果かこの男はある時、使命印を授かった。」
徐にグレンは両手を胸の前に差し出して重ねた。両手で水を掬うような形に。
指先はまだ血で汚れていた。
「あ…」
 器の形に重ねられた手の平の中に小さな光の粒子が生まれる。
 それは次第に大きくなり中空に浮かび上がる。誘発されるようにグレンの胸元からも仄かな光が生まれ、融合し、少しずつ明確な「形」を現し始めた。
「これは…?」
 グレンの手から生まれた光は、蜘蛛の巣のように円を描き、いくつもの螺旋と円とが線でつながれ、また派生した枝葉から更に新しい円形が実っており、天星図のようだと、イルトは思った。複雑に絡み合った幾何学の美。
「これは、精霊の印?」
 目を細めて光に見入っていたイルトが答えを口にするとグレンは頷いた。
「そう。これが、そこの男が授かった印。」
 グレンの瞳が壁画の男を一瞥した。
「……」
淡々と語る男の周囲を包む空気は更に虚構の闇を帯び始めていた。イルト達に語る面持ちに一見の変化はないのだが、言葉を進めていくほどに彼に纏う空気に重みが増しているように感じる。
「これは、聖地の心臓の一部分だそうだよ」
 壁、床、天井とも全てが印に覆い尽くされていたあの空間。一体あれのどこが中心部分なのか、イルトには欠片も思い出せない。
「一部分?」
苦いものを飲み込むように「どの部分だ…」と口の中で呟きながらもまた目を凝らすが、どうしたって思い出せるものでもなかっが、恐らくそんな事はさして重要な事ではないのだろう。
 グレンの灰色の笑みと共に、白銀と黄金が交互に浮かび上がっていた光が徐々に輝きを失い手のひらに吸い込まれるように消えていった。光を吸い込んだ手を胸元に当ててグレンは数度そこを叩く。ちょうど、心臓の上を覆う骨と皮膚の―。
「これが今は、―私の「ここ」の中に刻まれている」
 聖地の―
(…心…臓……)
 無意識に口が動いた。声にはならなかったがイルトは思わず手の甲で口元を隠す。
「繋がってるって…」
 イルトの視線が壁画の人物に向く。
 聖地の心臓から伸ばされた枝葉が男の体の中心へと繋がっている。鎖に呪縛されている様にも見えた。
 印により物理的に聖地の心臓と一体となっている人間。
「そう。三百五十年前、あの壁画の男が最初にこの印を受けたのが始まりだ」
 まだ血で汚れたグレンの指先が触れた布地に、紅の跡が残っていた。
まるで心臓のように、布地に紅が滲んでいる。
 恐る恐るイルトは己の手のひらを見る。皮膚と完全に同化している防人の印がある。アムリの手に宿った印も、同じように肌と一体となっており、己の血肉が呼吸と共に脈打つ皮膚に溶け込んだそれはまるでそこだけ別の生き物のようだと感じた事を思い出す。
 その精霊の印が、体の中に―?
「その印にはどのような力が?」
 粒子の光は完全に消え去ったが、アムリの視はどこか名残惜しそうにグレンの胸元と手元のあたりを見つめている。彼女の言葉はイルトの疑問を代弁していた。
「うん―…」
 グレンの口から漏れてきた不明瞭な言葉にイルトは違和感を覚える。常に瞳に不安定な影を見せていたが、言に淀みはなく明瞭で確かだったのだが。
 壁画を見つめるグレンの横顔には全ての感情が相殺された、途方もない「無」だけが上塗りされていた。
「これをどう説明するべきか、毎回迷うんだ」
 照れ笑いに似た苦笑を口角に浮かべる。
 一般的に、精霊の印が保持者にもたらす力は、森羅万象の具現物である。
 分かりやすいのが火水などの元素を司る精霊の印で、風を司る精霊の印であるなら、風を。火なら火を、人がその手に扱う事が可能となる。物質を司る精霊の印である場合はその物質が持つ特性の具現化であったり、その物質を思うままに変質させる力を得る事が多い。
 一方で、防人の印や呼子の印のように万象万物の具現ではなく、特定の役割における役命遂行に必要となる能力を授かる類も多い。古史に所縁深い土地によく見られた。
「この印を受けても、君たちが意味するところの「力」は何も得ない。護る力も、攻める力もこの印はもたらさない」
「?」
 また謎掛けを試されているのかとイルトは次の言葉を躊躇う。
「ここからは推測でしかないから、それを承知で聞いて欲しい」
「推…測?」
 全く予測外な応えにイルトはまともにグレンを見やってしまう。だが正面の男が湛える面持ちに揺れは無かった。長を振り返り明確な言葉を求めるが、そこに答えはなくただ数歩分の距離の向こうに立つ姿があるだけだ。
「知人に何人か、精霊印に詳しい人間がいてね」
 壁画に手を添えてグレンは祠の上に立つ人物画を見上げる。
「だがしかしそのいずれも私が持つ印の意味について解明に至らなかった。」
 だからこの印には名前がない。
 彼はそう静かに笑みを口端に仄めかせると添えていた手の指先で再び壁画の人物を示した。
「この人物の名前はグレン・ノースクリフという。三百五十年前、グレリオ出身の母親と、セントラル出身の父親との間に生を受けた」
「グレン…」
 ノースクリフという姓は、セントラル方面の出身者である事が伺える。グレンの名も、歴史書に頻出する名である事からアリタスでは男子によく名づけられるものだがー

―この方の御名はグレン・ノースクリフ殿。
いや、グレン・イーザー閣下とお呼びした方が…お前達にも聞き覚えがあるだろう―

「―あ?」
 靄に包まれたような過去の声が脳裏に彷発するのと、
「私の事だ」
 彼が答えを声にしたのはほぼ同時の事だった。
 三百五十年前、このグレリオに生を受けた凡庸な男。
 その年月が示す嵩を、イルトには測り知る事ができないのは当然の事だった。
「十五までグレリオの初頭教育を受け、その後セントラルへ移住し士官学校を経て国軍に入隊。当時はまだ内戦が頻発しており同時にライザが威嚇攻撃を仄めかすようになった頃だった」
「えっ―と…」
 さながら原稿が頭から抜けてしまった哀れな演説家のように。イルトの視は泳ぎ、言葉にも感嘆にもならない音が喉から漏れるだけ。
「運良く戦績を重ねて若年のうちに佐官に昇格。印を授かったのはその頃だったと思う。」
 グレンの講義調はイルトやアムリを完全に置き去りにして進む。
 ショートしそうなイルトの頭が導き出した単語は、
「あんた……」
 不老不死?
 子供が好む伝奇小説でそんな単語を目にした事があったように思う。それを口に出してみると、小さな苦笑の後に「それであれば説明に楽なのだが」と独言を溢してゆっくりと首を横に振る事での否定が返ってくる。
「ところがグレン・ノースクリフはそれから間もなく戦死している。享年三十二歳。アリタスノヴァス暦四十年没。」
 アリタスノヴァス暦は、当時の総統レイドルフ・ノヴァスから借名したものであり、就任期間中の総統姓名を用いるアリタス固有の暦の一つだ。
「え、死ん…え?」
 あまりに他人事のように流されてイルトは返答に窮困する。
「だからこの印は不老不死をもたらす訳ではないようだ」
 彼の言葉通り、幾ら非現実的であろうといっそ「不老不死」とでも言ってくれた方が九割がたの辻褄が合っていた筈なのだ。混迷が上乗せされただけでイルトは頭を抱えたい気分に陥った。
 一瞬、グレンは脳裏で何かを紐解くように間を置いて、
「国軍西部管区司令官中将レネス・アイゼンフェルト、アリタスフェムト暦二十二年没。執政院軍略顧問グレン・ヒースロー、アリタスイーグル暦五年没」
 指を一つ一つ折りながら、どこかで耳にした事のある名前を羅列し始めた。
「国軍名誉顧問グレン・ヴィット、アリタスフォードリック暦三十二年没」
 教育機関の歴史資料にも名を連ねる国の英傑達だ。いずれもセントラル市内に像が立っている。その面々はグレリオ及びその衛星町村出身という事もあり、グレリオ一帯の初等教育機関では必ず彼らの名を耳にする機会に面する。イルトにも、聞き覚えがあった。
「そして最も近年にはグレンビル・アルベール最高軍事顧問、アリタスソルヴェグ暦二十三年没。これらは、この印を受け継いだ面々の名だ」
「全員名前を聞いたことがある」
 イルトの言葉にグレンの口が「お」の字を模った後、どこか嬉しげに口角が僅かに上げられ目許が細められた。
「光栄だよ」
 その意味を理解するのに数秒を要し、そして気付く。もう何度この一日だけで思い浮かべたかわからない言葉をイルトは再び呟く事となる。
「まさか」と。
 頷きが返った。
「全て、私の事だ」
「は…?」
 自ずと同一の答えを導かせていたものの、イルトはそう声を裏返して問い返す他なかった。
「私はね、これまで六度、この印と共に死んでいる。」
「………」
「今のグレン・イーザーは、私にとってこの印と共に生きる七度目の人生なんだ」
 驚愕という行為は非常に体力を消耗するのだと、この日イルトは短い十八年の人生の中で悟ったのだった。
 目の前の男は、初めて出遭った時と同じ空気のような面持ちでイルトの様子を眺めていた。





ACT6-9⇒
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押印師ACT6-9
09

「―っ」

 扉が開かれる音が背後から聞こえて、イルトの時間は引き戻される。
背を預けていたソファから体を起こして振り返った。グレンが部屋に足を踏み入れるところで、彼は血と砂埃で汚れた装束姿から最初に目にした時の白いシャツ姿に変わっていた。イルトの視線を見止めて「大丈夫か」と声をかけながら向かいのソファに腰を下ろす。
 墓苑から館に戻ってから、長とアムリの姿を見ていない。墓苑の壁画を前にして話を耳にしていく内に沈み込んでいくような不快感と頭痛に体が苛まれていた。半ば意識を他所に飛ばしたような状態で館に辿りつくなりイルトはソファに沈み込んだのだった。
「印によっては肉体や神経に多大な影響や変化を及ぼす物があるから…馴染むまでしばらく辛いかもしれない」
 他の人間はどこに行ったのか。
 そう尋ねるのも億劫でイルトはただ体重をソファに預けたままグレンを見ていた。
 イルトの状態を理解してかグレンは反応を待つ事なく次に言葉を進めた。
「講義の続きでも、しようか」
「講義?」
 ―何故アリタスが軍事国家としての道を選んだのかは…分かるかな?
寸時イルトは疑問符を頭上に浮かべたが、墓苑での言葉を思い出した。ソファから離れ、グレンはタペストリーの前に立つ。応接室の南の壁には、大陸地図をあしらったタペストリーが飾られている。古い神話の記述を元に描かれた、五つの大陸と五人の王。中心に浮かぶジスノラン大陸の中心に紅玉が描かれており、古代文字で地名が記されている。恐らくは「アリタス」か「グレリオ」なのだろう。
 イルトはゆるりと体を起こして上半身だけそちらの方向を見やった。
「中央の大陸が、ジスノラン」
 タペストリーにはそれぞれに異なる模様が刺繍された五つの大陸が縫いこまれていた。実際の地図とは違い千切られた花弁のように整然と五芒型に並べられている。
 五つの花弁の間には、黒糸のクロスステッチで境界線が引かれていた。これは黒死線と呼ばれており、各大陸同士を阻む死の海域線だ。海上船や潜水艇で近づけば最後、死の海流に飲み込まれ生還する事は不可能とされている。
 黒死線は波上にも及び、低空船が黒死線上に触れたが最後その船体は空中分解を起こしそのまま魔海の餌食となる。よって大陸間の国交がこの世界において行われる事は、黒死線が存在する限り永遠に不可能なのである。
 この黒死線攻略に乗り出す無謀者は過去に腐るほど存在していたが、いずれもその後二度と名前を聞くことがない。
「ここが、アリタスだ」
 中央の大陸、グレンの指が刺繍で紅玉が縫い付けられた箇所を差す。
「北西、このあたり一体が帝国。北東にディノサス。更に北には―」
 とタペストリーを指差しながらジスノラン大陸を指し示していく。タペストリーに明確な国境線は描かれていないが、グレンの指先がなぞる曲線が国境を表しているのだとイルトは気付く。地理は得意な方だったが、淡々とした声が心地よく感じて座講に身を任せた。
 アリタスが地理的に大陸の中心に位置していること。
 岩盤地帯が多くアリタス国領が要塞的資質を持っていること。
 隣接する列強との関係性から国交希薄なアリタスにとって内部を固め、国そのものを軍隊と見立てる他ない事などが語られる。
 軍事国としての成り立ちと同時に大陸の国々が、現況における非常に脆弱な平均台上を渡り歩いている事も知った。
「よく分かった」
 一息途切れたところでぽつりと、イルトの呟きがタペストリーに向けられた。
「士官学校で教鞭を執った事がある。学校では佐官以上の現役軍人が実施教育を行うカリキュラムも多く含まれているんだ」
「-へぇ」
 僅かに唇が笑みの形になり、存外その様子が子供っぽいとイルトは思う。笑えるのか笑えないのか今のイルトの感覚では全く分かりかねるが、士官学校の教育システムに多少の興味はあった。無意識に背中がソファから離れて身を起こしていた。その反応に気付きグレンは表出しない程度に内心で感嘆に似た溜息を漏らす。
 同時にまた背後で扉が開かれる音がした。向かい合うグレンの視線を追ってイルトも振り向くと、アムリがそこにいた。両手に木箱を抱えている。
「大丈夫…だったかしら…?」
 会話の切れ目を待っていたようで、遠慮がちにアムリが問う。
「何それ?」
 両腕で抱えている箱を指差すと、それを了承の返答と理解しアムリはイルトとグレンの間を隔てるテーブルに箱を置いた。黒ニスが塗られた板面は所々剥げており、木目が晒されている。八角には銀の杭細工が施してある金具が填められており重厚さを醸し出していた。
「爺さま…いえ、長がこれを持って行くようにと」
「ああ、」
 見覚えがあるらしくグレンはタペストリーの前から直線的に箱の前に歩み寄り、礼を言いながらソファに腰を下ろした。徐に襟元に手を差し入れ、引き抜く。指先には金属片が挟まれており片側から細い銀鎖の輪が繋がっていた。
 それは細長い棒状の金属の先に、枝分かれした銀が無作為な方向に延びている。
「―…それは?」
 鎖を首から外し、慣れた手つきでグレンはその金属片を蓋の側面に差し込んだ。彫られた模様かと思ったそれは鍵穴で、金属片は歪な鍵だと知った。
「グレン・ヒースロー、約二百年前の私が当時の防人に預けた物だ」
 穴に吸い込まれた金属片を数回右に回すと小さくカチリと音がした。更にそこから僅か上に持ち上げると鍵穴の周囲に彫られた穴の一つに小さな色石が現われる。そこから更にまた左に回し、最後に右下に鍵を押し下げると、残りの穴にも全て石が姿を現した。
 そして最後にこれまでで最も大きな金属がぶつかる音が響く。
「珍しいだろう?二百年前のヴェロニカ民の技術だよ。遠征先で商人に売りつけられたんだが、存外役に立っている」
 二百年前に内戦で滅んだとされる古民族、ヴェロニカ民。箱に施された装飾はグレリオ周辺でも、現在のセントラルでも見かける事のできない稀少物だった。
「では、私はこれで…」
 箱の鍵が開けられたのを見送ってアムリは踵を返し爪先を扉に向けた。
「姉さん?」と振り向く事でイルトが引き止めるが、
「あとはイルトが判断して決断する事だって、長が」
 振り返らずに扉の向こうに姿を消していった。
 取り残されたような感覚に一抹の寂寥を覚えるような。
 グレンの視にはその様子が見て取れていた。
「イルト」
「え…」
 初めて名を呼ばれた。
 大きく胸郭の奥が震えるのを感じた。思わず瞠目する。肩から筋肉が強張り上半身から動けなくなる。何故だか遠い記憶の中で、父親に名を呼ばれた時の事を思い出した。
 物腰は柔らかいはずなのに、確かな圧力がこの男からは感じられる。
「―強制的に君にその印を受け継がせてしまった形ではあるが」
 真っ直ぐ語りかけてくる。
「私は君が思うままに生きてくれれば良いと思っている」
「………」
 視線を真っ直ぐ向ける事でイルトはグレンの言葉の意味を問う。
「私は義務があるから、私の知が及ぶ範囲で君に全てを語るつもりだ。だけどそれだけは覚えておいて欲しい」
 大きな選択をする時が迫っているのだと、イルトは感じた。だが不思議と不安といった陰鬱的な感情は湧いてはいない。そう伝える手段を持てずにただ「わかった」とだけ返した。
 それを受けてグレンは鍵を外し襟内に再びそれを放り込むと、解錠された箱をイルトの前に押し出す。
 目の前の視線は、君が開けろと促していた。
 手を伸ばして指先で黒い蓋に触れると、光沢は無いが滑らかな感触がした。二百年以上前に塗られたニスの効力が未だ衰えていないという技術力。惜しいかな今は滅亡した民の技術だ。
 片側が蝶番で繋がれている蓋の両側に手を添えて持ち上げると、錆びた音もせず引っ掛かりも感じずに持ち上がった。だが長年開けられていないのか、少々黴臭く湿った空気が箱の中から漏れてくる。
「始まりは、二百年前以上に私が当時の防人にこれを渡し、彼がこのグレリオの地で当時の長に保管を依頼したところからだ。」
 現在までに代々の防人がこれを受け継ぎ、グレリオにて長が管理しているという。イルトもアムリにも知らされていない事だった。
「中、見てもいいのか?」
 箱の中には更に簡易蓋で封がされており、鍵は必要ないようだがイルトは開ける事を躊躇った。
「もちろん」
 と呆気ない即答に気抜けしつつイルトは中蓋を外した。箱の内塗りは黒く、それと対照的に白い紙の束が最初に目に入った。紙束を手にとってみると冷たく、ざらついた感触がする。よく目を近づけてみると紙は殆どベージュ色に黄ばんで変色しており、相当に古いものだと推測できた。ところどころ縁に金属製のクリップが止められているのが見える。紙は腐り落ちてしまうほどに古びていたが、クリップだけが真新しい光を帯びていた。明らかに、年代が異なる物質同士が混在している。
 奇妙な感覚に捕らわれながらもイルトは紙が腐り落ちてしまわぬよう、慎重に指先に神経を尖らせて紙束を開く。
「?」
 紙面を開くと両面が表になっており、その左側に写真と思われる紙が一枚、クリップで裏返しに止められていた。右側には項目ごとに何かが手書きで書かれており、見出しは「職歴」と書かれていた。その下には左から年月日、年齢、職位との項目欄があり、読み下げていくと今より裕に二百年以上前の共暦と、雄たる軍事職歴が並んでいた。しかも、それが若年ながら異例の出世を遂げたと素人目にもわかる輝かしい、これは履歴書。
「すごい…」
 思わずそう呟きながらイルトは左側に裏返しに止められている写真を指先で少し持ち上げた。下から見えるのは、「国軍籍職履歴証明書」との見出し。「極秘」の赤文字も添えられていた。つまりこれは、国軍が保有している軍人の名簿アーカイブ書類。
 この職歴を持つ者の氏名欄が目に入る。
 グレン・ヒースローの文字。先ほどグレンの口からも耳にした名だ。
 写真を、表に返した。
 目の前にいる男の顔が、そこにあった。
「な…」
 写真を指先で抓んだままイルトは壊れた人形のように首ごと写真とグレンとの間を視線を行き来させる。髪の色、目、鼻、口、顔の輪郭と、全てを見比べる。五巡ほどしたところでグレンが苦笑するのが見えた。
 しかるべき写真家の手により写されたのだろう、写真の中の男はまっすぐ正面を見据えており、軍帽を目深に被っているが写真機は瞳の中に映りこむ光さえ鮮明に捕らえている。正装用と思われる勲章や飾り紐があしらわれた軍服に身を包む上半身は真っ直ぐに伸びていた。
 もしやと思いつき、イルトは次の紙束を手にする。同じようにクリップで写真が留められた国軍籍職歴証明書。写真を引っくり返す。またそこには同じ顔。ただ違うのは軍帽と軍服のデザインに変化が見られるだけだ。写真の下に記された名はグレンビル・アルベール。職歴欄の最後には、あらゆる軍事的発言と行使を認められている国軍の職位、最高軍事顧問の文字と、アリタスソルヴェグ暦二十三年に戦死とある。
「………わかりやす…」
 そこにある全ての紙束に目を通したが、同じことだった。
 この三百五十年の間に生きた、六人分の異なる人物の履歴書。
 映写技術に差はあるものの、全て同じ顔の。
「だから絶対に外に出せないんだよ、私の写真は」
 写真技術が未だ専門技術の粋を超えていないのが幸いと言えたが、十三年前の英雄、グレン・イーザーはマスコミを極端に嫌っている事でも有名だった。パレード、演説、ありとあらゆる大衆(マス)相手の催し物への出演を拒否する気難しい人間と軍部内でも認識されている。
 紙束を取り出していく内、中から新旧のネガフィルムやその他用途の為に写されたと思われる写真が数枚押し込められていた。恐らく書類は複写であろうが、写真は全て原盤ごと持ち出しているのが分かる。
 紙束やフィルムを全て取り出すと、箱の底に金属片が見えた。鎖に繋がれた銀色の小さなプレート状の金属。
 六枚のドッグタグ(認識票)だった。
 見るまでもないと心のどこかで認識しつつもイルトの手はそれを拾い、プレートに掘られた文字を確認する。やはりグレンの口から聞いた名前を含む、グレリオ出身の英傑らの遺品だった。
「これが、その印の力って事…か…」
 タグを箱の中に戻し、呟く。
 輪廻転生という言葉がある。
 大陸の一部地域に根付く思想の一つであり、人間の本質は肉体の死を以て終了するのではなく来世で異なった存在となって生まれ変わるという、魂の存在を信じる教えだ。
「そこから文字り、この印に「輪廻の印」と名付けたらどうだと提案してくれた者もいたんだが」
 グレンの面差しに邂逅の靄がたゆたう。机の上に広げられた書類を懐かしそうに見遣りながら。
「少し違う気がする。私も本で読んだが、輪廻転生とは生まれ変わった肉体が全く別の人間でもそこに宿る魂が同一である事を指すようだ。私の場合は、一分と違わない同一の肉体が転生を繰り返している」
 それに、とグレンの言葉が続く。
「君も知りたいだろうと思うが、私が君に初めて遭った時の現象」
 聖地の心臓に突如現われた時の事だ。「あ」とイルトは手元から顔を上げる。つい数時間前の出来事だ。現実感の無い事象を目の当たりにした直後、だが手に触れた体は確かに生きている実体。あの瞬間からイルトの脳裏はすでに混迷していた。
「あの現象は今回で二回目だ。しかもグレン・イーザーとして生を受ける以前には無かった事だった」
「………?」
 精霊の印は生きているのだ。イルトは直感的に思う。
 人間が築く時代の潮流に、世界の変化に併せ変化を遂げている。現にこの防人の印も聖地の変化と共に変格を遂げてきたのだから。
 むしろ印の変化と共に世界が変質しているのか。
 その違いは分からなかった。
「三年間の記憶が途切れているんだ。セントラルにほど近い場所にいた筈が、次に意識が戻ってみれば目の前に君がいた。一回目の時もそうだ。この時も、数年の記憶が剥ぎ取られている」
 鋏で切り取られたかのように。
 だから暦年を問うたのかと漠然と思い出しながらイルトは眉を顰めた。
「七度も生死を繰り返していると、大抵の事は分かった気になるのだが…」
 左手を胸元に当てる。その下に息づく心臓の鼓動を感じるように、二呼吸ほどの間が置かれた。
「この印の事は…神が私に何を望んでいるのか、未だに分からない」
 精霊の印は生けるものへの恩恵。
 そう教わり精霊神と精霊を敬う事を、この世界の子供達は教わる。
 だがそれが大きな間違いではないかと、印を授かったいまイルトは脳裏で渦巻く黒い影を無意識に感じた。
「軍は…軍の精霊印研究機関には何も情報がなかったのか?」
 あらゆるアリタスにおける情報は、国政を司る国軍へ一元化されているという。特に精霊印においては、表向きに国が民間使用を違憲としている為にその最たるものと言えた。
「ある訳がない」
 肩を竦めながらの返答。
「国軍には報告していないんだ」
「え?」
 グレンの指先は自らの胸元を示していた。
「ちょっとしたとある知人に止められてね」
 この事実を知るのは、グレリオの人間を含む身近な人間のほんの一部だけだという。
 子供がそうするように、目の前の英雄は人差し指を口元に当てて声を落とした。声を裏返らせるイルトの反応を楽しんでいるようにも見える。
 イルトは反応に困惑した。
「だがそろそろ…隠し通せなくなりつつあるが」
 苦々しい笑みの直後グレンの面持ちに小さく陰りが映り出した。テーブルに置かれたドッグタグを指先で拾い上げる。手持ち無沙汰なのか、数枚を重ねたり広げたりを数度繰り返した。
「今の写真と履歴書は?」
 貝と貝が擦れあうように軽い金属音が止んで、不意にグレンがイルトを見上げた。
「軍の情報局にある」
 退役する前に持ち帰ってこなかったのだろうか?
 これまでの話からイルトは自然にその問いを思い浮かべたが、それが言葉となる前に覆いかぶさる形でグレンの答えが静かに流れてきた。
「いずれ、軍に戻るつもりでいたのでね」
 グレンの瞳はタペストリーを見つめていた。






ACT6-10⇒
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押印師 ACT6-10
10

「戻る?」
 戻れるのだろうか。
 話は飲み込めなかったが長とグレンの会話の内容から、彼は自ら軍を退役したと言っていたはず。その口ぶりから軍と円満的な関係を持っているとは考え難かった。現に誰か身近な人間を軍により拘束されているとも言っていたとイルトは記憶している。
 それは人質という意味だろう。
 そもそも、何故彼が退役したのかその理由も知らぬままだ。
「残念ながら、これ以上は個人の手に及ぶ所ではなくなってしまった。それに、連れが恐らくは軍に拘束されているであろうし…」
 恋人か家族だろうかと、イルトは漠然と疑問に思ったが口にしなかった。拘束されている理由については、訊くべきではない。
「だが、それだけでもないんだ」
 考えを先回りしたグレンの言葉にイルトは浅い吐息を止めた。
「この十年間で軍を離れる事で様々な事を知ることが出来た。だが知れば知るほどに穿たれた孔の深さを知った。本来ならば私は、全てを昇華させた上で君に会い、軍に戻るべきだったのだが、結局は三年間を無駄にして中途半端なままだ」
「あと三年あれば…、解決していたのか?」
 正面に向いていたグレンの瞳がふいと一度右に流れて、またイルトに向く。
「いや―」
 あっさりと否定した後に、だが撤回しようとはしなかった。
「それでももっとマシな手続きを用意していただろうと思う。ライズの事があるから…―遅かれ早かれここを訪れ、君に会っていた」
 そして自分はいずれにしろこの防人の印を受け継ぐ事に決まっていたのだろう。その事実が己の感覚にしっくりと馴染んでいる事に、イルトは気付いていなかった。
「散文的な言い方しかできないが」と前置きをしてグレンは溜息のような言葉を吐いた。視線がタペストリーを向く。そして徐に再び立ち上がり、一つ言葉を発するごとに一歩、タペストリーへと歩んでいった。
「大きな何かが、動いている。全てが一本の律に繋がっていて、私が求める事実を確証させるにはもう私個人の手に及ぶ範疇から逸脱してしまっている。不本意だが、軍の力が必要だ」
 漠然を言葉にする事をこの男はひどく嫌うらしい。それは大人だからなのか、軍人の性なのか個人的性質なのかはイルトに図りかねた。
「大きな何かって…、何が動いてるんだ…?」
「分からない。いや、思い当たる事があるにはあるのだが…」
 身を乗り出す事でイルトが続きを促すが、「これは今話すことじゃない」と彼は己に対して頷いただけで言葉を止めた。
「一つだけ確実に言える事がある。恐らく近いうちにまた―」
 言い直してグレンは視線をタペストリーからイルトに向けた。
「戦いが始まるだろう」
「-え?」
 徐に再びタペストリーに手を添える無言の頷きが返る。
 軍人の「戦い」は「戦争」の他ない。
 その単語にイルトの神経が反応を示すのに若干の時間を要した。
 十三年前に終結した帝国との戦争は、現在十代の若者にとって記憶ではなく記録でしか無いが、国内に戦火が及ばなかった為に国民の多くが抱く認識に違いは無かった。国内で度々内紛が起きているものの、度重なる軍による厳しい制圧によりその数は減少しているという。
 国境線から離れ内陸に向かうほど、アリタス国民にとって戦争とはメディアが報じた結果でしかない。
「戦争…?」
 忘れていたが、この男は国の英雄と謳われた将軍の地位にいた人物だった。
「引き金はここだ」
 その手がタペストリーの帝国領地を軽く叩いた。
「ライザ民政派がいつまでもアリタスに大人しく付き従っている筈がない。もって二十年弱だろう。先のクーデターだって結局は彼らの……―これは脱線しそうなのでやめておくか…」
 最後は独り言として飲み込まれる。
「また帝国と戦争が?」
 一市民として誰もがそうするであろう反応をイルトは見せた。
「今…と言っても三年前の時点で明確に分かっている動きはそれだが…恐らくはそれはトリガーに過ぎない。」
 列強相手の戦が些細な切欠であると言い切られている。イルトの耳にはその言葉が不気味に響いた。
「私が軍を去った理由は様々だが、その一つが少しこれに関連している」
 ドアをノックするように、グレンの手がアリタスの周囲に居並ぶ列強を叩いた。水面の飛び石のように一定のリズムで指先が順番に「先程も説明したが」と列強を指し示す。
「アリタスは、決して自ずから攻勢に出てはいけない立場に置かれている。この国にとっての最善は、地の利を活かし列強らの威嚇から防衛線を護り通す事だ。その均衡を崩せばこの国もろとも大陸全土が戦火に飲まれる事になる」
 防衛重視論は初代総統時代からアリタスの最重要課題とされており、数百年かけて防衛線は死角を排除してほぼ完璧な物へと構築され、軍部内体制も防衛に重点を置いた点で完璧な「壁」へと仕上がっているという。
「だが先の帝国との戦いで、執政院は下手な欲をかきはじめていた。ライザとディノサスとの繋がりも見えていないというのに。」
 先年の戦いでアリタスが得た戦利は鉱脈という莫大な富。それまでの五百年、防衛の一途で国を存続させてきたアリタスに、「攻め」が富を齎すという蜜を玩味させてしまったのだ。
「アリタスが攻めに転じる事で軍事的にどれだけのリスクが伴うか…彼らは理解していない。それを執政院は餌に釣られ大義名分の元、粋を越えた政略に出かかっていた」
 グレンの声に体温が篭り始めているのが感じられた。実体がありながら掴み所無い煙のような男に色が宿り始めているように見えた。
「でも…帝国との戦いで軍の指揮を執ったのは、あんたなんだろ…?」
 気圧されそうにな自分を心の内層で発奮させてイルトは尋ねる。
 ―アリタスの進撃、宛ら鬼神の如く
 先の戦いを報じる媒体にはそんな風に謳っていたものもあった。
 思い出してグレンは自嘲の混在した苦笑を洩らした。
「だから私は軍を抜けたのだ。軍が深入りする前に。」
「え…何で?」
 イルトの問いに、グレンは口の中で言葉を濁し正面から外した視線を右に一度、左に二度泳がせた。
「………こうは言いたくないが……当時は他に人材が…」
 自分以外に深入りできるほど指揮を執れる人間がいないと。
「――あ…そうですか…」
 容姿から受ける人格の印象に似つかわしい物腰だが、言葉の意味は随分とふてぶてしい。だが不思議と全く不自然とは思えなかった。これが将の才覚か。だがむしろイルトは呆れた。
 確かにこの十数年、国は戦後処理に従事しているとの報道しかされていない。
 国境線付近で帝国軍を撃破した後のアリタス軍は帝国内への侵攻を控え防衛線付近に留まり、あくまでも民政軍の後方援助に徹底した。ライザ民政軍のクーデター成功後のアリタス軍は国領拡大を譲渡された鉱脈地帯までに留め、内と外に二重の防衛線を構築しライザとの距離を保つ国策を選択。
 その後は他国も警戒してか辺境の防衛線における威嚇攻撃の数も一時的とはいえ激減したという。この十数年を民間報道局は「パックス・アリタス」と謳っているほどに世の中は富と泰平に湧いていた。
「じゃあ、何で今になって復職しようと…」
 泰平が永遠に続くかに錯覚していたのか。
 途方もない規模の物語に巻き込まれたような感覚だった。イルトは知らぬうちにソファから腰を上げ、タペストリーへと歩み寄っていた。ただこれまでの人生の尺度で図ることのできない物語に瞠目するしかなかったが、今はグレンの口から語られる全てがあまりに自然に耳から体にしみこみ始めていた。
「帝国に侵攻する為に?」
 これまでに無い色をイルトの言葉に感じてグレンは深い息と共に、目を閉じた。そして首を横に振る。
「私は戦争をビジネスにするつもりはない」
 他国侵攻に加担する事を強く拒否する言葉だと気付く。国の幸福を望む事と、無闇な発展はイコールではないのだ。
「それじゃ…」
 グレンの閉じられた瞳が開かれて、イルトを見やりタペストリーへと移る。
「大きな何らかの流れ…それが何なのか今の私には充分な説明力がない。だけど確かに「来る」んだ。」
 明確な言葉にする事ができずにグレンは酷くもどかしそうに下唇を噛み締めている。だがイルトにはその感覚が判る気がした。この男に出会う前の、精霊の心臓へと導かれる前に感じていた「何か」。それはひどく漠然としていて、髪の毛が僅かに風に触れるような、そんな実感の無い感覚。だが確かに感じた「何か」。
 ただ、彼の言う「何か」は自分のそれとは規模が違う気がした。
「軍に戻ればそれが分かるのか?」
「可能性の問題だね…このままでいるよりは良い。終戦から既に十三年が経過している。ライザにそろそろ動きが出始めても良い頃だ。私が抜けた事で十数年の時間が稼げただけでいずれ彼らが動き出すことに変わり無いと、私は読んでいる。それに」
 何か言いかけてグレンは「…―いや」と息ごと言葉を飲み込んで視線を天井に逃がした。考え込む時の癖なのだろう、片手を口元に当ててゆっくりと長い息を吐き、
「ここから先はまた別の話になるな…」
 と独言を飲み込んで言葉を締めくくった。一つ小さな呼吸を挟み、両手で空気をせき止めるような仕草を見せてグレンはタペストリーから離れた。
「これで、私自身について現時点で話せる事は全て話したつもりだ」
 ソファに挟まれたテーブルに戻り、無造作に広げられたままの書類を束ね始める。写真を裏返し履歴書に重ねてクリップで留める。それを箱の中に無造作に重ねていく。その動きを漠然と眺めながらイルトは頭を掻く。
「分かったような分からないような……」
「私自身も分かっていないのだから無理もないね」
 苦笑しながら箱に蓋を重ねて、再び襟元から鍵を取り出して穴に差し込む。一体どのような仕組みか、今度は回す事なくカチリと固い音がして鍵が掛けられた。
 再び封印を掛けられた箱。
「その箱、どうするんだ?」
 箱を手にして思案顔のグレンに気付き、イルトはソファの前に歩み寄る。箱が、目の前に差し出された。
「これを引き続き、グレリオで預かってもらえないだろうか」
「俺が…?」
 差し出される勢いのままに両手で受け取ってから、その重さに驚く。黒ニスの重厚な光がそのまま重力となって手の中に圧し掛かるようだった。
「難しく考える事ないよ。ただ保管していてくれるだけでいい。私が持っていると色々と面倒だから」
 どこか楽しそうに笑ってグレンは首にかけた鍵を再び襟の内側に放り込んだ。
「私が今まで話したことも含めて全てをこの箱に仕舞って、ただどこかに隠し続けていて欲しい。」
「……」
 箱に触れるイルト指先の感覚が敏感になっている。木箱の冷たさを感じ始めていた。そこにグレンの手が重なり、上から箱ごと強く握られた。握手の代わりか、握った状態で箱ごと上下に三度揺さぶられた。カタカタと、箱の中から固い音がする。
「ライズの解放。それが君に最も頼みたかった事だったから、叶えてくれて感謝している。急な形で悪かったね、でも長に君を紹介された時は今しかないって思った。」
 グレンの言葉には頷かず、イルトは箱に視線を落とした。
 予兆はあった。
 グレリオを一望できる高い段々畑の頂上で、感じていた自分を呼ぶ「何か」。それは印がつなぐ糸を伝わってきた振動のようなものではないかと思えた。
「………」
 自分はここで何を言えばいい?
 どうすればいいのか。
 黒塗りの箱を見つめてイルトは懸命に答えを探す。
 父親は幼少の頃、初等教育を修了した後に士官学校へ進学しその後国軍に入隊。グレリオ帰郷時に婚約者の母と結婚、アムリとイルトをもうけたと言う。その後帝国との戦争期に入り、戦地に出向いた父は再度の帰郷を果たす事なく戦死。
 イルトは先年、初等教育学校を卒業。士官学校への推薦枠取得試験の受験資格を得られる可能性はあった程には成績基準を満たしていたが、資格保留のままグレリオに留まる道を選んだ。村の者に農耕を教わり、毎日を高台の段々畑の頂上で森を抜けてきた風に当たりながら村を見渡す。そんな毎日。
 そこに舞い込んできた目の前の男。彼が掴んだ時機は好機と言えた。
 イルトは考える。
 父も印を授かったのは年の頃が十八というのだから、グレリオからセントラルに移住する士官学校入学直前なのだろう。
(であれば、その頃この男は…?)
 視線を箱からグレンに向ける。
 彼は佐官時代に印を受けたと言っていた。防人の印はこの男の存在があってこその印であるから、父に印が発生していたのならその時点ですでにグレンも授印していたと考えて良いはず。
「………」
 もう何度も徒労に終わった暗算は相変わらず矛盾の解しか導き出さない。
 神妙な面持ちで箱を見下ろすイルトの様子を数秒ほど見つめた後、グレンは箱の上に重ねた自分の手をゆっくりと離した。黒塗りの箱は確かにイルトの両手に収まっている。まるでそこが居場所だと箱が安堵の呼吸をしているかのように。
「なあ」
 離れていく手を追いかけるようにイルトは顔を上げた。
「もう一つだけ、訊きたい事がある」
 声調は低く重力を有していたが、明確だった。
 グレンの手が止まり。一寸首を頷くことで先を促している。視線を受けてイルトは箱を支える腕に力を込めた。
「父さんがどうして死んだか、教えて欲しい」
 片手で数えるほどにしか記憶に存在しなかった父は遺骨でグレリオに帰郷しその後、墓苑に葬られた。幼子が足を踏み入れる事が許されていなかったために、墓苑で行われた葬儀にも立ち会うことは出来なかった。
「………」
 グレンの吸い込まれかけた息が途中で止まる。何か言いかけて一度それを諦めて、また思いなおしたように空気を吸い込んだ。
「水辺だった。あの景色は永遠に忘れない」
「水…?」
 突然、再びイルトの脳裏に青い風景が広がった。
 振り向く影、飛び散る水しぶき、異形の影、そして血。
 幻が見せた怒り、そして―
「彼は私の為に死んだ」
 折られた膝、地に付けられた両手、去り行く幻、そして霞む墓苑の入り口。
「……」
 眩暈を覚悟してイルトは固く両目を瞑った。
 最後に見た幻、あれは最期に父の網膜に映した光景。
 そしてきっといずれ、己も見ることになるのだろう。
「俺…―」
「わかるだろ…?私の言葉の意味が」
 低く深い声が重なり、イルトの手中に収められた箱の重さが増した気がした。






ACT7-1 白き机上の世界 ⇒
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登場人物紹介
※随時追加・変更します
※07.02.18. キャラクターデザイン案へのリンク追加


キャラクター紹介


※各キャラクターデザイン案はこちら

キーキャラクター

エルリオ・グレンデール(15)
境遇・設定
 精霊の印を人工的に身体に施す事で様々な力を得る事が出来る「押印」という技術を持つ。ある日突然、住んでいたアパートが襲撃され父親を亡くす。襲撃者と思われるアリタス国軍に怨みを抱き、復讐するために学校を辞め、民間では違法とされている民間押印師として生計を立てる傍ら、復讐の機会を窺っていた。ミリアムと出会い、ミリアムがもつ「鍵」を復讐に利用できないかと目論む。第一部の主人公的キャラクター。
容姿・性格
 おさげが似合う小柄な少女。利発で頭が良く、即決即断が得意。逆にそれが短気という短所となる場合もあるが、飲み込みがよく思い遣りがある。

キュー(?)
境遇・設定
エルリオの父ワイヴァンが娘エルリオに送ったプレゼントのぬいぐるみ。背中の裏地に「記憶の印」と呼ばれる押印を施し、外部からの情報を記憶する能力を与えた生きたぬいぐるみ。今ではエルリオと対等に会話ができる程度に人の言葉も習得している。
現代語で置き換えると、しゃべるパソコン、のようなものと考えれば分かりやすいかもしれない。
容姿・性格
アリタスの森に生きる白兎をモチーフにして作られた、白い体に長い耳、つぶらな黒いプラスチックの瞳を持つ。サイズはエルリオの両手にすっぽり収まるゴム鞠程度。

ミリアム・ファル・ライザ(14)
境遇・設定
 13年前に滅んだライザ帝国皇族、唯一の生き残り。赤ん坊の時にグレンという名の男に連れられアリタス国内を転々としていたが、11才の時に引き離されて軍に拘束される。その後、アリタス国軍に出頭していた元ライザ帝国の高官の手を借りて軍から脱走。グレンから託された「鍵」を持ちエルリオの父を頼ってきた。グレンを探し出してもらう代わりに「鍵」をエルリオに提供する。
容姿・性格
 エルリオ曰く「美少女」。帝国人特有の美しい銀髪を持つが、アリタス国内では黒く染めている。繊細ですぐに泣く傾向にあるが基本的に天然なため変なところで図太い。人の思考を読み取る事ができる精霊の印を持っている。

イルト・グレリオ・サイファ(18)
境遇・設定
 旧聖地グレリオ村長の孫息子。地元の義務教育を終了後、士官学校への推薦入学試験受験資格を保留状態にしたまま、目標もなく村でのんびりと過ごしていた。だがある日突如村にグレンが現われた事により「防人の印」と呼ばれる精霊の印を授かる事になる。そこから彼の人生は大きく変わっていく。
容姿・性格
 同じ年の子の中では長身な方らしい。お坊ちゃん育ちなので人の良さそうな風貌ではあるが、時折カッと頭に血が上る直情的な一面も。

グレン・イーザー(年齢不詳:外見年齢27~9)
境遇・設定
 元アリタス国軍の将官。13年前に終結したライザ帝国との戦争で活躍し一躍国の英雄となり、結果的に帝国の皇族を滅亡に追い込んだ当人。戦勝後、当時赤ん坊だったミリアムを伴い謎の失踪を遂げる。ミリアムの話によるとその後は国内を転々としていたそうだが3年前に蒸発同然に再び行方不明に。ミリアムでさえその安否を知ることが出来なくなる。だがある日突然、旧聖地グレリオに姿を現し…。
容姿・性格
 体格、容姿、性格など、(軍事の才能以外が)いたって「普通の一般人」と何ら変りのない青年。物腰も遠慮がちで気弱そうに見えるが芯は通っており、自覚していないが人を話に引き込み振り回す傾向にある。聖地グレリオに根付く巨大な精霊の印と深い関わりをもつ印を体内に宿している。その力は不明。




アリタス国軍の人々

ジョシュ・シールズ大佐(36)
境遇・設定
 アリタス国軍情報局諜報部大佐。現在は行方不明になったグレン・イーザーと彼が持っているという「鍵」の捜索任務を命じられ、数人の部下を含むチームで任務遂行を進めている。
容貌・性格
 社交的で穏やかな外面の典型的な佐官(中間管理職)。部下の言葉もよく聞き、下からの受けがいい。だが即断即決で行動が早く、怒ると声が大きくなる。

エファン・キール大佐(36)
境遇・設定
シールズ大佐の同僚。
何でも無難にこなせるオールラウンダーの為に便利屋のように様々なジャンルの仕事を任されるので常に忙しい。最近、直属の部下であるアイラスとランドをシールズに貸しているので更に忙しくなってしまった。
容姿・性格
少々神経質だが仕事の正確さには定評がある。
潔癖症で趣味は整理整頓。頭部はオールバックで固められているが、疲労指数(ストレス)とほつれ毛が比例しているので、髪型が乱れ気味の時は話しかけない方が吉。
酒を飲むと性格が変わるらしい(シールズ談)だが誰も試したことがない。

アイラス・ウェーバー(25)
境遇・設定
 アリタス国軍大尉。矛の印保持者。ランドとは同期で周囲では有名な凹凸コンビ。高い戦闘能力を評価される一方で冷静な分析力を買われ、情報局に配属される。戦闘時には遊撃的な活躍を期待されている。逃亡したミリアムとライザ高官を追っていたところ、エルリオに出会う。鍵を手にしたエルリオを取り逃がし、シールズ大佐の捜索任務部隊に組み込まれる事に。
容貌・性格
 宗教的理由で黒髪を後ろで束ねている。眼光鋭く、人を寄せ付けない空気を持っている。

ランド・ブライトナー(27)
境遇・設定
 アリタス国軍大尉。アイラスとは同期入隊の凸凹コンビ。なりゆきで捜索任務メンバーにされる。
容貌・性格
 アイラスと正反対の飄々と軽い性格だが、たまに発言の中に鋭い指摘が含まれている場合があり油断ならない。

アリサ・ラフォント(21)
境遇・設定
 士官学校出身の新人文官。位は一等下士官。書記官を目指して普段は軍部内の資料整理や本棚整理をしている。記憶力は抜群に良く、整理整頓が得意。幼なじみのアレックの影響で最近は地図の読み方にも詳しくなった。平和な時代を生きて来た世代だが、徐々に暗雲立ち込める世界情勢を危惧している。
容姿・性格
 有名女優と同じ名前を持つが、アリサ本人はいかにも「文学少女」な出で立ち。化粧気がなく色気のかけらもない、と本人は思っている。幼なじみのアレックの世話を何かと焼いている。

アレック・スタインウェイ(21)
境遇・設定
 士官学校出身の新人文官。アリサの幼なじみで、位は同じく一等下士官。測量や製図が得意で、仕事は地図を書くこと。独自の研究でオリジナル地図を作る事に情熱を燃やしている。大佐の命令で元上司のヴィルに会いに竜翼谷へと派遣されることになる。
容姿・性格
 同世代の中では小柄で、よく動き回る。明るく好奇心旺盛でなんでも調べたがる性格。おしゃべりで、よく余計な一言で墓穴を掘ってしまう事も。

ライアン・グスタフ(39)
境遇・設定
 グレン・イーザーと同期入隊で友人。若い頃からグレンと肩を並べる出世頭の一人。「あの山ごと敵をぶっとばせ」的な大胆(?)な戦法を得意とするが緻密な計算と考察による裏づけがなされているため成功率は高い。ただ、大がかりな作戦になりがちなため、予算を大幅にオーバーさせる事から経理局には嫌われている。双子の護衛官を宛がわれているが束縛される事を嫌うのでいつも逃げている。グレンの復帰を誰よりも心待ちにしている。
 容姿・性格
 年齢の割に若く見える事が自慢。姿勢がよく上背もある絵に描いたような「軍人」。だが内面は感傷的で感動屋。結構単純で心を許した人間にはすぐに騙される。

ソラリス・クリューガー(年齢不詳)
境遇・設定
 精霊印研究局の女研究員。位は少佐に相当する。医師免許を持ち、被押印者のメンテナンスやアフターケアについての研究、臨床を行っている。変な薬草を育てて変な薬を作るのが趣味。
 被押印者の苦痛を和らげる鎮痛剤「ソラリス」の開発者。薬が外部に流出し、暴走者が続発している事態に頭を痛めている。
 グレリオ・セントラルで起こった元軍人殺人事件の証拠物件である血液検査を任される。
容姿・性格
 三十路に入ってから年齢の事を言われるのを嫌う、まだまだ気持ちは十代の女ざかり。彼女の年齢を知る者は、人事部の一部の人間のみだという。自称チャームポイントは、メガネ。

アーサー・ノーブル(38)
境遇・設定
 精霊印研究局の研究員。位は少佐に相当する。歴史学者。研究所では主に歴史的考察から、印の研究を行っている。
容姿・性格
 貴族や騎士のような名前だが、外貌に無頓着な独身。

ラルフ・イレイズ(34)
境遇・設定
 精霊印研究局の研究員。位は大尉に相当する。押印師。元々は民間で違法業を働いていたが、逮捕された際に技術力を認められて研究局の所属することを条件に減刑となる。
容姿・性格
 典型的な研究者タイプ。オタク気質。

ジョルジュ・ジェイス・レイブリック(58)
境遇・設定
 元アリタス国軍准将。退役した現在は、特別顧問。国軍からオブザーバーとしてオピニオンを求められる立場。佐官時代、当時尉官であったグレン・イーザーの上官であった。
 緑の街キルギストックの保安を司る名家「レイブリック家」の現当主。天啓印の持ち主。三人の息子は何れも現役国軍人であり、末っ子に天啓印が受け継がれている。
容姿・性格
 年を重ねると共に穏やかになっているが、若い頃は手の付けられない一匹狼であった事で有名。鉄砲玉のような特攻が得意な戦闘員であった。今も時折その片鱗が見られる、油断のならない人物。だが、何だかんだ言って息子が可愛いらしい。

ノア・ジェイス・レイブリック(23)
境遇・設定
 レイブリック特別顧問の三男。レイブリック家に受け継がれる天啓印を引き継いだ。若い頃のジョルジュと同じく、独断による単独行動を好む一匹狼で優秀な戦闘員。キルギストックの植物園潜入任務に加えられ、隊長の判断に反発して単独行動に出る。
容姿・性格
 刺すようなするどい眼光と、金髪が特徴。荒野に佇む獣のような雰囲気を漂わす。
 同期曰く「自分に正直」。理不尽な事には「納得しない」と、とことん反発し、自分ひとりの力で解決しようとする。だがそれは実力が裏打ちされた行動故である。レイブリック特別顧問を、父親として嫌っているものの、軍人としては尊敬している。イマイチ素直になれない性格らしい。




学者・学生・仕官見習い

ジュスティー・スタインベルク(16)
境遇・設定
 エルリオと、初等学校時代の同級生。佐官の父親を持ち、母も軍つきの秘書官。本人も成績優秀で、エルリオと共に仕官学校入学を嘱望されていた。得意科目が同じとあって何かとエルリオをライバル視した。
 現在もエリート道を歩いており、現在はACC士官候補生育成学校に在籍中。近く士官学校入学試験を控えている。その試験会場で彼はある人物と出会う事となる。
容姿・性格
 アリタス人特有の色素の濃い髪色と、白い肌を持ち、一族ともども典型的アリタス民族家系。軍人一族のサラブレッドだが努力家で、ライバルがいるとますます燃えるタイプ。だが同時にライバルに対して敵愾心を見せてしまう悪い癖もあるので、友人は少ないようだ。

カノン(17)
境遇・設定
 エルリオとジュスティーの同級生。現在はACC士官候補生育成学校にてジュスティーと腐れ縁的に同級生。体が弱く幼少時に療養していたので1つ年上。気弱なために目立たないが実は成績優秀で、気がつけば常にジュスティーの二番手、三番手にぴたりとついているという隠れた実力派。同じく士官学校入学試験を控えており、ジュスティーと同じくそこである人物と出会う事となる。
容姿・性格
 1つ年上という事もあり雰囲気が大人びているので同級生の中では浮いている。何故かジュスティーとは性格が合わないが話が合うのでよく一緒にいる事が多い。病弱だが、士官学校に入ったらやってみたい事は「射撃練習」と公言している。

クラース・ベルトラン(?)
境遇・設定
 学匠の街レクティカの言語歴史学者。ジスノラン大陸の言語学について研究する。その実学から離れた研究内容の為に、長い間日陰者だったが、大戦前にグレン・イーザーにより研究内容が注目され、特別講師に招聘されるなどして、職に追われずに済んだ。ひょんな事からエルリオ達と知り合い、エルリオの利発さに感心したは良いが、何故かそのまま成り行きで事件に巻き込まれる事に。
容姿・性格
 光の具合によっては銀色に見える頭髪の持ち主。僅かに帝国人の血が入っている混血。そのため、周囲から疎まれており、その為か卑屈とも言えるほどに控えめな性格。普段はひどい「どもり」だが、いざ学術的な話となると途端に饒舌になる。

ライフェル・ルスト(20)
境遇・設定
 学匠の街レクティカの大学校、理学科の学生。戦災孤児で孤児院育ちだが、学業成績が優秀だった為に奨学生としてレクティカ大学校にまで進学した逸材。だがある日、エルリオ達や親友のローランドの目の前で謎の飛び降り自殺(?)を図り、死亡。死亡する瞬間、体の中心から爆発したのを、エルリオ達が目撃している。
容姿・性格
 親友のローランド曰く、孤児だった為に苦労して育ってきたので、少しの事では凹まない性格。

ローランド(20)
境遇・設定
 学匠の街レクティカの大学校、理学科の学生。将来は、科学捜査官(鑑識官)を志望している。目の前で親友のライフェルが落下死し、その理由が納得できずに原因を探ろうとしてジャスミンと口論。引っぱたかれる。それでもひるまず、ライフェルの死因を追求するため、ジャスミン達に協力を求める。
容姿・性格
 比較的裕福な家庭で育っており、性格がスレていない。ジャスミン曰く「学者肌」で、思い込んだら突っ走る傾向にある。




辺境の人々

ヴィル・レストム(26)
境遇・設定
 竜翼谷(シュテラール・バレー)と呼ばれる、竜と人が共に住まう谷を統べる現当主。3年前まで国軍に所属していた頃は、谷を守護する戦士の一員でしかなかったが、帰郷時に竜王シュテラリオンから当主の印を授かる。だが直後、実の妹を賊に攫われてしまい、現在は谷を統率しながら賊を追っている。精霊印のルーツ巡りの旅に出たエルリオとミリアムをかくまう事になる。
容姿・性格
 谷の人間特有の金髪、色素の薄い肌、長身。普段はモスグリーンの裾の長い装束を身に纏っている。感情表現が乏しいが、冷たいわけではないらしい。

ジャスミン(26)
境遇・設定
 元アリタス国軍の尉官。ヴィルの部下であり、退役後も何故か谷までついてきて今も部下続行中。その理由は不明。銃とバイクを操りヴィルをサポートする猛者ぶりを見せているが子供には優しい。
容姿・性格
 黒髪。体型は軍人あがりとあって少し筋肉質なスレンダータイプ。

テイダス(15)
境遇・設定
 イルトが卒業した初等教育学校の後輩。在学中はイルトと仲が良かったようだ。
 母親と二人暮しで父親は軍人で殆ど家にいなかった。五年程前に突然学校に来なくなり、行方が知れなくなる。現在はグレリオ・セントラルで頻繁に窃盗を働いている。体に雷系の押印を施されており、他にも仲間がいるようだが―?
容姿・性格
 俊敏で俊足。恵まれない境遇から、体格は小柄で痩せ型。以前は活発な少年だったが現在は鋭く厳しい光を瞳に宿している。仲間の少年・少女達以外に心を許していないようだがイルトを未だに「イルト兄」と呼んでいる。

ミソラ(18)
境遇・設定
 イルトが卒業した初等教育学校の同級生。在学中は全く目立たず、イルトも憶えていなかった。だが成績は優秀で医者志望。ACCの士官学校入学を目指して勉強中。
 ある夜、薬草泥棒をしていた帰りに街でイルトと偶然に再会。家にかくまうことになる。
容姿・性格
 黒髪を後頭部に束ね、顔の両脇に髪の毛を垂らしている。白衣のつもりか、白い服を好む。大人しくて目立たなく、誰に対しても敬語で話すが、時々するどいツッコミをしたり、かと思うと人を諭したりと、弁が立つ。
 医者志望として、己の美学と自信を備えている。

ソフィア・イーザー(旧姓)(50代)
境遇・設定
 グレン・イーザーの妹だが、14歳の頃に失踪したグレンが生還した時に年齢が逆転。その後、役所の戸籍課勤務の父親の戸籍操作により、姉弟として通す事になる。30歳手前で結婚、今はグレリオからほど近い山間の村で小さな牧場を営んで、一人で静かに生活している。グレンとライアン・グスタフの連絡役でもあった。
容姿・性格
 イルト曰く、笑い方等の表情がグレンと似ている。穏やかで、何かを悟ったような落ち着きのある婦人。沢山の犬や猫と一緒に生活しており、奇妙なネーミングセンスを持っているところも、グレン似と言える。




その他

ワイヴァン・ぜーン・グレンデール(故人)
境遇・設定
 エルリオ・グレンデールの父親。ぜーンは母方に与えられたミドルネームで近しい友人にはこの名前で呼ばせていた。
 妻を早いうちに亡くしている。精霊の印を人工的に身体に施す事で様々な力を得る事が出来る「押印」という技術を持つ。
 以前は、国軍の精霊印研究所付の研究者として押印の軍事実用化研究をしており、近年の押印技術の進展に貢献した。その後、ライザ帝国との戦争の混乱に乗じて退役。民間の押印師を裏の生業とし娘と共に民間人生活を送っていたが、ある夜アパートを何者かに襲撃され命を落とす。
容姿・性格
 仕事熱心で真面目な性格。娘には常に何事にも誠実に一生懸命取り組むようにと教えてきた。だが一方で、押印師として娘の才能にも気付いていたが、具体的な技術を教える事なく他界してしまう。

ライズ・グレリオ・サイファ
境遇・設定
 グレリオ出身。イルトの父親であり、前防人。グレン・イーザーの護衛官。婚約者との間に長女アムリと長男イルトをもうけたが、その後ほとんど帰郷する事なく、帝国戦との終戦間際に当時将官だったグレンを庇って殉職。その後、グレリオの墓苑に葬られる。十八になった息子イルトに「防人の印」を引き継がせ、防人としての責務をまっとうする。
容姿・性格
 レイブリック特別顧問曰く、相手が上官であろうと「生意気な口」をきいていたらしい。憎めない、真っ直ぐな性格。

バスクス・レンバッハ(30代半ば)
境遇・設定
 シールズ大佐曰く「タチの悪い人身販売屋」。臓器や角膜といった体の部品(パーツ)を売買する目的で主に貧困層を狙い誘拐を繰り返す「部品屋」の片棒も担いでいる極悪犯罪人。精霊狩りにも手を広めており、シュトル地区で悪行を繰り返す精霊狩り集団の幹部を務めている。
 過去には印保持者が大勢集まる竜翼谷も襲撃し、その際当主ヴィルの妹であるメロウを誘拐し印保持者探知機として傍らに置き続けている。
 印を施した謎の銃器を操り、ヴィルと互角に戦う事ができる。
容姿・性格
 本文中にはあまり細かい描写は無かったが、一応設定としては黒いコートを身に纏っており、顎に短く髭を生やしている。

ラースル(20代後半~30代前半)
境遇・設定
 テイダスら押印を施された子供達を指導している人物。彼自身や彼が属している組織の正体は現在のところ謎。グレン曰く軍役経験があり頭が良い。空中に放り投げた複数の瓶を正確に打ち抜く狙撃技術もあるが、どこで修得したかは謎。
容姿・性格
 長身で大柄。全身を黒で固めており、ちょっと間違うと軍人にも見える装い。腰に短銃を差している。常に自信に満ちた面持ちと態度。




過去の人々

ロス・グレリオ・サイファ
境遇・設定
 300年以上前、グレン・ノースクリフの幼馴染で親友。国軍では部下。「防人の印」が現在の形となった一人目の「防人」。トラキスの水攻めの様子を正確に報告書にして記すが受理されなかった。グレン・ノースクリフの右腕的存在。
容姿・性格
 思った事をはっきりと口にする怖いもの知らず。

ジェイス・レイブリック
境遇・設定
 300年以上前、グレン・ノースクリフ中佐の部下だった国軍人。トラキスでの帝国軍との攻防戦で生き残ったメンバーの一人。
 ノースクリフ中佐を殺害しようとしたユーランド大佐に反発し、射殺。
容姿・性格
 鋭い眼光と金髪が特徴。信頼のおける者以外に心を開かない。

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押印師 ACT7-1
ACT7 白き机上の世界

01

 シールズ大佐の執務室から特別任務を受けてアレックが資料室に戻ると、まだそこにはアリサの姿があった。大机の前に腰掛けるピンと伸びた背中は、何かに没頭しているようで動かない。ただ両腕だけが忙しなく右往左往を繰り返している、そんな風だった。
「アリサ?」
「あら?」
 三度目に名前を呼んでようやく、紙やビニールが擦れ合う音が止んだ。丸眼鏡がアレックを向く。
「は、早かったのね?」
 椅子が踊って耳障りな音を立てる。室内の隅にいた文官が面持ちを顰めた。申し訳ありません、とアレックが代わりに謝罪を向けた後、机上の様子を覗き込んだ。散らかしたままに飛び出したのを思い出したのだ。
 乱雑に広げられていた筈の地図やメモが消えている事に驚く。
「ごめんなさい、いつ戻るか分からないから片付けちゃった…ほら、他の知らない人に見られたら困るでしょ?」
 厚みを増した複数冊のフォルダを扇のように広げて肩を竦めるアリサにアレックは目を丸くする。シールズ大佐執務室への往復はものの数十分と掛かっていないはず。
「ううん、それは全然いいんだけど、むしろありがとうっていうぐらいで」
 フォルダを受け取り、中を確認する。地図類が地域別に整理され、混沌状態だったメモ類が関連付けされてファイルに貼られて整理されていた。
「すごいや」
 断片的であったパズルが合わさったようだ。ただただ感心するアレックの様子にアリサは得意気に無い胸を張った。
「あ、でもねアレック」
 それもつかの間、アリサの手がファイルを取り上げる。風が起こるほどの勢いでページをベラベラ捲り、半ば辺りで指を止めた。ファイルには見開きで左側に旧地図の束、右側にアレックによる新地図やメモが綴られている。
「私あまり地図は得意じゃないのだけど整理していてちょっと不思議に思うところが幾つかあって」
「え?」
 隣からアレックも共にファイルを覗き込む。
「例えばこれなんだけど」
 アリサはファイルポケットの一つから、ブレスト地帯と呼ばれるアリタス連峰の一つが記録されている地図を引き出した。測量した年代順にクリップで止められている。人工開発の手が及ばない地帯という事もあり、長年地図の更新が成されていなかった区域だが、帝国との防衛線付近という位置から近年、アレックを含む製図版が測量を行った場所だ。
「ブレスト峰の地図か~。この辺は帝国の印使いの部隊と衝突したところだったみたいで、峰の一部が削れて地形が変わっちゃっててさ」
 惨状の痕跡を目の当たりにした製図版の遠征時を思い出しアレックは叱られた子供のように肩を落とした。重火器や印保持者や押印兵の部隊により削られてむき出しになった赤茶けた土山の群が、色づく秋空の下に寒々しく波曝を横たわらせていた風景。
「あら、そうなんだ…じゃ、そののせいかなぁ」
 折り目が白くなりつつある古紙の地図を手に取りアリサは首を傾げた。
「大河の沿岸線がね、微妙にズレてるのよね。旧地図と新地図だと」
「大分削れたり埋まったりしたみたいだから…でも製図間違えたのかな…」
 眉を困った形に傾けてアレックは四つ折りの旧地図の上に自分のメモを重ねた。丸い瞳を交互に動かしてアリサが指摘した沿岸を描く線を見つめる。数十年前の地図と比べ確かに先年アレックらが製図した地図の大河を描く線が僅かに数キロに渡り東にぶれていた。
「古い方の地図が違っていたのかしら。今とは測量技術も違うし」
「うーーーん…」
 首を左右交互にかしげながらアレックは地図を畳む。近々の軍事行動に影響を及ぼす危惧は必要なさそうではあるが、再びブレスト峰まで遠征となると大手間である。
「せっかく整頓してくれたから、この機会に全部見直してみるよ」
 それでまとめて上層部に報告しよう。
 アレックはそう結論付けてファイルを閉じた。
 それを見計らい「それより」とアリサ。椅子をテーブルの下に押し込みながらアレックを振り返った。
「何で呼ばれてきたの?いやに早かったけど」

 アリサにそう尋ねられたその翌々日の同刻。
「ひぇっっ」
 情けない声をあげるアレックの姿があった。
 頭上で獣の雄たけびが横切って、身を縮める。
 昨日は辞令を受けて即刻セントラルを出立させられ、長いこと特急列車に揺られてシュトル駅に降り立ち、そこから更に迎えに来ていた軍用車でようやく谷の入り口付近に到着した。
 国軍中央部に所属する新人下士官のアレックは、今回の任務同行者のレナド・イリオン少尉と共に竜翼谷シュテラールバレーの麓に差し掛かっていた。
「いちいち悲鳴あげていたら、ここから先は喉がもたないぜ」
 小柄で生白いアレックと違い、長身かつ日によく焼けた肌と大柄な体躯が活動的な印象を与えるイリオン少尉は、飛竜の遠吠えに毎回情けない反応を見せるアレックに苦笑して振り返った。
「す、すみません…少尉は、怖くないんですか?」
 大柄な背中をすがるように追いかけながらアレックは情けなく尋ねる。
「シュトル支局務めてる人間は慣れたもんさ。辺境巡回ルート範囲が谷のすぐ近くまで含まれているしな」
 事に最近は精霊狩りの暗躍により国軍シュトル支局は増員しているという。先日の列車事故に柔軟に対応できたのも、その賜物と言えよう。
「へ、へぇ…」
 常に頭上をギャーギャーと啼きながら巨大な竜が羽音をたてて地面に影を落としている。いつ頭を齧られるのではないかと、少年の域を出ない若い下士官アレックの様子は滑稽に見える一方で哀れにも見える。
「安心しな。今まで軍の奴らで竜に襲われた奴はいねぇ」
 谷に危害を加える行為さえしなければ、竜は空を漂う雲と同じだと少尉は言うが、雲はギャーギャー啼かないよな…とアレックは心の中でこっそり呟く。
「待たれよ」
 頭上から、今度は人間の声がした。
「ぎゃー!」
 思わず声をあげてアレックは前方を歩く少尉の背中にしがみ付く。
「!?」
 声と同時に少尉は胸元のホルスターに手を伸ばして振り返る。弾みでアレックの体が振り回されて後方に飛んだ。
 視線の中に谷の人間と思わしき男が映り、イリオン少尉は銃に延ばしかけた右手を止めた。代わりにその手を左胸に当てて小さく会釈する。国軍人が非国軍人に対して行う敬礼だ。稀なケースだが、同じ軍人でも他国の者に行う場合もこれにあたる。
「失礼しました。私は国軍シュトル支局警察部所属レナド・イリオン少尉です。こっちに転がっているのが…」
 草と土が剥げた岩地の上に転がったアレックが顔を上げると、小高く競りあがった岩壁の上に立つ人影が二つあった。シュトル地域特有の装束を身につけており、手には長槍を携えている。竜翼谷の門番だ。
「あ、アレック・スタインウェイ一等下士官です!」
 慌てて立ち上がり、同じく敬礼を見せる。下っ端の象徴である青いトラウザが泥で汚れていた。槍を持った男達はお互いに顔を見合わせて頷きあうと、一人が軽い動作で地面を蹴った。薄く暗雲に覆われた微かな陽光を背に、まったく体重を感じさせない動きで石壁を飛び降りる。小石が転がるような軽い音を立てて着地した。小さい会釈の後に二人に向けて歩を進めてきた。
(レストム中尉と似ているな~)
 金髪で伸びやかな体躯と体重を感じさせない動き、そしてその一挙動ごとに足下から吹き上げてくる涼しげな風。辺境視察にて行動を共にした元上官と同じ雰囲気を持つ男がここにもいる。
「ご用件を承りましょう」
 ヴィルから申し付けられていたが、門番はあえて知らぬ素振りを見せる。
 イリオン少尉が経緯を説明した。
「確かに、ヴィル・レストムは我らが当主。報せを向かわせるので少々お待ちいただきたい」
(当主??)
 アレックは心のうちで感嘆を上げた。谷を守護する一戦士だという話は聞いていた事があるが、当主にまで昇格していたとは。懐かしさも手伝い、驚くべき事実だった。
 徐に門番は指先を口に含むと、高らかに指笛を鳴らした。背の高い針葉樹の間を突き抜けて響き渡る笛音。木霊が消えうせないうちに小さな羽音が空から降ってきた。頭上に豆粒ほどの影が現われたかと思うと、それは一瞬のうちに巨大な翼を広げた竜の姿となって門番の頭上に急降下した。石壁の上に立っていた方の門番が軽い動きで地を蹴る。そのまま再び上昇していく竜の背に飛び乗ると、二つの影は再び寸時のうちに空の彼方、峰の向こうへと消えていったのである。
「うわぁ……」
 驚く間もなく起こった一連の出来事にアレックはだらしなく口を開けたまま呆ける。
「ああいうの、何ていうでしょうね、竜騎士?初めて見ました僕!カッコいいですねぇ…」
 軍で散々注意されていた一人称が「僕」に戻っていた。すでに峰の向こうへ見えなくなっていった有翼の影をいつまでも見送りながら、アレックは隣に立つイリオン少尉に同意を求める。「ああ、ああ、カッコイイな」と棒読みで少尉はアレックの興奮気味な言葉に頷く。
「シュトルの竜騎士兵団といえば一昔前にも多大な功績を残しているしな」
 一人残った門番の男はイリオン少尉の言葉に、長槍を携えた姿勢のまま反応を見せなかったが、アレックは瞳を子供のように輝かせて頬を上気させた。
「凄い!本当なんですね、僕、資料室の記録でしか見た事なくて…あ!」
「…………へぇ」
 うっかりアリサしか知らない無断で資料を閲覧していた秘密を易々と暴露してしまった。少尉の乾いた笑いが向けられて初めてアレックは気がつく。長槍の男は最初に現われた時と変わらない涼しい視で二人のやりとりを眺めているだけだ。面持ちに表出する感情の起伏が極端に乏しく、色素の薄い金髪と肌の色と瞳の色が余計にそれを希薄に見せている。ヴィル・レストムもそうだったが、この一族達の特徴なのだろうか。気恥ずかしさに照れ笑いを見せながらもアレックはそんな事を考えていた。
「ここから谷の集落まではどのくらいかかるんですか?」
 門番が姿を消してからまだ数分も経っていない。アレックは辺りに視線を巡らせる。針葉樹の丘陵を越えた向こうに水辺に浮かぶ峰の陰が並び立っていて、その上空を細かい影が幾つも旋回している。恐らくは、この谷の有翼獣達。
「俺はここまでがせいぜいだからな」
 少尉は肩を竦めた。
「然程お待たせする事はないと存じます」
 長槍の男が無表情のままそれに続いた。声調は低く冷たいが、言葉に篭る儀礼は慇懃ではなく丁重な印象を与える。
「あ、すみません、大丈夫です!」
 アレックが顔の前で手を細かく振る。「退屈しないですし」と再び視線を辺りに巡らせ始めた。空を見上げ、丘陵一帯の針葉樹を見やる。鱗片状の葉をつけた高木が間隔狭しと立ち並び、地からも空からも侵入者を拒んでいるように見える。だが丘陵を越えた向こうに広がる峰の麓、シルエットになっている森林帯を見るとそこ一帯は闊葉樹のようだ。
(麓と村落では気候が違うのかな…)
 そんな事をぼんやりと考えながらアレックはその場にしゃがみ込んだ。訝しげに見やる少尉の足下、少年下士官は指先で地面に触れる。軽く引っかいてみると、昨晩の雨により湿ってはいるが指の中で解れた。
(乾性森林土。じゃあこの辺りじゃ農耕は無理だよなぁ)
 人が住まい竜が棲む一帯は水辺の向こうだとすれば、この横に広い針葉樹地帯はさながら防壁の代わりという事だろう。葉の少ない針葉樹はその造形上、地からの見渡しは悪いが上空からは捉えやすい。竜が本当に火を吹くかアレックが知る由もないが、進軍中に上空から火でも噴かれればこの一帯が樹木ごと巨大なネズミ捕り器となり敵を火の檻に捕らえる事が可能だ。
「?」
 弄っていた土を戻し立ち上がろうと視線を前方に向けた瞬間、視界に入ったのは足跡。中腰のままアヒルのように数歩進み、土に残った足跡の元へ。
「何やってんだ」と少尉は肩を竦める。
 森林の奥へと続いていく複数の足跡があった。雨と風により削られているがまだ新しいようだ。獣道のような舗装されていない道に沿ってずっと続いている。
(これが谷へと続く道なのかなぁ?)
 一つ一つを目で追いながらアレックは足跡に触れてみた。そして中途半端な姿勢のまま肩越しに長槍の門番を振り向く。足下を見ると、軍用ブーツにも似た底が若干厚めの脛まで覆う靴を履いていた。
 足跡の一つはそれと同じ靴を着用したと思われるもの。またもう一つは、形が似ているもののそれより体重が軽い足跡。恐らくは女性だろう。
(中尉みたいに金髪で色白の女性なら美人さんなんだろうな~)
 と悪気の無い想像をしながらアレックは更に足跡を眺める。
 前者二つの足跡に比べ、不自然に小さい足跡がある。谷の子供だろうか。その事実は何ら異質に値するものではない。だが、重たい物でも持っていたのだろうか、足跡のサイズに反比例して堀りが深い。
 小さく首をかしげるがそれ以上の追求はせずアレックは立ち上がる。
 峰の向こうから再び羽ばたき音が近づいてきた。






ACT7-2⇒
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押印師 ACT7-2
02

 竜翼谷の村落は階層状になって連峰の岸壁に沿って敷かれている。居住区は麓に近く、谷の防人役を担う者達ほど高所に身を置いている。高台からは湿地帯と森林帯までもが見渡せるのだ。高所へと移動するほど地層は岩盤となるが、麓一帯は有機物を多く含んだ弱湿性の黒色土のために農耕や資源としての農林が盛んに行われていた。
「当主……」
 疲れた声に呼ばれてヴィル・レストムが振り返ると色素の薄い肌を更に青白くさせた部下の一人がそこにいた。
 高台の一画、騎竜達が羽を休めている踊り場での事。
「あのセントラルから来たという押印師の娘、どうにかして下さい…」
 ヴィルの隣でジャスミンが首を傾げると、助けを求めるように部下の男は肩を落とした。
「どうした?」
「谷中の印保持者達に、印を見せろと迫ってくるんです。それはそれは強引で困り果てます」
 部下のその言葉に合点しかねて谷の当主は無感慨に答えた。
「別に…見せてやればいいじゃないか?俺が許可するぞ」
「それぐらい」と事も無げに答える当主に対し深い深い溜息が戻ってくる。
「当主……当主のように手に印が出ているなら良いんでしょうけれど、私のように腹だの、腿など…そう容易に見せられぬ場所に印がある者は……」
「………あぁ…」
 隣でジャスミンが手で口元を抑えて震えているのがありありと分かった。

 谷の村落は存外広い。エルリオは丸一日をここで過ごし、JN通りが二十本以上は余裕で入るなぁと通俗的には測量不能な単位で感じていた。
「おい、娘」
 常に変わらぬ平単調な声にそう呼ばれた時、エルリオは白い縫いぐるみを膝に抱えてミリアムと向かい合って地面に座っていたところ。粘土状の赤土が露出している地面には、木の棒で何か図面が描かれていた。
「私?」
「私ですか?」
 二人の少女に同時に振り向かれて、ヴィルは視線でエルリオを示した。
「お前、この一日一体何をしていたんだ?」
 両手を組んだ姿勢で見下ろす長身の影を見上げてエルリオは立ち上がる。両手にはキューを抱いたまま。倣ってミリアムも立ち上がった。それでも首を目一杯傾けない事にはヴィルの面持ちを窺う事ができない。
「えーっとね」
 答えながらエルリオは足元に彫られた落書きを、靴の裏で擦る。ヴィルには見覚えがあった。恐らくは谷でエルリオが目にした印の数々をここに書き写していたのだろう。
「同じ印でも、人によって体の違う箇所に現われるでしょう?その違いはなんだろうって考えてた」
「その方法が男の服を剥いでくっていうのは、大胆ね~…」
 ヴィルの後方からジャスミンが呟く。彼女は一部始終を目撃していた。「見せてよー」としつこくせがむ少女に大の男達が装束の裾を引っ張られながら逃げている様を。
 見ていたのなら止めろとヴィルは内心で軽く毒づいた。
「何人か(強引に)見せてもらったけれど、面白いね、同じ形の印でも、人によってつく場所も、色も違っていたりする。でも押印もその辺りは似ているの。押印する場所が心臓に近ければ近いほど人によっては融合率が高まる。でも体への影響力が高すぎて逆に毒となる人もいる。そういう人は、膝とか足の甲とかにね。押印した後に変色したり消えたりする人もいれば、妙に馴染んでしまう人も」
 そう説明を受けてヴィルの視線が一瞬ジャスミンを見やった事にエルリオは気がつく。ジャスミンもそれに応えたかの様に見えたが次の瞬間には、
「そうなのか」
 とまた平坦な声がヴィルから向けられる。
「手に現われるパターンが多いのは心臓から程遠く、だけど心臓からも脳からも神経が伝達しやすい箇所だから。印を制御しやすくなるって言われてる」
「ならもう分かっていると思うが、無闇に人の服を剥ぐような真似は慎め」
「いいじゃないのさー、減るもんじゃなしにぃ」
 口を膨らませるエルリオに「そういう問題じゃない」と言いかけるヴィルの声に重なり、上空から竜の嘶きが響いてきた。見上げると、若干小柄な竜の背から若い門番の男が降り立つところだった。軽い動きで着地するとそのまま男は「当主」とヴィルへと歩を進める。
「軍の人間が二人、渓谷の門まで来ております。」
「!」
 ヴィルの背後でミリアムが小さく肩を震わせて両手で口元を覆う。エルリオは目許を顰めてヴィルの様子を見上げた。
「二名の名前は―」
 男の口から正確に二名の名が語られる。二番目に告げられた一等下士官の名に、ヴィルとジャスミンは同時に微かな反応を見せた。
「あの時新人文官だった子ですね」とジャスミン。
 セントラル勤務だと思っていたが、シュトル局異動にでもなったのだろうか。軽い疑問を抱きつつヴィルはエルリオから踵を返すと騎竜が飛び立つ踊り場へと足早に向かうと、右手を頭上に振り上げて風を呼んだ。周囲の野草が激しく踊り螺旋を描く風が姿を現す。そのまま彼は湿地帯が見渡せる風景へと身を躍らせた。
 ほぼ同時に報告に来た門番の男も再びシュテラールに騎乗すると、当主の後を追う。二つの影はあっという間に絶景の中へと消えていった。
 しばし消えていった影二つの行方を見送っていた谷の面々は各自拡散して持ち場に戻っていく。エルリオも踊り場から踵を返して麓の村落へと続く階段へ向かった。
 ミリアムが慌てて後を追おうとして体の向きを変え、
「きゃっ」
 片足をぬかるんだ土にとられて転びかける。
「靴…」
 ミリアムの足を包む革靴に気がつきエルリオは「あ」と声を洩らして自らの足下も見やる。
「アウトドアにはあまり相応しくない靴ね。フェイクレザーは土に足をとられやすいから重く感じるわよ」
 ヴィルを見送ったジャスミンの声。二人の少女の足下で中腰になると、片やワンピースに似合いそうな踝までを包むブーツ、片や紐で編みこんだ装飾が施されたブーツを眺める。
 慌ただしくACCから引き払ってきた為に十分な旅支度ができていなかった。
「今度どこかの町に行ったら靴屋に行かなくちゃ」
 そう呟きながら足を上げて靴底を見ると、すっかり泥と土で汚れていた。
「麓に行けば、靴を売ってくれるかもしれないわ」
 立ち上がりながらジャスミンは自らの足下を指差した。セントラルでは目にした事のない、シュトル周辺特有の民族装束の長靴だ。
「シュテラールの皮を使って作られた靴よ。軽くて水はけも良いし、長旅にも耐えられるわ」
「竜の皮!?」
「どうやってとるの!?」
 驚いて目を丸くする少女達。谷における竜と人の関係性を信敬から来るものと感じていたから、人が竜に対し捕食的行動をとるとは思いもよらなかった。
 二人の驚きの意味を汲み取ってジャスミンは「あ、」と苦笑した。
「シュテラール達は脱皮するの。その皮を使っただけみたい。谷の人間は決して竜を殺さない、殺せないわ」
 更に爪や牙も生え変わり、それらは武器を始めとする谷の産業に用いられているらしい。
 好奇心を伴いながら少女二人と一匹は麓へと続く長い怪談を降りていく。それを見失わない程度の距離を保ちつつ、ジャスミンも後に続いた。
 谷は階層ごとに長い石階段で繋がれており、一般的に民はそこを通行する事で各階層を行き来する。風の印を用いれば一気に最下層まで降りる事は可能だが、あえてエルリオはそれをせずにミリアムと共に階段を下った。
 当主やその側近、竜騎兵達といった谷の守護者達が住まう高台から下ると、高所から順に、哨戒層、騎竜舎層、指令層、政的中枢層の順に構成され、下に降りるごとに生活層へと近づいていく。各階層の面積はJN通りを二本横に並べられる程には広いが、絶壁側に広がる限りない風景の中において随分と狭いものに錯覚してしまう。
 四階層ほど降りていくと、女や子供の姿も見られるようになる。たくさんの洗濯物が詰まれた藤籠を両手で抱えた若い女達が、小さな小屋の軒先で雑談に花を咲かせている。エルリオ達よりも年若い少年達が両手に皮ひもの束らしき物を抱えてふざけあいながらエルリオとミリアムの脇を通り過ぎていった。外から来た二人が珍しいのか、くすぐったそうに笑う声がすれ違っていった。
「ちょっといい?」
 駆けて行く背中に、思い切って声をかけてみる。まさかの事に少年達も目を丸くして足を止めた。少年ながらみな細身で手足が長い。金髪ばかりだと思っていたが、茶の色素が含まれた髪の子もいた。
「それと同じ靴が買いたいんだけど、誰にお願いしたらいいかな?」
 少年達の足を覆う靴を指差す。
 顔を見合わせる事なく、グループのリーダー格らしい少年が一歩前に進み出た。細長い指が下層へと続く洞階段を指し示した。
「もうニ階層降りると、防具の仕立て屋が何軒かあるから…そこで頼めばいいですよ」
 軍用ともなればきっと丈夫で使いやすいだろう。子供達に礼を残して二人は更に下層へと降りた。騎竜場から六階層も降りると、雰囲気は一変する。機能性を重視した上層と異なり、建造物の並びが雑然とし始めている。
 空気がセントラルの市場みたいだとエルリオは思った。雑多で暖かい。ワイヴァンが亡くなってからはほぼ毎日のように通っていた市場。亡くなる前も毎週日曜日の午前中は決まって二人でセントラルへと出向いていた。天気の良い日は照りつける太陽が石畳を焼いて独特な乾いた香りがした。噴水広場の周辺では路上パフォーマーが熾烈な敷地争いと客引き争いをしていたり、ベンチに腰掛けて思い思いの時間を過ごす市民達の姿が多く見られた。
「……」
 ワイヴァンの髪色と似た人影とすれ違い、エルリオはつい振り返る。
「単一民族かと思ったら、色々な毛色がいるみたいだね」
 誰にともなくエルリオが語りかけた。多くの人々は当主のヴィルと似た外貌だが、階層を下に降りるにつれ少しずつ褐色の頭髪が目に入るようになる。
「元々ここら一帯は三つの谷と三つの種族が存在していたからね」
 ジャケットのポケットから声がする。キューが顔の上半分だけを外に覗かせて屯する人々の様子を眺めていた。
「…三つの民族が…」
 エルリオの耳に、ミリアムの独語が岩場をすり抜けた風に乗って届く。黒く染めた長い髪がそよぎ頬に当たり指先で絡め取り耳にかける。そんな横顔にエルリオは軽く見惚れる。視線の先を追うと、そこにはブロック土台の天蓋が壁際に点在しており、職人達が日陰の中で黙々と作業に勤しんでいる光景があった。
「三つの異なる民族が一つになっても、こうしていがみ合うことなく暮らしているのですね」
 皮職人達と思われる人々の天蓋を見ると、ヴィルに似た金髪の男が皮をなめす作業をしており、黒髪の男がその隣で太い針を力強く皮に通して縫い合わせているところだった。奥の方にもう一人、茶褐色の髪を持つ職人の姿も見えた。そんな彼らを見つめるミリアムの横顔が、疲労したように影が落ちて大人びて見える。
(お父さんにはどう見えたんだろう、この風景…)
―なんで…何でお父さんを知っているの?
 湿地帯でのやり取りが思い浮かぶ。
 ヴィルやジャスミンによると、押印師ワイヴァン・グレンデールは軍役時代や退役後も合わせて数度、この谷を訪れたという。ヴィルが国軍の精霊印研究局付けの尉官だとすれば軍役時代のワイヴァンを既知であったのは自然な話だ。
「退役後にもここに来たってどうして?」
 ワイヴァンが仕事だと称してごく稀にだが数日間家を空けることがあったと、思い出せた。エルリオの疑問にヴィルの表情が変わる様子はなく、答えはすぐに返ってきた。
「グレンデール氏から何も聞いていないのか?」
「え……うん…」
「ではグレンデール氏が軍を退役した理由も?」
 思わず下唇をかみ締める。
 エルリオが知る事のない、考えても見なかった事だが、そんな事までこの男は知っているのか。父が話していたのか。
 エルリオが知る「押印師」としての父は、殆どが彼の残した書類や研究物が情報源で、彼自身の口から受け継いだ事は僅かだったと思い知る。知ろうとしなかった己が悔やまれる。あの頃は、そんな事を知る必要もないほどに傍にいた存在だったから。
「そうか…」
 しばしヴィルは俯きエルリオから視線を逸らし、考え込む。やがて口端に僅かな笑みを宿らせるとこう言ったのだ。
「では俺と取り引きしないか」
 取り引き。契約。裏の押印師として暗躍していたときは毎日のように使っていた単語だ。決して油断を見せてはならない単語。エルリオの意識が自然と張り詰める。
「ヴィル様…」
 ジャスミンが嗜めるような表情を見せるが、気にせず当主は言葉を続けた。
―大袈裟な話ではない
「―エルリオさん?」
「え」
 ミリアムの声に現実感が白昼夢に緞帳を下ろした。
「ごめん、ぼーっとしてた。なに?」
 弾かれるように振り向かれて逆にミリアムが驚いて目を丸くしている。一寸後には再び笑みを湛えて職人の天蓋を指差す。
「あの方たち、靴も作っていらっしゃるみたいですよ」
「―訊いてみるね、靴」
 胸郭が締め付けられるような感覚に襲われ、エルリオは職人達の元に駆け寄った。






ACT7-3⇒
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押印師 ACT7-3
03

 一際大きな風が舞い込んできた。
「当主が参りました」
 男に言われてイリオン少尉が振り向くと、隣から「あ」と明るい声が飛んできた。アレックが破顔を上空に向けている。影が急降下したかと思うと、モスグリーンが軍旗のように翻り三人の頭上に竜翼谷の現当主という男が姿を現した。
 砂塵を巻き上げる風と共に無重力の如くヴィル・レストムの体が地に足を着く。
「お久しぶりです、レストム中尉!」
 数年前と変わらない元後輩の面持ちが出迎える。ヴィルは表情を変えずそれを流すと敬礼するイリオン少尉にまず会釈を向けた。
「当シュテラール・バレー当主、ヴィル・レストムと申します」
上官と思われる人間に対し先ず儀礼を向けるのが礼儀だ。イリオン少尉からの自己紹介を受け、それからようやく、アレックに向けて「そうだな」と小さく手を上げて応えた。
「シュトルの警察局に異動していたのか」
「以前と変わらずまだ地図をかいております!私がレストム中尉を既知だという事で、ご挨拶申し上げるようにと」
「そうか」
 数年前に出会った時と変わらないアレックの勢いの良さと対照的に、頷き返すヴィルは変わらず感情表現に乏しい面持ちだ。数年前と変わらぬ元上官にアレックは別段気にする様子もなく頬を上気させて笑んでいた。
(セントラルの差し金だな)
 無感慨に固められた表情の下でヴィルはそう内心で呟いた。
 勤務地をぼやかした返答の裏に第三者の影を感じる。一方でアレックの態度が演技であるようにも思えない。
(あの娘いずれかを探っているのか…?)
 アレックの様子を見やりながらヴィルはイリオン少尉に向き直った。
「ご用の赴きは察しがついています」
 列車強盗の事でしょう、とヴィルの方から用件を言い当てられる。話が早くて助かるとばかりにイリオン少尉は頷いた。乗客の証言を元に谷を訪れている事を前置きし、
「軍でもバスクスをはじめとする精霊狩りを追い続けておりますが如何せん情報が少なく、些細な事でも当時の状況をお話頂ければと」
 そう本題を切り出す。
「わかりました」
 答えてヴィルはイリオン少尉から視線を逸らし右にそれた小道の方面を見やった。湿地帯へと続く道から反れた方に別の道があり、その先には憩い場としての庵がある。
「あちらでお話しましょう」
 と道を指し示しながら、ヴィルは庵の方へと歩き出した。

 体重が二割減ったような感覚だ。
「かるい!」
 職人が用意してくれた靴に足を嵌めた瞬間に、エルリオは素っ頓狂な声を上げる。その反応にミリアムもわくわくした面持ちで、次に差し出された靴に足を通して「わあ」と破顔した。
「すごい、竜ってゴツゴツしているように見えたけど、こんなに軽いんだ」
「成竜になる前の皮だからさ。丈夫だが薄くて柔らかい。通気性も良いので鎧の下に着込む帷子の裏地にも最適だ」
 ありようの靴を少女達の足に合うように調整をしてくれた若い職人が得意そうに説明する。
「成竜の皮は厚くて固いので鎧そのものや、昔は盾にも使われていたらしい。でも成竜の皮が採れるのは稀で、今は戦争がないから余計に入手困難なんだ」
「戦争がないから?」
 引っ掛かりを覚えてミリアムが尋ねる。エルリオのポケットの中ではキューが青年職人の言葉にじっと耳を傾けている。記憶されていない新しいデータに対し自然と学習して取り込んでいるのだ。
「竜は死期を悟ると姿を消し、人知れず死に場所を選ぶ。だから成竜の骸から採れる材料を入手する事は難しいんだ。だけど、戦争に騎竜が駆り出されると状況が変わる。シュテラールだって人と同じで戦死する。神妖獣とはいえ彼らは神そのものじゃないから」
 戦争時、騎竜部隊には必ず職人による一隊が従軍する事になっているという。
「俺はまだ二十歳前だけれど、十数年前の戦争では父親の世代がそれを経験しているんだ」
 焦土に転がるいくつもの小高い山―。
「………っ」
 若い職人の背後に、うっすらと幻が浮かんだのを、ミリアムは見た。だけどそれは酷く曖昧で、陽炎のように空気に溶け込んで一瞬のうちに消えてしまう。
(これも…心の中なの…?)
 動揺を抑えながらちらりと隣を見やるがエルリオの横顔に変化はなく、どうやらミリアムにしか見えていないようだった。
 壁面すれすれを遊ぶように掠っていく飛竜達。逆光に溶け込むその影を見上げて青年職人は寂しそうに笑っていた。新しい靴を身につけて嬉しそうにその場で回っていたミリアムもいつの間にかエルリオの一歩後方から青年職人を神妙な面持ちで見つめている。
「その靴、やるよ」
「え、いいの?」
 湿っぽくなった空気をごまかすように青年職人は頷いた。喜ぶ少女達の様子に満足したのか、彼の面持ちには再び涼しい風のような微笑とも取れない笑みが浮かんでいた。
「せっかく足が軽くなったから、もっと歩き回ろう」
「はい、結構ですね!」
 早々に目的が達成されてしまったところで、二人は引き続き村落の散策に繰り出す事にした。青年職人に別れを告げ、軽い足取りで更に下層への階段を下る。市販の革靴では横滑りしそうだった感覚もまったく無く、快適だった。
 次の旅支度として食べ物が買える場所を探す事にした。まさか竜の干し肉等しか売られていないのではないかと当初をいらない心配をしていたが、あの青年職人の話からはその心配はなさそうだ。生鮮店と思われる天蓋が立ち並ぶ一角に立ち寄り品揃えを見ても、セントラルの市場でも見られるごく一般的な食材もきちんと並んでいた安堵した。
「そういえばあの人、軍の人間にどういう対応するつもりなのかな」
 リンゴと思われる赤い果実を手に品定めしながらエルリオの口から言葉が漏れる。「あの人」がヴィルである事をミリアムはすぐに悟った。
 軍の人間がミリアムとエルリオの存在を嗅ぎつけてきた可能性は、事故から現在までの間隔を思うと可能性が低いと考えられる。だがヴィルの対応如何によってそれを覚られる可能性は高かった。
「大丈夫ですよ、エルリオさん」
 ミリアムの即答。
「だって、ヴィルさんと「取引」しているじゃないですか。あのお方はお約束を破る事はしません、きっと」
 ヴィルがもちかけた取引。それは情報の交換だった。
 ヴィルからワイヴァンの軍役時代から退役後にかけての情報、および谷に受け継がれる天啓印や使命印についての知見を提供してもらう替わりに、エルリオからは押印技術の詳細を提供するという内容だ。
「押印技術を知って、どうするつもり?」
 警戒心を瞳に宿したエルリオの問いにヴィルは無表情のまま答えた。
「精霊狩りを追い、戦うためだ。俺達は押印技術に関して余りに素人だ。ここ数十年で急激に押印技術は発達していると聞く。かつてのように我々の力で押し切る事が出来なくなっている」
 十数年前の対帝国戦争において国軍に騎竜兵隊を提供した先代当主からも、人工技術である押印が飛躍的に強靭化していると聞いていた。事実、谷はその戦争で幾人かの戦士と幾匹かの騎竜を亡くしている。
「グレンデール氏が存命ならば彼に頼んでいた」
「……そっか…」
 側で二人のやりとりを見守っていたミリアムの目には、その瞬間にエルリオの瞳に光が宿るのを見たような気がした。自分がワイヴァン・グレンデールを頼りエルリオに会ったその日も、彼女は父親が遺した仕事を自ら引き受けると申し出てくれた。まるでそうする事で亡き父親の存在を感じることができるかのように。
「のった」
 ぽつりと、エルリオの言葉。
「のった。いいよ、その取引にのる」
 少し力強く繰り返される。ヴィルは口元に小さく笑みを浮かべた。

 取引を成立したからには、あの少女らを軍から保護する義務がある。
 溜池の畔を一望できる庵にて、ヴィルはテーブルを挟んでイリオン少尉とアレックと対峙していた。
 庵はここら一帯の針葉樹の巨大な丸太を柱とした五角形になっており、窓や壁は設けられておらず、床と天上が作り出した空間の中に簡易なテーブルとベンチに似た連椅子が置かれたシンプルなものだ。
 溜池は、地変動による自然陥没で作られた巨大な池穴に、湿地帯の「竜の澱」から流れ込んでくる水が作り出したもので、生き物の姿は見られないがそこかしこに水草や毬藻が浮かんでおり、それが風に吹かれてまるで水面を泳ぐ魚のような趣を醸し出していた。池の周囲は背の高い葦に囲まれており、周囲からの音を遮断していて静かだ。
「なるほど。貴殿が駆けつけられた時には既に精霊狩りは列車を止めていたと」
 ヴィルの話をメモにとりながらイリオン少尉は質問を投げかけていく。精霊狩り集団の凡その人数、頭領バスクスの様子、彼が用いた技術、逃亡していった方角、ジープのナンバーを覚えているかなど。差し支えない範囲でヴィルは答えていく。
 アレックはただ隣で二人のやりとりに頷いたり、庵から見える風景を見渡したりと落ち着きない。
「お前さっきからちょろちょろ落ち着き無いぞ」
「あ、す、すみません!」
 「まったく」と呟きながらイリオン少尉は軍服の内ポケットから数枚の紙を取り出して広げた。テーブルの上には置かず、自分だけさっと目を通して確認すると再び視線をヴィルに向けた。
「乗客リストのうち、姿を消してしまった二名からの証言が未だ取れておりません。貴殿とジャスミン元少尉と思われる人物と共に去っていったとの証言があります。この点について心当たりは?」
 一呼吸ほどの間の後に、ヴィルもイリオンの視に真っ直ぐ答えを向けた。
「二人連れのようだったが、私がバスクスと一戦交えた時に怪我をさせてしまい、手当てをするために私の判断で連れ帰りました」
「ふむ」
 ペンを手帳に走らせる音が挟まった。
「では、その二人は今現在、谷に?」
「随分と急いでいたようで、一晩泊まった後に発ちました。」
 ゆるりと一度だけヴィルは首を横に振った。そんな些細な動きでも、当主の一挙動に呼応して風が筋を描いていく。アレックの前髪がふわりと浮いた。
「―そうですか」
 はためく手帳のページを指先で押さえてイリオン少尉はまた短くペンを走らせた。





ACT7-4⇒
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押印師ACT7-4
04

 久々に訪れたグレリオの庁舎は、相変わらず建物だけが巨大で玄関は閑散としていた。ホールの高い吹き抜けの天井に足音がやけに大きく響き渡る。床のタイルはグレリオ一帯で採掘できる、断層に浮かぶ独特の縞模様が特徴的な鉱物を一面に敷いてあり、その上を水晶に似た透明な鉱物をコーティングしてある。高い天窓から降り注ぐ光を受けて輝き高級感を演出する。建造物全体はブロック作りで内装のところどころに、これもグレリオ一帯で伐採できる樹齢が高く年輪が太い巨木を柱として利用しており、石と樹木の乾いた香りが漂う。
「久しぶりに来たけれど、あまり変わっていないようだね」
 イルトの隣からどこか嬉しそうな声が聞こえてくる。グレンだった。
 グレリオ庁舎はイルト達が住まう村落から徒歩で半日を要する。尚且つ公の交通手段が存在しない。長の意向により路線延長を断固として許可しない方針だというが、イルトの年代からすれば不便極まりなく通学にも一苦労なのだ。
「そんなに廃村にしたいのか」と愚痴を洩らす若者も少なくなかったが、今この時のイルトは理由を悟った。徹底的に人払いをするためだと。
「わざわざこんな遠くまで案内に来てくれなくても良かったのに」
 公道を使えば半日、村落の人間が使う山越えの道を使えば短縮されるとはいえ悠に五時間以上はかかる道のり。セントラルへ戻る前に庁舎へ行くというグレンと共に成り行きでイルトも庁舎に来ていた。幸い、庁舎のあるグレリオ・セントラルへ行商に向かうという商人の車に同乗する事が出来た。四時間後に再び村へ引き返すというので落ち合う場所と時間を決めて、イルトは今グレンと共に庁舎にいる。
「別に…俺も調べたい事ができたから」
 これは嘘ではなかった。庁舎にはグレリオで最も巨大な公立図書・資料館がある。
「勉強が好きなのかい?」
 覗き込む視線にイルトは苦笑を返した。
「そういうわけじゃ…。でも地理学と物理学は好きな方だったな。これでも士官学校受験資格を貰えるぐらいには成績が良かったんだ」
 一瞬、軽い驚きがグレンの目許に現れた。直後には本心から感心しているようで「すごいじゃないか」と言葉がかかるがイルトは手放しでそれに喜ぶ事ができない。士官学校や国軍への間口は以前と比べて広がっており、一般枠、推薦枠、奨学枠、専門枠、特別枠、職能枠など数多くの入学・入隊手段が存在する。
「それはより多くの優秀な人材を見過ごさないための手段であって、採用基準が落ちた訳ではないんだよ。むしろ厳しくなっていると思う」
 だから堂々と自慢していい事だ、とグレンは微笑んだ。
「そうなのかな」
「小国だからね。才能を飼い殺しさせておくのが最大の無駄だというのが軍の方針だ。「無駄」という言葉は良くないけど、正しいことだと思う。本人の意思が伴えばね。」
 列強各国と比較し、アリタスには身分による差別という観念が薄い。国を防衛し政を司る国軍の人間がピラミッドの頂上付近に位置しているのは事実だが、ピラミッド底辺の広がりは狭く極度の貧民層は少ないと言えた。
「憲法に『才能と能力に見合った労働を国に提供する義務』が国民七大義務として明文化されている。これはね、つまり国民を少しでも無駄死にさせない方法でもあるんだよ」
「………」
 普通の顔をしてこの男は時おり、心臓に氷水をかけるように鋭利な言葉を吐く。彼の言葉に入り込んでしまった直後、不意に現実を突きつけられて眠っていた頭が、感覚が、覚醒する。その繰り返しだ。とてつもなく好奇心が揺さぶられる。これが彼の話術というのなら、これは武器であり防具なのだとイルトは感じた。
「また脱線してしまったな」とグレンは照れたように控えめな笑みを見せた後、左から右に視線を一巡させる。久しぶりだというが、一体何年ぶりかは訊かないほうが良さそうだ。
「銀行はあっちで図書館はこっち…」
 本来の目的地へと続く階段を指差しイルトが振り返ると、グレンは玄関右脇に立てられた巨大な掲示板の方に首を向けたまま動きを止めていた。訝しげに目を細めた後、誘われるようにその方向へと足を進めていく。
 庁舎玄関の掲示板は国や市からの公的な告知が貼り出される場だ。市民による催事や募集告知等は外玄関に立てられた傘つき掲示板にある。両掲示板は常に何かしらが掲示されており、職員が頻繁に告知物を取り替えていく。その中で比較的新しい、つい数日前に掲示されたばかりらしき二枚の印刷物の前でグレンは瞠目した。
(………ミリアム……?)
 二人の少女の捜索願書が貼られていた。軍は掲示場所に応じて手配書の名称を変えていた。セントラル市内や軍関係施設内では「指名手配書」、地方や教育機関内では「捜索願書」といった風に。
 記憶が途切れる直前まで共にいた少女の似顔絵がそこにある。手書きの絵だが、造形の整った顔立ち、柔らかな髪に宝珠のような瞳はまさしく亡国の姫そのもの。
 軍に捕らわれているものとばかり思っていた少女を、当の軍が行方を追っているという。
(ライザの誰かが…?)
 十年以上前、敵国の戦犯としてリストにあがっていた旧ライザ帝国の高官を思い浮かべた。その後軍に出頭していた筈だ。だが掲示板にそれらしき手配書が無い。つまり旧帝国の何者かに軍から連れ出されたという事ではないらしい。
「……」
 隣に張られた別の少女の捜索願書に目をやった。
 ミリアムのもそうだが、こちらの少女にも氏名が明記されていない。これでどうやって捜索しろというのだと苦笑に耐えないが、グレンの目はまたその紙で止まった。
(………ゼーンの娘…?)
 旧知の男の面影をそこに見出してグレンは更に凝視する。
 ワイヴァン・ゼーン・グレンデール。
 軍役時代から既知だった、押印研究者の名だ。ミドルネームのゼーンはワイヴァンが母方の一族から与えられたもので、公の身分証明に殆ど記す事はないが、一部の知人にのみ教えていた名だった。「ワイヴァン」は古典神話に登場する大祈祷士の名と同じ事から、大御すぎるとして苦手にしていると漏らしていた為に、もっぱら近い知人らは彼をミドルネームで呼んでいた。
 似顔絵の少女と似た面立ちの、ワイヴァン本人から「娘」だと写真を見せられた事があった。
「…………」
 掲示板の前で難しい顔をして立ち尽くすグレンの横顔を窺ってイルトも掲示板に視線を巡らせた。彼の両眼が捉えている二人の少女の似顔絵つき捜索願書。この二人がどうしたというのだろうと、疑問を抱きながら再び視線をグレンに戻すと、
「あ、あれ?」
「何してるんだい?」
 隣にいた筈の姿は既にそこになく、声がした方に振り向くと彼はいつの間にか図書館へと続く通路の方へ歩き出していた。
「………」
 この男の一挙一動一言すべてに引っ張りまわされている。そんな自分に気がつくイルトだった。

 図書館と名のつく設備であれば必ず置いてある、新聞の縮刷版。庁舎の図書室では最奥の壁一面を囲む書架に、左から年代順に壁板のごとく整然と並べられていた。黒皮に金印字の装丁が歴史の重厚さを演出しているよう。
 その棚にまっすぐ向かったグレンは口元で年号を呟きながら目的のハードカバーを数冊手に取ると、手近な机にそれを重ねて置いた。ぽっかりと空いた場所から推測するに、三年ほど前に遡っている。失われた三年間の社会情報を一通りこれで得ようというらしい。
(まさか三年分をシラミ潰しに見ていくつもりなのか…?)
 一冊が一週間に相当するため、三年分は単純計算で百四十四冊。イルトの視線の中でグレンはおざなりに浅く椅子に腰掛けると本当に一ページ目から順に捲り始めていったのである。その速さが尋常ではない。
(うへ…)
 閉館時間まで四時間。それまでに読破するつもりだろうか。苦虫を噛み潰したような顔で肩を竦めながらイルトは踵を返した。
 新聞縮刷版の書架に隣接した棚は歴史コーナーとなっている。子供向けの歴史物語や歴史小説の類は入り口付近の別棚に設けられており、ここら一帯には学術的な目的の書籍や資料が収められていた。イルトはその一角に立ち、見上げた。年代別にプレートが貼られており、目的の時代を探す。
 『共暦2200年代』。イルトの目はそこで止まる。今から三百年強ほど前だ。書架の高い位置にあるそこに指先を伸ばして、並べられた本の背をひとつひとつなぞった。
「アリタス政治史シリーズ…総統の履歴書シリーズ……」
 指先が「戦史」の文字に止まった。そのまま本の背に指を引っ掛けて書架から引き出す。茶色のハードカバーがまだ真新しい学生向けの本だった。表紙を開くと四つに折りたたまれた横に長い年表が添付されている。広げてみると細かい文字で二千二百年代の国内外で勃発した戦いの全てが項目化されて記されていた。この頃はまだ「内乱」「内紛」「内戦」といった名称が目立ち、ところどころに「ライザ」「ディノサス」「防衛」という文字が点在しているのが分かる。
 あまりの多さにうんざりしながら裏表紙をめくり索引へ移る。「グレリオ」の下に、その名があった。『グレン・ノースクリフ』。
「共暦二ニ五ニ年ダスカの内乱…ルドスラーの防壁を突破したダスカ軍だがマイスブルグ防衛線にて完全に動きを封じられ撤退を余儀なくされる。これによりセントラルに戦火が及ぶ事はなかった。防衛を貫いた東部管区第ニ中隊の指揮はシェイン・ユーランド大佐、補佐官にグレン・ノースクリフ中佐……」
 耳に覚えの無い古い地名に疑問符を浮かべながらもイルトは戦史を読み進めていった。だが結局、その書籍の中で「グレン・ノースクリフ」の名が出てきたのはそれきりだった。
(学生向きの本だと、佐官クラスじゃ登場機会が少ないんだろうな)
 だが研究者向きの本格的な戦史記録となると、国軍保有の資料館に保存される機密文書となる。図書館にある文献が市民に得られる情報の限界だった。
 再び索引に目をやると、『レネス・アイゼンフェルト』の名を見つけた。これもグレンの口から語られた、もう一人の彼。
(何やってんだ俺)
 百年の史実を綴った一冊の本に同一人物(?)が数十年の時を経て複数回存在しているという珍奇な話を、時間の経過と共に疑問と思わなくなってきている自分自身が信じられない。何度も沸いては消えるジレンマを掻き消しながら二人目のグレンの姿を本の中に探した。
「西部の異教徒民『アイゼンローグ』が端を発したクーデターの鎮圧に成功した国軍西部管区司令官中将レネス・アイゼンフェルト―」
「アイゼンフェルト将軍が指揮をとり西武から北部にかけて巨大な防衛線構築を進め、列強の威圧を退ける事に成功…」
 将官の肩書きと共に名前の表出回数が格段に上がっていた。
 同じ作業をもう四回繰り返し終わった後、イルトは長い溜息を吐いた。呼吸を飲み込み続けていた事に気がつき急に胸が苦しく感じたのだ。
(嘘みたいだ……全っ然現実感の無い話だっての)
 本来ならば。
 グレンの口が語った六つの名。多くの書籍に幾度と武勲を挙げた戦いの名称と共に見る事が出来た。その中にはアリタスの存亡に関わる重大戦がいくつも含まれている。
「………という事は」
 肩越しに閲覧席を振り返った。積み重ねられた本を前にして片肘をつき左手で次々と捲られていくページに目を落として身動ぎ一つしないグレンを見やる。初等学校の教師か高等教育(大学校)で学ぶ学生か研究員とでもいった風情の男なのだが。
(彼は……)
 手にしていた本を書架に戻し、次にイルトは『古典・神話』のプレートが貼られた書棚へと移動した。背表紙タイトルを天井から床まで眺めて、その中から「アリタスの伝承・神話」というタイトルに目を止めた。
 目次を開く。幼い頃耳にした物語の題材と思われるものも幾つかみられた。その中でも有名な神話の一つが「創世の物語」と呼ばれる伝説。
「世界は始め、一枚の紙だった…」
 という出だしはあまりにも有名である。
 創世神は筆をもつとそこに五つの大陸を描き、それぞれにことなる模様を描いた。それが最初の命となり、それぞれが大陸の長と定められた。創世神はそれぞれに筆の毛を分け与え、それぞれの長はその毛で筆を作った。その筆で五人の長たちは白紙の紙に次々と文字や絵を描き、それらが民となり、獣となり、山河となり、村となり、国となった
 だが子供達の間で有名なのはこのフレーズまでで、その先は人により解釈や記憶が異なるために様々な伝承が存在する。今イルトの手元にある本にはこう書かれていた。
「創世神はその筆が描きたるものを律の印と呼んだ。それは世の理を成し、五つの大陸を結び、刻を司り、生命を生み、五元を規する。律を失うこと即ち混沌とし…―」
 理数的感覚に比べ詩的感受性に乏しいイルトの脳裏では、文字通り巨大な白紙の上に地図が次々と描かれてい、そんな様が思い浮かんだ。点と線により面が描かれ、それらは線により山河や国境をなして面を国とする。細かな点と線はそれぞれ面の構成要素となり秩序とし、その上に我々民がいる。
(……馬鹿馬鹿しい)
 脳裏に思い浮かんだ、陣取りゲームの要領で描かれていく地図をかき消した。己の想像力の貧困さに辟易しつつイルトは再び視線を本に落とす。
「世界の律…か」
 ぽつりと呟く。聖地の印がアリタスを成す律の印だというのなら、その片鱗を体に宿し生を幾度と繰り返してきたグレンという男の存在はアリタスを構成する秩序の線の一つそのものと考えるべきなのだろうか。この国は脆弱な国内外の関係性により「防衛」という手段を貫き国が存続している。戦いの歴史の要所に欠かすことのできなかった彼の存在を思い返す。
(まさか……でも、だから防人の役割も変わってきたのか……?)
 世の理とは思っているよりも恐ろしいほどに単純で、だからこそ残酷なのかもしれない。
 イルトはそう思い始めていた。




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