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北野ふゆ子
  • 北野ふゆ子
  • 昔は、ゲームやマンガの二次創作をしておりました。現在は主にオリジナルネット小説を執筆しています。得意は「シリアス」「アクション」「サスペンス」です。



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押印師「序章」
序章


 ベッドタウンにある六階建てのアパートメントがある夜、戦場と化した。
 十二歳のエルリオ・グレンデールは父と共にこのアパートメント最下階の105号室に住んでいる。母はすでに亡く、物心ついた頃から既に父と二人だった。
 まず階上から複数の人間らしき足音がした。コンクリートを打ち付ける音が、アパートメントの外廊下の端から端までを駆け抜けていく。そして続いて聞こえてきたのは怒鳴り声。それは一瞬の事で、様子を見ようとベッドから身を起こした直後には、けたたましいサイレンに変わっていた。
 カーテン越しにも、外が不自然に明るくなっているのが分かる。カーテンを開けようとしたところに、父親が部屋へ飛び込んできた。
「お父さん!」
「外の様子を見てくるから、お前はここにいなさい」
 三十五歳の父親、ワイヴァン・グレンデールは言うが早いが寝巻きの上にガウンを羽織った姿で、部屋の外へと駆け出していった。
「待ってお父さん!」
 ワイヴァンの後を追おうとベッドから飛び降りた直後、ベッドが据えつけてあるテラス側の窓ガラスが割れた。
「きゃぁ!」
「エルリオ!」
 割れた窓ガラスの向こうから、室内へと外の音が洪水のように押し寄せる。連続する破裂音、神経を逆なでするようなサイレンが重なり、機械的な射撃音まで行きかう。
「何が起こったんだ…空襲か……?まさか…何で…」
 若い父親は思い直して娘を片腕に抱き寄せる。断続的な爆発音が轟く。この古いブロック造りのアパートメントでは、長くはもたないだろう。
「とにかく脱出するぞ、ここは崩れる」
「お仕事の道具は!?」
 着の身着のままの状態で、自分を抱えて走り出そうとするワイヴァンを、エルリオは引き留める。
「腕が一本ありさえすれば、仕事なんていくらでもできる」
 だが父は、常に数十種類もの道具を取り揃えていたはずだ。
「押印師は、この腕一本と、精霊に感謝する気持ちさえあればいいんだ」
一瞬足を止めたワイヴァンは小脇にかかえたエルリオに笑顔を向け、そしてすぐさま走り出した。
「精霊に感謝する気持ち…」
 エルリオのつぶやきは、度重なる爆音にかき消された。天井がミシミシと音を立てて、塵があちこちから舞い降りる。テラス側は外からの爆発により危険だ。父は唯一脱出可能と思われる玄関の扉を、片手でこじ開けた。ドアの向こう、アパートメントの共通廊下は完全に黒煙が支配しており、左に折れればすぐ出口のはずが、まったくの別世界に感じた。
 左の壁に手をあてて、右に娘を抱えて一歩を踏み出す。
 その瞬間だった。
 煙幕の向こうに黒い影がゆらりと現われたかと思うと、空気が弾ける音がした。
 くぐもった低い悲鳴がエルリオの耳元を掠める。小さな体を抱えていた腕が解けて、盾になっていた大きな背中が崩れる。
「お父さん!!」
 エルリオは炎で熱くなったコンクリートの床に叩きつけられた。その上にワイヴァンの体が覆いかぶさる。重かった。
「お父さ…」
「ちっ…こいつは民間人か…」
「こっちだ!」
 底の厚い軍用ブーツの足音が、すぐ脇を通り過ぎて行った。同じ方向からは変わらず破裂音と銃声が響いてくる。
 ひときわ強い火薬の臭いがした。
 甲高い悲鳴に似た音が鼓膜を震わし、そして世界が白く輝いた。

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押印師 ACT1-1
ACT1:ジャックニコル通りの押印師


01


 軍事政権を中枢に据える小国アリタスの首都は、その名の通り「アリタス・セントラル・シティ」と言う。略してACC。首都ACCの中心地から東南に約二十数キロ下ると郊外となり、俗に「ACCアウトアーバンエリア」などという造語で呼ばれている。
 ACCとアウトアーバンエリアを跨ぐ、周囲で最も長く大きな通りがある。大きな道標に「メルリン職人通り」と書かれているここは、政府に認められた技術者資格「マイスターライセンス」を持つ職人達が店を構えて集う。それ故、アウトアーバンエリアのみならず、セントラルからも多く人が集まる。
「いつも助かります」
 店の一つから、少女の声が飛び出した。印刷機のマークが描かれた看板を掲げる活版印刷屋から、大判の袋を胸に抱えた少女が出て行くところだった。茶色い髪の毛を肩の高さで左右に結んでおり、クリーム色のブラウスと相まって素朴な雰囲気の娘だ。
「おっと、ごめんよ」
「きゃっ」
 飛び出したところで、背の高い人影とぶつかりかける。人影は、緑地の軍用服を身につけており、肩に小銃を担いでいる。アリタスを統治する国軍の警察局に所属する、巡回兵だった。
「あ……す、すみません」
 自分がぶつかりかけた相手が軍人だと知り、畏怖のためか声を落として少女は頭を下げた。まだ若い兵士は少女を怖がらせまいと「大丈夫かい」と微笑むが、少女には見えていない様子だ。
「すみませんでした」
 視線を逸らしたままおざなりに頭を下げると、少女は石畳に靴音を響かせながら走り去ってしまう。
「ああびっくりした」
 呟きながら少女は、道端に立つ時計塔を見上げる。家に戻らなければならない時間が迫っていた。人とぶつかりかけた事も忘れて少女は走る速度を上げた。もう一軒、寄らねばならない店がある。
「おじさん、いつもの下さい」
 目的の店に入るなり、少女はカウンターに向けて声を上げた。背後でドアベルが乱雑な音を立てているが、幸い店内には他に客がいなかった。カウンターの奥から緩慢な足取りで小太りの男が顔を出す。
「ああ、エルリオか。ちょいと待ってな」
 騒々しい馴染み客の姿を見とめて、店主は奥から茶色い小さな袋を持ち出した。それを少女に放る。
「危ないよ、割れ物が入ってるのに」
 慌てて受け取って、エルリオと呼ばれた少女は、不自然に大きく膨らんだエプロンスカートのポケットに手を突っ込んだ。財布を出そうとして、ポケットの中に突っ込まれていた白い物体が危うく飛び出しかける。
「今日も連れ歩いてんのか、その縫いぐるみ」
 カウンター越しに、店主が覗き込む。少女の腹ポケットの中には、無理やり変な姿勢で縫ぐるみが詰め込まれていた。窮屈そうなその様子に、縫いぐるみとはいえ店主は同情する。白い作り物の長い耳が不恰好に捻じ曲がってポケットから飛び出した状態になっていた。
「うん。相棒なの」
 縫ぐるみを愛でる少女の児戯な趣向に小さく笑って、店主は代金を受け取った。
「ま、ペットみたいなもんなんだな。俺んとこも犬コロがいるけど、長年一緒にいると情がうつるもんでなあ」
「私も昔、おっきな犬かってたよ」
「ほほう、そうかい」
 店主が釣りを用意する間、エルリオは飛び出た白い耳をポケットの中に詰め込む。仰向けにされた縫いぐるみについたプラスチックの瞳が、恨めしそうに天井を向いていた。
「はいよ」
「ありがとう」
 釣りを受け取ると、エルリオはまた店外に飛び出していった。今度は巡回兵がいないかどうか確かめてから、通りを横切っていく。再び時計塔を見上げると、約束の時間まで間もなくだった。
「まずい、お客さん来ちゃう」
 幅の広いメルリン通りを横切って、エルリオは小さい横道から路地裏へ飛び込んだ。そのまま、小さな裏道を更に二つ横切る。すると、途端に周囲の風景が変わった。
 メルリン職人通りから東に二本目の位置に、ジャックニコル通り(JN通り)という、これも職人通りがある。都心から見て東に半径二十二キロ地点にあるその通りは、隆起した丘の麓にあたる少々陥没した地帯を縦断するように伸びており、地図によっては名前も載っていないほどの細い裏通りだ。人間二人がようやく並んで歩けるほどの道幅で、足下は整備状態の悪い石畳。空を覆うように立ち並ぶ中層の建物を見上げて歩こうものなら転ばずにはいられない。
 メルリン通りと比べ、ここJN通りには看板の一つも見えやしない。ここは公の登録を受けていない職人達の坩堝、いわゆる職人通りの影なのである。
 JN通りの北の入り口から五件目に、三階建ての崩壊寸前のボロアパートメントビルが建っている。エルリオはそのアパートの外階段を勢いよく駆け上がった。鉄階段は長い間外気と雨に晒されたせいでひどく錆臭い。鉄階段を小刻みに叩く足音を連続させ、三階まで一気に駆け上がる。非常口から内廊下へと入り、最奥の扉の鍵を開けて中に滑り込んだ。心地悪い蝶番の軋音をたてて扉が背後で閉まる。急いで鍵を閉めた。
「ただいま」
 玄関から見渡せる広いリビングらしき部屋は、コンクリートがむき出しの灰色の空間だ。その中央に置かれた机と三脚の椅子そして、カーテンが完全に閉められた窓際においてある本棚が、そこにある家具らしきもの全てだった。
「時間ギリギリだ、お父さんの出番ですよ~」
 エルリオはテーブルの上に二つの紙袋を投げ捨てるようにして置くと、部屋の隅のドアから奥の部屋へと滑り込んだ。騒々しく扉が閉められ、しばらく静寂が横たわる。
 数秒後、金属音がして再び扉が開かれた。
「十時半……もう来る頃かな」
 エルリオが姿を消した部屋の扉から、今度は男が姿を現した。中肉中背の背格好で年のころは三十代半ば。ところどころブラウンがかかった金髪と、茶褐色の瞳を持っている。
「お客さんが帰るまで、大人しくね」
 奥の部屋へ向けてそういい残し、男は後ろ手に扉を閉めた。二つの茶色い紙袋が置かれたテーブルに歩み寄り、乱雑に散らばりかけた袋の中身を正す。
 そうするうち、玄関の向こうに人の気配が近づいてきた。
「きたかな」
 呟きながら、男は顔を上げた。
 男の直感は正しくちょうどその時、三階へと続く外側階段を昇ってくる人影があった。
 訪問者はやたらと周囲を気にしている。
 丸めた背中のせいで面持ちは分かりづらいが、背格好からして中年の男といったところ。一歩一歩、薄暗い階段を用心深く上がってきた。
 訪問者は非常口から内廊下へと入ると、再奥の扉を目指した。この訪問者がこの場所に来るのは初めてだが、一本廊下の再奥に位置するその部屋のドアはすぐに分かったようだ。
 表札の無い鉄のドアをノックする音が室内に響き渡った。
「先日、電話で話した者だ」
 扉の向こうからの名乗りに、「お入り下さい」と部屋の主であるワイヴァン・グレンデールは低く応えた。
 声に導かれて訪問者は、ノブに手をかけて強く押す。
 それに合わせて、ワイヴァンは椅子に腰を下ろした。
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押印師 ACT1-2
02


 扉を開けた訪問者は、椅子の一つに腰掛けて自分を待つ人の姿を見た。
 パイプの机にパイプの椅子という、無機質な中で待っていたその人物は、まっすぐ人の目を見つめてくる男だった。
「あんたが、押印師ワイヴァン・グレンデールか」
 訪問者は問いかける。
 部屋の主は無言で頷いた。まるで必要最低限の言葉しか持たぬかのように。
「さ、どうぞ」
 訪問者を対の椅子に座るように促してから、部屋の主ワイヴァン・グレンデールは客を眺めた。緩慢な動きで椅子に腰掛けたのは、大柄な男だ。年の頃を窺ったが、耳元から顎にかけてたくわえられている髭が、男を老年にも、若年にも見せている。
「力系統の印をご所望と聞いておりますが、見たところそんなもの必要なさそうに感じますが」
 筋骨隆々な男の体、机の上に乗せられた逞しい両腕を見て、ワイヴァンは笑う。暗がりの中で男がくつくつと笑い返してきた。
「いやいや、なにぶん、見かけ倒しなんでね」
 男は腕力を欲していた。年老いた両親の世話をするために印を授かりたいと、この男はワイヴァンを尋ねてきたのだ。
「粗方ご存知だとは思いますが…一通り説明させてもらいます。契約の儀式的なものと思って下さい」
 始終、薄い笑みを目元に湛えたまま、ワイヴァンは事務的に口を動かす。契約書と冒頭に書かれた紙を取り出し、その横にペンと紙袋から出したインク瓶を沿えて依頼者の前に置いた。
「まず、『精霊』について説明させてもらいます。」

 世のあらゆる事象、事物には『力』が宿っている。
 人々はそれを『精霊』と呼ぶ。
 水には水の、樹木には樹木の、風には風の。
 森羅万象に宿る力、すなわち八百万に宿る精霊は、生くものに恩恵をもたらすとして人々に奉り、崇められていた。
 人により信仰の対象は異なる。鍛冶を生業とするならば、鉄の精霊、医者を生業とするならば、治癒の精霊と、千差万別に神がいるが、総じてそれらは「精霊信仰」と呼ばれ、全ての精霊を束ねる精霊神と呼ばれる存在がおり、根流を辿れば一つに終着するのだ。
 精霊はそれぞれに、「印」を持っている。
 「創世神書」と呼ばれる神話の書によれば、「印」とは、精霊を束ねる精霊神が八百万の精霊を区別するためのものであり、また同時に、精霊が己の主人を見つけ出すための目印ともされている。その数は、書物に記されているだけでも数百種類にのぼる。
「人は時として、体のどこかに「印」を受けます。印は精霊の寵愛を受けた証です」
 「印」は三つの種類に分類される。
 生まれついて受けた印を、「天啓印」。
 後天的に体に印が現われる、「使命印」。
 いずれも、精霊に選ばれ、印を賜った者の証。印を受けた人間の数は役所が戸籍にも記して数を管理しているが、確認されている存在数は稀少だ。
「そして、三つ目が、『押印』。意図的に印をつけて、精霊の力を得ようという技術です。押印師は、印を刻む技術を持つ者の事を指します」
 圧倒的に数の少ない前者二つの印に対し、押印師とよばれる技術の台頭により、押印の数は爆発的に増えている。その汎用性から、全世界的に軍事使用はすでに実用化レベルとなっている。しかし軍が法的に規制しているため、民間における押印技術の実用は違法とされている。従って、公式の押印師はいずれも軍属の人間だった。だがワイヴァンのような軍に属していない押印師も存在している事から、裏取引による民間レベルの押印市場は秘密裏に拡大していた。

「押印は、自然の摂理に反した技術です。民間での押印は法律にも反してるんですけどね。まあこれは軍が勝手に決めた事なので置いといて、話を戻します」
 言いながら、ワイヴァンは数ページある契約書の最終ページを開いた。そこに記された項目をペンの尻で指し示す。
「言うなれば押印は、精霊を無理やり従わせている事になるのですから。それなりのペナルティが使用者に生じるのです」
「ペナルティ…」
 無言でワイヴァンの説明に頷くばかりだった男が、そこで初めて言葉を漏らした。
「副作用、と言った方が分かりやすいでしょう。精霊を力ずくで抑え付ける為、印の保ち具合は使用者の体力、精神力に依存します。精神力や生命力が低下すれば、精霊を抑え付ける事ができなくなり、暴発、暴走する事態も起こりえます」
 契約書に目を落とせば、同様の事が記されていた。
「押印は使用者を蝕みます。長い間印を保有していると、使用していなくても、体調に異変をきたす可能性も十分考えられます。この契約では、そうした副作用の可能性を了承して頂き、押印によって生じた変調に対し、当方が何の保障や賠償も致しかねる事をご了解して頂く物です。」
「ふむ…」
「ご了承頂けるなら、契約書の末尾にサインと拇印をお願いします。それから押印しましょう」
「やってもらおう」
 男は即答し、ペンを手に取ると軽い動きでサインを走らせた。朱肉に指を押し付け、拇印を押す。契約書に記された金額と同じ札束を懐から取り出し、契約書の上に置いた。そして満足したような面持ちで、対面に腰掛けるワイヴァンを見上げた。
「……わかりました」
 ワイヴァンはまた目元に薄い笑みを浮かべると、契約書と札束を己に引き寄せた。

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押印師 ACT1-3
03

 契約書と契約金を己の傍らに退けると、ワイヴァンは胸元から赤い棒を取り出した。赤い染料と鉛を混在させた粘土を固めて周りを乾燥させ、パルプで幾重にも巻いたもの。一見、手作りの鉛筆といった風だ。
「では、利き手を出してください。甲を上にして」
 少々の戸惑いを含んだ物珍しげな眼差しと共に、男の厚い手の平が机の上に差し出された。
 その手に向けてワイヴァンは卓上電灯の首をひねって光を当てる。男の手を取ると、その広い甲に染料の先端を当てた。
「いきます」
 短い言葉と共に、男の手の上で一気に筆が動かされる。肌色の上に、朱色の円陣が描かれた。円の中に、文字にも見える模様が複数描かれているが、男にはそれを読む事は出来ない。染料の湿り気が残る円陣の上に、ワイヴァンが素手をかざす。そして小さくなにやら呟いた。
 電灯に照らされ艶光りしていた朱色の円陣が、ワイヴァンの手の平から発せられた光を受けていっそう強く輝く。
「…っ」
 一瞬、焼けるような痛みを感じた男の眉根が強張ったが、しかし直後には消えうせた光と共に痛みも消失する。男の手の甲では、朱色の円陣がまるで焼き付けられたように浅黒く変色していた。
「押印完了です」
 かざしていた手の平を戻して、ワイヴァンは一つ深く息を吐いた。それを合図にするかのように、緊張していた男の面持ちが解けて行く。
「もう…終わりか?」
「ええ」
「刺青のように手間のかかるものだと想像していたのだが」
「よく言われます」
 物珍しそうに男は己の手の甲に刻まれた押印を眺める。赤い染料は、完全に肌に馴染んで乾いており、指先で擦ってみたが剥げる様子もない。
「これが…力の印か。どの程度の力がつくものなのだ?」
「そうですね~…」
 ワイヴァンの指先で、筆がくるりと回った。
「鋼鉄とまではいきませんが、木材ぐらいなら片手で粉々に握りつぶせるでしょう」
「十分だ」
 男は押印された己の甲を見つめて、何度か握りこぶしを作っては開いて、感触を確かめているが、
「強くなったような実感は…あまりないがな」
 小さく首をかしげた。そして直後、小さなテーブルの向かいに座るワイヴァンに向けて手を伸ばした。
「ぐっ…」
 喰い付くように、男の手がワイヴァンの喉を捕らえた。反射的に空気が握りつぶされたような呻き声が漏れる。勢いで椅子が倒れ、パイプ椅子がむき出しのコンクリートの上でバウンドして、けたたましい音が響く。
 ワイヴァンが咄嗟に男の腕を引き剥がそうと手を添えると、まるで乾ききったなめし革のように硬く、筋肉が隆起していた。
 強力(ごうりき)を司る精霊が男の細胞を奮起させ、滾らせているのだ。
「なるほど、これはいい。人間の首を縊るぐらいは容易いな」
 男の低い声が不敵に笑う。ワイヴァンの首を絞める指先に、さらに力が込められた。
「ごほっ…」
 仰け反っていたワイヴァンの首が、かくりと垂れた。
 縊り締めようとする男の手には、まだワイヴァンの脈が感じられる。
 その根を完全に止めるべく、男の指先はさらに筋張った。柔らかい首の肉に指が食い込み、気道を潰し、首の骨を潰し折る……はずだった。
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押印師 ACT1-4
04

「…む……?」
 男の指先が止まった。
 否、それ以上指を押し込む事ができないのだ。
「なっ…何だこれは!」
 躍起になり、男は更に腕へ力を込める。男の意思により滾り立つ強力(ごうりき)の精霊は男の腕に青白い血管を浮き立たせるが、男の指はこれ以上ワイヴァンの肌に指を押し込ませる事ができなかった。
 柔らかく、熱をもっていたはずのワイヴァンの首がいつの間にか、冷たく、そして硬く変化している。
「だから、申し上げましたように」
 男の手の下から、ワイヴァンの薄い笑いが漏れてきた。
「その印では『鋼鉄』をつぶす事はできないんですよ」
 項垂れていたワイヴァンの首が、上がる。真正面から男を見据えた。
 その面持ちには苦渋の様子が一片たりとも見えない。それどころか、最初と変わらぬ薄い笑みを湛えていた。
「な……」
 ワイヴァンの首を掴んだまま硬直する男の口が、戦慄く。
「放せ!」
 一喝と共にワイヴァンは右手を男に突き出した。と同時に凄まじい空気の圧力が、まるで押し寄せる壁のごとく男に襲いかかった。
「うぉっ!」
 たまらず男の手がワイヴァンの首から離れ、その体が吹き飛んだ。むき出しのコンクリート壁に背中を打ちつけ、力なくその場に崩れ落ちた。立ち上がれぬ男を一瞥し、ワイヴァンは己の首筋を撫で付ける。赤く、男の指痕が残っていた。その首筋を撫でる手の甲には、押印が。
「これはね、鋼鉄の印というのですよ」
 呆然と自分を見上げる男を尻目に、ワイヴァンは机上の契約書と、男に積まれた札束を手にとった。おもむろに契約書を破り、札束を男に放る。札束は座り込んだ男の膝上でばらけ、床に散らばった。
「ちなみに…」
 赤い腫れが残った首筋を撫でていた手の袖を捲くり、腕を空気に晒す。
 そこにも、また別の円陣が焼き付けられていた。
「こちらは風の印と言います」
「………貴様は……」
「その契約金を持って、お帰り下さい」
 男の歯軋りを遮り、ワイヴァンは薄い笑みを浮かべた面持ちで、外への扉を指し示した。
「あなたが人を殺すためだけに印を欲していた事ぐらい、分かっています。そんな事に精霊の力を悪用されては、困ります」
「ワイヴァン・グレンデールの名が廃りますしね」と付け加える。
「くっ…」
 男は立ち上がろうと床についた手を見る。甲に焼き付けられていたはずの押印が、消えていた。
「契約金はお返ししましたから」
 と再びワイヴァンは扉を指し示した。
「畜生…」
 捨て台詞を漏らして、男は床に散らばった金を拾い集める。そして何も言わずに外に飛び出して行った。
 勢いのままに開閉された扉の蝶番が悲鳴を上げる。錆びた鉄階段が、駆け下りていく男の足音を響かせていた。それも徐々に遠ざかり、室内の中心でワイヴァンは、足音が完全に消えるまで扉を見つめて待っていた。
「…………」
 やがて室内に、痛いほどの静寂が訪れる。
 JN通りは世俗の底。街の賑わいや光が届く事がなく、そこに棲む人々はみな沈むようなこの静寂の中で息を潜め生きているのだ。
「はぁ…」
 完全に男が去ったのを確認して、ワイヴァンは深く、深く息を吐いた。それを合図にするように、もう一つの声が響く。
「エル」
 足下から響く声の方にワイヴァンが首を傾げると、そこには耳の生えた生き物を模した、小さなぬいぐるみがいた。短い腕を組んで、パーツの少ない顔を上手い具合にゆがめて「怒り顔」を作っている。
「キュー」
 ワイヴァンに「キュー」と呼ばれたぬいぐるみは、まだ赤い跡を残す彼の首筋を見上げた。
「首、平気?」
「平気」
 ワイヴァンは両腕に刻まれた印に、交互に手の平をかざす。仄かな光が印を包み込むように発せられ、消失すると同時に刻まれた印も消え去っていた。
「感謝します」
 両手を組み、小さな風の渦と共に消え去って行った精霊に、ワイヴァンは小さく祈りの言葉をよせる。
「お前、危ない事するようになった」
 空気に昇華していく光の様を見つめるぬいぐるみ。キューのプラスチックの黒い瞳が、僅かな隙間から差し込んでくる外光を受けて鈍色に染まっている。
「押印師の仕事なんて子供がすることじゃない」
「うーん……」
 キューの言葉に生返事をしつつ、ワイヴァンはシャツの胸元のボタンを一つ、二つと外す。男につけられた指の跡より下に辿った先には、赤黒く焼き付けられた別の印があった。
「流れの押印師に仕事を頼んでくる人間なんて、今みたいなロクデナシばかりだ」
 ぬいぐるが垂らす文句を聞きながら、胸元の印に手を添えて、ワイヴァンはまた祈る。
 今度は深く、長く。
「お父さん、ありがとう…」
 そう呟いたワイヴァンの全身から、白く、淡い光が霞のようにたゆたい、やがて部屋中を包み込む。
「毎日違法行為はたらいてるようなものだし…聞いてるか?エル」
 光の放流がおさまり、キューのプラスチックの瞳は再び黒い輝きを取り戻す。そこに映っていたはずのワイヴァンの姿はなく、光が収束した中心に立っていたのは、一人の少女だった。
 少女の名は、エルリオ・グレンデール。
 ワイヴァン・グレンデールの、一人娘。
「お父さんは精霊の力を悪用する悪人には決して押印しなかったよ。どんなにお金を積まれても。だから私も絶対にそれを守るの。お父さんの、押印師ワイヴァン・グレンデールの名を汚さないためにも」
 十五歳になったばかりの少女の脳裏に、三年前に亡くした父の面影が浮かぶ。悲劇のアパートメントで、自分を庇い銃弾に倒れた父。
 一人娘エルリオは、幼い頃から父親の仕事を傍らで見て育った。父を亡くしてからの後、エルリオは父の名と姿を借り、押印師として生計を立てている。
 相棒の、キューと共に。
「それでも、違法は違法だ。いざという時に生活保護も受けられなくなる。現にエル、お前学校にだって行けずにいるだろう」
 キューは幼い頃、父ワイヴァンがエルリオに買い与えたぬいぐるみだ。
 エルリオの両手に収まる丸い体に、白い獣の耳がついている。顔の中心には、黒く丸いプラスチックの瞳が縫い付けられており、口と思われる部分はぱっくりと開くようになっている。
 今は、その背中の裏側に印が刻まれ、愛嬌ある造形とは裏腹に、その口から発せられる言葉は皮肉屋で無味乾燥だ。
「学校なんて行かなくてもいい」
「エル…」
「生きる術はもう知ってる」
 それより、エルリオにはやらなければならない事があった。
「まだ怨んでるのか」
 キューは全身を左右に振りながら、ぽたぽたと床を歩く。エルリオの小さな足の上に乗ると、足首に凭れかかって来た。
「うん……一生かかっても真実を見つけ出してみせる」
 父を殺した犯人を、
「私は軍を許さない……」
 エルリオは探さなければならなかった。
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押印師 ACT2-1
ACT2:銀髪の少女

01

 三年前に起こった、住人が全員死亡したという悲劇のアパートメント爆発事件。
 父ワイヴァンは死の直前に「まさか」という言葉を残している。
 考えすぎかもしれない、だがその言葉が始終、エルリオの脳裏から離れないでいた。喉に詰まった異物のような感覚が残り続ける。
 あのアパートに踏み込んだ人間が、アリタス国軍人である事に間違いは無かった。街中で見覚えのある武装服が、煙の充満した廊下でも確認できた。
 軍の報道によれば、あの惨状は止むを得ない判断の結果だという。数年前よりACC内外にて幾度とテロ事件を起こしていた武装グループが、アパートメントの一室に潜伏していた。軍が調査に踏み込んだ際に銃撃戦となり、潜んでいたテロリスト戦闘員は皆殺しに出来たものの、巻き込まれた住民は全員死亡。アパートは最終的に地下に仕掛けられた爆発物により全壊、炎上。寝静まっていた住人の多くは銃撃戦の最中に射殺、もしくは吹き飛ばされて爆死した。死体はほぼ判別できない状態。

 エルリオが生き残ったのは偶然の奇跡と言って良かった。覆いかぶさった父親の遺体が、瓦解した建材から彼女の体を守り、なおかつ侵入者からカモフラージュの役目を果たしてくれた。あの後、正面は危険と判断してエルリオは一度部屋に戻り、裏通りに面していた風呂場から外に出ようと試みた。その瞬間に、アパート全体が爆風により瓦解。エルリオの体は吹き飛ばされたが、それが幸いして侵入者からも、アパートの炎上からも、逃れる事が出来たのだった。
「………やめやめ」
 追憶に支配されかけた頭を強く振って、エルリオは顔を上げた。
「キュー、市場に行こう」
 転がった椅子の配置を直し、エルリオは鏡の前に向かった。
 部屋の隅、唯一ある窓の隣に設置された鏡は、縦に長い全身鏡だ。父の姿を借りて仕事をした後、エルリオは必ず鏡に向かう。変化の押印を長く使う事はできない。押印による精神力、体力の消耗も勿論の事だが、己が何者なのかという認識が、曖昧になる危険性も伴うからだ。こうして鏡に向かい己を確認する事で、エルリオは己の精神防衛を図っている。
 薄暗い部屋の中、薄汚れた鏡の向こうにいる少女の姿。
 父親よりブラウン色が濃い髪の毛は、顔の両側で低い位置に結わえられている。毛先が小動物の尻尾のように、歩くたびに肩先で柔らかく揺れる。大きくはないが丸い両目は硝子球のようで、光を受けるとこれもまた小動物の瞳のように物憂げに見える。
 クリーム色のシャツの細い肩の上に、エルリオの体を伝ってきたキューが飛び乗った。
 これが、三年前から続いてきた「いつもの私」。

 肩にキューを乗せたまま、エルリオはアパートメントを後にした。JN通りの石畳は、いつも雨が降った後のように黒く湿っている。石を選びながら踏み越えて、一人と一匹は市場通りへと向かう。
 ACCで最も大きな市場は、ハート・オブ・アリタスと呼ばれるACCの中心部にあるロータリー通りの外周に沿って、早朝から夕方近くまで露天が開かれている。十三年前に終息したばかりの戦の最中でも、一日たりとも閉じる事が無かったという。
 国土や人口規模に拠らずアリタスが保有する軍事力は強固であり、強国に囲まれた地理的不利を抱えた小国ながらも、軍需が経済の潤滑油として機能し着実なる発展の途にいた。
 発展の象徴の一つである、首都内を結ぶ緻密な交通網。エルリオはトラム(路面電車)を数度乗り換え、徒歩で寂れた裏通りを潜り抜けつつ、ハート・オブ・アリタスを目指す。
「次は、ACC中央駅(セントラル・ステーション)」
 最後に、全ての交通網が必ず交わるACCの中央駅で降りて、エルリオはそこから徒歩で市場を目指した。同じように市場に向かう人波がまばらな列を成しているが、道幅が広いためにあまり苦にはならなかった。
 ハート・オブ・アリタスを中心に八方に伸びるメインストリートは、巨大な軍用車が隊列を成して進行できる事を想定して作られているという。いくつもの小路や裏通りによって八本の大通りは網の目のようにして結ばれており、上空から見ると複雑な蜘蛛の巣に見えるらしい。
 さすがに国の中心地に近づいてくると、裏通りを歩いていても浮浪者の姿は無い。中央に近づくにつれ、警察局の警備が多くなるからだ。だからエルリオのような少女が一人で街を歩いていても、何の問題もない。
(JN通りとは大違い)
 綺麗に掃除された石畳を見るたび、エルリオは溜息をつく。
家の無いもの、職の無いものは外へ向かって逃れていく傾向にある。エルリオが住むJN通りやその周辺まで来ると、屋根がついているアパートメント共通玄関が、宿無しの寝宿と化している時もあるのだ。
「ん…?」
 通りと通りを結ぶ小路を通り過ぎた瞬間、エルリオは視野の隅を通り過ぎていく灰色の影を見た。反射的に足を止めて振り返る。
「とと」
 肩の上のキューが振り落とされそうになりエルリオのおさげ髪を掴んだ。
「どうした?」
 エルリオの視線を追ったキューのプラスチックの瞳にも、小路の奥へと移動していく影が映る。建物の暗がりを選びながらかけていくその人影は、灰色のショールかコートをすっぽりと頭から被っているようだった。小柄で、さもすれば、エルリオと変わらぬ体型。
 まるで逃げるようにして、入り組んだ路地へと姿を消してしまった。
 二人の瞳がその影を観止めたのはほんの一瞬。
「ストリートチルドレンの類かな」
「この辺りでは珍しい」
「うん……」
 気に留めたものの、特に後を追う理由もなく、エルリオは「まあいいや」と踵を返した。

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押印師 ACT2-2
02

 中央に近づくにつれ、石畳のきめが細かくなってくる。立ち並ぶ建設物の高さや横幅が増し、軍部施設が多く立ち並び始めて、華やかながら厳粛な空気が色濃くなっていくようだ。
 路地裏から大通りに出くわしたところで、エルリオは時計塔を見上げた。もう昼間近の時刻。最も市場が混雑する時間は、正午前後の一時間と、夕方の閉店前の一時間。エルリオはこれらの時間を狙って市場に出向く事にしていた。徐々に多くなる人波をかいくぐりながら進む。
「エル」
 キューがエルリオの耳元にささやく。声に、何かを訝しむ色が滲んでいた。
「いつもより兵の数が多い。通常の1.3倍」
「…………」
 言われてエルリオは改めて周囲に目を配った。人の列を潜り抜けて、ハート・オブ・アリタスのロータリーが見渡せる一角に出る。
 確かに、町中を巡回する国軍服の姿が、いつもより目立つような気がした。
「巡回じゃない。ルートを外れた動きをしている。制服も違う」
 キューの言葉は正しく、多くが不規則な動きを見せていた。真っ直ぐに正面を向いて、儀式的とも言える動きのみを繰り返す巡回警備兵や門衛とは違う。かといって、軍の中の、統治権に基づいて秩序障害を除去するために国民に命令・S強制する機関、すなわち警察局の人間とも違うようだ。
「………」
 兵の動きを横目で警戒しながら、エルリオは馴染みの露天商人のもとに駆け寄る。
「こんにちは、おばさん」
「おや、エルちゃん」
 市場で唯一の薬商露天をかまえる初老の女は、馴染み客のエルリオを見とめて破顔する。だがすぐに眉間を潜めて、兵の動きを気にしながら小声で言葉を続けた。
「今日は早くお帰りよ、なんだか物騒だからね」
「何かあったのですか?」
 市場の人間は、市井の情報源だ。時に軍の機密でさえ、噂レベルではあるが密やかに彼らの耳に届く事もある。ここに買い物に来れば、世情の動きはだいたい把握できた。
 エルリオが市場に足を運ぶ第一の目的だった。
「何でも、敵国の戦争捕虜が逃げ出したとかいう噂だよ」
「戦争捕虜?アリタス国内で?」
 エルリオ自身の記憶には無いが、記録により得た知識によればアリタスはつい十三年前に、隣国のライザ帝国との戦いを収束させたばかり。
 ライザは皇帝一族を頂点とする絶対君主制の大国。世界三大連峰の一つ、ゴルタ連峰を挟んでアリタスの北西に位置している。両国は、国境付近の鉱脈地帯の権利を巡り不仲だった。
 にらみ合いが続く中、帝国内で皇帝派とレジスタンス組織による内紛が勃発。レジスタンス組織「ライザ民政軍」は鉱脈地帯の権利譲渡を条件に、アリタス軍に援軍を求めたのだ。帝国からの威嚇行動に業を煮やしていたアリタスは、それを承諾。それが約十五年前の出来事。
 十年は続くであろうと予測されていた戦は、わずか二年で終結した。勝利の精霊は、ライザの民主化を進める民政軍と、アリタスの連合軍に手を差し伸べたのだ。
「あぁ、皇帝派の捕虜の一部をアリタスで預かっているらしいんだよ。あれから十三年経つが、まだ戦争裁判は終わってないと見えるねぇ」
 だが少なくとも皇帝一家の処分は終戦直後に下されたはずだ。当然、処刑という扱いで。それに続く形で幹部も一通り粛清されたはず。
「ふぅん、よくわからないけど…」とエルリオは知らない振りをした。
「おばさん、火傷に効く軟膏ある?」
 エルリオの注文に「あいよ」と軽快に答えて女主人は展示棚を探り始める。
 軟膏を受け取り、店を後にしたエルリオはその足で、次に食料の買出しに向かう。薬屋とは対極の方向にある青果露店を目指して、歩き出した。
「エル、あれ」
 肩に乗るキューのつぶやきが聞こえる。市場の喧騒に紛れ、この小さな声を聞く者はエルリオ以外にはいない。
 ロータリー脇に設置された、駅の交通案内板を見る。並列された掲示板は、駅職員が交通情報や工事情報などを報せるために使われている。そこで今まさしく掲示されたばかりの情報があった。
 ハート・オブ・アリタスから四方八方にのびるメインストリートの全てに、臨時検問所が設けられたという。完全封鎖されたルートもあるようだ。
「穏やかでない空気だな」
 エルリオの後方から掲示物を眺めていた中年の男二人組が、肩を竦めて顔を見合わせた。顔に見覚えがある。すぐ傍で露店を構える店主たちのようだ。掲示板を見上げる素振りで、エルリオは背後に聞き耳を立てる。
「軍はよっぽど大物に逃げられたんだろうな」
「雑魚を預かるとしたら郊外の収容所になるんだろうが、ACCから逃げ出したとなればなぁ」
「しかし、もう帝国の構成要員は全て粛清されたって、聞いたが」
「ディノサス共和国の動きが怪しいっていう話も聞く。あそこはライザと地続きだろ?一部の華族がライザ皇族と血縁のつながりがあるとか」
「なんだ、ライザの次はディノサスか?大国との戦争はしばらく勘弁してほしいな」
「イーザー将軍が健在なら、心配はないだろう。ACCにまで戦火が及ぶ事はない」
 イーザー将軍とは、先のライザ帝国軍との戦いで名を馳せたアリタス国軍将官の一人だ。
「そういえば最近、公に聞かなくなったようだが」
「だけど終戦当時でまだ若かったはずだ。まさか退役はあるまいて」
「そうだな、総統もまだまだ若い。何とかなるといいがな」
 大袈裟に肩を竦めて苦笑を投げつつ、店主二人はロータリー前から去っていった。
 ちなみに総統はアリタスを統べる元首の称。現在の総統は第三十七代目。名をフューリーと言う。
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押印師 ACT2-3
03

 フューリー総統とイーザー将軍。
その名を耳にした時、エルリオは無意識に視線を掲示板の向こうに見えるハート・オブ・アリタスの噴水に向けていた。
 ハート・オブ・アリタスの中心には、巨大で見事な塔造りの噴水がある。尖端は首都郊外からでも見えるほどに高い。塔周辺をアリタス歴代の英雄像が囲み、そのさらに外周を囲む丸い噴水池は、ロータリーの中心となっている。首都内外を結ぶ全ての交通機関が経由する「ACC中央駅」は、この噴水広場の地上、地下に設けられていた。
 噴水と塔の外縁に建てられたアリタスの英雄像。最も高い場所に、現総統フューリーの像。これは総統就任のたびに建て替えられる。若干三十ニ歳の若さでフューリーが総統の座に就いたのは二十年前で、現在五十二歳。歴代総統の就任時平均年齢を考えれば、まだまだ若い。
 そんな彼の若さを象徴するように、フューリー像はハート・オブ・アリタスに並ぶ数々の像の中で、最も雄々しく華やかだ。外套が翻り、右手は国軍制式剣を空に向けて掲げており、身に着けた軍服は就任当初の物で、肩や腰に幾つもの絹紐や、胸元には勲章が下がっている。
 総統像の少し下に、噴水を囲むようにしてアリタス歴代の英雄像が立ち並ぶ。塔と噴水の壁面には、アリタスの歴史を刻んだレリーフが填っている。
 英雄像の中で最も新しいのは、約十年前に建てられたイーザー将軍の像だ。
 像がいずれも雄々しいポーズで立ち並ぶ中、「零の将軍」と銘打たれたそれは、ただ右手を右前方に差し伸ばしたまま直立している。唯一目を引くのは、左肩に止まる双頭の大鳥。右に鷹の、左に梟の頭を持った、異形の鳥だ。
 だが、見るものを威圧するでもなく、威嚇するでもなく。ただ静かに、その像は立っている。

 アリタスは、北部東西二方と、南東部をぐるりと列強国に囲まれ、常に列強の脅威に晒されていた。他国から隔絶された地理条件の中で歴史を刻んできたアリタスは、諸外国との国交がほぼ無きに等しく、文字通り「己は己で守る」しかない。自ずと築かれたのは、軍事政権。この国において総統とは、政の長であると同時に、軍事の長でもあった。
 一般論として、他国において軍事政権が長く続いた前例がないのだが、アリタス軍事政権は既に三十七代目の長を据えている。実に五百年以上の歴史を超えてきたのだ。軍事政権国、それが、アリタスが生き残る唯一の、そして最良の形と言えたのだろう。

 そんな国において、「将軍」は民の英雄であり、「軍人」は高級公務員職である。
 義務教育である初等学校の卒業生の中から、一定の成績を修めた学生だけが、尉官以上の仕官軍人を育成する士官学校への入学が許される。
 ワイヴァンが存命だったころ、初等学校に通っていたエルリオも、士官学校入学は一種の憧れだった。教師が子供の成績について褒める時の常套句は、「仕官学校も夢じゃない」。理学と数学が得意なエルリオも、幾度かそんな言葉を受けた事がある。そのたびに、エルリオは父ワイヴァンに喜び勇んで報告したものだ。だが、「凄いな」と褒めてくれる父の瞳が、いつも灰色に濁って寂しそうに見えた気がしたのを、思い返せられた。
「………」
 エルリオが理解する事ができなかったその理由が、今なら分かる気がした。
(まただ……悪い癖だ…)
 考え込むと、過去の追憶に全身を支配されそうになる。途端、心臓の奥から淋しさが込み上げてきて、それが涙となるのだ。
「キュー、あの銅像は、右から、豪知の将軍、零将軍…」
 気を紛らわすためにエルリオは、噴水を取り囲む像を一つずつ指差した。
 像には各々、名前がつけられていた。総統の像には、現職総統の実名が刻まれるが、英雄像には一名(いちめい)、つまり本名ではなく「もう一つの名」がつけられる。かつては実名を記していたようなのだが、いつほど前からか様式が変わり、総統像以外には実名を記さないようになったのだという。話を聞かせてくれた初老の露店商は「分かりにくいじゃないか」と不満がっていたが、エルリオはこの様式が嫌いではなかった。謎解きのようで、面白い。
「ん?」
 肩の上のキューが首を傾げる。
「エルはあのサイズの文字が、この距離から確認できるのか」
 銅像の足下にはそれぞれ一名が刻まれたプレートがついている。
「うん。あれ、見えないの?」
「プラスチックの目じゃ限界みたいだ……千里眼の印とかつけてくれよ」
「そんな高等印、私に扱えるわけないでしょ」
 精霊の印には、その印が持つ力によって上位、中位、下位に分類されている。例えば同じ「力」を司る印でも、「強力(ごうりき)の印」と「巨人の印」では後者の方が上位にあたり、強い。
 キューが欲しがっている、「視力を司る」印は数種類あるが、その中で「千里眼の印」と呼ばれるものは最高位にあたる。遠方を見やるのみならず、見えない物を読み取り、上級な使い手となれば未来を読む事もできるというが、定かではない。
 そうした高位の印ともなれば、宿る力も相当なものとなり、生半可な押印師では取り扱う事などできず、ましてや、印を押印される人間はあまりの力の強さに急死してしまう事さえある。
「鳶目の印ぐらいなら…頑張ってつけてあげられるようになるわ」
 少々バツが悪そうにエルリオは頬を膨らませる。
「期待してる」
 肩の上でキューの短い尻尾がパタパタと揺れた。
 声質が平坦で感情は読み取りにくい相棒だが、最近は尻尾の動きで気持ちが読み取れる。もっとも、元はお土産用の縫いぐるみだったキューに「感情」たる物が存在するのかは、別の議論になるのだが。

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押印師 ACT2-4
04

 かつてエルリオのクラスメートに、ジュスティーという名の少年がいた。
 愛称だったかもしれない。フルネームは忘れてしまった。
 佐官の父親を持ち、母も軍つきの秘書官。ジュスティー本人も成績優秀で、エルリオと共に仕官学校入学を嘱望されていた。彼は何かとエルリオをライバル視し、エルリオもまた、彼の敵愾心を受けて自然と意地を張るようになっていた。
 ふと、そんな彼を思い出す。父が死んで以来、エルリオは学校に行かなくなっていた。成績を争っていたライバルがこのまま仕官の道を進むとすれば、本当の「敵」になってしまう。また、同じく仕官を目指していた級友達も。もっとも、彼らが直接父の死に関係しているわけではないのだが、軍に心酔する人間もエルリオにとっては同類だった。
 かつての自分さえもそうだ。

「道を開けろ!」

「?」
 追憶の靄は、突如の怒声にかき消された。
 弓なりに反った市場通りを埋め尽くす人波が、突然動きを止めてざわめきたった。整然と敷き詰められた石畳を踏む足音が、遠くから乱雑に重なりこちらに近づいてくる。
「っ…」
 真夜中のアパート、爆発、銃声、煙、怒声、父の体…あの夜と同じ音が。
 一瞬、目の前に炎と黒煙が幻覚のように広がった。まさかと思いぶるりと頭を軽く振ると、悪夢は砂塵のように消失する。視界にあるのは、やはりたくさんの人の背中。大人の体に隠れてしまい、エルリオには前方で起こっている光景を目にする事が出来ない。
「見える?キュー」
「確認する。上に持ち上げて」
「うん」
「おい、こっち来るぞ!」
「きゃーっ」
 すぐ近くで上がった叫び声と共に、人の波がうねった。突如、前をふさいでいた人壁が左右に逃げ割れて、まるで幕が開くようにエルリオの視界が開けた。飛び込んできた光景は、一人の男が駆け込んでくるところ。その背後には数人の兵。一人が銃を構えていた。
「えっ…」
 どちらからともなく、戸惑いの声が上がる。エルリオの姿を見とめて男は突如、追いすがる兵と対峙するように体を翻した。
 銃声が三発。
 人々の悲鳴。
 そして、エルリオのすぐ頭上から漏れてくる、低い男の呻き声。
「な……なに…」
 エルリオの足元に崩れ落ちる男。転がった男の胸元と腹には、銃創が三つ。まだ息がある。呼吸に合わせて、傷跡から血が噴き出ていた。

 ―お父さん!

 ワイヴァンと年恰好が似ている足元の男。毛髪は、彼と対照的な鈍い銀色だった。
「手間取らせたな…」
 銃を発射した兵が舌打ちと共にエルリオと、銀髪の男のもとに足を踏み出した。
「お嬢ちゃん、驚かせて悪かったな。もう大丈夫だから、離れていなさい」
 手にはまだ銃がある。それでこの男をどうしようというのだろう。とどめを刺すのか。
「あ…の…」
 エルリオが口を開きかけた時、
「射殺したのか?」
 兵たちの後ろから、新たに声がした。
「ウェーバー大尉。いえ、まだ息があります」
 背筋をただし、兵達は次々に敬礼。
「ですが、長くはもたないでしょう」
「そうか」
 銃を手にした兵の報告を受けて姿を現したのは、居並ぶ兵達とは異なる仕官服を見につけた軍人だった。まだ若く、後部で結わえた黒髪と、やたらと鋭い眼光がエルリオに突き刺さる。
 ウェーバー大尉と呼ばれた黒髪の男は、エルリオの姿と、遠巻きに好奇と恐れの目を向けてくる人々に、視線を一巡させた。
 そして再び兵に視線を戻すと、厳しい瞳に更に鋭い色を灯して口を開いた。
「うまい具合に三発とも当てて仕留めたのはよくやった。だが往来の最中では極力発砲せぬよう注意していたはずだ」
 背後の兵達に向けた、ウェーバーの低い声。
「三発も連射しては、そのうちの何発がこの少女に当たっていたか分からないぞ」
「はっ、申し訳ありません!」
 銃を持った男が再び、敬礼する。
「エル、この銀髪の人」
 エルリオの耳元にキューの声。何を言わんとしているのか、分かっていた。
 違う、あの兵が上手く三発当てたのではない。
 この倒れている男が、エルリオを庇ったのだ。流れ弾を作らぬように。
「…………」
 エルリオの足元で、男は息を懸命に吐き出していた。全身が小さく痙攣し、血は胸元や腹からだけではなく、口元からも流れ出ていた。
「いかがしましょうか、その男。射殺しますか」
 沈黙するエルリオを尻目に、兵は銃を腰に仕舞いながらウェーバーの指示を仰いだ。
「いや、あの娘の居場所を吐かせてからでも遅くはない」
 銀髪の男の傍で動かないエルリオに、ウェーバーは歩み寄る。
 軍の長靴が、石畳に冷たい音を響かせた。
「驚かせて悪かった。ケガは?」
「………」
 背の高いウェーバーを見上げて、エルリオは首を横に振る。
「そうか。良かった。ここから離れていなさい。もう危険な事はない」
「………その人をどうするの?」
「君には関係の無い事だ。さ、離れなさい」
 ウェーバーの声は抑揚がなく、そして低く、温度が無かった。


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押印師 ACT2-5
05

 ―いや、あの娘の居場所を吐かせてからでも遅くはない

 きっとこの人は逃げた捕虜で、
 軍の人間は瀕死のこの人を、文字通り死ぬまで尋問し続けるんだ。

「いやだっ!軍の人間っていつもそう!」
 頭の中で糸が切れたようだった。
 ウェーバーを拒絶し左手を前方に突き出して、エルリオは右手でその手の甲を擦る仕種を見せた。右手の平が真紅の光を発し、左手の甲を嘗めるように照らす。その瞬間、浮かび上がったのは、押印。
「エル?」
 肩の上でエルリオの異変を感じ取ったキューは、思わず往来を忘れて声を上げた。だがそれを聞いた者はいない。
「守檻!」
 そう叫んだ言葉に合わせ、エルリオを中心にキューブを描いて空気が硬直した。
「っな…!」
 全てを拒絶し主を守る空気の檻が、エルリオの中心半径ニメートル内にいる全ての「異物」を弾き飛ばす。ガラスとガラスがぶつかりあう音。エルリオに手を差し伸べかけていたウェーバーの体も、不可視の張り手を全身に受けて後方に弾かれた。
「大尉!」
 部下達がウェーバーに駆け寄る。エルリオに向かった数名も、同じように不可視の壁に阻まれて弾かれた。
 結界の向こうで血相を変える軍人達の様子に、キューはプラスチックの両目を顰める。
「エル、どうするんだ?」
「分からない…分からない、けど」
 エルリオは跪き、瀕死の男に手を添える。
 高等治癒の押印が扱えれば、もしかしたら助けられるかもしれない。しかし今のエルリオにはその力がなかった。
「とにかくこのまま軍の奴らに、この人を渡したくないと思ったから…」
「エル」
「お父さんも……任務遂行の障害物みたいな扱いで…」
 父ワイヴァンとは別れの言葉も交わせなかった。
 この男もきっと、酷い死に方しか出来ない。
「何のつもりだ、あの小娘」
 数歩離れた場所から、兵の一人が銃を取り出す。
「やめておけ、どうせ銃は効かないのだろう」
 その手をウェーバーの黒手袋をはめた手が止めた。
「あれはおそらく守檻の印。無駄だ」
「しかし……それでは尋問が…」
「………」
 ウェーバーはただ、息絶えようとしている男の様子を眺めていた。兵達もそれに倣うしかない。
 結界の中で、男が動きを見せた。震える手を上げて、傍らのエルリオに差し出そうとしている。だがその力も尽きかけているようで、男の右手は地面から少し上がった位置を彷徨っている。
 その手をエルリオが握った。大量の出血により、男の手は既に冷たくなりかけていた。
「おじさん、助けてくれてありがとう……」
 でもごめんなさい、私にはあなたが助けられません。
 後半の言葉は、飲み込んだ。
 僅かな力で男が手を握り返してきた。
 苦痛に歪んでいた面持ちが、和らいでいるように見える。死がもたらす最後の慈悲だ。
「…これ……を………」
 男の空いた左手が持ち上がる。懸命に、その手に握りこむ「何か」をエルリオに向けて差し出している。
「……え?」
「捨て……くれ…軍……に…渡してはいけ…ない……ものだと……」
 エルリオが恐る恐る差し出した手を、血に汚れた男の手が握りこんだ。何か硬い感触が手の平に滑り込んでくる。日の光を受けてその何かが反射光を放った。
「それか…」
 直後、
「エル」
 キューの声。
 直立不動で銀髪の男とエルリオの様子を眺めていたウェーバーが、突如動きを見せた。短い呟きと共に、エルリオ達を守護する空気の壁に拳を突き立てたのだ。
「なっ…」
 電気が弾けるような音と、火花が飛び散る。突き立てられた拳と結界の接面が、ミシミシと音を立てた。
「壊される……!?」
「この人、印保持者だ」
 通常、精霊の印が持つ力に抵抗し得るのは、精霊の力しか無いと言われている。またはよほどに威力のある重火器。いかに豪腕といえども人間の素手で守檻を破るなど不可能に近いはずだった。
 ウェーバーが狙っている物は明らかだ。
 この銀髪の男から手渡された物。今確かにエルリオの手の中に握られている。
 確かめている暇は無かった。
「エル、守檻を重ねろ」
「くっ!」
 正にガラスが破れるそれと同じ音をたてて、
「あ…!」
 結界は砕け散った。

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押印師 ACT2-6
06

 空気の壁を突き破ったウェーバーの手がエルリオを襲う。まるで上空から急降下した猛禽の鍵爪だ。本能のままにエルリオは体を後ろに倒してそれをかわすが、尻餅をついて地面に転がる。
「いたっぃ…」
「それを渡してもらおうか」
 冷淡な声と共に襟首を掴まれた。
「キュー、捕まって!」
 引きずられた状態でエルリオは右手を己の肩口に当てる。手の平が火を吹くように光を発した。少女の言葉に従い白い小動物らしき物体が、彼女の体に飛び乗る。
 その動きにウェーバーが一瞬、気を取られた時だった。
 ウェーバーの目の前に、羽ばたき音を立てて白い幕が引かれた。それが白翼だと気付いた時には、襟首を掴んで引き留めていた少女の体が空中にあった。
「なっ…」
 咄嗟に胸元に押し当てた押印に呼応し、精霊がエルリオの背から翼となって姿を現したのだ。
 遠ざかる地面を見下ろせば、兵達が次々と銃を引き抜くのが見えた。白翼は尚いっそう強く羽ばたき、一人と一匹の体を中空へと誘う。弓なりの市場通り、驚く市場の人々、怒号を上げる軍の兵達、そして倒れた銀髪の男、すべてが小さく、遠ざかっていった。
「………」
 男に託された「何か」を強く左手で握りこんで、エルリオは「ごめんなさい」を心中で繰り返した。
「だめだ、当たらない…」
 瞬く間に陽光の中へと姿を溶かした少女。兵達は数発の銃弾を空に向けて放ったが、掠る様子もない。ウェーバーを始めとする軍人達は勿論だが、市場の人間も含めてその場にいるすべての人間は、しばし空を見上げた状態で呆然とする。
 始めに口を開いたのはウェーバーだった。
「一体あの娘はいくつ印を保持しているのだ……」
「あの娘、押印師のようでしたね」
「しかし押印師は他人に印を施す技術者であって、自身に複数の押印を施し使いこなす者は…聞いたことがないが…」
「ええ…」
 少なくともウェーバーがこれまでに目にした軍所属の押印師の中には、例が無かった。
「あの娘の顔は覚えたな」
 エルリオが飛び去った方向から体を百八十度翻し、ウェーバーは部下達に向き直った。
「はっ」
「すぐに手配書を用意し、検問所の数も増やすよう上部に報告と申請を。ここら一帯の目撃者に聞き込みをし、娘について知る者がいたら情報を聞き出せ」
「はっ!」
「それと……」
 空に向かって呆けていた部下達がウェーバーの命令に呼応する。
 動き出した部下達を見とめてから、ウェーバーは石畳の上に倒れた銀髪の男のもとに歩み寄る。格子模様を描くブロックの罫線を伝って、男の血液が赤黒い模様を描いていた。
「念のために、鑑識課へ輸送しろ」
 男の体は、既に呼吸をしていなかった。
「その後は、丁重に葬れ」
「了解致しました」
「以上だ」

 エルリオがJN通り付近に戻る事が出来た時には、既に二回日付が変わり、三回目の朝日が昇り始めた時刻であった。
 建物の影を選んで着陸し、変化の印を用いて姿を変えて、いくつもの検問所をやり過ごし、数度TPOに併せて姿を変えながら軍の巡回兵をやり過ごしつつ、なんとかJN通りまであと二キロほどの地点にまでたどり着いた。
「とんでもなく長い買い物だったね、エル」
 今のエルリオは、宿無し男の姿に変化していた。キューはコートのポケットに収まっている。
「軍の包囲網の緻密なこと……恐れ入るわよね~」
 声は変化効果により野太いのだが、語り口は少女のそれ。
 一応、周囲に人気がない事は確認済みだが、キューはいい心地がしない。
「もうすぐ着く。急ごう」
 自宅が近づくにつれて、焦る気持ちが高まってくる。石畳を踏み進める音が速くなった。コートの右ポケットにはキューがいる。そして、左のポケットには、あの硬い感触。今も左手でそれを握りこんでいる。
 男から渡された「何か」は、銀でできたピルケースのような小さな容器だった。ロケット仕様になっていて、鎖が付けられるようになっている。蓋の接面は溶接されており、素手で開く事はできない。自宅に帰れば、ドライバーや鑢を使って壊せるだろう。
 中身を、早く確認したかった。
 歩を進めるにつれ、自宅が目視できるようになってくる。入り組んだ路地や、乱雑に建てられた雑居ビルの合間に、見慣れた崩壊寸前のアパートメントの裏にある、螺旋階段が見えてきた。
「ん……?」
 エルリオの足が、突然止まった。
「どうした?」
「しっ……動かないでね、キュー」
 折り重なって視界を邪魔する塀や壁の向こうに、人影が見えたからだ。
 エルリオのアパートの裏に立ち、動かない灰色の影。
「………あれは……」
 三日前に市場に出向く途中に見かけた、灰色の小柄な影。線も細い。あの時と同様、頭からすっぽりと灰色の布を被って全身を隠していた。
 じっと、エルリオのアパートの裏で、上階を見上げている。明らかに浮浪者の行動ではない。誰かを待っているのだ。
(お父さんの客かしら………でも連絡は来ていない…)
 流れの押印師は、市井の人間と直接にコンタクトを取る事が滅多になかった。ワイヴァンの場合も、エージェントと付き合いがあり、そこを通じて紹介状を持った人間のみがワイヴァンを訪れてくるという仕組みになっていた。近々に訪れる客がいるという話は聞いていない。
 どうここを聞きつけたか、飛び込みでやってくる依頼者もいるのだが、エルリオは基本的にそうした客は断る事にしている。
(お父さんへの飛び込み客だったら、面倒だな……)
 さて、どうして部屋に戻るか。
 エルリオはしばし、その場で立ち尽くした。



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押印師 ACT3-1
ACT3:銀と濃紺の渦

01

「やっぱりここは、お父さんに変化するのが、一番確かじゃないかな」
「うん、分かった」
 キューの助言に意を決し、エルリオは手の甲に浮かんだ変化の印に気を込める。この三年の間、何十、何百回と借りてきた姿だが、いつになく緊張した。
 変化を終え、エルリオはワイヴァンの姿でアパートメントの正面に回った。視端に灰色の人影の存在を気にしつつ、ニ回角を曲がって正面の階段に向かう。未だ朝靄漂う中、石畳に響くワイヴァンの姿をしたエルリオの足音。数歩行くとそれに呼応するように、靄の向こうに隠れていた人陰が、若干の動きを見せた。
 錆びた鉄階段を上がる自分の姿を追う視線が、感じられる。
 気に留めない素振りを保ちつつ、自宅の扉の前に立つ。
「エル、影が動いた」
 キューの言葉尻に重なり、階下から鉄階段を駆け上ってくる音。
「……」
 鍵を開け、ノブに手をかけたままの姿勢で様子をうかがうと、灰色の人影は頭からすっぽりかぶったショールを翻しながら一直線にワイヴァンに向かって駆け上がってきた。懐から刃でも出してズブリ…という可能性も頭に浮かび、エルリオは体の内側を強張らせたが、極力顔に出さぬよう、ただその灰色の動きを眺め続けた。
「はぁ…はぁ…」
 ワイヴァンがいる頂上まで駆け上がった灰色の人影は、何か言葉を発する前に、上がった息を戻そうと背をわずかに丸めて両肩で呼吸を繰り返した。喘ぐようにようやく「あの…」と言葉を搾り出す。
 声は、若い女、むしろ少女のそれだった。
「押印師の……ワイヴァン・グレンデール先生………でいらっしゃいますか…」
「…………」
 久々に父を「先生」と呼ぶ人間を見た気がする。
「私に何か?」
 いつものように、薄い笑みと共にそう問うた。

「突然申し訳ありませんでした…しかもこのような時間に」
 こんな場所に来る割には言葉が綺麗だが、テーブルの向かいに座っても、客人は灰色のショールを取ろうとしなかった。
 その事についてエルリオは特に言及しない。依頼者が話し出すまでゆっくり待つ。そうする内に、ショールの下から遠慮がちに言葉がつむぎ出された。
「私……、ミリアムと申します」
 ちらりと、ショールの下から瞳がこちらをうかがっているのが分かる。
 こちらの反応を確かめているのだろう。だがミリアムという名に覚えは無かった。
 飛び込みの客で最も困るのが、父を知る人間。訝しがられては、同じ場所に居続ける事は危険だ。事故で頭を打って記憶を無くしただの、様々に苦しい理由をつけてその場を誤魔化す場合もあるが、そう長くつき続けられる嘘でもない。エージェントを介せば客を事前に吟味する事ができるのが、エルリオにとっても利点だった。
「人を、探したいのです」
「人探し?」
「はい」
「と、仰られましても…私は探偵業が得意ではないので…」
 依頼の種類としては珍しい。エルリオは肩を竦めるが、少女は椅子から腰を浮かせて机ごしにワイヴァンに詰め寄った。
「いいえ、貴方なら探し出せるはずです!グレンを…」
「グレン?」
 どこかしらで耳にしたようなしないような名前に、エルリオは軽く首を傾げた。
「………え……?」
 エルリオの反応に、少女の声音が変わった。
(…しまった…何かマズい事を…?)
「貴方は誰!?」
 悔いる間もなく、ミリアムと名乗った少女が立ち上がる。勢いでパイプ椅子が転がり、机が跳ねた。迂回する間も惜しみ少女は灰色のショールの下から机越しにエルリオへ手を伸ばす。一歩逃げる。少女が更にまた一歩踏み込む。机に体半分をぶつけ、前のめりになった。頭から覆っていたショールが肌蹴た。
「あ…」
 銀色がこぼれた。
 透けるような少女の銀髪が、ショールの中から現れたのだ。
「銀髪…っ!」
 エルリオが声を上げた瞬間、少女の手がエルリオの腕に触れる。
 その刹那、少女が触れた箇所から神経を伝うように、軽い痺れが体中を巡った。

 轟音のような耳鳴り。
 銀、血、銃、軍人、市場、翼、薬、開かないピルケース、浮浪者、タイル、トラム、アパートメント、灰色のショール、鉄の階段、次々と記憶がカードを捲るように蘇り頭の中を映像の洪水で埋め尽くし始める。
 全身の神経を駆け抜ける何かが、筋肉を鷲づかみにして強張らせ、そして弛緩させる。

「やめて!!」

 耐えかねて叫ぶと共に、エルリオは全身で少女の腕を拒絶した。体を翻し、搾り出した力で少女を振り払う。勢い余ってその場に崩れ落ちた。
 コンクリート床についた手は、既に父ワイヴァンのものではなかった。
 少女エルリオの、小さな指先、手のひら。
「………変化が………」
 解けていた。
「あなたは…」
 冷たいコンクリート床の上に力なく座り込んだエルリオを、ミリアムは立ち尽くして見つめる。エルリオも、長い銀髪を揺らし細い肩で息をするミリアムを見上げる。ミリアムは、緑かかった瞳が印象的な色白の美少女だった。
 何から訊けば良いのか言うべきなのか、お互いが分からず、ただ目を合わせたまま言葉を無くしていた。
 小さな二つの吐息だけが、寂しい室内の高い天井に共鳴している。
「シェファルトが死んだのですね…」
 先に発したミリアムの声は震えていた。
「………シェファルト?」
「……貴方にケースを託した…」
 市場で死んだ銀髪の逃亡者の名らしい。
「あぁ……」
 転がったパイプ椅子を立て直しながら、エルリオはゆっくりと立ち上がる。
「ケースって、これの事?」
 ポケットに入れたままだった銀のピルケースを取り出し、自分と身長が変わらない少女に突き出した。
「……………」
 ミリアムの表情が、また強張るのが分かった。


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押印師 ACT3-2
02

「話を、整理しましょう」
 エルリオは立て直した椅子に腰掛けて、ミリアムにも着席を求めた。
「……」
 だがこちらを警戒しているのか、ミリアムは綺麗な顔に並ぶ眉根を潜めて、どうするか迷っているようだった。相手を警戒しているのはエルリオとて同じ事なのだが。
「キュー、来て」
「!」
 エルリオに呼ばれて、隣の部屋からずっと様子をうかがっていたキューが飛び上がった。いつもは、他人が来ている時は何があっても顔を出さぬよう厳命されている。
「いいよ、おいで」
「いいの?」
 恐る恐るキューが声を発すると「きゃっ!」とミリアムが短い悲鳴を上げて、一歩後ずさりした。エルリオはキューを拾い上げてテーブルの上に座らせる。その隣に、ピルケースを置く。
「キューっていうの。私の友達。この子に免じて、どう?」
「い…生き物……なのですか?」
「元はぬいぐるみなの。言葉を覚えさせようと思って、記憶系の押印をつけたんだ。ここまで色々と喋れるようになったのは…実は予測外だったのだけど」
 今では感謝しているけど、エルリオは付け加える。
 人形のように造詣の整ったミリアムに見つめられ、キューも負けじと見返した。
「こういうのを『美人』っていうんだな、エル」
 キューが「記憶」してきた外貌の造形学的統計から見て、ミリアムは「美形」の部類に入るらしかった。キューはただそれを「正確に」口にしただけのことであったが、ミリアムの頬が朱色に色づく。
「いえ…あの…私……………」
 そしておずおずとながらも、素直に椅子に再び腰を下ろした。

 アリタス国軍大尉、ランド・ブライトナーが佐官室から退室すると、ちょうど前方から同期の男が浮かない顔をしてやってくる所だった。乱雑に生える短い金髪のランドとは対照的な、艶やかな黒髪を持つ男。
「おう、アイラス」
 いつも呼んでいる名で手を上げて声をかけると、同期アイラス・ウェーバー大尉はようやく顔を上げた。するどい双眸がランドを見とめるが、声の主がランドと分かり若干表情を和らげた。それまでずっと考え事をしていたようだ。
「ミリアムお嬢さんとシェファルトは見つかったのか?」
「シェファルトは射殺した」
 短い即答に、ランドはさほど表情を変えず、軽く肩だけ竦めた。
「だが思いがけぬ邪魔が入った。彼が隠し持っていた「鍵」は奪われた。ミリアムは現在も行方が知れない」
「そりゃ~……」
 いわゆる「任務失敗」というヤツだな、とランドが呟く。
 アイラスはその報告に佐官室にやって来る所だった。
「思いがけない邪魔ってなんだ?」
「そうだな…」
 どう説明するべきか。
「かいつまんで話せよ」
 一瞬ランドから視線を逸らしたアイラスは思案する様子を見せるが、すぐにまた漆黒の双眸をランドに向けた。
「少女だ。鍵を奪った後、背中に翼が生えて飛んでいってしまった」
「なんだそりゃ。天使か?」
「印保持者のようだ。俺が見た限りでは、守檻の印と、名は分からぬが飛翔の印を使っていた」
「印を複数!?そりゃ珍しいな」
 言いながらランドは左手で首の後ろをかく。驚いた時に見せる彼のクセだ。
「それだけではなく、おそらくあれは押印師、しかも己に印を施していたように見えた」
「…何でそれが分かった?」
 先天的に体に印が現われる天啓印も、後天的な使命印も、意図的につけられた押印も、形状や見た目は其々に定まっておらず、一見してはそれがどれに属するものなのか見分けは付かない。刺青のように沈んだ色で肌に染み付いている物もあれば、フェイスペインティングのように色鮮やかに浮かび上がっているものもあり、アザのように模様が曖昧なものもある。
「その場で押印していたからだ。二回とも」
「その場…って」
「こう…」
 一場面ずつ思い出しながら少女がそうした様に、アイラスは右手で軽く左手の甲をなぞった。
「それだけか?」
 頷く。
 ランドは眉根を潜めた。アイラスと同様、少女が行った押印術と、ランドが軍部内で見た一般的な押印師とは、あまりにも異なっていた。
「その押印師はなんだって鍵を奪ったんだ?ミリアムかシェファルトの手先か」
「いや」
 様子からすると、部下が撃った流れ弾からシェファルトが救っただけの通りすがりであると考えるのが妥当だ。
「大佐には、どう報告するつもりだ?」
 妥協を許さないカタブツの上司が、この扉の向こうで部下の報告を待っている。この説明し難い事態に彼が良い顔をするはずがない。ランドは貧乏くじをひいた同期を思い遣らずにはいられなかった。
「とにかく、相手が特殊能力を持つ押印師であれば、それに対抗すべく人員体制を整えてもらうしかない。「彼」を探し出すのにも……鍵は重要な手がかりとなるしな…」
「『彼』……あぁ、あの人か…生きてるんかね…大体」
「その確証があるからこそ、軍がここまで目を血走らせているんじゃないか?」
「そうだな」
 言葉の切れ目を機に「じゃあな」とアイラスは報告書を手に佐官室へ踵を返す。
 ランドはごく自然な動きでその後に続いた。



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押印師 ACT3-3
03

 ミリアムは、改めてみると本当に「美人」だ。
 同じ年頃ではあろうが、きっと一緒に歩いては自分など霞んで見えなくなってしまうのだろう。ショールを取り去ったミリアムは、ホワイトのブラウスに、銀髪と似たグレーのジャンパースカートという学生のような地味な装いに関わらず、それでも美しさが際立っている。
「あの……お名前を…うかがってもよろしいでしょうか…」
 先に言葉を進めたのは、美少女の方だった。
「え、あ、はい」
 不覚にも彼女に見惚れていたエルリオは、先手を取られた形となる。そうと知ってか知らぬか、ミリアムは今にも消え入りそうな声で、エルリオとキューを交互に見やりながら「すみません…」と囁く。さきほどの勢いはどこへ行ったのだろうと思うほどだ。
「私は、エルリオ、エルリオ・グレンデール。ワイヴァン・グレンデールの娘です」
「エルリオさん………」
「父は、亡くなりました」
「亡くなった………」
 微かな悲鳴のような、小さく息を吸い込む音がした。
「そう…ですか………」
 道を見失ってしまった子供のように、ミリアムに暗い影が落ちた。
「ミリアム…さんは、」
 と名前を呼んだところで、「今度は私が質問していい?」とエルリオがたずねると、ミリアムは半ば呆然としながらも顔を上げて頷いた。
「お父さんを、知っているの?」
 ミリアムは軽く首を振りながら「いえ…」と答える。
「私が直接存じているわけではないのですが、グレンが旧知のご友人だという事で、もしもの時はワイヴァン先生を頼るようにと……」
 なるほどね、とエルリオは納得して溜息をつく。
「だから私がその「グレン」という名前に反応しなかったのを怪しんだのね」
 ミリアムは頷く。
「そのグレンって…誰?」
「むぎっ」
 机に両肘をついてキューを抱きこむ形でエルリオが前のめりになる。袋が潰れたような音は、キューの悲鳴だ。本当は痛く無いくせに。
 仕事に関連した父の関係者の名は、これまで幾人かエージェントを通じて聞いてきた。だが「友人」というのは初めてだった。
「私の育ての親です……保護者と言いますか。今、行方が知れなくて……」
「ふむ…」
 いまいち、ワイヴァンとの関連性が理解できない。
「このピルケースをくれた人を射殺した軍は、女の子の行方も追っている様子だった。それはあなたの事よね?」
「ええ…おそらく…」
 ミリアムが俯く。視線の先には、キューの隣に置かれたピルケースにあった。
「町の人は、ライザの戦争捕虜が逃げたと噂をしていた。その髪の毛…銀色、噂では聞いたことあったけど、あなたは帝国の人?」
 エルリオの追究に対して、返ってきた反応は軽く首を傾げる仕種だった。
「それが…ごめんなさい、私よく分からなくて…」
「よく分からない?」
 違和感の残る答えだったが、後回しにしてエルリオは質問を続ける。
「市場で聴いた話が本当なら、ミリアムさんの保護者…グレンという人はライザと関係する人だと思うの。でも父がライザの人間と友人関係があったとうい話は、あまり信憑性が無いのだけど…」
 意地の悪い訊き方であると、自覚している。だが今のエルリオは、とにかく情報が必要だった。
「グレンは、彼はアリタスの人間です。生まれも育ちもアリタスだと言っていました。髪の毛も、こんな色ではありません」
「こんな」のところでミリアムは、白く細い指先で、絹糸のような銀髪に触れた。自分の事を語る時と違い、物怖じ気味だった口調が明瞭な声音になっていた。
「ふーん……」
 父の友人「グレン」という人間はアリタスの者である、という事で父との関連性はともかく、そうなるとライザの人間でしかも軍本部から逃げ出す身分のミリアムとの関係を説明するに足らなくなる。
「グレンという人がアリタスの人となると…ミリアムさんは…何者?何故、軍がミリアムさんを追っているの?」
「私……は…」
 再び、ミリアムの視線が正面から逸らされる。
「分からないのです。小さい頃は…自分はこの国の人間だと思っていました。実際、ずっと私はこの国にいたのです。グレンと二人で…、三年前まで」
「三年前…?」
 ちくりと胸が疼いた。
「三年前に、滞在していた先のアパートメントに突然、軍の人が押し入ってきて…」
「え…?」
 思わずエルリオは椅子から腰を浮かした。エルリオの過剰な反応にミリアムはびくりと小さな肩を震わせて顔を上げる。
「それで…?」
「大きな爆発する音や銃声で…私…気がついたら見知らぬ場所に移されていて…グレンの姿も無くて…私がいた所は軍のセントラル施設内なのだと後で教えられました」
「爆発や銃声…どこのアパートメント?」
 エルリオを代弁する形でキューが問う。その声音は意外や冷静だった。
「黄色い屋根のアパートメントでした。名前は確か…ノエ……」
「コラテス通り・北三番・アパートメント『ノエヴィ』共歴2568年、爆発炎上事故により全面改築、今は倉庫となっている…かな」
 エルリオが記憶させたアリタス首都圏地図から合致した情報が、キューの口からもたらされる。体を起こして立ち上がるエルリオの足に当たった椅子が、大きく揺れて音を立てた。
「私が住んでいたアパート……」
「え?」
 立ち上がったエルリオを見上げて、銀髪の少女はグリーンがかった瞳を丸くする。恐れより、純粋な驚きを面持ちに表していた。
「私、お父さんとそこに住んでいたんだ…。三年前、軍の襲撃を受けてアパートは崩壊して、父はそこで射殺されて…アパートの住人も全員死んだ」
「そんな……」
 白い顔を更に蒼白にさせてミリアムは悲痛な吐息を漏らした。
「軍はその事件を『武装勢力粛清活動』だと報じたけど…」
「いえ、違うはずです。軍は私達を連れ出すためにアパートに踏み込んだのだと…聞きました…。でもまさか…そんな…」
「な…」
「偽装報道か」
 キューが呟く。
 与えられた情報を元に「事実のみ」を口にする、エルリオの相棒。
「何てこと……」
 銀髪が細かく震える。
 ミリアムはか弱い小動物のように背を丸めて肩を震わせていた。一方のエルリオは、足の力が抜け、崩れるように椅子に腰を落とした。
「……その、グレンという人も、連れ去られて軍本部に?」
「わかりません……」
「分からない?」
「はい…少なくとも…私はこの三年間、一度もグレンを見ていません…」
 俯くエルリオを見つめるミリアムの瞳の色が、許しを請うように見える。
「よく分からないよ…キュー」
「エル…」
 テーブルの上で所在なく座り込んでいるキューの体を、エルリオは抱きしめた。
「なんで、たかだか女の子一人を連れ出すために、お父さんを射殺する必要があったの?アパートを爆破して、住人を皆殺しにする必要があったの…」
「エルリオさ…」
「あなたは何者なの?グレンって人も…」
 ミリアムの声を、エルリオの刺すような声が遮った。ミリアムが刺し伸ばした手を撥ね退けて拒む。
「私………わからないの……私のことも、グレンの事も………」
「何で?」
 顔を上げたエルリオの双眸から涙が流れる。これまで貯めていた感情を目の前で硬直している銀髪の少女にぶつける他、こみ上げる感情の処理が出来なかった。
「何で分からないの?あなたのために大勢死んでいるのに、何でその本人が何も分かっていないの」
「ごめんなさい……私……ごめんなさい……ごめんなさ……」
 ミリアムは両手を胸の前で硬く結ぶ。白い目許を赤く腫らし、細い体が震えると共に声も憐れに震えた。
「…………」
 キューを強く抱きしめて、白い布地の体にエルリオは力いっぱい顔を押し付けた。自分が吐く息が、熱く濡れているのが分かる。なすがままに抱かれているキューの体に、涙が染み込んで熱くなっていた。
 自分の熱を感じると、不思議に気持ちが冷めていく。
「……ごめんなさい」
 キューに顔を押し付けたまま、エルリオの呟きが張り詰めた静寂の中で漂う。
「あなたは、悪くない……なのにごめんなさい……」
 ワイヴァンが死んでから、一度だって人前で泣いた事はなかったのに。
 その必要もなかったから。
 そう思うとエルリオは急に恥かしさがこみあげ、バツが悪くなった。
「ごめん…ね」
 恐る恐るキューから顔を上げると、真っ赤に泣き腫らしたミリアムの面持ちが目の前にあった。
 ぐしゃぐしゃに濡れた綺麗な顔を無造作に手の甲でこすっている。
「……あ…りがとう…ございます」
 小さな唇からは、そんな言葉が漏れていた。


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押印師 ACT3-4
04

 落ち着いたところで我にかえって現状を見てみれば、奇しくも軍の指名手配人が二人も揃ってしまった。
「やっぱり私も?」
「当たり前だ。今頃軍内部では手配書の用意がされてるだろうな」
「当分この姿で町を歩けないわ…」
 市場でのやりとりを思い起こしてエルリオは深い溜息をついた。キューがつきつける「事実」はいつも容赦ない。
「そのようですね……ごめんなさい、とんだご迷惑を……」
 ミリアムは、一人と一匹のやり取りにどう立ち入って良いか分からず、困惑した様子だ。
「ううん」
 机の上のピルケースを指先で転がしながら、エルリオは微笑む。
「シェファルトさんに助けてもらわなかったら、私も死んでいたかもしれないし…ね」
「シェファルトは……私が三年前に軍部に移されてからずっと身の回りの世話や、面倒をみてくれていた人でした。私に仕える者だと言っていた以外は…ごめんなさい、何も教えてもらっていなくて…わからないのです……」
 「わからない」「知らない」としか言えない自分を恥じて、ミリアムはただ肩をすぼめて俯いていた。
 周りから何も知らされず、自分の事さえも教えられない。そんな環境がエルリオには全く想像できなかった。
「シェファルト…シェファルト…シェファルト・レゼン、ライザ帝国高官、共歴2560年アリタス軍に出頭」
 短い尻尾が机の上で埃をはたきながら、キューの口から情報が紡ぎだされる。キューに記憶の印を施して以来、図書館に数週間通いつめてあらゆる新聞、雑誌を記憶させてあるのだ。
「2560年8月25日付けのACCタイムズ朝刊国際面」
「すごい…ですね」
 ミリアムが感嘆の溜息。
「ライザの高官か。帝国の重鎮達が粛清された中で、彼は生き延びていた。…やっぱりミリアムさんが関係していたのかな」
「かもしれません…でも、私が逃げ出した事で、彼は射殺されたという結果になったのでしょうか…」
 必然的にそう考えるべきだが、エルリオはそこを口にはしなかった。
 また、シェファルトは銀髪。ミリアムも銀の髪の持ち主。同国の関係者同士、シェファルトの言葉から考えれば「主従」と考えるのが妥当だろう。
「ね………ミリアムさん」
「はい」
 エルリオの問いに、ミリアムは目を覚ましたように顔を上げた。
 机の上でキューは踊るように、耳と尻尾を動かしている。
「これから、どうするの?」
「……まだ、何も」
「この後、どこか行くアテはあるの?」
「いいえ……でも、グレンを探さないと……彼も軍に身柄があるというのなら、私も再び軍に出頭して…」
「でも三年間、会わせて貰えなかったのでしょう?軍にいるのか、生きているのか死んでいるのか、分からないよ」
「…………」
 軍が関わっているとなれば、命の保障はないだろうと、エルリオは呟く。
 少し引き金にあてた指を動かすだけで、いとも簡単に人命を奪う人間の集まり。一歩外に出れば、ミリアムの銀髪は目立つ。しかも軍による指名手配人。周囲全てが敵だ。
 道を失い完全に困り果てた様子で、ミリアムは呆然と俯く。
「依頼…」
 机の上に組まれたミリアムの手に、エルリオは手を添えた。「え」とミリアムが顔を上げると、すぐ目の前にエルリオの瞳と、鈍い艶のあるキューのプラスチックの瞳があった。
「依頼、引き受ける」
「依頼…ですか?」
 「グレン」を探すこと。
「ミリアムさんは、お父さんのお客だもん。私が引き受けるのは道理だと思う。ここで良かったら、いつまでもいていいから。それに…」
 「グレン」はワイヴァンの死、軍の秘密、ミリアムの出生、エルリオの知らない父の一面など…様々な情報に近いかもしれない人間、でもある。
「正直に言うと…そうする事で、私の目的にも近づけるかもしれないって、思ったから」
「エルリオさんの目的って…?」
 ミリアムの言葉に、腕の中にいたキューが、プラスチックの瞳を持ち上げてこちらを見上げてくる。
「お父さんが死んだ…アパートの事件の真相を、知りたいんだ」
 それだけだよ。よろしくね。
 そう言ってエルリオは微笑んだ。
 ミリアムの面持ちが明るく色づく。
「あ、ありがとうございます!私、できる限りのご協力をします」
 今日何度目になるだろう、勢い余って立ち上がったミリアムの足に蹴られた形で、パイプ椅子が音を立てて転がった。
 こうして少女二人と一匹の生活が始まることになる。

 机の上では、銀色のピルケースが鈍い光を発していた。


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押印師 ACT3-5
05

 古いナイフを取りだし、エルリオはピルケースの蓋に刃先を当てた。
「これ、開けてみてもいい?」
「え、ええ。どうぞ…」
「軍に渡してはいけない、捨ててくれって言われたけど」
 溶接により口が堅く閉じられたケース。刃先で削らなければ、開かないだろう。
「そのピルケースの中身は、元々グレンが私に預けたものです。ワイヴァン先生をお訪ねした時に、これをお渡しするようにと言付かっていました。軍で持ち物を奪われそうになった時に、咄嗟にシェファルトに預けたのです」
「…………ふむ…」
 忠実なる高官は、まさに命をかけてその使命を貫いたという事だ。
 おもむろにナイフの刃に力を込めた。乾いた音をたてて銀色の幕が削れて行く。
 エルリオの小さな手にさえ、収まって隠れてしまうピルケース。こんな小さな箱の中に、幾人もの運命と軍の顔色を変えるほどの代物が潜んでいるというのか。
 秘密が暴かれる事を拒むかのように、ピルケースは堅く口を閉じている。これは中々手がかかる作業となりそうだ。
「ミリアムさん」
 地道に銀を削りながら、エルリオはさきほどから脳裏に引っ掛けていた疑問を口にした。
「ミリアムさんは、印保持者じゃないかな?」
「え?」
 ナイフを動かすエルリオの手先を眺めていたミリアムは、顔を上げた。
「さっきの不思議な力、私の付け焼刃な変化を打ち破って、私の中に入ってきた感じ。あれは純粋な印の保持者、つまり、押印じゃなくて、天啓印か使命印じゃないかって」
「今更、隠す事でもありませんね」とミリアムはスカートの裾を軽く持ち上げ、脛を包む靴下の端を捲くった。細く白い足首に痣のような痕がある。ほのかに、赤く色づいていた。勾玉という東国の宝珠に似た形をしており、エルリオの記憶に見覚えはなかったが、自然にできた痣というには不自然なそれはまさしく「印」だ。
「うーん…わからないなぁ」
 キューにも見覚えがないらしい。彼に見覚えが無いという事は、エルリオが所蔵している辞典や書物の中に、この印に関する記載が無い、という事だ。当然、国会図書館の印に関する書物も大方覚えさせているから、かなり珍しい部類に属すると言える。
「人や物に直接触れて、こう、どう説明すれば良いか分からないのですが…自らの意識を中にもぐりこませる事で、相手の記憶を読み取ることができるのです」
「へぇ~、すごいすごい」
 思わずナイフを動かす手が止まる。
「ですが、それほど昔に遡る事はできません…」
「その力を上手く使えば、人探しもやれない事もなさそうだね」
「だと良いのですが…」
 ミリアムの淋しげな声に重なり、再びナイフが動かされる音が続く。
「後でその印、書き写させてもらってもいい?本には載っていないみたいなのんだ」
 微笑の了承が返ってくる。とほぼ同時に、ナイフを握る手に空を切るような手触りが。あやうくピルケースを押さえる左手を刺しそうになる。
「開いたあ」
 削り取ったピルケースの銀が机上を粉まみれにしている。銀粉だらけの指先でエルリオは、ケースの蓋を開けた。腕にもたれているキューも、覗き込んでくる。ミリアムだけが中身を知っているようで、向かいの席に腰掛けたまま表情を変えずに、開けられていくピルケースを眺めている。
 中から出てきたのは、折りたたまれた紙だった。
「……?」
 少々の拍子抜けを感じながら、エルリオは紙片をつまむ。厚い手触りがした。水濡れなどに強い羊皮紙らしかった。ミリアムと目が合う。ゆっくりとした頷きが返った。
 慎重に紙片を開く。色あせて少し黄ばんだ紙の表面に、描かれた線が見えた。
「これ…」
 円陣が二つ重なった中に複雑な幾何学模様が、黒インクで描かれている。長い間密封状態になっていた為か、またはまだ描かれて新しいのか、インクは滲む事も色あせる事もなく艶やかな黒曜色を残している。模様が鮮明に見て取れた。
「それは、何だか分かりますか?エルリオさん」
「何のマークだろう…印にしては複雑だし……」
「それも、精霊の印なのです。印の写しです」
「へ~……」
 ここまで複雑に幾何学を描く印を、エルリオは見た事が無かった。
 円陣模様や幾何学模様の印は数多いが、これほどに緻密なものは、無い。
「見たこと無いよ…こんなに複雑な印」
「分からないなぁ…」
 キューも体をかしげる。
「それは、とても恐ろしい力を持った印で、軍には渡してはならないと言われました。軍部内の押印技術でそれが実用化されようものなら……世界はおしまいだと…」
「なんか…話が、すごいね」
 随分と大きな話だ、と呆けた次の瞬間に、だが軍が血眼になりこれを探していたのは事実でもあり、エルリオは胸のうちに小さな興奮を覚えた。
 これが本当に世界を変えるほどの力をもった印ならば、またそれほどまでに軍が欲しているのなら、これを使う事で軍に打撃を与える事ができないか。
「本来は、ワイヴァン先生に託すためにとグレンから預かったものだったので…エルリオさんの手に渡った事は本当に幸運でした」
「お父さんに…」
 父、ワイヴァンはこんな複雑な印を扱う事ができたのだろうか。
 エルリオは、教えを請う事ができない現状を嘆きたい気分だった。



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押印師 ACT3-6
06

 それを、軍内部では「鍵」と呼んでいる。
 翼を生やした少女が奪っていった、銀のピルケース。その中身の事である。

 その人物を、軍内部では「彼」と呼んでいる。外部への吹聴を防ぐ為だ。
 ピルケースの持ち主だ。

「となると、その少女とシェファルト、ミリアム、ましてや「彼」との関係性は皆無であろう、というわけだな」
「そのようです」
 肩に大佐の階級章を持つ男、アイラスとランドの「気難しい上司」、キールはアイラスの報告書を見て呟いた。その気性を象徴するかのように、頭髪は整髪料で塗り固められたオールバック。ほつれ毛一つない。ライトの光にときおり黒光りするので、ランドなぞはそこが気になって仕方が無い時がある。
(今日も元気にテカってんな~)
 などと上司の話は半分上の空のランドを他所に、
「ミリアムは勿論だが、その少女の手配書の準備も進めているか」
「は、市場での聞き込み、事情聴取なども同じく進めております」
 とキールとアイラスの間で話が進んでいる。
「しかし…」
 ここでキールは更に眉間の皺を深くする。神経質そうに書類をめくった。
「あの「鍵」を奪ったのがよりによって押印師と思わしき人間だとは…やっかいな」
「はい。その事もありもしやとも思ったのですが」
「流れの押印師の数は、底辺も数えたらキリがない。偶然だろうが……気になるのは…」
 書類をめくる手が止まり、キールの口から小さな溜息が漏れた。
「君の報告書にある、この少女の押印技術の箇所だ。」
「少し待っていろ」と 律義にもそう言って言葉を切り、キールは広い机上の電話を手に取った。彼には珍しい気が軽い口調で二、三何かを伝えると電話を切る。
 言われるままにアイラスとランドが無言のまま立ち尽くしていると、程なくして背後からノック音が響いて来た。キールの返事を待たずに扉が開く。
「動きがあったみたいだな」
 入室してきたのは、同じく大佐の階級章を肩に配わせた男、ジョシュ・シールズ。尉官二人の敬礼に「やあ、ご苦労」と手を上げて応え、キールの執務机の端に腰を降ろした。
「何度も言わせるな。座るならこっちにしろ」
 心底から迷惑そうな色を顔に出して、キールは机の隣に置かれた簡易なパイプ椅子を指差した。シールズは肩を竦めてそれに従うが、別段気にしている様子ではなかった。ここに来るたびに交わされるやり取りなのだろう。
「そのページの五行目からだ」
 シールズに、アイラスが書いた報告書が手渡される。流すように斜め読みしていたシールズの目が、書類の一点で留まった。
「……軍部内で開発中の押印技術と同じだな」
「やはりそう見えるか」
「詳しく話してもらえるか?これを書いたのは…ええと」
 温和そうな視線がキールから二人に向く。アイラスは敬礼で応えた。
「君は、」
シールズは一瞬考えてから、「矛のウェーバー大尉、だね」と問う。
「はい」
 「矛の印」と呼ばれる印を保持しているアイラスは、そう通称されていた。肉体全てを凶器となしえるその印。裏では「人間凶器」という渾名もあるらしい。
「君の印は天啓印だという事だが……それほどにこの少女の押印技術は逸脱していたのかね」
 簡易に言ってしまえば「天然」と「人工」の差であり、概して押印は天啓印や使命印に劣るとされていた。
「一つ一つの押印技術は拙いものです。守檻は容易く崩すことが出来ました。ですが、たった一人であのように応用自在に印を扱うのは、予測外でした」
 事実を説明したまでだが、我ながら言い訳がましく聞こえてアイラスは僅かに目を細めた。だがキールやシールズは、気にしている様子もない。
「知っていると思うが、現在の押印技術には利便性の限界がある。印は自然の理に背いたもの。人により相性の差が激しい。押印したものの、体や精神に馴染むまで時間を要したり、押印したものの肉体や精神を瓦解されたり…使いこなせるかどうかの保障もない」
 シールズの淀みない説明が、早口に流れる。
「印を臨機応変に扱い分ける事ができたら、非常に利便性が上がると思わないか?」
「はい、確かに」
 軍内部においても天啓印や使命印を持つ者は少なく、また押印に適応できる人材も多くはない。臨床やケアに欠ける民生の、いわゆる流れの押印師による押印で死亡する者、廃人と化す者も多いと聞く。
「どうせ君は今後、この件に関わる事になるのだから説明しておくが…、我が軍では、押印技術の研究が盛んに進められてきた。マイスター制に登録した軍部公認国家技術者の資格を持つ押印師は勿論の事、優秀であると聞けば流れの者も多く引き入れたりもした」
「押印の、簡易性と利便性を高めるためにな」
「もちろん、より強大で希少価値の高い印を扱う研究も同時に行われていた。それは普遍的なテーマだからな」
「だが結局は、実用レベルに至る前にライザとの大戦に入り、一時停滞してしまっている状態にある。当時研究に関わっていた押印師も一部は離散、行方知らずだ」
 話が途切れかけたところにランドが呟くように問うた。
「では、…この「少女」は…?」
「研究に関わった押印師の関係者という可能性もある」
「なるほど」
「後ほどデータを渡す。そこから洗い出ししてくれ」
 命を下してからキールは傍らに座るシールズを振り向いた。それにシールズが頷きを返す。任務成立という事だ。
「承ります」
 アイラスが敬礼。
「君にも加わってもらおう、ランド・ブライトナー大尉。ヒマそうにしているようだからな」
「え?あ、はっ」
 数拍遅れてランドも敬礼で応えた。

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押印師 ACT3-7
07

 目の前に差し出された少女の似顔絵に、市場の女主人は首をかしげた。
「ちょっと…記憶にないねぇ。」
「毎日数え切れないほどお客さん来るからさ、よほど常連じゃないと覚えられないんだよ」
 と隣の露店主人も、顔を突っ込ませて同調する。
「まあ、そうですよね…」
 似顔絵が描かれた手配書を差し出している若い軍人は、困惑した表情で小さくため息を吐いた。
「バカ。嘘を吐いている可能性が高いに決まっているだろうが」
 報告するや否や、今度は先輩に罵られ、若い軍人はまたため息を吐く事になる。とはいえ、軍が根拠もなく民間人を尋問するわけにもいかない。かつて、恐怖軍国政治を布いた総統も存在したが、長く続かなかったのは言うまでもない。
 騒ぎを一部始終見ていた、市場の薬露店の女主人には、それがエルリオであるという事がすぐに分かった。だがどうして首を縦に振る事が出来ようか。彼女は、何の躊躇いもなく軍に嘘を吐いた。
だがその一方で、葛藤もあった。長年アリタスは、四方を囲む列強を退け続けてきた。つい近年も、強国との大戦に勝利し、アリタスの国と国民を守り抜いた。多くの市民がそうであるように、彼女もまた国を敬愛している。それが、ごく一般的にして善良なアリタス国民なのだから。彼女もまた、善良な市民である。
どちらに非があるわけでもない。死にかけた者に同情するエルリオの心も理解できる。軍が国を守る責務としてあのような行動を取る理由も尤もなこと。
だがどちらにしろ、今あの少女が、国が指名手配する容疑者とされている事実だけは確かだった。
「……あの子…」
 去っていった軍人の背中を見つめて、女店主は冷たい汗が背中を流れ伝っていくのを感じていた。エルリオについては、様々な薬剤や材料を買っていくので印象に残っていた。何度も通ってくるうちに娘のような愛着も沸いていた。
 しばらくセントラル付近は危険だ。近づいてはいけないよ。
 届かぬと知っても、女店主はそうエルリオに祈らざるを得なかった。

 しばらくはセントラルどころかうかつに外も出歩けない。
少女二人と一匹のぬいぐるみが潜む住処から外に出る時は、エルリオが変化の印を用いて近くに買出しに行く時だけに限るしかなかった。
「電話が、ごくにたまにだけど、鳴ったら私が出るから出ないでね」
 リビングの隅に置かれた壁掛けの電話。エージェントからの連絡はこの電話に掛かってくる。信用のおけるエージェントのみに敷いている専用回線電話であり、汎用電話ではない。
「探知を避けるために、絶対に家から電話はかけない、家に電話をかけない、を守ってね」
エルリオの言葉にミリアムは素直に頷くと、埃を被った電話機本体を拭き始めた。
「私、他に出来る事がないので…」
 とミリアムはこの家に来てから家の事をよく手伝った。実のところエルリオは父を亡くしてから三年間、それなりに一人で生活する術は知っていたから、ミリアムに全てやってもらう必要もないのだが。
「でも、私グレンといる間はずっと家の事をしていたから、家事については負けないですよ」
 ミリアムが微笑むと同時に、玄関の呼び鈴が鳴った。
「…?」
「しっ」
 ミリアムが顔を上げ、キューの尻尾がアンテナのように立ち上がり、エルリオは彼らの動きを制止した。室内に張り詰めた緊張が漂う。
 こっちからは決して声をかけない。
 向こうから名乗るのを待つのだ。
「………」
 扉の向こうにいる気配は、応答の無いこちら側の様子に対して戸惑っている様子はなく。そして三度目のノックの後、
「私、私だよ、エル」
「!」
 男の声がした。エルリオの表情が明るくなるのを、ミリアムは感じ取る。
「お知り合いが?」
「うん、サイ……っと、エージェントなの」
 ゆっくりとドアを開けると、扉の向こうにいたのは黒いスーツの男が一人。
「邪魔するよ」と慣れた動きで室内に滑り込むと、ミリアムの姿を見止めた。
「珍しい、友達かい?」
 ミリアムに向けて微笑む男。
 長身を黒いスーツに包んだ役人風情な出で立ちだが、その表情は穏やかだった。
 声は若いが、外貌は思ったより熟年に近いようだ。
「うん、同居人なの」
 常に何事にも警戒した気概のエルリオが、家族か兄弟かのように男に接している。ミリアムはそれを意外に感じつつ、
「ミ、ミリアム…です」
 と微笑む男に自らの名を告げた。

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押印師 ACT3-8
08

「ミリアム……そうか、よろしく」
 男はサイクル・リューベンスと名乗った。白地に、名前の他に何も記入されていない名刺を持っている。ずいぶんと信憑性が無い名刺だ。
「こんな物を拾ってね」
 用件を問われて、サイクルは胸元から一枚の紙を取り出しテーブルに広げた。すぐにそれと判かる、軍公式印が押された公式広報物だった。
「「あ」」
 と二人の少女の声が重なり、お互い顔を見合わせた。
 そこに描かれているのは、二人の少女の人相書き。左側はミリアムと思われる長い髪の少女、右側におさげが特徴的なエルリオらしき少女。
 写真を撮られていなかったのは不幸中の幸いだが、しかしこれも聞き込みや居合わせた軍人たちの証言から起こしたものなのだろう、よく二人の特徴をとらえていた。
 人相書きの下には、情報通報者や捕縛者に与えられる謝礼内容まで。
「私たち、賞金首なんだ…」
 エルリオの瞳が揺れる。ほんの僅かな猜疑心を乗せた視線が、サイクルを見やった。それに気がついたミリアムも、やわらかい銀髪の毛先に隠れた肩を強張らせる。
「バカ言ってくれるなよ」
 サイクルが肩を竦める。
「これっぽっちの報酬に私が動かされるわけがないだろう。ゼロが二、三多ければ少しは考えるがな」
「え~……安い」
 エルリオが苦笑して頬を膨らますと、隣でキューが「それだと郊外にちょっと良い家が建てられる程度だね」と言ってエルリオに叩かれる。
 彼らのやりとりに小さく笑った後、机の上に置かれた手配書を、ミリアムは手にとってしげしげと見つめる。何か己について書かれている事はないか。そこに記された文字全てを読み取ろうとしているようで、淡い寒色に色づいた瞳がぎこちなく動いていた。だがすぐにそれはため息に変わる。
「私が何者かについては、この手配書には記されていないのですね」
 手配書には、名前さえ書かれていなかった。出されたマグカップを手にサイクルが乾いた笑いをこぼした。
「そりゃ、帝国の皇女が生きていたと知れただけで、国が騒ぎになるから…」
「え?!」
 少女二人から素っ頓狂な声が返り、サイクルは逆に呆気にとられて顔を上げた。
「…ん?どうした?」
「サイクルさん、今、何と……?」
 ことにミリアムは白い顔を更に青白くさせ、戦慄いているようにも見える。「君は…」とサイクルは目を細めた。
「君はミリアム…ミリアム・ファル・ライザ……じゃないのかい?その銀髪といい…」
「ミリアム・ファル・ライザ………それが私の名…?」
 分けがわからない、といった風にサイクルは肩を竦めて立ち上がった。机の上に置いた紙の似顔絵と、ミリアムを改めて見比べる。ライザ民族特有の銀髪、美しい顔立ち、人相書きは見事に彼女の特徴をとらえている。
「エルリオ、お前、知っていて彼女をかくまっていたのでは?」
 「ううん」と首を横に振るエルリオの仕草が、あどけなく見える。呆れた奴だ、とつぶやきサイクルは、再び椅子に腰を下ろして手配書に手を置いた。
「公にはなっていないが、裏の情報屋の間では有名な話だ。ライザ皇族には、大戦当時まだ乳飲み子がいて、幼いからと助命を許されたと」
「助命が許された皇女……」
「アリタスの内情も考慮して、幼子の事は伏せてあった。当然、その子を生かすか殺すかの処遇について、世論が勝手に議論を展開するのは必至だからね」
「ミリアムは、何も自分の事を知らないの。記憶喪失という事ではなくて、ずっと知らされずに育てられてきたって」
 言葉をなくしかけているミリアムにかわり、エルリオが付け足す。
「そうだな、身分を知らせず市井に紛れさせるならばそれは当然だが……後見人は誰なんだい?」
「グレン、という人?」そこで一度ミリアムを見やり、確認する。
「グレン……苗字は?」
「わかりません」という返答。
「グレンだけではなぁ…よくある平凡な名だし…。ライザ皇室の側近か何か?それともアリタスの軍関係者か?」
「申し訳ありません…アリタス出身であるという事以外何も…」
 再びミリアムが恥じ入るように俯いた。
「謝る事はないさ」
それを嗜めるように、サイクルは微笑を湛えてミリアムを覗き込む。
「でも、身分を隠して生きる事を許しているなら…なぜアパートに踏み込んで捕まえにくるのかな。そのグレンという後見人も行方不明だっていうし」
 エルリオの脳裏に浮かんだ疑問。ミリアムも頷いて同意する。
「……どういう事だい?」
再びサイクルが問う。ミリアムに代わりエルリオが、ミリアムもあのアパート襲撃事件に関わっていた事、後見人グレンが行方不明である事を説明する。サイクルの顔色に変化は見られないが、目を伏せて深く考え事をしているようだった。だが彼がつぶやいた結論は、軍がミリアムの処遇をどうしようとしているのか、その意図が読めないという事だ。
「それから、そのグレンという人物についてもだな。軍が用意した後見人でもなければ、アリタス出身であるならば帝国関係者でもない。となると「グレン」はアリタスの人間でありながら、アリタス軍に逆らい、帝国の皇女である君をアリタス軍から遠ざけて隠していたという事にならないか」
「私を隠す……」
「その意図が悪意なのか善意なのかは、分からない」
「仮にそうだとして、私を隠す事で何が得られるのでしょうか」
 弱々しかったミリアムの口調に、凛とした張りが生まれていた。
「単純に考えれば、国を相手取った誘拐、脅迫……」
 独り言のように、誰に向けているでもないサイクルの呟きの後、「待てよ」と再びミリアムと向き直る。
「ところで、君はなぜ軍から逃げ出したんだい。そこと大きく関わっていると思うのだが、どうだね」
「……」
 ミリアムは寸時、口をつぐんだ。

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押印師 ACT3-9
09

「一緒にいた人が、逃がしてくれたんだって」
 エルリオが答える。
 肩越しにテーブルの方を見やれば、いつの間にか羊皮紙が片付けられていた。
「軍に拘束されている間、ライザの高官が世話役として当てられていたみたい」
「先日、往来の真中で射殺されたという男のことかね」
「……うん」
「だとすると、ミリアムの意思ではなく、帝国の意図か…。末裔を取り戻し再び皇国制度を復活させようという、皇国派の動きは以前から巷でも噂されていたことだ。ありえない事でもない」
 そんな…とミリアムの声が漏れる。
「私…ライザなんて国のことは何も……ずっとアリタスにいたんです」
 手配者を握り締める。
「物心がついた時からグレンと二人で……」
「君の気持ちがそうでも、やはり血が許さないんだろう」
 サイクルは小さく息を吐いた後、ミリアムに向けて目を細めた。それが微笑んでいるのか、悲しんでいるのか、薄暗い室内では判別しかねた。
「逃げ出せてよかった。軍が君を拘束して三年の月日が経っている点が気になるが…あのまま軍に留まっていたら、君は殺されていたかもしれない」
 命が保留されていた理由が、あの羊皮紙にあったところが大きいのかもしれない。
「死んだライザの高官は、忠実だな。命をかけて君を逃がした、これがどういう事か、裏にどれだけの事実が繋がっているのか、覚えていた方がいいな」
「……」
 彼が命をかけて守ったもの。ミリアムの命、そして、あの羊皮紙。羊皮紙をミリアムに託したのはグレン、そしてその当人は行方不明。元を辿ればすべては「グレン」という男に真実が繋がっているように見える。
「用件はもうひとつ、あるんだ」
 沈黙が降り立ったのを機に、サイクルは話を切り出した。
 むしろこっちが本題だったのだがな、と彼は上着の内ポケットから茶封筒を取り出した。おもむろに、中から紙を取り出すと机の上に広げた。ちょうど、手配書に重なるように。
「軍から要請書が、エージェントらに撒かれている。優秀な押印師を紹介しろとね」
「………摘発ってこと?」
 サイクルの首が横に振られるのに促されて、エルリオは机上の文字を読む。
「本気で民間の押印師を摘発しようとするなら、とっくにやっている。だが軍は技術が欲しい。軍の資金力と技術力の範疇では、費用対効果が割に合わないものだ。だから表面上は違法とされる民間をある程度泳がせておく必要も、あるんだよ。押印技術に限らず、な」
「……あ」
 文字の上に見知った名前を見つけて、エルリオは声を上げた。
「お父さんの名前…!」
 軍発行の公文要請書。
 民間押印師の仲介業者に宛てたもので、軍が行方を捜している押印師の名が数名挙がっており、そこにエルリオの父、ワイヴァン・グレンデールの名があった。
「軍はとっくにお父さんを知っていた…」
「ワイヴァンが死んで、どのくらいになったかな」
「三年…もう四年目かな」
「この際だから知っておいた方がいいかもしれない」
 印刷されたワイヴァンの名。その側に手を添えていたサイクルの手が軽く握られる。
 エルリオは唾を飲み込んだ。

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押印師 ACT3-10
10

 手配書は、数種類用意されていた。
 そのうちの一つは、サイクルがエルリオ達の元に持参した物で、内容は「賞金付きの指名手配人」。罪状は軍務執行妨害とあった。ちなみにミリアムについては頭髪の色には言及していない。
 もう一つは、主に学校や教育機関など、十六歳以下の児童が多く集う場所向けに作られた物。内容は「行方不明者捜索協力願」。
 ACC士官候補生育成学校、略してACC仕官候校には、後者が配られていた。
 教室で配布された手配書を見て、ジュスティー・スタインベルクは文字通り息を飲み込んだ。喉まで言葉が出かけたが、何らかの気持ちが働いてそれを押し込めた。
 手配書には二人の少女の人相書き。
 その片方はかつての同級生、エルリオ・グレンデールではないのか。
 反射的に、斜め前に着席している女子生徒カノンを見やれば、彼女も手配書を凝視して、瞬きを忘れているように見えた。彼女もかつて、エルリオと同級生だった過去がある。だが彼女もジュスティーと同じく、言葉を飲み込んで、じっと時をやり過ごしているように見えた。
「あの書類…やっぱりエルリオよね?」
 昼休みにそう声をかけてきたのは、カノンの方だった。
「やっぱり。で、どうする?」
「どうするって…」
 ジュスティーの問いにカノンは言葉を詰まらせた。
「俺達がこの人物、エルリオ・グレンデールを知っているという事について、報告する必要があるのだろうかという事だよ」
「知っていると言っても…これ行方不明捜索願でしょ?私達、彼女が今どこでどうしているかなんてわからないじゃない。あの子、学校には来ていなかったし」
「俺にはこれが指名手配書に見える」
「え…?」
 ジュスティーの頷き。カノンの喉が小さく鳴った。
「体よく書いてあるけど、これは彼女の素性を探る指名手配書だと思う。つまり、この人物が『エルリオ・グレンデール』であるという事実も、この手配書は欲していると思うんだ」
 捜索願い届けには、エルリオの名は記されていなかった。
「………どうするって、どうするの?ジュスティー」
 カノンの面持ちには焦りが浮かんでいた。
 とはいえジュスティーとカノンの決断を他所に、軍部内ではすでにエルリオの割り出しは行われていた。かつて通学していた初頭教育学校の学生名簿から、それはあっさりと判明していたのだ。当然、グレンデールという姓名から彼女が「ワイヴァン・グレンデール」の娘である事が割り出されるのは時間の問題だった。

「ワイヴァンは、お前の父親は、かつては軍属の押印師だった。これは知らなかっただろう?」
「…いつの話なの?」
 存外に冷静なエルリオの反応にも、サイクルは慎重な視線を崩さなかった。
「お前が物心つく頃にはもう、軍から離れていたと思う」
「という事は、大戦中…大戦が始まってから?」
 サイクルは一言分の呼吸を置いてから、「時期的には、そういう事になるだろうな」と濁した。
「別に、驚かないよ。確かに軍は嫌いだけど、かといってお父さんを軽蔑したりしない」
 一人になって、生きるために姿を偽り、押印師として活動を始めて、そして初めて気がついた。父の技術、残した資料や研究物。それらが一民間の若い裏街道技術者が、一朝一夕になし得るものではないという事を。
 軍の後ろ盾があった。それは自然なことで、そう知ったところで驚きはしなかった。
 もっとも、それらは全てアパート崩壊事件とともに消失してしまい、今はキューとエルリオの頭の中にのみあるのだが。
 押印技術が、軍事力の一端を担っているのは事実であり、大戦中に軍に所属していた父の位置付けは自ずと知れた。
「軍に在籍中、ワイヴァンが主に携わっていたのは、印の応用方法の開発とメンテナンスの研究だったはずだ。印の威力を強大化させるだけでは、無駄に味方の人命も削いでしまう事になる。軍とて人員を無駄に減らす事はしたくない。そのあたりは理性的な組織だから。押印技術の向上は、すなわち制御とメンテナンス技術の向上であると、気付いていたんだ」
 この技術をもって終戦の混乱を機にワイヴァンは軍を頓挫。その技術力から、民間の技術者となったワイヴァンに、顧客が増えるのは自然な事だった。
「……他の国はちょっと違うみたいよね」
「近代強国は、いずれも高い押印技術を有しているといっても過言ではない。帝国も、押印技術の盛んな国だった。人が多い国であればある程、押印の威力は凄まじいものとなっていく」
 ちらりとサイクルの目がミリアムを見やる。無意識にミリアムは片手を強く胸の前で握った。
「それは…どういう事なのですか」
「それだけ駒が多いからさ。威力の凄まじい押印は押印保持者自身も傷つける。アリタスは小国だ。だから慎重になっているだけだ。加えてライザは古国。歴史の深い古国には、天啓印の持ち主が多い。特に貴族、王族に多い国もあると聞いたことがあるな。古くから選民が、国の指導者である事が多いようだから。」
「………」
「少し話が脱線したな」
 それより今重要なことは、軍が再び民間の押印師を呼び集めて何をしようとしているのか、だ。エルリオがそれを口にすると、サイクルは肩をすくめる仕草を見せた。
「ライザ一族が一通り静粛されて、戦後処理が一段落したって事だろうな。ディノサス共和国との間にも不穏な空気が流れているというし、それに備えるためにも、押印研究を再開させたいのだろう」
「…もしかしたらこれはチャンスかもしれない…」
「ん?」
「ううん、なんでも。情報ありがとう。身辺に気をつけるね」
 再度注意を促して、サイクルは「また来る」と言い残して帰っていった。
 サイクルを見送り、再び部屋には少女二人と一匹が残った。完全に彼の気配が消えたのを確認すると、エルリオは玄関から踵を返した。
「?」
 不思議そうな顔をするミリアムの前で、エルリオはポケットからピルケースを取り出した。さきほど密かに隠していたものだ。
「キュー」
 呼ばれてキューがテーブルに上がる。
 エルリオは羊皮紙をテーブルの上に広げ、そこを指し示した。
「覚えて、キュー」
「あい」
 パイプのテーブルに、幾何学模様が不思議と似合った。白いぬいぐるみが、黄ばんだ羊皮紙の上を這うように、プラスチックの瞳を模様に押し付ける。同時に、白い布地の背中が薄青く光を発し始めた。
「な、何をしているのです?」
「記憶の印が反応しているの。キューにこれを、覚えてもらう」
「覚えた」
 と言ってキューは、エルリオが用意したメモ用紙の上に飛び乗ると、同じく用意されたペンを両手に抱えて動き出す。まさに、隣に広げた羊皮紙に描かれた模様と同様のものを、キューはそこに描き出してみせた。
「よし……!」
 短く気合を吐き出して、エルリオはキューからペンを取ると、その下蓋を外した。黒いインクが羊皮紙上に飛び散る。
「あ…っ」
 思わずミリアムが悲鳴を飲み込む。かまわずエルリオは黒インクを羊皮紙上にぶちまけ、模様を完全に隠してしまうほどに汚す。そしてそれをくしゃくしゃに小さく丸めると、再びピルケースに封じ込めた。溶接はせず、簡単に糊で固めた。そしてその上からインクでよごれた指先で、何かの模様を描く。
「閉封せよ」
 短く唱えると、黒い印がピルケースに焼きつくように光を発した。それはすぐに収束する。
「あ…あの…」
 呆然とするミリアムに、エルリオは何かの確信を得たような笑みを向けた。
「これ、大事に持っていて」
 差し出されたピルケース。こじ開けられた形跡は、今はなく、ただ黒い印が焼きついているだけ。ミリアムは恐る恐る、それを受け取った。
「それはあなたの切り札になるはず」
「切り札…」
「グレンという人がどういう人かわからないけど…でも何があってもその印について「知らない」を押し通して」
 ミリアムの手の上で、ピルケースは鈍い銀色の光を放っていた。

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